快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

真の「敵」とはなんだったのか? 戦争を描く難しさ――『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)

今月の書評講座の課題書は、直木賞候補にもなった話題作、『同志少女よ、敵を撃て』でした。

激化する独ソ戦を舞台としたこの物語は、主人公セラフィマの村に突然ドイツ兵があらわれる場面からはじまる。

セラフィマの目の前で村人たちが惨殺され、さらに一緒にいた母親もドイツ兵イェーガーに撃たれて命を落とす。セラフィマも殺されそうになったそのとき、ソ連軍がやってきて、なんとか命拾いする。
ところが、ソ連軍の女性兵士イリーナは、母親の死体を足蹴にして火をつける。そしてイリーナに「戦いたいか、死にたいか」と問う。セラフィマはイェーガーとイリーナに復讐するために、イリーナについていくことを決める……

 

私の書評は以下のとおりです。
*謎解きミステリーではありませんが、物語の核心に触れているのでご注意ください。


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(題)大義が揺らぐ瞬間

 

独ソ戦を舞台とした『同志少女よ、敵を撃て』では、主人公セラフィマが母親を殺したドイツ兵イェーガーと、母親の死体を足蹴にして火をつけたソ連軍の女性兵士イリーナに復讐するために狙撃兵となる。

現実の戦争を小説の題材にするのは難しい。
まずは史実に忠実でなければいけない。戦闘が陳腐なアクション映画のようになってもいけない。命を賭けて戦う兵士は感動的だが、慎重に描かないと戦争や軍人を美化しているようになりかねない。現在においては、戦地で女性はどのように扱われたかというジェンダーの問題も無視するわけにはいかない。

 

そういった観点からこの小説を読むと、各方面にじゅうぶん配慮し、問題点をすべてクリアしていることに驚かされる。

 

戦況の説明や実在した女狙撃兵リュドミラ・パヴリチェンコの描写からは、誠実に史実を調べたことが伝わってくる。臨場感にあふれた戦闘場面には思わずひきこまれてしまうが、一方で、戦争のむごたらしさや非道さもきちんと記している。ドイツ兵を人間離れした悪魔のように描いたりもせず、ソ連軍の暴虐に目をつぶったりもしない。

そしてなにより、イリーナ率いる女狙撃兵たちが力を合わして戦いに臨む姿は、まさにシスターフッドの手本のようで、この小説のいちばんの魅力と言える。

と感心しつつも、若干の物足りなさも感じた。
戦争には正しさも大義もない。しかし、セラフィマは大義を追い求める。スターリングラードの戦いのあと、セラフィマはドイツ兵の愛人となったサンドラと対峙する。

そのとき、疑うことなく信じていた「被害者と加害者。味方と敵。自分とフリッツ。ソ連とドイツ」という図式が揺らぎうることに気づく。ソ連兵士として戦うことで、「女性を救う」という自らの大義が成立するのか疑問を抱く。

 

しかし、サンドラの愛人がイェーガーだと知った瞬間、セラフィマはその困惑を捨てる。
その方が母の仇を討つ〈キャラ〉としては筋が通るのかもしれないが、この揺らぎをもっと掘り下げた方が物語として深みが出たのではないだろうか。幼なじみのミハイルが唐突に豹変する場面も、セラフィマの大義の正しさを念押しするための展開のように感じられた。

とはいえ、大義を追い求めずに戦争を描くことが可能なのかどうかはわからない。カート・ヴォネガットは「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」*と書いた。戦争を描くことの困難さについて考えさせられた。

*引用文献:『スローターハウス5』(伊藤典夫訳 早川書房

(ここまで)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


と、微妙な評価をしてしまったけれど、スピーディーな展開のため退屈することなく読み進められる、よくできた小説であるのはまちがいない。書評でも指摘したように、戦争や兵士を美化することなく描いているので、学生などの若い人にも安心して勧めることができる。

ただ、講座でも「アニメだよね」という意見があったように、登場人物たちを〈キャラ〉のように感じてしまい、ちょっと興ざめしてしまったのも事実である。

受講生たちもおもしろく読んだという人が多数だったけれど、なかには「キャラクターが類型的」などわかりやすさの罠を指摘した人や、「個人的復讐が祖国の防衛に昇華する」展開に違和感を覚えた人、シスターフッドや百合要素をはっきりと「あざとい」と評した人もいた。

さらに、「美貌」のイリーナ率いる、セラフィマをはじめとする狙撃兵たちが「(美)少女戦士」なのに疑問を抱いたという指摘もあった。

この『同志少女よ、敵を撃て』は本屋大賞にもノミネートされているが、去年本屋大賞の翻訳部門を受賞した『ザリガニの鳴くところ』も、家族に置き去りにされて森にひとり暮らす美少女の話であり、正直なところ、
「もしこれが美少女ではなかったら、ここまで熱く支持されたのだろうか……」
と考えてしまったのを思い出した。
(いや、「森に棲む美少女」のもとへ男たちが通いにくるというのがミステリーの要なので、美少女でなければ成立しないとも言えるのだが)

と、少々批判的な書き方になってしまったけれど、細部にまで神経の行き届いた、臨場感にあふれる戦争の描写など、デビュー作とは思えない筆力には感心させられた。

ただ、戦争小説というと、書評でも挙げた『スローターハウス5』や、『同志少女よ、敵を撃て』と同じ独ソ戦を扱った『卵をめぐる祖父の戦争』といった傑作とくらべてしまうので、どうしても評が厳しくなってしまうのかもしれない。

 

スローターハウス5』は、第二次世界大戦のときにアメリカ兵としてドイツに出征し、ドレスデンの大空襲をかろうじて生きのびた作者カート・ヴォネガットが、その経験を小説にまとめようとしているが、どうしてもうまく書けないというくだりからはじまる。
現実の戦争を描くことにはそういった逡巡がつきものなのではないかと思う。

『同志少女よ、敵を撃て』の「敵」とはなんだったのか?

