快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

愛の形にはいろいろある 『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』(ジョン・グリーン、デイヴィッド・レヴィサン著 金原瑞人、井上里 訳)

  『アラスカを追いかけて』『さよならを待つふたりのために』などでおなじみの人気作家、ジョン・グリーンと、目下『エヴリデイ』が話題のデイヴィッド・レヴィサンが共作した『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』、当然読み逃すわけにはいきません。 

ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン (STAMP BOOKS)

ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン (STAMP BOOKS)

 

 それにしても、共作っていったいどういうこと?? と思いながら読みはじめると……まず第1章は、「僕」であるウィル・グレイソンの語りではじまる。ウィルは『アラスカを追いかけて』のマイルズと同じような、ちょっと内省的で繊細な高校生男子。

 しかし、その友人タイニーは、タイニーという名前がまるで悪い冗談のような、「ゲイの中では世界一でかい」ゲイであり、常にテンションMAXでひっきりなしにしゃべりまくったかと思うと、あっという間に恋に落ちて悩んだりと(こう書くと寅さんみたいですね)、かなりクセが強い。
 タイニーの「ゲイ・ストレート同盟」の友人のなかには、「レズかもしれないし、レズじゃないかもしれない」ジェーンがいる。そこで、僕とジェーンが崇拝するロックバンド、ニュートラル・ミルク・ホテルの再結成ライブがあるというので、僕たちはライブ会場へとむかう……

 と、個性的な友人に魅力的な女の子が顔を並べ、まさにジョン・グリーン・ワールド全開である。いくら「僕」がうじうじしていても、やっぱりリア充感の強い世界だな~と思いつつ、第2章に進むと、

自分が死ぬか、僕以外を全員殺すか、いつも迷ってる。

選択肢はふたつにひとつ。ほかのことは、ただの暇つぶしだ。 

 と、様相が変わる。

 しかも、この「僕」は「毎朝、スクールバスが事故にあって、ひとり残らず燃える残骸の中で死にますように」と祈る始末で、第1章の「僕」のうじうじよりも、はるかに陰気である。
 この「僕」もウィル・グレイソンであることが判明する。といっても、パラレルワールドなどではなく、単に同姓同名のふたりのウィル・グレイソンを、奇数章はジョン・グリーン、偶数章はデイヴィッド・レヴィサンが書いているのだけれど、作風のちがいがはっきり伝わって興味深い。

 なんといっても、タイニーにさんざん振り回され、ジェーンには素直になれない奇数章のウィル・グレイソンと、やたら自分に興味を示すゴスロリ系女子のモーラにも心を開けず、ネットで知り合ったアイザックとの交流だけが生きがいの偶数章のウィル・グレイソンが思いがけない場所で出会う場面が、この小説の最大の読みどころだ。

 衝撃の真実を知らされて、うちひしがれるウィル・グレイソン(どちらの章のかは読んでみてください)が、もうひとりのウィル・グレイソン(o・w・g)に自分でもなぜだかわからないまま、心のうちを打ち明けてしまう。 

本能という本能が、体を縮めて手近な下水管に転がり落ちてしまえ、と急き立ててくる――だけど、o・w・gにそんな仕打ちはしたくない。o・w・gを僕の自殺の目撃者なんかにしちゃいけないような気がする。

  この小説は、奇数章では「僕」とジェーンとの不器用な恋愛が瑞々しく描かれ、偶数章の「僕」はネットで知り合ったアイザックに恋をするゲイだったりと、恋愛に焦点がおかれているように見えるけれど、恋愛がテーマではない。

 逆に、人生は恋愛がすべてではないということが強く伝わった。いや、恋愛がすべてではないというより、愛の形にはいろいろある、といった方が的確かもしれない。そのことは、「僕が世界で一番愛しているのは、親友なんだよ」というウィル・グレイソンのセリフからもはっきり示されている。

 さまざまな愛の形は、ウィル・グレイソンとタイニーの友情だけでなく、偶数章においては、女手一つで「僕」を育てている母親との細やかな愛情、そしてモーラとのほろ苦い関係にも描かれている。モーラの気持ちを思うと、切なくなる女子も多いのではないでしょうか。 

関係が終わった人たちのことを、”ex”と呼ぶ理由がわかるような気がする。途中で交差した道が、最後には分かれてしまうからだ。

  あと、奇数章では、ジョン・グリーンのこれまでの作品と同様に、詩も効果的に使われている。今回はE・E・カミングス。二回結婚して二回離婚しているそうです。ちらっと引用されるエミリー・ディキンソンの詩も、心に残る。

 もちろん、ロック・ミュージックも出てくる。ニュートラル・ミルク・ホテルは知らなかった。
 しかし、ジェーンの偽IDの「ゾラ・サーストン・ムーア」って、ソニック・ユースのサーストン・ムーアなのだろうけど、いまのアメリカの高校生がサーストン・ムーアに憧れるのだろうか? いや、ジェーンは90年代のインディー・ロックが好きな女子という設定なのだろうけど。

 ちなみに、少し前にキム・ゴードンの自伝を読んだけれど、妻(キム・ゴードン)と愛人のあいだで右往左往するサーストン・ムーアの姿が印象的だった。それはともかく、好きなバンドの歌を捧げてもらう以上に素敵なことって、この世にあるでしょうか?(いや、ない) 

GIRL IN A BAND キム・ゴードン自伝

GIRL IN A BAND キム・ゴードン自伝

 

  さっきタイニーのことを寅さんみたいと、なんとなく書いたけれど、ある意味それは当たっていて、タイニーは恋する道化であり、自分のことを必要としてくれるひとを求めるあまりに、ありのままの相手の姿も、ほんとうの自分の気持ちも見失っていたことに最後に気づく。

 物語の最後、自ら作ったミュージカルで、そんな自分をありのままに演じる。 

タイニーは、元カレたちの様々な側面を最後まで知らずにいたことを、表現しようとしている。恋に夢中になりすぎて、何に恋をしているのか考える時間がなかったのだ。

  ミュージカルを見たウィル・グレイソンは、タイニーと「何かで通じ合っている」ことを確信する。ウィルとタイニーがほんとうにわかりあえたのかは、わからない。落ちることを恐れるなと訴えるタイニーと、浮きあがることを願うウィル。結局、最後まで噛みあわなかったのかもしれない。

 異なる人間同士が何もかもわかりあえて、曇りなく幸せになるという結末は用意されていない。アラスカは何も言わずに遠くへ行ってしまった。

 それでも、恋愛ではないけれど、ただの友情とも言い切れない何かでつながっていることを、ウィルとタイニーはしっかりと感じている。

おれはただ、きみに幸せでいてほしい。おれと付き合っていても、ほかのだれかと付き合っていても、だれとも付き合っていなくても。ただ、幸せでいてほしい。人生と仲良くやっていてほしい。ありのままの人生と。