快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「不逞」に戦い続けること 『何が私をこうさせたか』(金子文子著)『三つ編み』(レティシア・コロンバニ 著 齋藤可津子訳)

 文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。
ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。

  前回の『女たちのテロル』によって、金子文子の生涯についてもっと知りたくなったので、『何が私をこうさせたか』も読んだ。 

  この手記は、金子文子が獄中で自分の人生を綴ったものであり、最初の記憶が残っている四歳から、朴烈と出会うまでを振り返っている。

 書かれている内容は、だらしのない父と母に翻弄されながら育ち、預けられた朝鮮の親戚の家では虐待され……と、『女たちのテロル』でまとめられているとおりの悲惨な身の上話である。

 しかし、文子の怜悧な頭脳は自分を哀れんだりせず、冷静な観察眼と状況を俯瞰する客観性によって過酷な状況を淡々と描き、どこかしらユーモアさえ感じられる筆致で、想像していたよりずっと読みやすく、力がわいてくる本だった。『女たちのテロル』でも触れられていたように、林芙美子の『放浪記』と共通するものを感じる。

 ちなみに上記の引用は、この本の冒頭に「添削されるについての私の希望」として文子が記したものだが、まさに「文章教室」というか、どんな文章を書くときでも忘れてはいけない心掛けのように思った。ここからも冷静さと客観性が伺える。 

その男は小林といった。小林は沖人夫であったが稀に見る怠け者であった。

 彼は恐るべきまた驚くべき色魔なのだ。一切の穢獨を断じて聖浄の楽土に住む得道出家の身にてありながら、徒にただ肉を追う餓鬼畜生の類なのだ。

  こんな描写など思わず笑ってしまう。小林というのは、父に捨てられた母がくっついた男のひとりであり、「彼」というのは、父が文子の結婚相手にあてがおうとした叔父である。
 ひとりでは生きていけなかった母は、ろくでもない男たちのもとを渡り歩くことで、かろうじて生き延びる。そして、文子もそんな人生を歩まされようとしていた。

 けれども、いろんな仕事を転々としながら必死で勉強していくうちに、文子はこう考えるようになる。

 私はあまりに多く他人の奴隷となりすぎてきた。余りにも多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。

私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。 

 そんな思いが最高潮に達したときに、あらわれたのが朴烈だった。この手記はそこで終わっていて、朴烈と出会ってからの経緯はほとんど述べられていない。
 しかし、出会ったばかりの朴烈とのやりとりは短いながらもどれも印象的で、とくに魅かれたのはこの台詞。 

「ねえ、ふみ子さん、ブルジュア連は結婚をすると新婚旅行というのをやるそうですね。で、僕らも一つ、同棲記念に秘密出版でもしようじゃありませんか」

 同棲記念が新婚旅行でも指輪でも宝石でもなく、秘密出版っていうのが最高にファンキーだ。それがのちの機関紙『太い鮮人』になる。この題はもともと「不逞鮮人」のつもりであったが、「不逞」なら取り締まりの対象となり発禁処分を受けかねないので、「太い」に変えたらしい。 

 「不逞」に「私自身の仕事」をするというと、最近読んだ『三つ編み』も思い浮かぶ。 

三つ編み

三つ編み

 

 スミタがしていることを表現する言葉はない。一日中、他人の糞便を素手で拾い集める。

  この『三つ編み』は、世界のまったく異なる場所に暮らす三人の女が、まったく異なる困難に直面する物語である。

 インドに住むスミタは、ダリット(不可触民)であり、他人の糞便を素手で拾い、ネズミ捕りの夫が狩った野生のネズミを食べて暮らしている。しかし、娘のラリータにはこんな人生を送らせたくはない。何としてでもここから脱出してほしい。学校に行って何になる? と言う夫を説き伏せて、ラリータを学校に行かせることにした。けれども、夢にまで見た学校に裏切られ……

 カナダに住むサラは、高名な法律事務所で女性初のアソシエイト弁護士として働いている。二度の離婚を経て、シングルマザーとして働いているが、絶対に「家庭」や「子供」を理由に仕事を休んだりはしない。自分は「成功した女」なのだから。けれども、身体に異変が生じ……

 イタリアに住むジュリアは、父が経営する毛髪の加工工場で働いている。平穏な日々を送っていたが、ターバンを巻き褐色の肌を持つ男に魅かれはじめ、母にも姉にも言えない秘密を抱えるようになる。そしてある日、病床についている父の作業机から、一家を襲いかかる容赦ない現実に気付く……

 「キム・ジヨン」と同じように、ある社会のある階層に生きる三人の女の姿が、寓話のように典型として描かれている。それぞれまったく別のストーリーなのだけれど、最後で髪によってきれいにつながる構成に感心させられる。

 しかし、希望とともに美しくまとまるラストに感服しつつも、現実はこう上手くいくのかな?とも、一瞬ちらっと思ったのだが、考えたら、主人公たちに劇的なハッピーエンドが用意されているわけではない。ただ、三人の心に希望の光が灯されるだけだ。現実がすぐに変わることはなくても、それがあるかないかで大きく変わってくるのだろう。 

何度でも倒れ、また立ちあがる女たち、

うちのめされても、屈しない女たち

 「不逞」という言葉を和英辞典で調べると、insubordination, rebelliousness, recalcitrant……といった単語が出てくる。従属せず(insubordination)、反抗的で(rebelliousness)、手に負えない者たち(recalcitrant)。

 スミタもサラもジュリアも、それぞれの社会が押しつけてくる因習や古い価値観に従っていたならば、明るい未来を持ち得なかった。現状と戦わなければ、自分の人生、つまり「私自身の仕事」をまっとうすることができないのだ。
 髙崎順子さんの解説を読むと、この格闘の物語がフランスで書かれ、ベストセラーになった意義と必然性についてよく理解できる。 

この国では抑圧は打ち破るものであり、権利は勝ち取るもの。それはいまも市民の意識に強く刻まれている。

  そこから、「この本を、日本の読者はどう読むだろう?」「もし『三つ編み』の一編が、日本を舞台に書かれていたら……」と続けている。

 というのも、2018年の「グローバルジェンダーギャップ指数レポート」があらわす「男性と比較した際の、社会における不自由度」は、フランス12位、カナダ16位、イタリア70位、インド108位で、そして日本はなんと110位。スミタの住むインドより下という衝撃の結果になっている。

 もちろん、これは「男性と比較した際の」という男女格差を測ったものであり、社会全体の人権意識の低さなどは示されていない。しかしそれにしても……

 『三つ編み』で提示される希望と感動は、日本と地理的にも心理的にも遠く隔たった国だから生まれたものだろうか? 日本は金子文子が自殺したころから変化したのだろうか? と、どうしても考えてしまった。