もちろんイリーナではなく、仇敵のイェーガーでもない。最終的にセラフィマが銃を向けたのは、ドイツ人女性に襲いかかる幼なじみのミハイルだった。

では「敵」はミハイルだったのか?
いや、「敵」の正体は、人間を人間離れした悪魔に変えてしまう「戦争」だ――というのが正しい読みなのだろうが、単純化されている印象は否めない。

また、『同志少女よ、敵を撃て』は、ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の影響のもとで書かれている。

というのは、私が勝手に決めつけているわけではなく、参考文献として挙げられていて、物語の中でも『戦争は女の顔をしていない』が言及されている。
フィクションにおいて、現実に存在するノンフィクション(と作者)の名前が出てくる展開についても、講座でさまざまな意見が出たため、来月の課題書は『戦争は女の顔をしていない』に決まった。

 

お金と「私だけの部屋」への困難な道のり――『母の遺産:新聞小説』(水村美苗)

先月の書評講座の課題書は、水村美苗『母の遺産:新聞小説』でした。

ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?

と、ドキっとする言葉がコピーとなっているこの小説では、亡くなった父親に続き、母親の介護に直面した主人公美津紀が、自らの内にある母に対する愛憎と対峙する。
そのうえ介護のただなかで、夫の浮気が発覚する。夫の浮気ははじめてではなかったが、今回は深入りしているらしく、相手の女に真剣に離婚を迫られているようだ…………

私の書評は以下のとおりです。

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(題)お金と「私だけの部屋」への困難な道のり

 

かつてヴァージニア・ウルフは、〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉と書いた。『母の遺産』は主人公である美津紀が、お金と「私だけの部屋」を手に入れる物語である。

物語の冒頭、美津紀は死んだ母の有料老人ホームの返金額を計算する。姉の奈津紀と分けても、3500万円は入ってくる。芸者上がりの祖母の庶子として生まれ、貧しい長屋で育った母が、どうしてこれだけの額を遺すことができたのか? おそらくその大半は先に死んだ父が稼いだものであろう。

ここからふたつの事実が浮かぶ。①母が生きた昭和の時代、女が財産を手に入れる方法は結婚だった。②昭和の時代は、大学を出て真面目に働いていれば、家や土地を買って資産を形成できた。

①については、籍を入れてもらえなかった祖母の暮らしぶりからも、結婚しなければ財産を確保できないことがわかる。平成になっても、金持ちのもとへ嫁いだ奈津紀や、離婚した友人の昌子が体現しているように、結婚が女にとっての生活保障であることは変わらない。


だが、財産とは無縁だった祖母はもちろん、結婚によって財産を手に入れた母も奈津紀も、美津紀のように真剣に金の計算をするわけではない。美津紀が金を計算するのは、①を失いつつあるからだ。美津紀が金の計算をする姿は、母の死を契機に、自立して生きていこうとする決意を象徴している。

「芸術と知」に憧れ、分不相応なものを追い続けた母を美津紀は許すことができない。晩年の父を自分に押しつけ、つまらない男へ走った母の死すら願う。
けれども、美津紀が自立できたのは「母の遺産」があったからこそであった。

ウルフは〈無名の女性たち〉の努力のおかげで、女性への不正が改善されつつあると語ったが、祖母、母といった〈無名の女性たち〉からの遺産によって、ようやく美津紀はお金と「私だけの部屋」を手に入れ、①を手放すことができた。

しかし、これは①と②がまだ有効だった時代の話である。時代が進み、②が崩壊するのに伴い、①も不確実になった。
この物語には、もうひとり金の計算をする女が登場する。美津紀の夫である哲夫を奪おうとする女だ。女の細かい計算は、失われつつある①と②に必死にしがみつこうとする姿のようにも見える。

ウルフは女たちに年収500ポンド稼ぐことと、自分自身でいることを説いた。それから百年近く経っても、まだ成し遂げられていないのかもしれない。

(ここまで)------------------------------------------------------------

※引用文献:ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』 (平凡社 片山亜紀訳 2015年)

祖母、母、姉、そして主人公といった女たちが、過酷な運命にそれぞれのやり方で対処しながら生きていくさまが描かれていて、大河ドラマを観ているようなどっしりとした読みごたえのある物語だった。

祖母、母、姉はすべて男(夫)の庇護のもとで生きていたが、主人公はようやく自らの脚で立って生きていくことを選択する。といっても、母の遺産があったから可能だったわけで、タイトルにもなった「母の遺産」が象徴するものは大きい。

