快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ミネット・ウォルターズ『カメレオンの影』(成川裕子訳)オンライン読書会報告&心理サスペンスのブックガイド

 さて、9月26日(土)に第1回オンライン読書会を開催しました。課題書は、今年の4月に出版された、ミネット・ウォルターズの新作『カメレオンの影』です。 

   ミネット・ウォルターズについては前回も少し紹介したように、1992年に『氷の家』でデビューし、第2作目の『女彫刻師』では、母親と妹を殺して切り刻んだ殺人犯と疑われるオリーヴを描いて話題を呼び、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞長篇賞などを受賞した。以降の作品もCWAゴールド・ダガー賞に輝くなどの高い評価を得て、〈現代英国ミステリの女王〉と呼ばれている。

 2007年にイギリスで出版された『カメレオンの影』は、2006年9月29日付の新聞記事からはじまる。
 元国防省所属の文官だった男が南ロンドンの自宅で殺されているのが発見された。二週間前にタクシー運転手の男が殺された事件との関連がほのめかされている。これらの殺害事件について、警察はゲイ・コミュニティーの協力を取りつけているとも記されている。

 その八週間後、チャ―ルズ・アクランドが昏睡から目覚めるところから、物語が展開する。26歳のアクランドは中尉としてイラク戦争に出兵し、爆弾によって顔の左半分を破壊されたのだ。イラクで過ごした八週間の記憶も失われてしまった。

 軍ではみんなから信頼されていたというアクランドだが、意識を取り戻してからは医者や両親にも心を開かず、ときに粗暴なふるまいすらもみせる。
 イラクで心の傷を負ったのだろうと精神科医ロバート・ウィリスがカウンセリングを試みるが、アクランドは感情のコントロールができず、とくに女性に対して激しい嫌悪を示す。ときには看護師の言葉に逆上し、また母親の腕をねじりあげることもあった。

 その原因を探ろうとするウィリス医師のもとへ、アクランドの元婚約者のジェンからメールが届く。そのメールには、アクランドがイラクへ発つ前にジェンに対してあることを行い、そのせいで婚約を破棄したと書かれていた。そうしてある日、ジェンが病院に姿をみせるが、アクランドはジェンを絞め殺そうとする……

 心の傷を抱えたアクランドのストーリーと連続殺人事件の捜査が交互に語られ、ゲイ・コミュニティーに属していた男たちを次々に殺した犯人はアクランドなのか? というのが物語の主軸となる。

  タイトル「カメレオンの影」は、ジェンのメールから取られている。 

チャーリーはカメレオンです。彼は相手によって見せる姿を変えます。連隊の仲間には、男の中の男。わたしに対しては、色男。両親には、口を閉ざし、そこにはいないかのようにふるまう。

  「カメレオン」というのは、この小説の、というよりミネット・ウォルターズの作品すべてのキーワードのひとつと言える。
 ウォルターズ作品では、頻繁に登場人物が「見せる姿」を変えていく。暴力の被害者と思われていた人間が、加害者であったことが判明する。度々被害者と加害者がくるりと入れ替わる。

 『氷の家』のフィービは、暴力の被害者であったのか、それとも殺人の加害者であったのか? 『女彫刻家』のオリーヴは、ほんとうに母親と妹を殺害したのか? それともだれかに陥れられたのか?

 初期の作品では、家庭内での暴力や軋轢によって損なわれる人々に焦点を当てていたが、中期以降の作品では、群集心理や差別意識が大衆の暴力性を煽るさまを描くようになり、さらに前作の『悪魔の羽根』では、人間の加虐性がむき出しになる戦争という要素が加わった。今作『カメレオンの影』でも、イラク戦争の被害者であるアクランドが、殺人の容疑者(加害者)なのかという嫌疑をかけられる。

 損なわれた人間による被害と加害の連鎖をどうやって止めることができるのか? 

