快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

連続殺人事件を通じてソヴィエト連邦の「不都合な真実」を描く 『チャイルド44』(トム・ロブ・スミス著 田口俊樹訳)

この社会に犯罪は存在しないという基盤を。

 国家保安省捜査官の義務として――義務と言えば、人民すべての義務だが――レオはレーニンの著作を学習し、社会の不行跡である犯罪は貧困と欠乏がなくなれば消滅することを知っていた。

  遅ればせながら、『チャイルド44』を読みました。
 2008年に新人作家トム・ロブ・スミスのデビュー作として出版され、その年のCWA賞最優秀スパイ・冒険・スリラー賞を受賞し、日本でもすぐに翻訳出版され、『このミステリーがすごい! 2009年版』海外編の第1位となった人気作です。また2015年には、リドリー・スコット監督によって映画化もされました。 

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

 

  1933年、当時ソヴィエト連邦支配下にあったウクライナは大飢饉に襲われていた(ちなみに、小説では多く語られていないが、ウィキペディアにこの大飢饉(ホロドモール)についての項目がある)。どの家の食糧も底をつき、家畜や木の根や草などもことごとく食べ尽くし、人々は瀕死の状態に陥っていた。

 そんなとき、パーヴェル少年は森で猫を見かける。生きている猫がまだ存在していたとはすぐには信じられず、幻ではないかと自分の目を疑う。10歳にして一家の命運を背負ったパーヴェルは、猫を捕まえようと幼い弟アンドレイを連れて森へ入る。これで母さんも弟も生き長らえることができるのだ。ところが、不慮の事態が起きる……

 物語の舞台は1953年のモスクワに移る。先の戦争の華々しい英雄として、前途有望な国家保安省捜査官となったレオは、幼い息子を亡くした部下フョードルの家へ向かっていた。フョードルを慰めるためではない。

 なんということか、フョードルは息子が殺されたと考えているらしいのだ。
 殺人は資本主義の病だ。よって祖国ソヴィエトには、そんな犯罪など存在しない。それなのに、よりにもよって国家保安省に勤める者がそんな疑いを抱いているなんて、到底あってはならないことだ。そこで、悲しみのあまりに度を失いつつあるフョードルを正しい道に戻すため、レオが動いたのだった。

 案の定、フョードルとフョードルの母親は、口の中に泥をつめこまれ、裸で発見された息子が列車に轢かれて死んだはずがないと主張する。しかし、息子を連れていた怪しい男を見たと語った女が、国家保安省が出てきたことによって証言を翻したので、レオはフョードル一家の言い分を封じ込めることに成功する。国家の秩序が保たれたことに安堵した。

 ところが、フョードル一家に手をわずらわされているあいだに、監視していたスパイ容疑の男に逃亡されてしまう。部下たちを率いて捜索に出るが、副官ワシーリーがレオの言うことに従わず、捜索隊の足並みが揃わない。ワシーリーはレオの地位を奪おうとしていたが、あてが外れたため暴走し、残虐な行為におよぶ。捜索隊の前でレオに叱責され、ワシーリーは復讐を誓う。

 そうしてまたレオのもとに、新たに調査すべきスパイ容疑者の情報が届く。その容疑者とは――レオの最愛の妻ライーサであった。
 ワシーリーの陰謀だろうか? レオはそう疑いつつ、ライーサを心の底から信じることができない自分に気づく。

 スパイ容疑をかけられたライーサとレオはモスクワを離れ、辺鄙な村へ追いやられる。そこでレオは、口に泥をつめこまれてむごたらしく死んだ少女の話を聞く。以前、自分が葬り去ったフョードルの息子の事件を思い出す。もしかしたら、自分はとんでもない過ちを犯したのだろうか……?

 この物語で描かれる「祖国」ことソヴィエト連邦の姿は、まるでディストピア小説の世界のようだ。

 殺人や貧困といった資本主義の病は存在しない。存在を認めることは、前進している社会を大きく逆戻りさせてしまうことになる。よって、連続殺人が起きていても、そのことを一切認めようとせずに葬り去る。もしくは、知的障碍者や同性愛者といった、ソヴィエト社会の一員ではない者、「共産主義や政治の埒外にいる人間」のせいにする。

 一方で、「政治犯」は存在する。いや、実際に存在するかどうかは問題ではない。「政治犯」と見做されてしまえば、存在することになるのだ。

 「政治犯」とは、資本主義国と通じたスパイや、破壊活動を行う革命家だけを指しているわけではない。「ソヴィエトの権力を覆そうとしたり、打ち倒そうとしたり、弱めようとした者」すべてがあてはまり、体制に疑問を抱いただけでも、「政治犯」とレッテルを貼られかねない。自らの保身や出世のため、平気で他人を陥れる者もいる。噂と密告がはびこる、恐怖に支配された社会。

恐怖というものは必要悪だ。恐怖が革命を守っている側面を見落としてはならない。 

  先にディストピア小説のようと書いたけれど、言うまでもなく、ソヴィエト連邦は実際に存在した国である。
 この事件も、ソヴィエト連邦で実際に起きた連続殺人事件をモチーフにしている。 1978年から90年に渡り、アンドレイ・チカチーロという男が52人もの若い男女を凌辱し、殺害した事件である。ソヴィエト連邦では殺人は存在しないという信念があったため、これほどまでの長期間にわたり、殺人者が捕まることなく野放しにされていたのだ。

 さらに、物語の冒頭で描かれたウクライナの大飢饉についても、当時のソヴィエト連邦は、五か年計画の成功を喧伝していたため、飢饉の存在を認めようとせず、他国からの援助を受け入れようともしなかった。結果として、死者の数は数百万人から一千万人以上とも言われ、現在ではジェネサイド(大量虐殺)として考えられている。

 連続殺人事件の舞台を1950年代に変え、ウクライナの大飢饉と結びつけたことによって、国家がかりでついた嘘と、その犠牲になった登場人物たちの運命がいっそう劇的なものになり、真実に目覚めたレオと、命の危険を冒してレオに協力する人々の姿が強く印象に残る。また、この物語の舞台となった1953年は、スターリンの死によってソヴィエト連邦の終わりがはじまった象徴的な年でもある。 

きみたちのことを一番愛しているのは誰ですか。正解――スターリン

きみたちは誰を一番愛していますか。正解――同上(誤答は記録される)。

  なにより、この小説で一番考えさせられるのは、レオの覚醒である。
 優秀な官僚として、国家の欺瞞に薄々気づきながらも、深く考えようとせず目をつぶり、国家に忠誠を誓っていたレオが策略にはめられ、すべてを失ったことによって、ひた隠しにされていた真実の存在に目を向けるようになる。

 国家に対する姿勢と同様に、最愛の妻ライーサとも心の底から通じ合えていないこと、相手の忠誠を完全には信じられないことに薄々気づきながらも、正面から対峙することなく目を背けていた。しかし、ライーサにスパイ容疑がかけられたことをきっかけに、ライーサの本心、その真の姿に遅まきながらも気づきはじめる。

 レオはソヴィエト連邦という大帝国のエリートであるが、この点については、現在の日本に生きるふつうのサラリーマンにも共感できる要素があるかもしれない。
 自分の仕事や会社に疑問を抱きつつも深く考えないようにしたり、妻や家族との意思疎通に困難が生じていても、正面から対峙することなく目を背けたりする人は少なくないのではないだろうか? 

 不都合な真実、というのは、あらゆるところで使われがちな言葉であるけれど、そういうものから目を背け続けていると、国家レベルにおいても、個人レベルにおいても、破綻が必ず訪れるということを感じ入った小説だった。