もうひとつタイトルに銘打たれている「新聞小説」は、この小説が2010年から2011年にかけて(東日本大震災を挟んで)新聞に連載されていたという事実にくわえ、新聞に連載されていた『金色夜叉』によって、祖母の人生が変わってしまったことが関係している。

さらに、この小説は『金色夜叉』のみならず、『ボヴァリー夫人』にも言及している。語学の非常勤講師と翻訳業を営んでいる美津紀のもとに、『ボヴァリー夫人』の新訳の話が舞いこんでくるのだ。
新聞小説」という観点や、『金色夜叉』や『ボヴァリー夫人』とのつながりから、この物語を読み解くのもおもしろい。

受講生の中には、『金色夜叉』と対比して、

当時の女たちは「愛か金か」という選択を迫られたのかもしれないが、100年経った現代では、愛は脇に置き「夫か貧乏か」にさし変わっている

という興味深い指摘をした人もいた。「夫か貧乏か」……切実な問いだ。

しかし書評にも記したように、いまの世の中では、「夫がいても貧乏」というケースも多いのではないだろうか。「ひとりで貧乏」と「ふたりで貧乏」、どちらがマシなのかはわからない。
ふたりの方が貧乏も耐えられるのでは? という気もするが、一方、金がないことによってふたりの仲がこじれ、互いの憎しみをつのらせていく場合も少なくないように思える。

ここでまたウルフに戻ると、書評にも引用した『自分ひとりの部屋』で、

なぜ男たちの飲み物はワインで、女たちは水なのか? なぜ男性はあれほど裕福なのに、女性はあれほど貧乏なのか? 貧困は文学(フィクション)にどう作用するのか?

と疑問を呈している。

『母の遺産』は、高度成長期から平成の時代を生きた一家の物語であり、貧しい育ちの母も娘に相当の資産を遺すことができた。
経済成長が止まり、男も女も大多数の人間が貧乏になっていく現代の日本では、貧困は文学(フィクション)にどう作用するのか……?

2022年を生きのびるための1冊――『これは水です』(デヴィッド・フォスター・ウォレス 阿部重夫訳)

2022年になりました。あけましておめでとうございます。

正月といっても、ふだんと何も変わりはしないけれど……
と思いつつ、去年から積読していた、デヴィッド・フォスター・ウォレス『これは水です』をふと手に取ったところ、年末年始でぼんやりしていた目がはっと覚め、まさに年頭に読むのにふさわしい1冊だった。

デヴィッド・フォスター・ウォレスは、トマス・ピンチョン以降のアメリカのポストモダン文学を代表する作家であり、『Infinite Jest』をはじめとする難解な小説で知られている。
なので、去年『これは水です』が売れていると聞いたときは、なんでまた?と、おどろいた。

といっても、『これは水です』は小説ではなく、スティーヴ・ジョブズの “Stay hungry”のように、2005年にケニオン・カレッジの卒業式で披露したスピーチだと知って納得した。こちらでそのスピーチを聞くことができる。

www.youtube.com

 

スピーチの冒頭、デヴィッド・フォスター・ウォレスは、大学を卒業して、これから実社会に出ていこうとする学生たちにこう語りかける。(原文はこのサイトから引用しています)

I’m supposed to talk about your liberal arts education’s meaning

学生たちが大学で学んだリベラル・アーツ教育の意味について語ろう、と。

そこで疑問が浮かぶ。
そもそも、リベラル・アーツって何なん? 「一般教養」といった漠然としたイメージしかない。

訳書の訳者解説によると、リベラル・アーツとは単なる「一般教養」ではなく、言語(文系)や数学(理系)の枠を超えて、あらゆるものを包括する学問であり、「本来は『人を自由にする技芸』という意味」だと定義されている。人は学ぶことによって自由になるのだ。

とはいえ、リベラル・アーツの定義がどうあれ、どうせ教養や知識を身につけることが大切だ、といった説教くさい話じゃないの? 
と、スピーチというものに対して、そんな先入観を抱いている人もいるだろう。


しかし、デヴィッド・フォスター・ウォレスは、真のリベラル・アーツとは、教養や知性をどれだけ身につけるかではなく、何について考えるのか選択することだと語る。

the really significant education in thinking that we’re supposed to get in a place like this isn’t really about the capacity to think, but rather about the choice of what to think about.

そう、大事なのは capacity(容量)ではなく、the choice of what to think aboutなのだ。そして、自らを省みてこう告白する。

my deep belief that I am the absolute centre of the universe;

自分が世界の中心であると心の底から確信していた、と。
いや、どんな人でも、自分が世界の中心だと疑うことなく考えてしまう。だって、考えている主体は自分なのだから。それが私たちの初期設定(デフォルト)なのだ。

しかし、実社会に出るとそうはいかない。
学校を卒業してから待ち受けている日々とは……

One such part involves boredom, routine and petty frustration.

