フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(『グレート・ギャッツビー』)を読みくらべてみた
先日、カフカの『変身』が、訳によってがらりと雰囲気が変わると書いたけれど、村上春樹訳で読んだ『グレート・ギャツビー』を小川高義訳で読んでみたら、また印象が変わっておどろいた。(ちなみに小川高義訳の光文社古典新訳の方は『グレート・ギャッツビー』です)
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- 発売日: 2006/11
- メディア: 単行本
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- 出版社/メーカー: 光文社
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どういうことかと言うと、村上春樹訳の「あとがき」では、「『グレート・ギャツビー』は僕にとってきわめて重要な意味を持つ作品」と強調し、けれども、「あれって村上さんが言うように、そんなにすごい作品なんですかね?」と言う人も少なからずいる、と書いている。
で、実は私も、そういう感想を持っていた。正直そんなにピンとこなかった。しかし、小川高義訳はとにかく読みやすいこなれた日本語だからか、すぐにストーリーの中に入りこめたことにおどろいた。やはり村上訳の“オールド・スポート”がひっかかっていたのだろうか。
ただ、読みやすいこなれた日本語というのは、原文のもつ曖昧なニュアンスをいくぶん噛み砕いて言ってしまっているところもあるので、賛否両論あるだろうとは思う。
たとえば、物語のはじまりの有名なくだり、原文では
Reserving judgment is a matter of infinite hope.
が、村上訳では
判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことにほかならない。
と、わりと原文通りのように思えるが、小川訳では
判断を控えるというのは、どれだけ長い目で見てやれるかということだ。
と、原文の詩的な言い方から、ざっくりとしたわかりやすい言い方になっている。
主人公ニック(ちなみに村上訳では「僕」、小川訳では「私」)の語り口や視点も、小川訳の方が比較的はっきりとニックの主観を訳出しているように感じられる。だから、ストーリーに入りやすいんだろう。
たとえば、同じく第一章で、トムが、このままじゃ有色人種に白人が支配される、我々は誇り高い北方人種だとかなんとか、ごたくをわめくところで(それにしても、こういう類の連中はすぐに差別的なことを口にするというのは、時代や洋の東西を超越するものなんだなと思う)、村上訳では
彼のそのようなのめり込み方には、どこか切羽詰ったものがあった。
と客観的に書いているが、小川訳では
これだけ夢中になっているトムが、ふと哀れにも思えた。
となっていて、トムに対するニックのうっすらとした軽蔑をあらわしている。ちなみに、原文は、”There was something pathetic in his concentration.” です。
あと、小川訳では訳注がないのだけれど、いま手元にあるほかの古典新訳文庫を見てもないので、なるだけ訳注をなくすのが光文社古典新訳文庫の方針なんでしょう。
村上訳はわりと丁寧に訳注がついていて、第四章で、ギャツビーがニックに自分の生い立ちを語るシーンで、「君には神かけて真実を話そう」と言い、「私は中西部の富裕な家に生まれた……」と語り、ニックが中西部のどこかと聞くと、「サン・フランシスコ」と答え、いっそうギャツビーのうさんくささがあぶり出されるのだが、読者が見落さないよう、「サン・フランシスコは中西部ではなく、西部である」とわざわざ注がついてある。
しかしその一方で、トムとデイジーとギャツビーがまさに修羅場を迎えるシーンで、「彼(トム)を愛したことは一度もない」とデイジーがとまどいつつも言い、すると
「カピオラニのときもかい?とトムがすかさず持ち出した。
と続くのだが、最初読んだとき、カピオラニってなんのことだかわからなかった。小川訳では、
「カピオラニ公園でもそうだったのか?」とトムはいきなりハワイ旅行の話を持ち出した。
とあり、ハワイの地名であることがわかるのだが、やはり村上氏的には、ハワイの地名は常識なのだろうか…??
まあ、重箱の隅をつつくようなことばかり書いてしまったけれど、私もこの小説の真価を理解しているとまではまだまだ言えないながらも、読んだあとの物悲しさや、ニューヨークの虚飾めいた華やかさとその影は、読み返すたびに強く伝わってくるので、やはり名作なんだろう。
けど、トムとデイジーってほんとお似合いだと思う。この小説の先を想像すると、トムはどこに行っても愛人を作り、一方デイジーはほかの男に気のあるような、ふわふわとしたそぶりを見せる、というのを永遠に続けるのでしょう。こういう人たちっていますね。ギャツビーのように、こういう人たちにうっかり関わってしまった人間は悲劇におちいるが、当人たちは死ぬまで幸福に過ごすのでしょう。