快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

マイノリティであるということ――10/31 トークイベント(ゲスト:松浦理英子)「現代文学を語る、近畿大学で語る」

 10月31日、作家の松浦理英子がゲストで参加したイベント「現代文学を語る、近畿大学で語る」に行ってきました。

 平日の昼間だったけれど、これまで『ナチュラル・ウーマン』や『裏ヴァージョン』などの作品を幾度も読み返したことを思うと、そりゃ午後休取るしかない!!と。

 しかし、平日の昼間の大学イベントなので当然ではあるけれど、やはり学生が多かった。いくら若作りしても学生には混じれないことをひしひしと感じているうちに、松浦さんが登場。
 想像していたより小柄で、想像していたより明朗な口調で話す、毅然とした佇まいのひとだった。 

 マイノリティであるということ――

 これがこの日のトークの基調テーマとなった。

 松浦さんは78年に文學界新人賞を受賞したデビュー作「葬儀の日」から、一貫して男性性や女性性というものに疑いを抱く作品を描いている。新人賞の時点でも、選考委員のひとりから「単なるエスではないか」と批判されたらしい。

 それからも、若い女の主人公の親指がペニスになるという衝撃の設定で話題を呼んだ『親指Pの修行時代』まで、ほかの女性作家をひきあいに出してまでけなされたりと、ミソジニーをぶつけられることが多かったとも語られていた。(ここで「才能のある批評家は日本にひとりしかいない」と松浦さんが言っていたのもたいへん気になったが) 

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

 

 どうして攻撃の対象にされるのか考えたところ、マイノリティに主眼をおいた作品を描きつつも、登場するマイノリティたちは、「自分がおかしいのではないか」などと悩んだり、ひけめを感じたりせず、自分の欲望をそのまま受けいれているところが可愛げがないと思われたのではないか、と分析していた。

 つまり、マジョリティの好奇心や上から目線の同情心に応えていなかったからだろう、と。いわゆる“観光小説”――マジョリティによるマイノリティ・ツーリズムと表現していたが――マジョリティの好奇心にあわせる形で、マイノリティの欲望を開示する小説は書きたくないときっぱりと語っていた。
 

 たしかに、「ナチュラル・ウーマン」の容子にしても、一切のひけめや躊躇はなく、ただひたすらまっすぐに花世を愛する。一方、花世はそんな容子に畏れを感じるようになり、ふたりの関係が壊れはじめるくだりが、とてつもなく痛々しいのだが……

「人を好きになるのが怖いと思ったことある?」

花世がまた問をよこした。

「わからない。」

感じたままを私は答えた。体の震えはまだ静まらなかった。 

  時系列では「ナチュラル・ウーマン」よりあとの「微熱休暇」において、容子はヘテロセクシュアルの由梨子と接するときに、はじめてひけめに近い感情を味わう。しかし、それは由梨子に対しての感情であり、けっして世間の大多数を意識してのものではない。 

由梨子を知る前の私は欲望や情熱に身を任せることに何の疑問も抱いていなかった。あらゆる欲望を実現し、理屈をつけて行為を避けようとする者がいれば軽蔑した。 

 『優しい去勢のために』は、エッセイというカテゴリーに入るのだろうが、ただのエッセイではなく、解説の斎藤美奈子さんの言葉を借りると、「覚醒を促すことば」がふんだんに詰めこまれている。その解説のなかで、斎藤さんは『親指Pの修行時代』についてこう書いている。 

こんな小説を読んでしまったら、その日から、もうだれも妻や夫や恋人と呑気に性交なんかできなくなる。別言すれば、この小説を読んだ男は、全員インポテンツにならなきゃおかしい、と思うのだ。 

  フリーク・ショウ(見世物)という派手な設定を使った『親指Pの修行時代』は、先程の言葉でいう “マイノリティ・ツーリズム“ を逆手にとった作品であり、「この小説を読んだ男は、全員インポテンツにならなきゃおかしい」とまで斎藤さんが表現する、ラディカルな過激さが一部の男性批評家たちから反発を呼んだのかもしれない。 