そう、「退屈 決まりきった日常 ささいな苛立ち」なのだ。
ここから、「平均的な社会人の1日」として、苛立ちに満ち、決まりきった退屈な日常を怒涛のように語りはじめる。

毎朝「ホワイトカラーの仕事」に出勤し、9時間か10時間働き、1日の終わりにはぐったり疲れる。家には食料がないので、帰りにスーパーに立ち寄らないといけない。道路は大渋滞。やっと着いても、スーパーもおそろしくごった返している。

And the store is hideously lit and infused with soul-killing muzak or corporate pop and it’s pretty much the last place you want to be but you can’t just get in and quickly out; you have to wander all over the huge, over-lit store’s confusing aisles to find the stuff you want and you have to manoeuvre your junky cart through all these other tired, hurried people with carts

しかも、蛍光灯はぞっとする光を放ち、死にたくなるような音楽(あるあるですね)か、もしくはCMソングがうるさく流れている。
ほんとうなら、こんなところ1秒たりともいたくない。とっとと出ていきたい。
でも食料を買わなければならない。同じように疲れた顔で、そそくさとカートを押している客にまじって、自分も馬鹿みたいなカートを押す。

なんとか買うものを決めてレジにたどり着くと、案の定、レジも大混雑している。しかし、自分以上に無意味な労働でぐったり疲れているレジ係にわめき散らすわけにもいかない。さんざん並んで会計を済ませ、へとへとになって駐車場へ戻り、買ったものを車に積みこんで、家へ向かって車を走らせると、またも道路は大渋滞――

これが現実であり、この日常が死ぬまでえんえんと続くのだ。

いったいどうしたら、この世界を生きのびることができるのか? 

そのためには、生まれもった初期設定――自分は世界の中心である――から脱却しないといけない。それが the choice of what to think about なのだ。

つまり、仕事終わりでへとへとの我が身のことばかり考えるのは初期設定のままであり、何ひとつ choice していない。そうではなく、自分と同じように疲れた顔でレジに並ぶ人たちの背景、大渋滞のなか車を走らせている人たちの事情について考えてみる能力が、the choice of what to think aboutなのだと、デヴィッド・フォスター・ウォレスは説く。

こう書くと、たやすいことのように思えるかもしれないが、とんでもなく難しい。

仕事終わりにスーパーのレジの長い列に並び、前のおばさん(or おじさん)がレジ係に何度もあれこれ聞き返しているとき、前のサラリーマンが領収書を発行しろとレジ係に言っているとき、前の家族のカートをよく見たら1か月くらい籠城するのかと思うほど食料がつめこまれているとき、レジ係が新人なのかあきらかに両横のレジより進むのが遅いとき……

イライラしない人がこの世に存在するだろうか? 
当然ながら私も、ハゲるのではないかと思うくらいイライラする。
初期設定からぜんぜん脱却できていない。

デヴィッド・フォスター・ウォレスはさらに語る。
真の教育によって得られる自由とは、何について考えるかを選択するということであり、くわえて、何を崇めるのかを決めることだと。

崇める? 自分は何も崇めていない。そう思う人もいるかもしれない。

が、現実の世界に生きる人間はかならず何かを崇めている。といっても、神様や宗教の話ではない。金、権力、美貌、知性……誰でも何かを崇めている。
そしてここでも、初期設定から脱却できなければ、金に固執し、権力に執着し、美が失われることに怯え、愚かだと思われることを恐れる人生を歩むことになると説く。

自分中心の初期設定のまま生きるのか、あるいは他者に思いを馳せ、ほんのささやかな、人目につかないやり方で、他者のために自分の身を尽くして生きるのか……

That is real freedom. That is being educated, and understanding how to think.

後者こそがほんとうの自由であり、それが教育を受けるということであり、ものの考え方を学ぶことだと、デヴィッド・フォスター・ウォレスは語る。

どうにかそれを身につけて 

銃で自分の頭を撃ち抜きたいと

思わないようにすることなのです

そう、それを身につけなければ、この世界を生きのびることはできない。

このくだりは実際のスピーチにはなく、本になるときに書き足されたものである。
スピーチの3年後の2008年、デヴィッド・フォスター・ウォレスが自殺した事実を考えると、この一節が胸に重くのしかかり、苦しさがこちらにも伝わってくる。

ところで、デヴィッド・フォスター・ウォレスといえば、代表作である『Infinite Jest』すら翻訳本が出ていないので、ほとんどの作品が未訳かと思っていた。
けれども、今度の『短編回廊』読書会の参考図書として、村上春樹編訳のアンソロジー『バースデイ・ストーリーズ』を読んでいると、短編「永遠に頭上に」が収録されていた。

13歳の誕生日を迎えた少年が、プールに飛びこむというだけの短い物語なのだが、大人になりつつある少年と、梯子をのぼって飛びこみ台に立つ高揚感がうまく重ね合わされた、「不思議なクールさと優しさをこめた」(村上春樹の解説より)作品だ。

また、『Infinite Jest』については、『世界物語大事典』で詳しく紹介されている。
それによると、アメリカがメキシコ、カナダと合併して北米国家機構という巨大国家を形成した近未来を舞台として、並外れた知性を持ち、テニススクールに通う17歳のハルを主人公としたSF小説らしいが……わかるような、わからないような……とにかく翻訳本が出てほしいものだ。

そして、GRAPEVINEの「これは水です」も、おそらくこのスピーチの影響のもとで作った曲なのだろう。文学性の高い歌詞で知られる田中さんは、読書家としても名高い(『文學界』に寄稿したりもしていますね)。

