快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

時間のかかる小説 『機械』(横光利一)『時間のかかる読書』(宮沢章夫)

 最近ちょいちょいスマホでラジオをつけていて、なかでもNHKの「すっぴん!」の月曜(宮沢章夫)と金曜(高橋源一郎)をよく聞いています。(それにしても、ほかの曜日はユージに麒麟の川島君、そしてダイアモンド☆ユカイと、いったいどういう基準でパーソナリティーを選んでいるのが謎ですが) 

 今週の月曜放送での、寺山修司が関わった映画の紹介もおもしろかった。宮沢さんがとくに好きだと語る、寺山が脚本を書いた『サード』や、歌集だけだと思っていた『田園に死す』を見たくなった。

 ちなみに、『サード』は永島敏行主演の少年院を舞台にした青春映画らしい。検索したところ、ヒロインは森下愛子で(体を張った演技が見どころらしい)、母親役には島倉千代子とのこと(こちらは体を張っていないと思う)。

filmarks.com

 あと、フェリーニの名作『8 1/2』を、映画『トパーズ』やピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」PVがオマージュしている(が、失敗している)という話で、映画『トパーズ』、あったな~と思い出した。

 島田雅彦とか出ていたのが話題になっていたような……いや、当時は18歳以下だったし見てないので、おもしろいのかどうかはなんとも言えませんが……もちろん、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』や『69』は、学生のころに読んで衝撃を受けたので、また刺激的な小説を書いてほしいものです。(最近作については私が知らないだけかもしれんけど)

 さて、数週前ではその宮沢章夫本人の『時間のかかる読書』が話題に出ていた。

時間のかかる読書 (河出文庫)

時間のかかる読書 (河出文庫)

 

 これは横光利一の短編『機械』を、文字通り時間をかけて読むという内容で、なんと11年かかっている。というか、読みはじめるまでにも連載の数回分を費やしている。宮沢さんというと、もともとは演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を主宰していたけれど、まさにこれもラジカルな読書である。

 しかし、そのネタとなった『機械』をあらためて読んでみると、これはこれでネタになるだけあって、たいがいラジカルというか相当に奇妙な小説である。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

 

 初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼を嫌がるからと云って、親父を嫌がる方があるかと云って怒っている。

とはじまり、「私」が主人の経営するネームプレート工場で働いていることが語られる。昭和5年に発表された小説で、当時の「ネームプレート工場」がどういうものだったのかはよくわからないが、特殊技術を扱う工場であることは、あとの展開からもわかる。  

全く使い道のない人間と云うものは誰にも出来かねる箇所だけに不思議に使い道があるもので、このネームプレート製造所でもいろいろな薬品を使用せねばならぬ仕事の中で私の仕事だけは特に劇薬ばかりで満ちていて、わざわざ使い道のない人間を落し込む穴のように出来上っているのである。

 そして、私は先輩職人の軽部に仕事の秘密を盗みに来たスパイではないかと目をつけられ、あれこれと嫌がらせをされるようになる。いや、金づちを頭上から落とされたり、劇薬を飲まされそうになるので、「嫌がらせ」というレベルではないが。

どうもつまらぬ人間ほど相手を怒らすことに骨を折るもので、私も軽部が怒れば怒るほど自分のつまらなさを計っているような気がして来て終いには自分の感情の置き場がなくなって来始め、ますます軽部にはどうして良いのか分からなくなって来た。

 しかし、軽部との争いも収まりかけたころ、仕事が忙しくなり、屋敷という職人を新たに迎える。そこで私は、この屋敷は仕事の秘密を盗みに来たのではないかと疑いの目を向けるようになる……と、工場での心理劇を事細かに描いた短編である。

 この小説を最初に読んだのは、国文学を専攻していた大学のときだったので、ヘンな小説だなと思っただけだったが、解説に書かれているように、「昭和初年プルーストジョイスがはじめて紹介され」、その衝撃に呼応して書かれたものだと考えると、その奇妙さの由来もなんとなくわかる。(しかし、ジョイスを同時代で紹介するのもすごいなあと、ほんとつくづく感じますが)

 といっても、ジョイスの小説をそれほど理解できているわけではないけれど、句読点を省いた文体で、「私」の思いをずらずらと語るあたりは、『ユリシーズ』のモリーの独白に感化されたのかもしれない。
 また、カフカの世界とも共通するような(横光がカフカの影響を受けたのかは知りませんが)実存的な不安も感じられ、最後のオチに至っては「信頼できない語り手」の要素もある。

 誰かもう私に代って私を審いて(さばいて)くれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

 やはり文学というのは、世界的なパースペクティブで読まないと、見落としてしまうこともあるな……と、あらためて思いました。

 しかし、宮沢さんは11年かけて『機械』を読んだわけだけど、私は大学のときから数十年かけて(11年よりは多い)ようやく気づいたので、やはり「時間のかかる小説」であることはまちがいない。