快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

灼熱の8月6日に読むべき1冊 『猫のゆりかご』(カート・ヴォネガット・ジュニア 著 伊藤典夫 訳)(with 村上RADIO)

 今よりずっと若かったころ、わたしは『世界が終末をむかえた日』と題されることになる本の資料を集めはじめた。
それは、事実に基づいた本になるはずだった。
 それは、日本の広島に最初の原子爆弾が投下された日、アメリカの重要人物たちがどんなことをしていたかを記録した本になるはずだった。
それは、キリスト教の立場をとった本になるはずだった。そのことわたしはキリスト教徒だったのだ。
いまわたしはボコノン教徒である。

  いつもいつも思うけれど、ほんとうに人間はたいていのことに慣れてしまう。ここ最近は、予想最高気温が35度以下なら、「あ、今日はちょっと涼しいかな」などと思う始末。36度くらいではまあ平常運転で、38度を超えそうになってようやく、さすがに暑いな……とヘロってくるのは私だけではないでしょう。

 さて、そんな酷暑の日々には、世界中を♪毎日 吹雪 吹雪 氷の世界~(古いですかね)にする『猫のゆりかご』を読んで、涼んでみるのもよいのではないでしょうか。 

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

 

  冒頭の引用にあるように、この小説は、ライターの「わたし」が『世界が終末をむかえた日』という本を書くために、原子爆弾の主要な開発者であった故ハニカー博士について取材するところからはじまる。

 

 ハニカー博士は、自らが開発した原子爆弾が広島に落とされた日、いったいなにをしていたのか?

 「猫のゆりかご」――あやとり遊びに夢中になっていたのだった。

 

 「わたし」は、ハニカー博士の息子であるこびとのニュートと手紙でやりとりし、ハニカー博士の純粋かつ奇矯な人となりや、友達も恋人も作らず、ひたすら家族に尽くした姉アンジェリカや、失踪した兄フランクについてのエピソードを知る。 

実験が済んで、アメリカがたった一個で都市を消滅させる爆弾を保有したことがはっきりすると、一人の科学者が父のほうをふりかえって言いました。“今や科学は罪を知った” 父がどういう返事をしたかわかりますか? こう言ったのです、“罪とは何だ?”

  ハニカー博士は世界を消滅しようと目論んだわけでもなく、アメリカに戦争協力しようと考えていたわけでもない。ただただ無邪気に、目の前の研究に夢中になっていただけなのだ。あやとりに心を奪われるのと同じように。

 取材を進めるうちに、博士が原子爆弾だけではなく、世界を消滅させることのできる武器をもうひとつ開発したという噂を耳にする。そのアイスナインとは、たった一滴で全世界を凍りつかせることができるらしい。しかし、関係者はことごとくその存在を否定する。

 そして、「わたし」は行方不明の博士の長男フランクがサン・ロレンゾという島国にいることを知る。すると同時に、「“定められていたとおり”とボコノンならいうだろう」と、仕事でサン・ロレンゾにむかうことになる。
 そのサン・ロレンゾとは、キリスト教の価値観が一切通用しない、新興宗教「ボコノン教」を信仰する島国であった――

 

 とまあ、前の『タイタンの妖女』と同様に、かなり荒唐無稽な話である。しかし、『タイタンの妖女』とはちがい、『猫のゆりかご』はその後の作品と同じ断章形式なので、読みやすいのではないかと思う。

 

 いま読むと、「世界の終わり」を取材していたはずなのに、いきなり南の島に行くってかなり唐突な印象を受けるが、この小説が書かれた当時は、キューバ危機でほんとうに世界が終末をむかえてしまうと世界中が戦慄していた。

 

 サン・ロレンゾがキューバをモデルにしているのかどうかはわからない。
 ただ、サン・ロレンゾは、建国者である独裁者“パパ”モンザーノに支配され、国民は泥棒をしても、火をつけても、殺しても、覗きをしても、「鉤吊り」(腹に鉤を打ちこまれる)の刑に処せられる。よって、犯罪が極端に少ない「理想郷」となった。

 しかし、独裁者や共産主義のパロディよりなにより一番印象に残るのは、既存の宗教をパロディにした「ボコノン教」だ。前の「タイタンの妖女」でも「徹底的に無関心な神の教会」など、ところどころで宗教がおちょくられていた。

 
 しかし、『猫のゆりかご』においては、ボコノン教は「世界の終わり」とならんで、この小説で重要なモチーフとなっている。
 ボコノン教とは、かつて“パパ”モンザーノとともにサン・ロレンゾを建国したボコノンがはじめたものであり、多くの宗教の例にならって、この国では禁じられている。しかし、禁じられているゆえに、熱心な信者が多くひそんでいるというお決まりのパターンだ。ボコノン教の教義はカリプソにのせて歌われる。 

“パパ”モンザーノはわるいやつ

だけど“パパ”がいなければ

おれはきっと悲しいだろう

だって、悪者の“パパ”なしで

このごろつきのボコノンが

善人面できるわけがない

  ボコノン教では、従来の家族とはちがうつながり〈カラース〉を重視し、信者同士は互いの足の裏をあわせる〈ボコマル〉という儀式で意識を通じあわせるという、独特の風習がある。このあたりの作りこみは、宗教をおちょくっていた『タイタンの妖女』とはちがい、

 ボコノン教、つまり宗教は、世界を救うことができるのか? 
 来るべき「世界の終わり」から人々を救うことができるのか?

という問題を真剣に考察しているように感じられる。

 

 といっても、カリプソのメロディーに象徴されるように、小説のトーンはけっして重苦しくも深刻でもなく、冗談まじりのひたすらに軽い筆致で描かれる。英語で読んでもすごく易しい。


 科学と宗教という、人類の進歩における両輪と言っても過言ではないこのふたつをテーマにして、こんなにばかばかしくおもしろい、奇想天外な物語を作りあげるとは、やはり感服してしまう。

 さて、ヴォネガットから影響を受けた作家はたくさんいるけれど、なかでもとくに有名なのは村上春樹である。

www.tfm.co.jp


 その春樹氏がどういうわけだかラジオをするというので、きのう聞いていると、坂本美雨とのコーナーで「猫のいない世界と、音楽のない世界とどちらを選びますか?」という、想像するだにおそろしい質問がリスナーから届いた。

 すると春樹氏は、「そんな二者択一には答えないことにしている」と、きっぱり答えた。「だって、そんな質問につい答えてしまって、それが現実のものとなったらおそろしいから」たしかに! 言葉は予言になり得ますからね。さすがだなと思いました。


 以前、村上さんに聞いてみようシリーズの本が出たときに、ホームページで声を聴いてみたことがあり、そのときも想像していたより低く深い声だなと思ったが、話をしているのを聞くと、また印象が変わった。思っていたよりよくしゃべるな~って、ラジオだから当たり前なのですが。


 もちろん、話していたブライアン・ウィルソンやドアーズといった音楽、そしてランニングについては、これまでのエッセイで語っている内容と変わらないのだけれど、語りも上手だし、またラジオをやってほしい。 


 しかし、「猫のいない世界」「音楽のない世界」とは、まさに「世界の終わり」そのものだ。ほんとうにそんな日が来ないことを祈りたいものです。