快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

女に世界を変えることはできるのか? 『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット著 吉澤康子訳)

『ドクトル・ジバコ』をご存じでしょうか?

   アメリカを筆頭とする資本主義国陣営と、ソ連が率いる共産主義国陣営とのあいだに冷戦がくり広げられていた1950年代、ソ連の作家ボリス・パステルナークによって書かれた恋愛小説であり、ソ連では発禁扱いとされた。しかし、海外で出版されて大きな支持を集め、1958年にボリスはノーベル文学賞を受賞した。

 そしてこの『あの本は読まれているか』は、『ドクトル・ジバコ』が出版に至るまでの複雑な経緯を、歴史上の事実をふまえてフィクションとして見事に作りあげた小説である。 

あの本は読まれているか

あの本は読まれているか

 

  物語は西側と東側から描かれる。西側は、『ドクトル・ジバコ』出版をもくろんだCIAが舞台となっている。といっても、ジェームズ・ボンドのような男のスパイが颯爽と活躍するわけではない。主人公となるのは、CIAで勤務していたタイピストたちだ。 

わたしたちはラドクリフ、ヴァッサー、スミスといった一流大学を出てCIAに就職しており、だれもが一族で最初の大卒の娘だった。中国語を話せる者も、飛行機を操縦できる者もいたし、ジョン・ウェインよりも巧みにコルト1873を扱える者もいた。けれど、面接のときに聞かれたのは、「きみ、タイプはできる?」だけだった。

  とあるように、せっかく大学を卒業して就職しても、CIAで与えられる仕事は男たちの会話をひたすらタイプするだけ。1950年代の話だから……と思う一方で、2020年になっても実はそんなに大きく変わっていない気もする。もう70年も経っているのに。
 たまにバックグラウンドや素質を買われ、スパイらしい仕事に回される者もいるが、単なる運び屋だったり、女という武器を利用して相手側から情報を入手させられたりと、結局は男の「駒」に過ぎない。

 イリーナとサリーもそうだった。
 イリーナの両親は、まだイリーナが母親のおなかにいるときにソ連から脱出を試みた。だが、船に乗る直前に父親が捕まってしまう。母親は身重の身体で、ひとりアメリカへ渡る。そしてイリーナが8歳のとき、父親はソ連の収容所で心臓発作を起こして亡くなったと知らされる。
 大学を卒業してから仕事を探していたイリーナは、知り合いからCIAでタイピストを募集していると聞いて応募する。タイプの腕に自信はなかったが、無事採用される。ところが、イリーナを待ち受けていたのはタイプライターではなく、サリーによるスパイの手ほどきだった。

 華やかな容姿に恵まれたサリーは、第二次世界大戦中、諜報機関の一員として活躍していた。どんな立場の女にも見事になりきり、疑われることなく相手の男の懐に入ることを得意としていた。
 しかし、戦争が終わり、諜報隊員たちはそれぞれの生活へ戻っていった。ひとつの場所に居つくのは性に合わない。けれども、これ以上男たちを渡り歩くのも、堅気の仕事につくのも気が進まない。なんといってももう30半ばなのだから。そこへ昔の仲間から電話があり、迷うことなく仕事を請けた。

 こうしてイリーナとサリーは、CIAによる『ドクトル・ジバコ』出版作戦に関わるようになる。しかし、サリーにはだれにも言えない秘密があった……

 東側では、『ドクトル・ジバコ』の作者ボリスと、公私にわたってボリスを支えた愛人オリガ・イヴァンスカヤが描かれる。ボリスはもちろん、オリガも実在の人物であり、東側の物語はおおむね史実に基づいているようだ。
 第一章のタイトルが「ミューズ」となっているように、オリガはまさにボリスのミューズであり、実際に『ドクトル・ジバコ』のヒロインであるラーラのモデルになっているらしい。

 けれどもオリガの人生は、芸術家のミューズという言葉から想像されるような優雅なものではまったくない。
 第一章「ミューズ」は、黒い背広姿の男たちが家にやってくる場面からはじまる。泣きわめく子どもたちの声を聞きながら、オリガは男たちに連行される。オリガは矯正収容所に送られ、「反体制的見解を持つ作家パステルナークの作品を褒めそやしてきた」という罪で、懲役5年の刑を言い渡され、シベリアで過酷な労働に従事させられる。 

わたしはセミョーノフが聞きたがっていることを話さなかった。小説はロシア革命に批判的で、ボリスは社会主義リアリズムを拒絶しており、国家の影響を受けずに心のまま生きて愛した登場人物を支持していると、教えはしなかった。

  前回紹介した『チャイルド44』と同様に、この時代のソ連では、スターリン体制を支持しない者は、「反体制」と見做されて収容所に送られる。
 ソヴィエト連邦は完璧に正しく幸せな社会であり、貧困や犯罪といった資本主義国に特有の悪は存在しない。それなのに、ボリスはロシア革命に翻弄される人々の姿を書いた。到底許すことができない。しかし、世界的にも高名な作家であるボリスには、そう簡単に手出しできないので、ボリスへ圧力をかけるためにオリガを捕まえたのだ。

 だが、ソ連にとって最大の事件が起きる。スターリンが死んだのだ。5年の刑期が3年に縮小され、解放されたオリガは愛するボリスのもとへ向かう。
 ボリスは自分のことを待っていてくれるのだろうか? 収容所に送られる前から、ボリスは何度も別れ話を口にしていた。妻ジナイダとオリガのあいだで板挟みになっていることに苦しんでいたのだ。そもそもボリスはオリガが捕まっているあいだ、いったい何を考えていたのか……?

 ここから『ドクトル・ジバコ』がまず海外で出版され、そしてCIAの手引きによってソ連にこっそり逆輸入されていく展開が、イリーナやサリーといったタイピストたち、そしてオリガの視点から語られていく。

 こういった女たちは、それまでの物語では男の添え物のように扱われていた存在だ。
 スパイ小説に出てくる脇役の女たち。タイピストであろうが、諜報活動の紅一点であろうが、男を助けようが、あるいは男の邪魔をしたり裏切ったりしようが、世界を動かす主役はあくまで男であった。ミューズにインスピレーションを与えられて創作し、世界に感動と驚きを伝えるのも男であった。

 けれどもこの小説では、女たちが自ら考え、主体的に行動し、陰謀が渦巻く世界をたくましく生き抜いていくさまが描かれている。

 この小説の大きなテーマのひとつは、「一冊の小説で世界を変えることができるか?」であるが、もうひとつのテーマは「女に世界を変えることができるか?」だと感じた。

  さて、先日この小説についてオンライン読書会が行われました。こちらのサイトで見ることができます(無料で)。 

www.youtube.com

 この読書会でも、やはり「女たちの物語」というところに焦点がおかれ、西側の章の語り手となる「わたしたち」とはだれか? など、いくつもの興味深い問題について語られました。
 登場人物一覧と照合してみても「わたしたち」を特定することはできず、この物語の主人公は、イリーナでもサリーでもオリガでもなく、女たちのすべて、あるいはその連帯なのだということが印象に残りました。

 そのほか、ボリスはダメ男か? という疑問や(案の定、ダメ男説を主張する人が優勢でした)、世界を変えるのに文学は有効なのか? などなど さまざまな観点からこの小説を読み解いています。
 また、邦題が決まるまでの経緯(原題は“The Secrets We Kept”で、内容に即したいい題なのですが、そのまま訳すと、ありがちなタイトルになってしまいかねないのも事実ですね)や、本を届けるためにはテーマを絞る、などといった担当編集者の方のお話も勉強になりました。読み終えた方はぜひともご覧ください。