というわけで、自分中心の初期設定から脱却して、レジの大行列に巻きこまれてもイライラせずに(できるかな…?)、2022年を生きのびよう! 
と、年頭の誓いを立てました。

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戦後日本の空虚を描き、全米図書賞を受賞した話題作――柳美里『JR上野駅公園口』

先月の書評講座の課題書は、柳美里『JR上野駅公園口』でした。

全米図書賞を受賞した話題作です。私の提出した書評は以下のとおりです。


(ここから)----------------------------------------------------------------

(題)虚ろな生が映し出す戦後日本の空虚

 

『JR上野駅公園口』は、昭和8年に福島県相馬郡で生まれ、長年郷里を離れて出稼ぎを続けた末に、最後は上野恩賜公園で暮らすホームレス「カズさん」となった男の一生を描いている。


男のまわりには常に音が響いている。
スピーカーから絶え間なく流れるアナウンス、すれちがう人たちの会話、ホームレス同士のやりとり、ラジオのニュース。相馬で息子の浩一が生まれたとき、親王誕生のニュースがラジオから流れる。
それから約50年後、上野のコヤのラジオから流れるのは、東日本大震災後の国会中継のニュースである。


しかし、これほど多くの音が流れているにもかかわらず、どれもほとんど雑音に近いものかアナウンスばかりで、対話はきわめて少ない。

この小説で男が言葉を発するのは、「シゲちゃん」に誘われてコヤに入ったときの「おじゃまします」に「いただきます」、弘前のキャバレーでホステスの純子に向けてわざと訛ってみせたくだり、節子から腕時計をもらったときの照れくささを隠す台詞、麻里の愛犬コタロウへの呼びかけだけだ。もっとも交流が深かった「シゲちゃん」との会話も、「シゲちゃん」が一方的に話すばかりで、対話とは言い難い。


男は、ひたすら働き続けてきた。「疲れていない時はなかった」

七人の弟妹のため、結婚してからは妻とふたりの子どものために。これまでの人生において、誰かとじっくり言葉を交わす余裕なんてなかった。妻や息子の声をちゃんと聴く時間もなかった。「はっきりと生きることなく、ただ生きていた気がする」


どうして男はホームレスになったのか? 家や生活費を失ったわけではないのに。

自らの生の虚ろさに耐えられなくなったのではないだろうか。幽霊のような虚ろな生を生きた男は、上野駅でほんものの幽霊となる。上野駅上野恩賜公園は生と死のあわいの空間である。

男の生の虚ろさは、戦後の日本の歩みと重なり合う。親王と同じ日に生まれた浩一の生の儚さは、天皇制の虚ろさを「象徴」している。
「山狩り」によって一時的に美化された公園を通る天皇を見た男は何か言おうとするが、「声は、空っぽ」だった。頭の中では、親王誕生と東京オリンピックのニュースが虚ろに響いていた。


そして男は自らの生に終止符を打つ。男が実体を失ったあと、この世界は東日本大震災によって破壊される。しかしその後も、国会中継のニュースが虚ろに流れる光景は、結局何も変わっていないことを示唆している。

(ここまで)----------------------------------------------------------------

作者が上野近辺のホームレスに丹念に取材して書いたと聞いていたので、ホームレスや貧困といった現代の社会問題を取り扱った小説かと思っていたが、実際に読んでみると、もっと普遍的な主題――人生の不確かさや生の虚ろさが印象に残った。


書評でも指摘したように、主人公の男は仕事や家を失って、やむなくホームレスになったわけではなく、面倒をみてくれる孫娘の麻里を置いて自ら家を出る。
戦後の日本の歩みに翻弄されながら、家族のためにひたすら働き続けた主人公の心に巣食った空虚さに突き動かされたように感じられた。

最後(物語の枠としては、最初と最後)、世界は地震に襲われる。
東北と東日本大震災を描いた小説としては、いとうせいこう『想像ラジオ』もある。

しかし『想像ラジオ』は、DJアークが高い木のてっぺんから呼びかける声を聞く物語であったのに対して、この『JR上野駅公園口』の男の世界には「対話」がほとんど存在しない。どれも一方的なアナウンスやモノローグであり、周囲の人たちの会話もBGMのようにただ流れていく。

どちらも生と死の狭間を描いた小説であるが、自分の命を奪われて、必死に妻と息子に呼びかけるDJアークと、理不尽に妻と息子の命を奪われ、世界を閉ざした男の姿は対照的である。

彼らが僕のことをどんな風に悲しんでいるか。今となっては知っても仕方ないけど、僕にして欲しかったことはなんなのか。それを僕はやっぱり知りたい。知って悔しい思いを一緒にしたい。歯がみしたい。(『想像ラジオ』)

また、『JR上野駅公園口』は全米図書賞受賞ということで、大きな話題を呼んだが、英訳本の冒頭をkindleのサンプルで読んでみたところ、

There’s that sound again――
That sound――
I hear it.
But I don’t know if it’s in my ears or in my mind.
I don’t know if it’s inside me or outside.
I don’t know when it was or who it was either.
Is that important?
Was it?
Who was it?

