快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

『暮らしの手帖』最新号、そして『断片的なものの社会学』(岸政彦)

 なんだかんだ言いながら、「とと姉ちゃん」を見ているので、創刊号の復刊版が付録についた、今月号の『暮らしの手帖』も買ってしまった。 

暮しの手帖 4世紀83号

暮しの手帖 4世紀83号

 

  高山なおみのお引越しなども気になる記事でしたが、片桐はいりと岸政彦のエッセイがとくによかった。はいりさん、「とと姉ちゃん」でもいい役を演じているし、こないだ放送された大橋鎭子さんのドキュメンタリーもよかったし、そして大人計画がらみの舞台では、いつもめちゃキレのある演技してるし、ほれぼれしますね。そういえば、以前に高野秀行さんも、はいりさんのエッセイを絶賛していた記憶が。『わたしのマトカ』も読んでみないと。

わたしのマトカ (幻冬舎文庫)

わたしのマトカ (幻冬舎文庫)

 

  岸政彦は「猫の陰口」という題で、「私たちは、猫とうわべだけで付き合ったりしない」と書いている。たしかにそうだ。

私たちは、猫を尊敬したりしない。猫に対して、ずっと信じてたのに裏切られたといって嘆くこともない。猫を必死で説得することもない。猫と難しい交渉をすることもない。 

  説得や交渉はすることもあるような気もするが(「どうしてこの新しいカリカリは気に入らへんの? せっかく買ってきたのに食べて」とか)、でも基本的に、猫を説得するのはどだい無理なのは、みんなご存じのことでしょう。


 そういえば以前、「岸政彦の『断片的なものの社会学』を買おうとしたら、うっかり栗原康の『はたらかないで、たらふく食べたい』を買ってしまった」と書きましたが、もちろんそのあと、ちゃんと『断片的なものの社会学』も買いました。 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

  あちこちで絶賛されているように、おおげさなことが書かれているわけではなく、タイトル通り断片的な集積なのに、ちょっと陳腐な言い方ですが、ほんとうに心に寄り添ってくれる文章。とくに「手のひらのスイッチ」という章は、ぜひとも多くの人に読んでもらいたいと思う。

家族や結婚はこうあるべき、女性や男性はこうあるべきだと思い込んでいて、それが私たちをがんじがらめに縛る鎖になっている。
そして、そこから外れたひと、あるいは「外れたと思い込まされたひと」は、自分が悪いのではないか、自分はもう幸せになれないのではないかと感じる。

いま現実にそうであるように、毎日を無事に暮らしているだけでも、それはかなり幸せな人生といえるのだが、それでも私たちの人生は、欠けたところばかり、折り合いのつかないことばかりだ。それはざらざらしていて、痛みや苦しみに満ちていて、子どものときに思っていたものよりもはるかに小さく、狭く、断片的である。  

私たちができるのは、社会に祈ることまでだ。私たちには、社会を信じることはできない。それはあまりにも暴力や過ちに満ちている。 

  ほんと差別や憎悪がこれほどまかり通り、想像を絶するような事件までおきるこんな世の中になると、この「祈ること」しかできない、というのが、胸に刺さる。

かけがいのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌がもしあればぜひ聞いてみたい。 

  そう、みんなそれぞれ自分がくだらない存在であるということを理解し、「くだらない自分と折り合いをつける方法」を身につけたら、もうちょっとみんな生きやすくなり、自分とは違う他人のことも認められるようになり、社会の風通しがもうちょっとよくなるんじゃないかと思う。けれど、なかなかそんな日は来なさそうだ。