快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「耳をすます」ことで生まれた奇跡――藤本和子『塩を食う女たち』『ブルースだってただの唄』

800字書評講座の今月の課題書は、『塩を食う女たち』でした。

1982年に出版されたこの本には、リチャード・ブローティガンなどの翻訳で知られる藤本和子が、黒人女性ひとりひとりの人生を聞き取って文章におこしたもの、いわゆる聞き書きが収められている。
それからしばらく入手困難となっていたが、2018年、BLM運動の盛りあがりと呼応するように復刊された。

わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。

作家であり、地域運動家でもあるトニ・ケイド・バンバーラが語るこの冒頭の言葉からもわかるように、語り手ひとりひとりの人生と、その背後に横たわるアメリカでの黒人の歩みが、それぞれの語りに凝縮されている。私が提出した書評は下記のとおりです。


(ここから)-----------------------------------------------------------

(題)「耳をすます」ことで生まれた奇跡


『塩を食う女たち』は、「わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは」とはじまる。その言葉どおり、この本には黒人女性ひとりひとりの生きのびるための戦いが語られている。

104歳のアニーは、60歳を過ぎて奴隷から解放された祖母と、祖母が通ったカレッジの食堂で学んだ自らの人生を振り返る。39歳のユーニスは、黒人の子どもたちを教育するという夢を奪われた父親を見て育ち、自らはアフリカを旅してはじめて、自分たちの中にある生きのびる力に目覚める。


黒人であり、さらに女であるという過酷な条件のもと、アメリカ社会が押しつけてくるものにけっして屈服せず、人間らしさを手放さず、未来のヴィジョンをつかもうとする――そんな彼女たちの戦いは、きわめて個人的なものであると同時に、アメリカ合衆国における黒人の歴史を色濃く映し出していることに圧倒される。

過酷な体験を語ることは容易ではない。
しかも、冒頭の言葉を発したトニ・ケイド・バンバーラは、「体験を語ることのできる言語が存在しない」と黒人共同体の暮らしは英語で言語化しきれないものだと語っている。

だが、この『塩を食う女たち』を読むと、彼女たちの戦いがあざやかに目に浮かび、息づかいまでも伝わってくる。これほどまでに生命力に満ちた言葉を、どうして作者である藤本和子は聞き取ることができたのだろう? 


作者は話を聞くにあたり、「先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて」、さらに「自分は誰なのか」と問い続けながら耳を傾けたと書いている。
相手に一切の予断を持たず、無色透明な存在になるのでもなく、自らの立ち位置や果たすべき責任について真摯に問い続けながら「耳をすます」ことによって、トニ・ケイド・バンバーラが称賛するトニ・モリスンのように、「ある〈声〉を、音調を」見出すことができたのだ。
そんな奇跡的な瞬間が刻まれているからこそ、この本を読むと胸を衝かれる思いがするのだろう。


「この狂気を生きのびる」ための戦いは、私たちの日常と地続きだ。彼女たちの語り声は、「日本の女たちの生を掘りおこし、彼女らの名を回復しようとするわたしたち自身に力を貸してくれるかもしれない」と作者が書いているように、この語りを単なる体験談として消費せずに、自らに問い続けながら「耳をすます」ことによって、私たちも戦う力を得ることができるのだろう。

次は、私たちの語りが誰かのもとへ届くのかもしれない。

(ここまで)-----------------------------------------------------------


私はふだんインタビューをすることはないけれど、職場の社史を作成するにあたって、創業者と経営者に話を聞いたとき、以前から知っている人たちなのにあらためて話を聞くのはこんなに難しいのか……と、つくづく思い知った。


「耳をすます」こと、他人の話を聞くことは、受動的な行為のように見えるかもしれないが、実はそうではなく、話を聞き出す側の能動性が要となる。しかし能動性といっても、勝手にストーリーを作りあげ、自分の求めている答えに誘導するような質問をすることではない。

作者が書いているように、「先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて」、さらに「自分は誰なのか」と問い続けながら耳を傾けることで、はじめて語り手のそれまでの人生からわきおこった言葉が引き出せる。語り手と聞き手の共同作業なのだ。

そのようにして引き出した語り、「オーラル・ヒストリー」は、書き言葉で記録されてきた「主流的」な歴史からこぼれ落ちた記憶や体験の集成である。そこには「主流的」な歴史から無視されてきた、庶民や女性から見た社会の姿が映し出されている。

書評の最後にも記したように、『塩を食う女たち』における黒人女性の語りは、私たちの日常とも地続きだ。
もちろん、日本人女性である私たちは奴隷制のような苛烈な体験を経ていないが、母親の世代、祖母の世代、曾祖母の世代……日本においても、女たちの声は書き言葉で記録されないまま埋没しようとしている。

現代に生きる私たちは、ここに出てきた黒人女性たちのように、自分の母親や祖母の世代について語る言葉を持っているだろうか? 
あるいは、母親や祖母の世代と向き合い、「先入観やせっかちな判断を頭から払いのけて」、さらに「自分は誰なのか」と問い続けながら耳を傾けることができるだろうか? 
そんなことも考えてしまった。

『塩を食う女たち』を出版したあと、藤本和子はさらに黒人女性への聞き書きを続け、それらは『ブルースだってただの唄』としてまとめられた。

ブルースなんてただの唄。かわいそうなあたし。みじめなあたし。いつまで、そう歌っていたら、気がすむ? こんな目にあわされたあたし。おいてきぼりのあたし。ちがう。わたしたちはわたしたち自身のもので、ちがう唄だってうたえる。ちがう唄うたって、よみがえる。

『ブルースだってただの唄』は、この鮮烈な言葉を発したフロリダ出身の臨床心理医のジュリエットと、ジュリエットのまわりの女性たちによる語りで構成されている。
ジュリエットの勤務先が刑務所であるせいか、母親や恋人との軋轢が『塩を食う女たち』の語りよりも激しく、生々しく語られているように感じる。

ジュリエットは作者から〈黒人であることのよろこびについて〉聞かれ、「アメリカの主流社会の価値体系、主流社会そのものの存在に圧倒されそうになるときには、よろこびを感じるのがむずかしい」と語り、「自分が何者であるかわからなくなったり、あるいは自分という人間を評価できなくなったりすることがあった」と答える。そしてこう続ける。

ところが、ふたたび、自分の思想が主流社会のそれと異なることがあってもよいのだ、という意識にたどりつき、地歩を固めることができれば、つまり、異なることはまちがいではないのだと考えることができるようになって、またエネルギーを取り戻す。

主流から外れてもいい、異なることはまちがいではない――藤本和子聞き書きで引き出したこの気づきは、アメリカの黒人女性のみならず、日本の女たちにも通じるものだと思う。だからこそ、この本を手に取った女たちは、この気づきから力を得ることができたのだろう。

また、この日の講座では、森崎和江による女抗夫への聞き書きをまとめた『まっくら』が復刊されることも教えてもらった。こちらも読んでみたいと思う。