純愛ノワールとクリスマス・ストーリーの融合 『その雪と血を』(ジョー・ネスポ著 鈴木恵訳)
問題はおれがすぐに女に惚れてしまい、商売を商売として見られなくなるということだ。
去年の翻訳ミステリー大賞および読者賞を受賞した『その雪と血を』。
なんといっても、ハヤカワのポケミスなのに一段組でしかもめっちゃ薄い!
…と、気軽に読みはじめたところ、短いながらも物語がぎゅっと凝縮されていて、じゅうぶんな読みごたえだった。
1977年12月のオスロを舞台とし、殺し屋であるオーラヴが主人公かつ語り手である。
殺し屋なので、当然雪と血、もとい血も涙もないはず、と思いきや、このオーラヴはやたら人情家で、しかも冒頭の引用にあるように女に弱い。(こう書くと寅さんみたいですが)
ちなみに、どう人情家なのかというと、強盗に入った郵便局にいた老人が精神に異常をきたしたと新聞で知ると、わざわざこっそり見舞いに行ったりする。
そして、人情家と女に弱いというこの二点が合体したらどうなるかというと、元ボーイフレンドの借金を身体で返せと言われた、聾唖で片足の不自由なマリアという女を、自腹をきって助けてしまう。しかもそのあとも、問題なくやっているかを確かめるため、マリアが働くスーパーマーケットにせっせと通ったり、はてはあとをつけて、変質者のように(いや、完全に変質者か)電車で後ろにはりついたりする始末。
そんな慈善家なのか殺し屋なのかわからないオーラヴだが、ある日ボスであるホフマンから、ホフマン自身の若く美しい妻を始末するよう命令される……
そして、ここから少しネタバレになりますが――
「すぐに女に惚れてしま」うオーラヴが、このあとどうなるかは推して知るべしという感じで、案の定、妻のコリナに恋をして逃避行へと走るのだが、この小説はただの「許されないふたりの逃避行の物語」ではない。
オーラヴは幼いころから『レ・ミゼラブル』を愛読しているが、難読症を自認しており、常に物語を自分で書き換えている。つまり、オーラヴの語りによるこの小説も、登場人物のほんとうの姿や、どこまでが実際にあったことなのかが、なかなかわからない。(いわゆる「信頼できない語り手」というのでしょうか)
そして、オーラヴがコリナを愛していると思えば思うほど、心のなかの両親がクローズアップされてゆく。
最期まで許せなかった、忌まわしい父親の存在が頭から離れなくなっていく。ボスの妻でありマゾヒスティックな性癖を持つコリナを自分の母親に重ねあわしていたのかもしれない。ところが――
だが、おふくろが自分をあんなふうにあつかった男を愛せるのだと知って、おれは愛についてひとつだけ学んだ。
いや。
そうでもない。
何ひとつ学びはしなかった。
そう、「何ひとつ学びはしなかった」オーラヴは、「おふくろ」のこともコリナのことも、そしてマリアのことも、勝手に物語をつくりあげていただけで、何ひとつわかっていなかったのかもしれない。
それにしても、ひとはどうしてまちがった相手を愛していると思い、ほんとうに愛している相手を愛したくないと思ってしまうのだろう。
それでもやはり、男は彼女を愛さずにはいられない。男にとって彼女は、自分になければよかったと思うものすべてなのだ。
マリアがクリスマス・イヴを迎えるところで、この物語は終わる。マリアの頭の中で流れていたクリスマス・キャロルがもう聞こえなくなる。
しかし、西洋の人々にとって、やはりクリスマスはただのイベントではなく、愛というものですべてが赦されるような、神聖な時間なんでしょうね。
川出正樹さんが解説で「パルプ・ノワールとクリスマス・ストーリーを掛け合わせたら、いったい何が生まれるだろう?」と書かれているように、血の流れるノワールと、ディケンズの『クリスマス・キャロル』から続くクリスマス・ストーリーの伝統「愛と赦しの物語」が、見事に融合している小説だった。