快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

女の幸せって…?? その3 『ストーナー』 ジョン・ウィリアムズ

 

ストーナー

ストーナー

 

  しつこく「女の幸せって…??」と考えてきましたが、どうして『ストーナー』が「女の幸せ」と関係あるの?と思われているかもしれません。

 『ストーナー』は、ストーナーという名前の英文学教師の、とりたてて大きな事件が起こるわけでもない静かな人生を丁寧に描いた作品であり、名翻訳家・東江一紀氏の遺作になったこともあって、どうしてこんな地味な作品なのにこれほどの感動を与えるのか、と読者のあいだでじわじわと話題になり、日本翻訳大賞の読者賞も受賞しました。

 たしかに、学生時代に文学に魅了され、以後の人生はただひたすらそれを追い求め、実直に研究と後進の指導に尽くしたストーナーの生き方は感動的だ。
 けれど、そのストーナーのかたわらで、底なしに不幸になっていく妻と娘の姿が、私には印象深かった。

 ストーナーは、とにかくまっすぐな男だ。文学にたちまち魅了されると、本来あとを継ぐはずだった家業の農業を打ち捨て、両親すらもないがしろにする。同じように、資産家の娘イーディスをひとめ見て、たちまち恋におちると、速攻アプローチしてお近づきになり、親から結婚の承諾をもらう。
 が、良家のお嬢様だったイーディスは、どんどんとエキセントリックになり、ストーナーを部屋から追い出したり、子供の世話も放棄し、唐突に借金をして家を買ったりと次々に奇矯な行動をとり、二人は永遠の休戦状態になる。

 まあ、ストーナーのように屈託なくまっすぐな人間がすぐそばにいたら、やさぐれる気持ちもわからないではない。
 いや、イーディスがやさぐれて不幸になるのは、ストーナーのせいではない。妻を虐げたり、身勝手な行動をするわけではなく、ちゃんと大事にしている。
 因果関係としては、作中ではっきり描かれているように、イーディスの両親がよそよそしくて堅苦しく、愛情のかけらもないような夫婦(二村ヒトシさんの言葉で言うと、インチキ自己肯定同士の夫婦ですね)であり、
 特に母親は「人格の一部となった不満足の身構え」があり、歳月とともに、意識も生活もすべてが不満足と苦々しさでうめつくされた人生を送ったので、イーディスの心にも巨大な穴(また二村ヒトシさんの言葉を使うと)があいてしまったのだろう もちろん、イーディスにも、母親にとっても、女性が自立できない時代からくる不幸という面もあったと思う。

 そして、そんな鬱屈を抱えた者が、ストーナーのような純真まっすぐ人間と一緒にいると、どんどんと穴が広がり、お互いに苦しくなるのだろう。
 大学教授となったストーナーが、足に障害のある卑劣な生徒(三島由紀夫の『金閣寺』の柏木を思い出した)をめぐって、やはり足に障害のある教授ローマックスと決裂するエピソードも、同じ回路があるように感じた。ゆがんだ心を持つ人間にとって、曲がったことを決して許さないストーナーは相容れない存在なのだ。

 一人娘グレースも、イーディスの気まぐれによる育児放棄と過干渉にさんざん振り回されたあげく、案の定、摂食障害になって太ったり痩せたりし、親の目を盗んで性的に放埓になったあげく、恋人でもなかった相手の子供を妊娠して、とりあえず結婚するが、夫はすぐに戦死する。 それでも自分の実家に帰りたくないグレースは、夫の実家に世話になりつつ、アルコールが手放せなくなる。
 絵に描いたような、最近よく聞く「毒親に育てられた子供の顛末」ですね。

 しかし、こう書くと悲惨な話のようですが、ストーナー本人は、文学という人生を捧げるべき対象が若いうちに見つかり、それを生涯の職業にして、とことんまで打ちこみ、じゅうぶん幸せな人生だったのだと思います。

 ところで、先日の読書会では、この本の翻訳を手伝った、東江先生のお弟子さんである布施由紀子先生も来られていましたが、このストーナーの姿がしばしば東江先生に重ねられるけれど、東江先生の奥さんは(イーディスとは違って)すばらしい方だ、と強調されておりました。
 越前先生は、作中の夫婦関係から、石川達三の『稚くて愛を知らず』を思い出したとお話されてました。この↓レヴューなどを見る限り、かなりおもしろそうな本ですね。

 

稚くて愛を知らず (角川文庫 緑 97-12)

稚くて愛を知らず (角川文庫 緑 97-12)

 

  けど、ストーナーとイーディスほどではないにしろ、お互い口もきかず、基本いつも別行動という夫婦の話は結構耳にしますね。未婚の人間からすると、それでどうやってひとつ屋根の下で生活しているのか、ただただ疑問ですが……