と、詩のように美しい英文で綴られていて、受賞したのも納得した。

空虚な象徴である「天皇」(と書評で記したのは、大昔に聞きかじったロラン・バルトが念頭にあったのもしれない……)を物語で描き、相馬流れ山の唄や阿弥陀経など日本特有のものを物語の中に組みこんでいるところも、海外からの高い評価につながったのだと思われる(このあたりもどう英訳されているのか気になりますが)。

作者は海外で紹介されることを前提として書いたわけではないと思うので、現代の日本人への意匠として書いたくだりが、海外から注目されたのだろう。ローカルなものを描いた小説がグローバルになるというのも、興味深いポイントだった。

共訳書『算数の実験大図鑑』、『シブヤで目覚めて』感想、次回の大阪翻訳ミステリー読書会についてのお知らせ

先月、はじめての共訳書『算数の実験大図鑑』が新星出版社より出版されました。


折り紙や輪ゴム、アイスの棒といった身近な物を使って、楽しく実験しながら、足し算引き算からフィボナッチ数列まで学べる一冊です。
ひとつひとつの工程がていねいに説明されているので、工作が苦手な子どもでも大丈夫!(私ですらできたので)
本屋さんで見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。

算数の実験大図鑑

算数の実験大図鑑

  • 作者:DK社
  • 新星出版社
Amazon

こちらのnoteに詳しい説明を書きました。
数字が苦手な子ども(あるいは親)にオススメの1冊です。

note.com

 

また先月、noteの読書感想文企画 #読書の秋2021 に参加して、課題本『シブヤで目覚めて』(アンナ・ツィマ著 阿部賢一・須藤輝彦訳)の感想をnoteに書きました。

この『シブヤで目覚めて』は、日本を深く愛する主人公ヤナが、プラハから憧れの日本へ旅行に来た際に、〈想い〉を渋谷に残し、一方、肉体を備えたヤナはプラハに戻り、そこで大正時代の作家を発見する……という物語です。

こう書くと、なにがなんやらという感じかもしれませんが、新感覚の分身譚であり、〈想い〉によって、プラハと渋谷が、現代と大正時代がつながる物語です。

note.com

 

また、大阪翻訳ミステリー読書会は、来年1月10日(月・祝)にオンラインで開催いたします。

課題書『短編回廊』は、ゴッホ葛飾北斎ジョージア・オキーフ、さらにロダンミケランジェロなどの一流の芸術作品をテーマに、ローレンス・ブロックジョイス・キャロル・オーツマイクル・コナリージェフリー・ディーヴァーなどの、これまた一流の作家が物語を紡いだ短編集です。


どの短編がいちばんのお気に入りか、読書会で気軽に話しましょう!
詳細については、12月10日(金)に、翻訳ミステリーシンジケートで告知いたします。
その他の近況につきましては、noteにアップしています。よろしくお願いします。
(近況と言うほどのものではなく、単なる日記ですが)

 

 

互いをじわじわと殺し合い、それでも離れられない家族――ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』(関口英子訳)

もしも忘れているのなら、思い出させてあげましょう。私はあなたの妻です。わかっています。かつてのあなたはそのことに喜びを見出していたはずなのに、いまになってとつぜん煩わしくなったのですね。

という不穏な言葉で、ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』(関口英子訳)ははじまる。

 

読み進めていくと、妻である「私」が、家を出た夫に向けて書いた手紙だとわかる。妻である自分と子どもを捨てて、夫は若い女のもとへ走ったのだ。
妻からの手紙は何通も続き、子どもの養育をめぐる争い、夫を奪った若い女との対面、裁判所への調停の申し立てなどが綴られ、まさに絵に描いたような泥沼状態に陥っていることがうかがえる。

そしてついには精神状態が不安定になった妻の自殺未遂へ至り、

ずいぶん前から、あなたは私のことをじわじわと殺してきた。妻という役割においてではなく、もっとも充実し、あるがままでいられるはずの年代にあった一人の人間として。

と、夫婦の関係が総括される。そうして「第一の書」が終わる。


「第二の書」では、七十代の老夫婦の夫が語り手として登場する。
五十年以上連れ添った老夫婦の日常は一見平穏だが、どこかしら軋みが感じられる。
若い女に五ユーロ騙し取られる夫。それを聞いて苛立つ妻。そんな妻を見て、「金にうるさい」と内心思う夫。いがみ合っている息子と娘。さらに若い男から百ユーロ盗まれる夫。すれちがう記憶。

ある日、老夫婦がヴァカンスから戻ると、家がひどく荒らされていた。
しかし、家のどこもかしこも引っくり返されているにもかかわらず、紙幣は盗まれていない。ただの泥棒ではないようだ。

いったい誰が? 何の目的で? わけのわからない犯罪に老夫婦が怯えていると、妻が溺愛している猫が姿を消したことに気づく。
そもそも、この夫婦の正体は? 「第一の書」の夫婦とはどういう関係にあるのか?