優しい去勢のために (ちくま文庫)

優しい去勢のために (ちくま文庫)

 

  司会の江南亜美子さんは、松浦さんの系譜に連なる作家として、性の固定観念に疑問を呈する作品を書いている村田沙耶香、古谷田奈月を挙げていた。

 村田さんの作品は前にも書いた『コンビニ人間』や『消滅世界』などを読んだけれど、古谷田奈月は未読なのでさっそく調べたところ、精子バンクが国営化され、異性と性交することなく子どもが作れるようになった近未来社会を描いた『リリース』に興味をひかれたので、ぜひとも読んでみようと思った。 

リリース

リリース

 

  そういえば、『バッド・フェミニスト』のロクサーヌ・ゲイが、『コンビニ人間』に高い評価をつけている。
    私の勝手な印象では、欧米圏のフェミニスト女性は男性に幻滅すると、往々にして女性をパートナーにしたりと、どうしてもカップル文化が根強いのか、対になること自体を否定する思想はあまりないようなので、とことんまで「対」や「性」を否定する(コミットしない)こういう小説は受けいれられにくいのではないかと思っていたが。

www.goodreads.com

  話を松浦さんに戻すと、トークイベントでは、「近畿大学で語る」にも焦点があてられ、松浦さんが近大の講師をしていたときの話にもなった。
 近大の文芸学部って、どうやら実作を目標とした学部らしい。アメリカの大学にある創作学部をモチーフにしているのだろうか。それにしても、松浦さんに指導してもらうってすごいことだ。

 というわけで、作家志望のひとへのメッセージを求められた松浦さんは、「マイノリティの視点」から小説を書いてほしいと語った。続けて、ここで言う「マイノリティの視点」とは、社会正義を訴えるものではなく(それならば、さっきの“マイノリティ・ツーリズム“に陥りかねない)、自分のなかの異物を見つめることだと補足した。
 共感や連帯を求めるよりも、マイノリティであるという孤独をかみしめてほしい、と。

 あと、次の作品はいつ出るのかという質問については、ここ数年は少し刊行ペースが早くなっている、経済的事情もあるのでと冗談交じりに答え、なので、来年は新作を出せたらいいな、と話していた。
 「駄作を書く勇気が必要」だと話していた。これまでの作品はどれも非常に濃厚なので、松浦さんの「駄作」、あるいは「凡作」というのも読んでみたい気がする。来年の楽しみがまたひとつ増えた。

 また、現在の最新作である『最愛の子ども』を書いたときは、これでもう死んでもいいというくらいの気持ちになったと話していた。 

最愛の子ども

最愛の子ども

 

  この小説は、学校というクローズドな空間で紡がれる三人の女子高生の関係がテーマであり、最後に学校を卒業してそれぞれの世界に進む姿が印象的なため、きらきらした希望を描いた話とよく思われるが、作者の松浦さんとしては全くそうではなく、学校というアウシュビッツのような(この比喩は不適切かもしれませんが、と言いながら)閉塞空間で冷え冷えとする心にもたらされる、かすかな救済を描いた話だと語っていた。

 たしかに、十代の行き場の無さ、よるべなさが胸のなかで蘇る小説だった。だからこそ、ふいに訪れる甘やかな瞬間が深く心に刻まれた。

  そのほかにも、学生の頃から松浦作品を読んできたという谷崎由衣さんは、当日の資料にエッセイも寄稿したり、雛倉さりえさんの小説『ジェリー・フィッシュ』の映画化についての話など様々なトピックがあり、充実したトークイベントだった。

 マイノリティであるということ、自分のなかの異物を見つめること、孤独であるということ……小説を書くわけじゃなくても、これからの人生の銘にしたいと心から思った。