 この小説で鍵を握るのは、ドクター・ジョンソンである。アクランドが怒りを爆発させ、レイシズムと言えるほどの暴挙に出たときに居合わせたのが縁となり、アクランドの保護者のような役割を担う。

 ジャクソンはパートナーのデイジーと暮らしていて、アクランドの言葉を借りると「日に25回男性ホルモンを射っているように見える筋骨隆々の大女」である。女性に拒否反応を示すアクランドもジャクソンと行動をともにするようになってから、人を信頼するという気持ちを取り戻していく。 

ジャクソンは内心では彼に同情していた。親としてのロールモデルのうち、優しい方に敬意を抱けないとしたら、彼のようになるのもわかる気がする。もしかしたら、彼の母親との問題は、彼女の強さへの混乱した賞賛の念からきているのではないかと思った。

  ジャクソンはアクランドについての理解を深めていく。支配的な母親との関係で植えつけられてしまった強い女性への「混乱した賞賛の念」から、ジェンにも魅かれるようになり、そして悲劇につながったのだろうか……?

 さて、読書会はネタバレありきで話しているので詳細に書けないが、アクランドをはじめとする登場人物の繊細な心理描写に感心したという声が多かった。
 また、登場場面が多くない人物についても、暮らしぶりや家族との関係といった背景を漏らさず描いているので、しっかりと性格が把握できたという意見もあった。

 その一方で、ミステリーとしては証拠の出し方に疑問もあがった。さすがにちょっとわかりにく過ぎるのではないか、と。たしかに、ミステリーなのだからミスリードを意図しているのだろうが、どこまでがミスリードで、どこまでがアンフェアなのかというと難しい。ウォルターズ作品は犯人当てというより、そこに至るまでの登場人物の心理の揺らぎが読みどころなのだろうとは思うけれども。 
 

 また、参加者のみなさまが挙げていただいた「ウォルターズ作品を好きな人にオススメしたい作品」(もしくはその逆)がたいへん充実していたので、あわせて紹介したいと思います。
※ちなみに、以下の紹介文は、みなさまのお言葉を参考にしながら、私が(勝手に)書いたものです。

◎シーラッハ『コリーニ事件』(酒寄 進一訳)(映画もあわせてオススメ) 

  『犯罪』『罪悪』といった短編小説でドイツミステリーの新境地を開いたシーラッハによる長編小説。シーラッハの短編を読むと、短いながらもその奥行きに感銘を受け、いったい何が正義なのか? と考えさせられるが、長編では人間や社会のさらに深い面に切りこんでいる。推薦の言によると、今年公開された映画もかなり見ごたえがあるらしく、ぜひ見てみたいと思った。

◎キャロル・オコンネル『マロリーの神託』(石川順子訳) 

  完璧な美貌と頭脳を兼ね備え、けれども人間らしい心を失った、まるでAIのような美女マロリーが犯罪の捜査にあたる人気シリーズの第1作目。強烈なマロリーのキャラクターに心魅かれる。

 ◎ベリンダ・バウアー『ブラックランズ』(杉本葉子訳) 

ブラックランズ (小学館文庫)

ブラックランズ (小学館文庫)

 

  英国南西部で起きた猟奇的な児童殺人事件を描いた心理ミステリー。猟奇的な児童殺人事件を扱う作品はさほどめずらしくないが、遺族のひとりである12歳の少年が事件解決に乗り出すというところが斬新。

 

桐野夏生『柔らかな頬』 

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 上 (文春文庫)

 

  やはりウォルターズ作品を想起させる日本の作家と言えば、桐野さんが筆頭ではないでしょうか。幼い娘が行方不明になり、母親である主人公は嘆き悲しむが、実はだれにも言えない秘密を抱えていた……直木賞を受賞したミステリー。
 いまさら言うまでもないけれど、工場でパートする主婦たちが夫をバラバラに解体する『OUT』、東電OL殺人事件をモチーフにした『グロテスク』も傑作。

 

エドワード・ケアリー『おちび』 (古屋美登里訳)

おちび

おちび

 

  〈アイアマンガー3部作〉のエドワード・ケアリーが、革命の嵐が吹き荒れる18世紀のパリを舞台に、蝋人形館でもおなじみのマダム・タッソーの数奇な人生を描いた小説。ヴェルサイユ宮殿マリー・アントワネットも登場する、読みどころ満載の物語。

 ◎モー・ヘイダー『喪失』(北野寿美枝訳) 

  ただのカージャックだと思われていた事件が、後部座席に乗っていた少女が目的だったと判明する。子どもたちを次々に襲う姿なき小児性愛者と警察との戦いを描いた英国ミステリー。シリーズ作ですが、この作品から読んでも大丈夫。

