快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

だいじょうぶ?と聞かれたら、どう答える? 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生 著)

麦戸ちゃんはさいきん学校にこない。麦戸ちゃんの家は大学のすぐ近くにあるから、七森は二限終わりに寄ってみようかなと思ったけど、きのう彼女ができたばかりだったし、共通の友だちでも女の子と家で会うのを白城は嫌がるかもしれないと(まだそういうことを確認する段階にもなっていないけれど)思って麦戸ちゃんにはラインだけした。

だいじょうぶ?

   明日には緊急事態宣言が発令されるらしい。(4月6日時点)

 まさかこんな事態が訪れるなんて思ってもみなかった。こんなディストピアSFのような世界が現実になるなんて。

 何が怖いかって、知らぬ間に自分も感染者になって、他人にうつしてしまっているのではないかという思いが、常に頭から離れないことだ。

 被害者が加害者になる。現実社会ではめずらしいことではない。
 いじめやパワハラをされた人が、別の相手にいじめやパワハラを行ったり、虐待を受けて育った人が、大人になると子どもに虐待をするというのは、悲しいけれど、よくあることだ。しかし、そんな無情な現実がまさかウイルスによってトレースされてしまうとは……。

 そしてちょうど、読んだばかりの「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」が、傷つける/傷つけられることを軸にした小説だったので、いっそう心に残った。 

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

  • 作者:大前粟生
  • 発売日: 2020/03/11
  • メディア: 単行本
 

  この物語の主人公である七森は、「僕もみんなみたいに、恋愛を楽しめたらいいなあ」とぼんやり考える、19歳の内気な男子大学生だ。

 といっても、モテないわけではない。156センチ45キロと女子のような体形の七森は、かわいいと言われて女子グループに連れ回されたこともあるし、高2のときには青川さんに告白されたこともある。
 けれども、なんとも思えずに、断ってしまった。

 青川さんへの罪悪感が消えないまま大学に入り、ちゃんとした恋愛がしたいと心から願うようになった。それが青川さんへの贖罪のような気がするからだ。
 大学で「ぬいサー」こと、ぬいぐるみとしゃべるサークルに入った七森は、そこで意気投合した白城に思い切って告白し、「付き合う」ようになるが、いつの間にか学校に来なくなった麦戸ちゃんのことが気がかりになる……

 多数派になじめない若者の対抗手段として、世間の常識をふりかざす大人に反抗したり、ロックなどのサブカルチャーにふけったりするのではなく、「ぬいぐるみとしゃべる」とは、いまどきの感覚だなと最初は思った。

 しかし、読み進めていくうちに、この小説で書かれている脆く傷つきやすい若者の姿は、けっして「いま」に限った一過性のものではなく、昔から変わることのない普遍的なものだと気づいた。 

家からここまで歩いている途中、「何点くらい?」「六八点」「ブスやん」「まあまあやろ」と学生が話してるのを聞いてしまった。

僕が、怒ることができればよかった。そんなこと、いえてしまえるひとたちのことがこわくなかったらよかった。

  七森は平気で女子を点数付けする男子たちに怒りと恐れを感じ、心の底から傷つく。
 麦戸ちゃんもまた、あることをきっかけにして電車にも乗れず、外に出ることができなくなった。
 七森はしんどそうな麦戸ちゃんを見てまた傷つき、麦戸ちゃんは自分をいたわっている七森を見てまた苦しくなる。

 家にひきこもる麦戸ちゃんの姿から、サリンジャーフラニーとズーイ』のフラニーを思い出した。ボーイフレンドのレーンにおしゃれなレストランに連れて行かれ、そこで倒れてしまい、家にこもって泣いているフラニーを。 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 インチキな連中に怒りを覚え、麦戸ちゃんに必死でよりそおうとする七森は、『キャッチャー』のホールデンなのかもしれない。
 しかし、ホールデンはその語り口にも怒りや攻撃性がにじみ出ていたが、七森と麦戸ちゃんは攻撃性を表に出すことなく、傷つく他人を見て自らも同じように傷つき、ひたすらやさしく互いの傷をいたわりあう。

 このふたりの閉じた世界だけだと、もしかしたら、最近のジェンダー問題を politically correct に描いた物語、と片付けられてしまうかもしれないが、白城の存在によって、この小説はまた別の面を見せる。 

白城もその場にいて、麦戸ちゃんになにも聞かないぬいサーの空気を、破滅しあうようなやさしさなんじゃないかと感じた。

やさしさって痛々しい。あぶない。やさしさがこわいと白城は思う。

  大学のうちに誰ともつきあえなかったら……と不安になった七森は、常に誰かと付き合ったり別れたりをくり返している白城となら気軽に付き合えるのでは、と思って告白し、「いいよ。いまだれもいないし」とあっさりOKをもらう。

 白城と軽い世間話をするのは楽しかったが、とある広告が男女差別だと炎上した話題になったとき、「なんなの。まじでこいつら。文句いってばっかり」「子ども持ったら女は仕事休むのに」と、抗議する女たちにはっきり嫌悪感を示す白城に違和感を覚える。

 politically correct の観点から見ると、白城の言い分はもちろん正しくない。けれども、この小説は、そんな白城を単に世間の誤った価値観の代弁者、純粋で傷つきやすい七森と麦戸ちゃんに対する当て馬役として配置しているのではなく、やさしさゆえにどんどんと傷ついていく七森と麦戸ちゃんに苛立ちを感じる白城の視点も描いている。


 ちなみに、この小説は基本的には七森の視点から書かれているが、ところどころ麦戸ちゃんや白城の視点に移る。読んでいて居心地の悪さを感じる人もいるかもしれないが、それによって物語が深みを増しているように思えた。

 そのほかに3つの短編がこの本に収められているが、「たのしいことに水と気づく」がおもしろかった。
 主人公の「私」は恋人である箱崎と結婚することになったが、気分はいまいち晴れない。 

恋人のこと、他のひとと比べて好きなだけかもしれない。他のひとと比べてこわくないから。やさしいから。私を傷つけないから。ずっとそう感じながら箱崎とつきあってきた。

  しかし、「私」が憂鬱なのは結婚に迷いがあるからだけではない。同居していた妹が二年前に突然姿を消したからだ。妹を待ち続ける「私」の切なさに加えて、「私」とまったく異質な人間、ぐいぐいと「私」の世界に入ってきて、しまいには「ネトウヨ」になる黄未子さんの存在がいいアクセントになっていた。

 最後には、「だいじょうぶのあいさつ」という、引きこもりの兄を中心とした一家を描いた短編が収められているが、「だいじょうぶ」というのは、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」でもキーワードになっている。

 「大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫」と答えるとき、その多くは「大丈夫」ではない。相手を心配させないため、悲しませないため、もしくは、現実から目をそらすための答えだったりする。

 「大丈夫じゃない」と言えるようになることが、ほんとうに大丈夫になるための一歩なのだろう。と思う一方で、どんなことがあっても、「大丈夫」と言ってのける逞しさへの憧れも捨てきれないのは、世代によるものなのか、自分の中にマッチョな何かがあるからなのか、なんて考えさせられたりもした。