快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

初心者のための田辺聖子~入門編~ 『ジョゼと虎と魚たち』『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』

「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうない、思うてたんや」

  田辺聖子さんが亡くなったので、小説やエッセイを読み返しているここ数日。
 そこで、まだ読んだことのないひとのために、「入門編」として、いくつかオススメ作品を紹介したいと思います。すべて結末が伺える内容になっていますが、ミステリーではなく、話の筋を知っていても楽しめると思いますので何卒ご容赦を……

 短編で一番知られているのは、妻夫木聡池脇千鶴主演で映画化された「ジョゼと虎と魚たち」でしょうか。 

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

  ごくふつうの大学生活を送る恒夫が、脚が不自由な少女ジョゼとひょんなきっかけで出会い、ジョゼと祖母がひっそり暮らす家に出入りするようになる。

 ほんとうはクミという名前があるのに、サガンの小説に憧れてジョゼと名乗り、高飛車で口鋭いジョゼに、恒夫はとまどいつつも興味を抱く。ある日、就職活動に追われていた恒夫がひさしぶりにジョゼの家を訪れると、祖母が亡くなっていて、ジョゼはアパートでひとり暮らしをはじめていた。そのまま恒夫はジョゼと一緒に暮らすようになるのだが……

 たったこれだけの話なのに、どうして胸をうつのか考えると、物語全体がはかなさやこわれやすさ、英語でいう”fragile”なトーンにおおわれているからではないだろうか。

 まずは、ジョゼ自体が ”fragile” な存在である。脚が不自由で人形のようにか細く、色が抜けるように白い。すぐに呼吸困難になる。
 生活保護に頼るジョゼと祖母の生活も不安定なものであり、まして祖母が亡くなり、「市役所の人」や「ボランティアの女の人」に頼るしかなくなった、ジョゼの暮らしが心もとないのは言うまでもない。
 そしてなによりもはかないのは、ジョゼと恒夫の恋である。 

二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。

  世間から隔絶されたように暮らしはじめるジョゼと恒夫。まるで世界に自分たちふたりきりしかいないような、宙ぶらりんの生活。ジョゼは水族館の魚のように「海底に二人で取り残されたよう」な気がする。

 先に、恒夫について「ごくふつうの大学生活を送る」と書いたけれど、人となりも「ごくふつう」であり、とくに繊細だったり鋭敏だったりするわけではない。ジョゼからサガンの小説の話を聞いても、まったくピンとこないし、ジョゼの理解者や共鳴者として描かれてはいない。

 この小説にかぎらないが、田辺聖子さんのすごいところのひとつは、男を安易に「女の理解者」にしないところ、つまり「このひとだけが私のことをわかってくれる」なんて都合のいいことはけっして描かない点だろう。(と思ったら幻想だった、という展開はあるかもしれないが)

 恒夫の行動はすべて「……させられてしまう」と記されているように、だいたいにおいて能動的ではなく、ブラックホールに吸い寄せられるように、ジョゼに吸い寄せられていく。流されていくままの男を引き留めておくことができるのだろうか?

 小説ではこのふたりがどうなるのかまでは描かれていないが、犬童一心監督と渡辺あや脚本の映画では、はっきりと示されている。
 妻夫木聡の演技によって、恒夫の善良さ、凡庸さ、そして弱さが際立っている。こういう「ふつう」の男子を演じるの、妻夫木くん、ほんと上手いですね。ちなみに当時この映画を見て、いい俳優いるなと思ったのが、新井くんだった……

 小説の結末は、ジョゼがうっすら予感するだけだ。それでいいとジョゼは思う。
 冒頭に引用した虎の場面も、その勇猛さによって、ふたりの恋のはかなさがいっそう引き立っているが、一生見ることはないかもしれないと思った虎を一度でも見ることができたのだから、ジョゼは満足したのだろう。

 長編の代表作は、やはり『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』の乃里子三部作でしょうか。 

言い寄る (講談社文庫)

言い寄る (講談社文庫)

 

 仕事も私生活も順風満帆で、恋愛にも奔放な31歳の乃里子。近寄ってくる男にも不自由しない。けれども、ほんとうに好きな相手にはどうしても言い寄ることができない……

 これが第一作の『言い寄る』。恋愛小説の鉄則ですね。
「手に入れるのが困難なほど、対象の価値が高まる」とシェイクスピアが言うように(チャールズ・ラム『シェイクスピア物語』の「ロメオとジュリエット」より)、手に入れられないものほど執着してしまうというのが、昔からの人間の心理であり真理。スカーレット・オハラとアシュレーを思い出したひともいるのではないでしょうか。

 私としては、いま映画がヒットしている『愛がなんだ』を見て、苦しくなったひとにも勧めたい。(と言いつつ、映画の方はまだ見に行けてないけれど……噂によると、原作ほどつらくないらしいが。以前原作を読んだときは、自分の立っている足元がすっぽり消えて闇に落ちてしまったような、恐ろしい気持ちにとらわれた) 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

  『言い寄る』で、つい自分に都合のいいように相手の言動を解釈してしまう、現実から目をそらしてしまう……といった誰もが犯してしまう、みっともない恋愛の失敗が赤裸々に描かれたかと思うと、続く『私的生活』『苺をつぶしながら』では、愛しあっているふたりの関係が暗礁に乗りあげ、ずたずたになっていくさまが容赦なく描かれている。


 あんなに楽しく素敵な恋愛だったのに、あれだけ溌溂としていた乃里子だったのに、と眩暈すら感じる。嫉妬やプライドや意地が絡みあい、傷つけあうことしかできなくなるふたり。もうこれ以上優しくできない、と乃里子が心を決めるくだりには、胸を突かれる思いがする。

 そう、田辺聖子さんの作品は、もしかしたら「女性向けの恋愛小説」というくくりや、ご本人の愛嬌のある優しい雰囲気から、軽くて甘いだけの小説というイメージを持っている方もいるかもしれないが、けっしてそうではない。

 愛読者には言うまでもないことだけど、ご都合主義に流れることなく、人間と人間の関わりがシビアな視線で描かれている。そしてそれでもなお、軽さや甘さ、優しさを軽んじることなく大切にしたところが、ほかの作家にはない、唯一無二の魅力なのではないだろうか。

 ポプラ社文庫の田辺聖子コレクション、『うすうす知ってた』の解説のかわりのインタビューではこう語っている。(このシリーズは、解説のかわりにインタビューがあり、おもしろく読みごたえがあるのでオススメ) 

小説はどんなふうにでも書けるけれど、「かくあらまほしい」という物を書きたいという気持ちが、心の底にあるのね。

醜いものを醜いままに書くのではなく、「こういうふうに考えたらいいんじゃないかしら」とか、「うまくいくんじゃない?」「こういう人間関係って素敵じゃない?」とか。理想というか希望があるものを書きたいんです。

  ほんとうはもっと紹介したかったけれど、もうすでに長くなってしまった……また続きを書きたいと思います。