 

サラ・ウォーターズ『荊の城』(中村有希訳) 

荊の城 上 (創元推理文庫)

荊の城 上 (創元推理文庫)

 

  2017年に日本でも大ヒットした、韓国映画『お嬢さん』の原作としてもおなじみの作品。映画は日本統治下の韓国を描いていたが、原作の舞台はヴィクトリア朝のロンドン。下層社会で暮らすスウは詐欺師の指示に従い、名門一族の令嬢の侍女として屋敷に潜りこむことに成功し、世間知らずの令嬢をだまそうとするが……原作と映画の相違点を比べてみるのもおもしろい。

 また、私が思いついたオススメ本も、参考に挙げておきます。

 

角田光代『八日目の蝉』 

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

 

  角田さんはミステリー作家ではないが、きめ細かい描写で人間の心の多面性を描くことがほんとうにうまい。家族の問題、とくに支配的な母親を扱った作品が多い点も、ウォルターズと共通するものがある。なかでも、不倫相手の子どもを奪った実話をベースとした『八日目の蝉』は心理サスペンス要素が強く、また壊れた家庭で育った子どもという存在を見据えているのも興味深い。

 

マーガレット・ミラー『まるで天使のような』(黒原敏行訳) 

まるで天使のような (創元推理文庫)

まるで天使のような (創元推理文庫)

 

  作風としては〈英国ミステリの女王〉のひとりであってもおかしくないが、アメリカを代表する女性ミステリー作家。数々の心理サスペンスを手がけたなかでも、この『まるで天使のような』は探偵役の男を配するという伝統的なミステリーの手法で、新興宗教や家族間の問題を描いた意欲作。夫のロス・マクドナルドの『さむけ』や『ウィチャリー家の女』も、探偵リュウ・アーチャーが家族の軋轢に踏みこんでいる。 

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

 

  
 最後に『氷の家』の解説で、ミネット・ウォルターズが「生涯の三冊」として挙げている小説を紹介します。

ハーパー・リーアラバマ物語』(菊池重三郎訳) 

アラバマ物語

アラバマ物語

 

  正直なところ、古典として名高いけれど、読んだことがある人にはめったに出会わないイメージもあるが……いや、白人女性を強姦したという嫌疑をかけられる黒人男性の事件を描いたこの小説は、いまこそ読むべき意義があるのだろう。英米ではいまも読み継がれている国民的物語なので、小説の潮流を理解するうえでも必読かもしれない。

 

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な旅人』(村上春樹訳) 

心は孤独な狩人

心は孤独な狩人

 

  1930年代の貧しいアメリカ南部を舞台に、人々の心に潜む孤独や絶望を見据えた作品。ちょうど村上春樹による新作が出たばかりなので入手も容易。これでもう読まないわけにはいかない。

 

グレアム・グリーン『権力と栄光』(齋藤数衛訳)

権力と栄光

権力と栄光

 

  カトリック作家として、人間の業と信仰の関係をとことんまで考え抜いた作者の代表作。ウォルターズは、グレアム・グリーンを一番好きな作家かもしれないと語っている。

  さて、今回オンライン読書会を実施して、読んだ本について語りあい、オススメの本の情報を交換する愉しみは、リアルと変わらず可能であることを確認しました。

 もちろん、私も含めて参加者のみなさまも、画面越しに語りあうことにはまだあまり慣れておらず、顔を見て話せないもどかしさを感じる瞬間もありましたが、一方で、場所を押さえる必要もなく、全国どこからでも参加可能なオンライン読書会を続けようと思います。
 リアルの読書会やイベントはめっきり減ってしまったけれど、読書シーンを少しでも活性化できれば……と考えております。

 さて、次回の大阪翻訳ミステリー読書会(オンライン第2回)は、11月8日(日)15時~に開催します。課題書は『フランケンシュタイン』(どの訳書でも可)です。

 参加受付は、昭和生まれの者にとっての永遠の体育の日、10月10日(土)午前10時から行います。ご興味がある方は osakamystery@gmail.com にご連絡ください。あるいは、私のツイッター経由でも結構です。
  怪物はいかに生み出されたのか……? 楽しく語り合いましょう!