快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

純愛ノワールとクリスマス・ストーリーの融合 『その雪と血を』(ジョー・ネスポ著 鈴木恵訳)

問題はおれがすぐに女に惚れてしまい、商売を商売として見られなくなるということだ。

去年の翻訳ミステリー大賞および読者賞を受賞した『その雪と血を』。 

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

 

 なんといっても、ハヤカワのポケミスなのに一段組でしかもめっちゃ薄い! 
…と、気軽に読みはじめたところ、短いながらも物語がぎゅっと凝縮されていて、じゅうぶんな読みごたえだった。

 1977年12月のオスロを舞台とし、殺し屋であるオーラヴが主人公かつ語り手である。

 殺し屋なので、当然雪と血、もとい血も涙もないはず、と思いきや、このオーラヴはやたら人情家で、しかも冒頭の引用にあるように女に弱い。(こう書くと寅さんみたいですが)
 ちなみに、どう人情家なのかというと、強盗に入った郵便局にいた老人が精神に異常をきたしたと新聞で知ると、わざわざこっそり見舞いに行ったりする。

 そして、人情家と女に弱いというこの二点が合体したらどうなるかというと、元ボーイフレンドの借金を身体で返せと言われた、聾唖で片足の不自由なマリアという女を、自腹をきって助けてしまう。しかもそのあとも、問題なくやっているかを確かめるため、マリアが働くスーパーマーケットにせっせと通ったり、はてはあとをつけて、変質者のように(いや、完全に変質者か)電車で後ろにはりついたりする始末。


 そんな慈善家なのか殺し屋なのかわからないオーラヴだが、ある日ボスであるホフマンから、ホフマン自身の若く美しい妻を始末するよう命令される……


そして、ここから少しネタバレになりますが――


 「すぐに女に惚れてしま」うオーラヴが、このあとどうなるかは推して知るべしという感じで、案の定、妻のコリナに恋をして逃避行へと走るのだが、この小説はただの「許されないふたりの逃避行の物語」ではない。

 オーラヴは幼いころから『レ・ミゼラブル』を愛読しているが、難読症を自認しており、常に物語を自分で書き換えている。つまり、オーラヴの語りによるこの小説も、登場人物のほんとうの姿や、どこまでが実際にあったことなのかが、なかなかわからない。(いわゆる「信頼できない語り手」というのでしょうか)


 そして、オーラヴがコリナを愛していると思えば思うほど、心のなかの両親がクローズアップされてゆく。
 最期まで許せなかった、忌まわしい父親の存在が頭から離れなくなっていく。ボスの妻でありマゾヒスティックな性癖を持つコリナを自分の母親に重ねあわしていたのかもしれない。ところが――

だが、おふくろが自分をあんなふうにあつかった男を愛せるのだと知って、おれは愛についてひとつだけ学んだ。
いや。
そうでもない。
何ひとつ学びはしなかった。 

  そう、「何ひとつ学びはしなかった」オーラヴは、「おふくろ」のこともコリナのことも、そしてマリアのことも、勝手に物語をつくりあげていただけで、何ひとつわかっていなかったのかもしれない。

 それにしても、ひとはどうしてまちがった相手を愛していると思い、ほんとうに愛している相手を愛したくないと思ってしまうのだろう。

それでもやはり、男は彼女を愛さずにはいられない。男にとって彼女は、自分になければよかったと思うものすべてなのだ。 

 マリアがクリスマス・イヴを迎えるところで、この物語は終わる。マリアの頭の中で流れていたクリスマス・キャロルがもう聞こえなくなる。


 しかし、西洋の人々にとって、やはりクリスマスはただのイベントではなく、愛というものですべてが赦されるような、神聖な時間なんでしょうね。

 川出正樹さんが解説で「パルプノワールとクリスマス・ストーリーを掛け合わせたら、いったい何が生まれるだろう?」と書かれているように、血の流れるノワールと、ディケンズの『クリスマス・キャロル』から続くクリスマス・ストーリーの伝統「愛と赦しの物語」が、見事に融合している小説だった。

子どもにとっても、おとなにとっても、”ふつう”じゃないワンダーなブックガイド『外国の本っておもしろい!』

  自由にのびのびと文章を書きたい、そう思ったことのある人は多いのではないでしょうか?
 思ったことや感じたことを、素直に綴りたい。あるいは、そんな文章を読んで、自分の心にも素直な感動をよみがえらせたい、と。


 この『外国の本っておもしろい!』を読んだとき、まさにそういう思いがわきおこってくるのを感じました。 

外国の本っておもしろい! ~子どもの作文から生まれた翻訳書ガイドブック~

外国の本っておもしろい! ~子どもの作文から生まれた翻訳書ガイドブック~

  • 作者: 読書探偵作文コンクール事務局,越前敏弥,宮坂宏美,ないとうふみこ,武富博子,田中亜希子,井上・ヒサト,越前敏弥宮坂宏美ないとうふみこ武富博子田中亜希子
  • 出版社/メーカー: サウザンブックス社
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

