快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

一言でいうと、老いって哀しいね――『ヴェネツィアに死す』 トーマス・マン

 トーマス・マンというとドイツの由緒正しい文豪というイメージで、ゲーテなどと同じカテゴリーに入れていて(年代は全然違うけど)、まったく読んだことがなかったのですが、この『ヴェネツィアに死す』(『ヴェニスに死す』というタイトルが有名ですが)の解説を読むと、高名な老作家が旅行先のヴェネツィアで美少年にのめりこんで破滅するという、かなり不穏な話であるようなので、短い小説だし、さっそく読んでみました。 

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

 

  しかしいざ読みはじめると、かの美少年に遭遇する前から、かなり奇妙な様相を呈していることにひっかかった。

 冒頭から、老作家アッシェンバッハは、「決して怠惰を覚えなかったし、青春の気楽な軽はずみを知らなかった」と、若いうちから非常な才気にあふれていたこと、つまり、実体験の乏しい頭でっかちな作家であることが示唆される。で、「新奇さへの欲望」とかなんとか書かれてますが、要は「旅行行きてー!」と思って出発し、最終的にヴェネツィア行きの船に乗る。そこで、周りの楽しげな若者グループのなかで、流行りのサマースーツに赤いネクタイ、反り返ったパナマ帽をかぶったひときわ目立つ若者に目をやり

この若者が偽者であることに気づいて、一種の驚愕を感じた。年寄りであった。疑う余地がなかった。しわが目と口を取りまいていた。頬の鈍い赤色は化粧だった。色鮮やかなリボンを巻いたパナマ帽からのぞく茶色の髪はかつらだった。首は肉が落ちて筋張っていた。無理に膨らめた口ひげと顎の皇帝ひげは染めてあった。笑うたびにのぞかせた黄色い歯は、数こそ揃っていたが、安物の入れ歯だった。左右の人差し指に印象指輪をはめた手は、老人の手だった。

  と、恐ろしいほどの観察ぶりを描く。いや、たしかに、ふだん電車とか街中でも、茶髪にミニスカートとかでギャルみたいな格好をしているけど、よく見たら、私よりもずっと年上の年配婦人らしく、内心ギョッとすることはあるが……まあ、手とか首はごまかせないものですね。

 そして、この爺さん兄ちゃんは、船上で楽しく酒を飲んでいい気分になるのだが

あのめかし込んだ老人が、若者たちとインチキの同行をして陥った状態は、見るに堪えないものだった。年老いた脳は若く元気な脳のようには酒に抵抗することができなかった。 

  もうほっといたれよ、という言葉しかうかばない。船から下りるときも、その爺さん兄ちゃんは、他の乗客に機嫌よく挨拶をするのだが、

口がよだれに濡れ、両目を閉じ、口元を嘗める。染めた口ひげが年寄りじみた唇のところで逆立っている。……とつぜん上の入れ歯が上顎から外れて下唇の上に落ちる。 

  と、最後の惨事まで辛辣に観察し続ける。しかし「年寄りじみた唇」って。なんかわかるけど。

 で、ようやくヴェネツィアに着いたアッシェンバッハは、14歳くらいの少年を見て、

この少年が完璧に美しいことに気づいて愕然とした。

 と、執拗にこの少年を追い回す展開になるのだが、しかし、恋愛というべき情熱やエロスはあまり感じられない。というのも、前半の「老人サゲ↓ 若者アゲ↑」の箇所によく表れているように、老醜を忌み嫌うアッシェンバッハがこの少年に夢中になるのは、恋愛感情ではなく、若さや美にたいする純粋な執着に感じられるからである。


 町がコレラに襲われて、人々が次々に逃げ出してもおかまいなしで、少年の若さと美への切望はますます高まり、ついにはアッシェンバッハ自身も

彼は自分の服に気分を若返らせてくれる小物を付け加えた。宝石を身につけ、香水を使った。昼間はたびたび身繕いにたくさんの時間を費やし、おしゃれをして、高揚し、緊張してテーブルに着いた。自分を魅了した甘やかな若さを前にすると、自分の老いてゆく体に吐き気を催した。

 と、あれほど軽蔑していた爺さん兄ちゃんと同類になっていくのである。しかも理髪店に行き、髪を染め、「焼きごてをあてて髪を柔らかくウエーブさせ」(女子のようにヘアアイロンで巻き髪をしている!)、はてはアイシャドウやチークまでも入れる始末。

男は夢でも見ているような気分で、混乱しびくびくしながら出て行った。赤いネクタイだった。つばの広いパナマ帽にはカラフルなリボンが結ばれていた。 

  ダメ押しのように、赤いネクタイとパナマ帽を強調するマンがニクい。なんなら少しコントのような雰囲気すら感じる。

 ちなみに、マンがこれを書いたのは36歳の時であり、もちろん老人ではないが、若さが失われていくのを実感し、忍び寄る老いが恐ろしくてたまらない年頃だったのかもしれない。


 しかし老作家と美青年っていう組み合わせは、ほかでも見たような……と思って、昔読んだ三島由紀夫『禁色』(新潮文庫)を広げると、 

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)

 

 野口武彦による解説でも、「『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハを想わせる」としっかり書かれている。実際、三島由紀夫はマンから強い影響を受けたそうだし、作風というか、私生活をふくめた作家としてのあり方なども似ているものがあるように感じられる。(どちらも作品からは同性愛嗜好を強く感じるが、私生活ではきちんと結婚して、まっとうな家庭人であろうとした、など)

 又吉のせいか(?)、太宰治の小説は常に評価が高いのに対して、三島由紀夫の小説は忘れられつつあるように感じますが、個人的には、図にのると際限なく甘えてきそうな太宰より、まっとうに生きようと自らを律してどんどん屈折する三島の方が好きなのですが。


 で、マンに話を戻すと、『魔の山』は通読できていないが、サナトリウムで哲学的な対話が何年にもわたってえんえんと交わされるという、これまたかなりへんてこりんな小説だし、なかなか奥深い作家であるようだ。いや、私がいまさら言うまでもないのですが。勝手に偉い「文豪」だと思って、食わず嫌いをしていたらもったいないな、とあらためて思いました。