陣治役が阿部サダヲってどうだろう?? 『彼女がその名を知らない鳥たち』(沼田まほかる 原作/白石和彌 監督)
年末に原作を読み、どうしても ↑ の疑問がわいてきたので、年明けも公開しているところを探したら、塚口サンサン劇場で期間限定上映をしていたので行ってきました。
塚口サンサン劇場に行くのははじめてでしたが、ミニシアターといっても、十三の第七藝術劇場や九条のシネ・ヌーヴォみたいなアートっぽさは少なく、いかにも「ダイエーに併設されました」といった昔ながらの映画館でした。
でも、劇場の中はとてもきれいで(トイレも!)手作り感にあふれ、なんといってもレディースデイが1000円(1100円ではなく)という超良心価格。
映画は小説にかなり忠実で、ストーリーを紹介すると
十和子(蒼井優)はまだ33歳だが、八年前に恋人の黒崎(竹野内豊)と別れたあとは外出もほとんどせず、半ばひきこもりのクレーマー女として無気力な日々を送っている。15歳年上の薄汚い中年男の陣治(阿部サダヲ)と暮らしているが、十和子に執着し、ストーカーめいた行動までとる陣治を軽蔑している。
しかし、若い男(松坂桃李)と出会ったのをきっかけに、封印していた黒崎との日々が蘇りだす。そんな矢先、黒崎が五年前から失踪していると知り、陣治が関与しているのでないかと疑いはじめる……
原作ではこの陣治が薄汚いどころか、容赦なくただただ不潔な男に描かれていて、生理的嫌悪感までもよおすほどだった。なので、阿部サダヲではちょっと可愛すぎるというか、ポップすぎるんじゃないか?? と思えて仕方がなかった。
かわりに、だれがいいかと考えると……若いときの柄本明とかかな、、、生理的嫌悪感という点では、若いときの武田鉄矢もいいような気がするが、説教臭さとか「ぼくは死にましぇ~ん!」要素が入りこんできたら困る。(注:言うまでもないですが、すべて個人の感想です)
で、映画の制作側もそのままのサダヲではきれいすぎると危惧したのか、かなり汚く扮装しているのだけど、観た感想としては、原作とは別とわりきって、そんな汚さなくてもよかったのではないかと思った。顔を塗ったりまでしているので、いま話題の浜ちゃんの黒塗りみたいに、なんかコントのように見える瞬間もあったので。
まあつまり、そんな小細工など不要と思えるくらい、阿部サダヲも蒼井優もいい演技をしていた。
大阪が舞台なので、ふたりともずっと関西弁なのだけど、そんな映画を観ると関西人は往々にして関西弁ポリスになってしまうが、蒼井優の関西弁がほんと上手でおどろいた。大阪に住んでたんだっけ? と、つい調べてしまったところ、福岡出身で両親は関西人らしい。サダヲは少し無理してるかな? と頑張ってる感もあったけれど、それでも関東の人間とは思えないほど上手かった。
また、見直したというか、いや、見下したこともないけど、予想を上回る演技を見せたのが松坂桃李だった。
ネタバレかもしれんけど、ほんとしょーーーもない男を見事に演じていた。松坂桃李のみならず、蒼井優はうざい女、阿部サダヲはきもいおっさん、そして竹野内豊は「最低」(という言葉では全然足りないが)男を見事に演じていた。
思い出したら、白石和彌監督の映画『凶悪』では、こいつらほんまもんの鬼畜じゃないの?? と思ってしまうくらい、リリー・フランキーとピエール瀧が凶悪な役をほがらかに演じていた。監督の見事な手腕なんでしょうか。
原作は徐々に徐々に真相があかるみになり、最後のどんでん返しで「なるほどそうか!」と膝を打つ、マーガレット・ミラーの小説のようなミステリーで、映画もストーリーは同じなのだけど、時間軸の構成を変えているため、純愛がより強く印象に残る。
どうして陣治はそこまで十和子を愛したのか?
どうして十和子はそこまで黒崎を愛したのか?
どうして十和子は自分を苦しめる男にばかりひきつけられるのか?
恋愛におけるこの類の疑問は、心理学で説明することは可能なんだろう。
自分を肯定できていないから、自分を傷つけるような相手を選んでしまうとか、相手を助けることに自分も依存している「共依存」の関係だとか……
でもそんな一般論でなにが解決できるわけでもない。十和子や陣治が救われるわけではない。どうしてこの人でないといけなかったのかなんて、ほんとうのところだれにも説明できない。
このラストも、救いや解決になるのかはわからない。これで十和子が立ち直ったり、成長できるのかというと疑問を感じる。また同じようなことをくり返すのでは、という気もする。
それでもやはり、「これからはしっかり正気保って生きていくんや」という陣治の言葉だけは忘れてはならないのだろう。