古い写真や思い出の品が散乱する部屋で、夫は昔を回想する。
妻子を捨てて家を出た過去を、とくに後悔するでもなく淡々と語る口調に驚かされる。「第二の書」の冒頭で語られていた、若い男女に次々に騙されるお人好しの夫という人物像からかけ離れているのではないか? と。「第一の書」で、妻からありったけの憎しみをぶつけられていた冷酷な夫と同一人物であるとは思えない。

しかしまぎれもなく同一人物であり、人格が変わってしまったわけでもない。ひとつの物体であっても、ちがう角度から光をあてるとちがう形状の影ができる。

あのとき自分がなにを考えていたのか、私にはよくわからない。たぶんなにも考えていなかったのだろう。妻のことはむろん嫌いではなかったし、妻に対して恨みを募らせていたわけでもない。私は妻を愛しいと思っていた。

けれども、若い女を愛し、彼女と暮らすために家を出る。
自らの裏切りのせいで、妻が壊れていくのもわかっていた。子どもと離れるのはつらかった。でも愛人と別れるのはもっとつらかった。どうすることもできなかった。

そんな過去を平然と語る夫の残酷さ、身勝手ぶりに読者は戦慄を覚える。
が、なにより恐ろしいのは、その残酷さ、身勝手ぶりを心のどこかで受けいれてしまうこと、この夫だけではなく、自分も含めた人間とはそういうものだと納得させられることではないだろうか。
夫婦とは、家族とは、互いをじわじわと殺し合うものではないだろうか、と。

では、そんな家庭で育った子どもはどうなるのか? 
そこで思い出されるのが、『八日目の蝉』である。

映画化もされたこの小説は、夫の不倫相手が子どもを奪って逃走した事件を描いているが、ほんとうの恐ろしさは、不倫の愛憎劇や逃走劇ではなく、事件が解決したあと、平穏を取り戻したかのように見える家庭の日常生活にあった。

奪われた子どもであった娘が荒廃した家の実情を語る。

事件のあとで、父と母は、自分たちはすべての意味合いにおいて等しく被害者であると、ことあるごとに確認しあっていた。けれど母は、感情のコントロールがきかなくなると、あなたのせいだと言わんばかりの嫌みを言ったし、父は父で、無関心と諦観でそれをやり過ごそうとしていた。

世間体のためか、子どもの養育のためか、父と母は別れを選択しなかったが、ふたりとも家庭にはとことんまで無関心になり、ごはんも用意されず、埃のたまった家で子どもたちは成長する。

『八日目の蝉』の作者である角田光代はこの小説にコメントを寄せている。

拒絶と許容、愛情と無関心、自由への渇望と束縛への希求。それらはまったく矛盾なく、ひとつの家のなかに、ひとりの人間の内に、おさまっている。

「第三の書」では新たな人物が語り手となり、この小説の謎――家を荒らしたのは誰か? 猫はどこへ消えたのか?――がすべて解き明かされる。
「第一の書」で激しく夫を糾弾する妻、「第二の書」で自らの犯した過ちを淡々と語る夫、この二者による語りは読めば読むほど心が寒々しくなり、登場人物との距離を感じた読者も、「第三の書」の語り手の率直な告白には心をつかまれるだろう。

あの人の本当の過ちは、最後の最後まで私たちを拒みつづけられなかったこと。伴侶を深く傷つけ、死にたいと思うまでに追い詰め、一生消えない傷を負わせておいて、後戻りなんてすべきじゃない。犯した罪の責任をとことん負うべきだった。

「第三の書」によって、この小説に救いが生まれる。
家族を結びつける靴ひもと、それを破壊する青いキューブが同時に存在し得ること、人生においてはどちらも欠かせないものであることが腑に落ちる。
もちろん、すべてを受けいれて生きていくのは簡単なことではない。けれども、猫を連れていけば、前に進めるような気がする。

この『靴ひも』は、「はじめての海外文学」のYouTube配信企画、「こわい! 海外の本 パート2」で、翻訳家の木下眞穂さんが紹介されています。ぜひこちらもご覧ください。

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「耳をすます」ことで生まれた奇跡――藤本和子『塩を食う女たち』『ブルースだってただの唄』

800字書評講座の今月の課題書は、『塩を食う女たち』でした。

1982年に出版されたこの本には、リチャード・ブローティガンなどの翻訳で知られる藤本和子が、黒人女性ひとりひとりの人生を聞き取って文章におこしたもの、いわゆる聞き書きが収められている。
それからしばらく入手困難となっていたが、2018年、BLM運動の盛りあがりと呼応するように復刊された。

わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。

作家であり、地域運動家でもあるトニ・ケイド・バンバーラが語るこの冒頭の言葉からもわかるように、語り手ひとりひとりの人生と、その背後に横たわるアメリカでの黒人の歩みが、それぞれの語りに凝縮されている。私が提出した書評は下記のとおりです。


(ここから)-----------------------------------------------------------

(題)「耳をすます」ことで生まれた奇跡


『塩を食う女たち』は、「わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは」とはじまる。その言葉どおり、この本には黒人女性ひとりひとりの生きのびるための戦いが語られている。

104歳のアニーは、60歳を過ぎて奴隷から解放された祖母と、祖母が通ったカレッジの食堂で学んだ自らの人生を振り返る。39歳のユーニスは、黒人の子どもたちを教育するという夢を奪われた父親を見て育ち、自らはアフリカを旅してはじめて、自分たちの中にある生きのびる力に目覚める。


黒人であり、さらに女であるという過酷な条件のもと、アメリカ社会が押しつけてくるものにけっして屈服せず、人間らしさを手放さず、未来のヴィジョンをつかもうとする――そんな彼女たちの戦いは、きわめて個人的なものであると同時に、アメリカ合衆国における黒人の歴史を色濃く映し出していることに圧倒される。

過酷な体験を語ることは容易ではない。
しかも、冒頭の言葉を発したトニ・ケイド・バンバーラは、「体験を語ることのできる言語が存在しない」と黒人共同体の暮らしは英語で言語化しきれないものだと語っている。

だが、この『塩を食う女たち』を読むと、彼女たちの戦いがあざやかに目に浮かび、息づかいまでも伝わってくる。これほどまでに生命力に満ちた言葉を、どうして作者である藤本和子は聞き取ることができたのだろう? 


