快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

『青鞜』の女たちを描いた青春群像劇 二兎社『私たちは何も知らない』(作:永井愛)

 二兎社の舞台『私たちは何も知らない』(作:永井愛)を見てきました。 

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 この劇は『青鞜』に関わった女たちを描いていて、平塚明(らいてう)が姉の友達であった保持研らと『青鞜』を立ちあげ、その編集部に絵を勉強している尾竹紅吉がやって来る場面からはじまる。らいてうは少年のような紅吉に心魅かれ、紅吉は憧れのらいてうに可愛がられて有頂天になり、ふたりは夢のような日々を送る。

 しかし、『青鞜』の型破りな女たちが謳う「新しい女」像に世間は石を投げ(比喩ではない)、『青鞜』は存続の危機に瀕する。苦悩するらいてうは、心優しい若い男との逢瀬に安らぎを求めるようになる。

 一方、四面楚歌に陥った『青鞜』の編集部に、強いられた結婚から逃げ出してきた17歳の少女があらわれる。学生時代の恩師のもとに身を寄せていると語るその少女は、伊藤野枝と名乗る。
 さらに、岩野泡鳴と危うい結婚生活を送る岩野清や、アメリカ帰りの苦労人山田わかもらいてうの協力者となって『青鞜』を支え、世間からの冷たい目に屈することなく、「習俗打破!」を合言葉に、女たちは手と手を取り合って戦い続ける……

 らいてうや尾竹紅吉、伊藤野枝はある程度知っていたが、保持研や岩野清の名は聞いたことがなかった。岩野泡鳴は「自然主義作家」として名前だけは知っていたが、ウィキペディアに「乱脈な女性関係でも知られる」とわざわざ書かれているように、かなり破天荒な人柄だったようだ。

 結局、清と泡鳴は泥沼離婚劇をくり広げることになるのだが、愛人から3番目の妻(清は2番目)になった蒲原房枝も、最後の愛人荒木郁子も青鞜社員だったらしい。こうなると、泡鳴は『青鞜』の支援者だったらしいが、そこの女に手を出したかっただけなのではないか、味方のふりした一番厄介なサークルクラッシャーではないか、とすら思えてくるが、まあそれは本題ではないので置いておきます。

 それにしても、『青鞜』の女たちは、おどろくほど頻繁に論争している。
 「貞操論争」(女は貞操を守るべきか)に「堕胎論争」(堕胎は罪か否か、避妊を認めてもよいか)、そして「売春論争」(売春は許されるのか)。

 永井愛さんと伊藤詩織さんがパンフレットの対談でも語っているように、どれも「女性の身体の自己決定権をめぐる論争」だと言える。「貞操を守るべきか」や「堕胎は罪か否か」なんて、一見時代錯誤のテーマのように感じるかもしれないが、実は現在も変わっていない。いまでも、女が男と番うか/番わないか、子どもを産むか/産まないか、自分ひとりの意志で決めようとすると周囲から反発が生じる。

 また、「貞操」といった世間の価値観に従わない女はひどくバッシングされることも、当時もいまもまったく同じだ。
 らいてうは森田草平との心中未遂騒動で世間から後ろ指をさされたが、森田草平はそれを題材にした小説『煤煙』で文名を馳せた。
 そもそも、先の「貞操論争」の火種となったのは、雇用主の男に仕事と引き換えに貞操を奪われた女の話なのだ。現代の感覚で考えると、そんなものは犯罪以外の何物でもなく、女が罪悪感に苛まれたり、ましてや責められる謂われなどない。

 けれども、そんな時代において、この『青鞜』の女たちはどれほど勇敢だったことか。
 当時もいまも変わらない男女差別や不均衡の問題も気になったが、この劇で一番心に残ったのは、『青鞜』の女たちが血の通った生身の存在として、いきいきと描かれていたことだ。

 感受性豊かな紅吉に、生命力にあふれた逞しい野枝、そして、立派なことを宣ういいとこのお嬢さんという印象が(私の中で)あった平塚らいてうが、紅吉や博との恋にときめき、世間からの非難に心を痛めるさまに人間味が感じられた。

 ついには、かつては同志であった紅吉や保持研がすったもんだの末に結婚して、『青鞜』から遠く離れてしまう。「家制度」といった因習への反発として「自由恋愛」を求めたはずなのに、その恋愛の顛末が、昔ながらの「嫁」に回帰してしまうことに対するらいてうの困惑も共感できた。

 そして、なにより胸を衝かれたのが、冒頭に出てきた紅吉の台詞だ。『青鞜』を握りしめた紅吉が、

「これこそが私の読みたかった本だ! ずっと探し求めていた本だ! この先どんなことがあろうとも、この本さえあれば生きていける!」

(録音していたわけではないので正確ではありませんが、こういう意の台詞だった)

と、感極まった声をあげる場面に、見ている方も心をゆさぶられた。読者にこんなふうに思ってもらえるなんて、なんて幸せな本だろう……

 『青鞜』の命は短く、たった五年で解散した。それからの『青鞜』の女たちが、どのように波乱の時代を歩んでいったのかについては、この劇でも一瞬だけ触れられている。若くして亡くなった者、虐殺された者、軍国主義に翻弄された者……どうにか生き延びた者たちも、けっして無傷ではなかった。

 それでもやはり、どのような生き方をしても、あるいは無残に死んでいったとしても、『青鞜』に関わった女たちの心には、青春の一時期に胸に抱いた希望の光が最期まで輝いていたのではないだろうか、なんて思わず想像してしまった。