公民権運動の闘士から弁護士となったジェイの闘いを描く『黒き水のうねり』(アッティカ・ロック 著 高山真由美 訳)
暴動を煽動し、連邦政府職員――ジェイと似たりよったりの若造で、政府にやとわれた情報提供者――を殺害するための共同謀議を企てたとして、検察はジェイを告発した。検察は電話で三分半足らずのジェイとストークリー・カーマイケルとの会話のテープを押さえ、ジェイの運命を確定した。
『ブルーバード、ブルーバード』が話題のアッティカ・ロック、下記の翻訳ミステリーシンジケートのサイトの記事が気になり、デビュー作の『黒き水のうねり』から読んでみました。
舞台は1981年のテキサス。黒人弁護士ジェイは、自らも差別されるマイノリティであるがゆえに、社会で弱い立場にある者たちを助けようと奮闘している……のだが、実のところ、そういった案件はまったく金にならず、妻バーナディンがまもなく第一子を産もうとしているいま、「主義を貫くだけの余裕が」なく、生活費の確保に追われる日々を過ごしていた。
バーナディンの誕生日には、ふだん心配をかけている分、誕生日くらいはいい思いをさせてあげたい……と、依頼料を貸している相手の伝手でバイユー(川)を行き来するボートツアーに無料で招待してもらう。
ボートに乗っていると対岸で悲鳴があがり、誰かがバイユーに落ちるのを目撃する。ジェイが川に飛びこんで助けると、汚れた身なりの白人の女だった。
いったい何が起きたのか?
本来なら女を警察に送り届けるべきところだが、ジェイは警察署の前に彼女を置き去りにする。厄介事には巻きこまれたくなかった。なぜなら、ジェイはかつて公民権運動に深く関わり、逮捕された前科があるからだ。
ところが数日後、あの対岸から男の死体が発見される。ボートから悲鳴を聞いた時間に殺されていたらしい。ジェイは泥沼に足を踏み入れかけているのを感じる……
このバイユーでのできごとから、ジェイは身辺に不穏な気配を感じるようになる。また一方で、牧師であるバーナディンの父から労働紛争の調停や支援も依頼され、そこから過去の公民権運動のいざこざで負った手痛い傷口――とある人物との関わり――もよみがえる。
いつ彼女を愛することをやめたのか、ジェイは覚えていない。逮捕されたとき、と言えればわかりやすいのだが。自分の殻に引きこもり、気が変になりそうなほど混乱していたあのころ。
殺人事件に労働紛争、そして公民権運動、というと一見ばらばらのように思えるが、どれにも強者と弱者、差別する側とされる側という図式がひそんでいる。厄介事には関わりたくないと思いつつも、ジェイはどんどん深みにはまっていく。
というと、ものすごく「正しい」小説のように思われるかもしれないが、ジェイは純粋な「正義の人」ではない。日々の生活に追われるなか、売春婦からの依頼を利用して、がっぽり稼いでやろうかなんて考えたりもする。見て見ぬふり、事なかれ主義で済ませたく、内心で葛藤もする。
それでもやはり、潔癖で正義感の強いジェイは、最後にある選択をする。
また、ともすればこの手の小説は息苦しくなってしまうが、バランスを取るかのように、周囲にイージーゴーイングな登場人物が出てくるのも楽しかった。
赤のウィッグをつけて出勤する秘書のエディー・メイは、デートの予定によって気分が左右されると書かれているので、若い女なのかと思いきや、意外にも孫がいるのだった。(といっても、我々が祖母といって想像するover 60ではなく、もしかしたら50代とか40代後半だったりするのだろうか)
しょっちゅう孫の迎えがあるとかなんとか言って早退するので、ジェイが孫の数を数えたら “12人いる!” だが、全員の名前を聞いたら同じ名前を二度述べる始末。
あと、ジェイが捜査の手伝いを依頼するバーテンダーのローリーは、ミステリーでよく見るタイプの、敏腕だがスチャラカしたアマチュア探偵で、キャラ的にも役目的にも物語の都合にあわせて出てきた感もあるが、ローリーが活躍するサイドストーリーも読んでみたいと思った。
公民権運動についても、かなり詳述されている。冒頭の引用で出てきたストークリー・カーマイケルは「ブラック・パワー」を提唱した実在の運動家であり、SNCC(学生非暴力調整委員会。1960年、反戦・反差別をスローガンとして結成された黒人学生を主体とした米国の公民権運動組織。←デジタル大辞泉より)といった実在の組織も登場する。
このあたりは、以前に『March』を読んでいたので、ついていくことができた。
この小説で、カーマイケルはこうスピーチしている。
「労働者階級は、自分たちの階級がなくなればいいと願った史上初の階級である、とマルクスは言った。“穏健派”の黒人のリーダーたちの話を聞いていると、アメリカの黒人は自分たちの人種がなくなればいいと願った史上初の人種であるかのように聞こえる。黒人の同胞たちよ、それをたったいまからやめるのだ」
『March』の感想でも同じようなことを書いたけれど、公民権法は成立したものの、差別がなくなったわけではない。
それどころか、ジェイが巻きこまれる労働紛争のように、人種と人種の闘いに階級というものが掛け算されて、いっそう複雑になっている。『March』でマルコムXが語っていたとおり、階級こそが「世界各地の問題の根源」となっているのだ。
差別される低い階級の者の中には、仲間を裏切る者もいる。どういう方法を使ってでも、のしあがろうとする者もいる。のしあがると容赦なく過去を切り捨てる。新しく手にした身分や地位をなんとしても手放すまいとする。
「差別される低い階級」にあてはまるのは、黒人だけではない。女もそうだ。過去においても現在においても、ジェイは女の野望に振りまわされる。けれども、過去と現在のジェイが異なるのは、バーナディンと暮らす現在のジェイには "Security" がある――
ジェイが疲れを癒そうと耳を傾けるオーティス・レディングの『Security』は、まるで本から音楽が流れてくるかのように、強く胸に残る。
I want security, yeah, without it I had a great loss, oh now
Security, yeah And I want it at any cost, oh now
――心の安定がほしいんだ そう、何に変えても
それにしても、オーティス・レディングをじっくり聞いてみると、よくこんな歌を20代前半の若者が歌えたものだと感心する。
1967年、オーティスは26歳の若さで自家用飛行機の事故で亡くなった。翌年の1968年、『Dock of The Bay』が大ヒットした。そのあたりのことは、この泉山真奈美さんの解説に詳しく書かれている。
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1968年、ロバート・ケネディにマーティン・ルーサー・キングJr牧師といった、公民権運動に尽力した人物が次々に暗殺された。
そんな年に、ひとびとはこの歌をどんな思いで聞いたのだろうなんて考えてしまう。
Sittin' here resting my bones And this loneliness won't leave me alone ……
Now, I'm just gonna sit at the dock of the bay Watching the tide roll away