作者は話を聞くにあたり、「先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて」、さらに「自分は誰なのか」と問い続けながら耳を傾けたと書いている。
相手に一切の予断を持たず、無色透明な存在になるのでもなく、自らの立ち位置や果たすべき責任について真摯に問い続けながら「耳をすます」ことによって、トニ・ケイド・バンバーラが称賛するトニ・モリスンのように、「ある〈声〉を、音調を」見出すことができたのだ。
そんな奇跡的な瞬間が刻まれているからこそ、この本を読むと胸を衝かれる思いがするのだろう。


「この狂気を生きのびる」ための戦いは、私たちの日常と地続きだ。彼女たちの語り声は、「日本の女たちの生を掘りおこし、彼女らの名を回復しようとするわたしたち自身に力を貸してくれるかもしれない」と作者が書いているように、この語りを単なる体験談として消費せずに、自らに問い続けながら「耳をすます」ことによって、私たちも戦う力を得ることができるのだろう。

次は、私たちの語りが誰かのもとへ届くのかもしれない。

(ここまで)-----------------------------------------------------------


私はふだんインタビューをすることはないけれど、職場の社史を作成するにあたって、創業者と経営者に話を聞いたとき、以前から知っている人たちなのにあらためて話を聞くのはこんなに難しいのか……と、つくづく思い知った。


「耳をすます」こと、他人の話を聞くことは、受動的な行為のように見えるかもしれないが、実はそうではなく、話を聞き出す側の能動性が要となる。しかし能動性といっても、勝手にストーリーを作りあげ、自分の求めている答えに誘導するような質問をすることではない。

作者が書いているように、「先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて」、さらに「自分は誰なのか」と問い続けながら耳を傾けることで、はじめて語り手のそれまでの人生からわきおこった言葉が引き出せる。語り手と聞き手の共同作業なのだ。

そのようにして引き出した語り、「オーラル・ヒストリー」は、書き言葉で記録されてきた「主流的」な歴史からこぼれ落ちた記憶や体験の集成である。そこには「主流的」な歴史から無視されてきた、庶民や女性から見た社会の姿が映し出されている。

書評の最後にも記したように、『塩を食う女たち』における黒人女性の語りは、私たちの日常とも地続きだ。
もちろん、日本人女性である私たちは奴隷制のような苛烈な体験を経ていないが、母親の世代、祖母の世代、曾祖母の世代……日本においても、女たちの声は書き言葉で記録されないまま埋没しようとしている。

現代に生きる私たちは、ここに出てきた黒人女性たちのように、自分の母親や祖母の世代について語る言葉を持っているだろうか? 
あるいは、母親や祖母の世代と向き合い、「先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて」、さらに「自分は誰なのか」と問い続けながら耳を傾けることができるだろうか? 
そんなことも考えてしまった。

『塩を食う女たち』を出版したあと、藤本和子はさらに黒人女性への聞き書きを続け、それらは『ブルースだってただの唄』としてまとめられた。

ブルースなんてただの唄。かわいそうなあたし。みじめなあたし。いつまで、そう歌っていたら、気がすむ? こんな目にあわされたあたし。おいてきぼりのあたし。ちがう。わたしたちはわたしたち自身のもので、ちがう唄だってうたえる。ちがう唄うたって、よみがえる。

『ブルースだってただの唄』は、この鮮烈な言葉を発したフロリダ出身の臨床心理医のジュリエットと、ジュリエットのまわりの女性たちによる語りで構成されている。
ジュリエットの勤務先が刑務所であるせいか、母親や恋人との軋轢が『塩を食う女たち』の語りよりも激しく、生々しく語られているように感じる。

ジュリエットは作者から〈黒人であることのよろこびについて〉聞かれ、「アメリカの主流社会の価値体系、主流社会そのものの存在に圧倒されそうになるときには、よろこびを感じるのがむずかしい」と語り、「自分が何者であるかわからなくなったり、あるいは自分という人間を評価できなくなったりすることがあった」と答える。そしてこう続ける。

ところが、ふたたび、自分の思想が主流社会のそれと異なることがあってもよいのだ、という意識にたどりつき、地歩を固めることができれば、つまり、異なることはまちがいではないのだと考えることができるようになって、またエネルギーを取り戻す。

主流から外れてもいい、異なることはまちがいではない――藤本和子聞き書きで引き出したこの気づきは、アメリカの黒人女性のみならず、日本の女たちにも通じるものだと思う。だからこそ、この本を手に取った女たちは、この気づきから力を得ることができたのだろう。

また、この日の講座では、森崎和江による女抗夫への聞き書きをまとめた『まっくら』が復刊されることも教えてもらった。こちらも読んでみたいと思う。