  この本は、「読書探偵作文コンクール」で入賞した、小学生の子どもたちの作文を集めた本であり、「読書探偵作文コンクール」が従来の読書感想文コンクールとどうちがうのかというと、
①対象となる本は翻訳書に限る
②「感想文」である必要はなく、本から発想した二次創作でもいいし、作者への手紙やストーリーの要約のみでもよい、という点です。

 なので、『赤毛のアン』の世界から短歌をよんだり、『マジック・ツリーハウス』全巻の要約をまとめたり、『ファーブル昆虫記』を読んで、「虫のきらいなお友だちへ」手紙を書いたりと、形式にとらわれない作文がおさめられています。(ちなみに私も「虫のきらいなお友だち」だが、正直、『ファーブル昆虫記』を読んでも好きになれる気はしない……)

 「読書感想文」というと、最近もメルカリで売りに出されていることが話題になっていたように、書くのが憂鬱だったという人も少なくないと思いますが、これなら「お父さんとお母さんにもっと感謝しようと思いました」みたいな感想を無理やりひねり出す必要もないですね。


 そして、この本でなんといっても一番おどろかされたのが、子どもたちの文章のレベルの高さ。
 
 小学一年生が『あおいめのこねこ』を読んで、「ほんについてかんがえたことが、三つあります」と列挙して感想を綴っていたり、小学四年生がホーキング博士の本を読んで、太陽系を「宇宙の星新聞」にまとめたり、それぞれの惑星を動物や花にたとえたり。
 小学六年生ともなれば、『トムは真夜中の庭で』と『秘密の花園』に出てくる庭を対比して考察したり、アガサ・クリスティーについて、「アガサの描く人物には”リアリティー”がある。誰しも人の心に潜む闇、言いかえれば人間らしさを小説の中の人物に置きかえて実に巧みに表現し、共感させる」と論じたりと、度肝ぬかれました。


 もちろん、この本は「読書探偵作文コンクール」にこれから応募しようという読書好きの子どもや、子どもにどんな本を読まそうか悩んでいる親が読むのにもってこいなのですが、とくに子どもと縁のないおとな(私)にとっても、『赤毛のアン』など自分もかつて読んだ本についての作文でなつかしい気分になったり、あるいは、これから読んでみたい本が見つかったりと、読書ガイドとしてもじゅうぶんに使えるものとなっています。

 作文の題材の本だけではなく、審査員の翻訳者たちによるおすすめ本を紹介するコーナーもあり、前から気になっていた『理系の子』や、絵本『リンドバーグ』がおもしろかったので、続編も読もうと思っていた『アームストロング』(それにしても、このネズミどこまで行くねん!と思うが)などが取りあげられています。 

理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)

理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)

 

 

アームストロング: 宙飛ぶネズミの大冒険

アームストロング: 宙飛ぶネズミの大冒険

 

  それにしても、どうして子どもたちの作文にこれほど感心させられるのか考えたところ、やはり「本が好き!」という純粋な思いがあふれているからだと感じました。

 小学五年生が『不思議の国のアリス』を読んで、アリスの世界の奇想天外さに魅了され、「”ふつう”はいらないワンダーランド」という作文を書いているけれど、本を読むことは、子どもたちにとって、そしておとなにとっても、”ふつう”の世界から解放されるワンダーランドなのだな、と。

 学校などで、子どもはいつも、”ふつう”であること、ひとと一緒であることを要求されているのではないかと思うけれど、本を読むことで、そういう同調圧力から解放されて、世の中にはまだまだ自分の知らない世界があるということを実感してもらえたらいいな。

納豆は日本にしかないって? なわきゃない 『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』(高野秀行著)

 さて、前回の『旅はワン連れ』では、片野家(高野家)の犬連れタイ旅行が描かれていましたが、”お父さん”である高野秀行さんは、納豆のルーツを探るという取材も兼ねていたようです。 

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

 

 少し前に『間違う力』も再読したら、そこでは高野さんの特徴として、「初手から間違っている」が「間違ったまま突っ走る」と書かれており、この本も同じくというか、いや「納豆のルーツを探る」という目的は何ひとつ間違っていないのだけれど、やはり突っ走り方にものすごいものがあった。 

間違う力 オンリーワンになるための10か条 (Base Camp)

間違う力 オンリーワンになるための10か条 (Base Camp)

 

 正直、私は納豆好きだけど(最近は関西人もかなり納豆を食べると思う)、そのルーツや世界各地の納豆に思いを馳せたことなどはなく、「アジアのせんべい納豆っておいしそうやな~」くらいの気持ちで、この本を読みはじめたのだが、納豆のルーツを探して、高野さんのホームグラウンドといえるタイ北部からミャンマーの紛争地域を駆けまわり、そして日本に戻って日本納豆の発祥地と言われる東北地方を取材し、そしてブータンの難民キャンプにまで納豆を求めて入り、ついには少し前まで首狩りの風習が残っていた秘境ナガ族の村や中国の苗族自治州に足を運び、また日本に戻って、幻の「雪納豆」を試作する……と、尋常じゃない探究ぶりに、いつものように圧倒された。


 先の『間違う力』で、高野さんは自分の本を「文学とか情緒に頼らず、とにかく科学的に実証的に書いていく」と綴っていたけれど、この本はとくに実証的に書かれており、取材対象もきちんと存在するため(え、当たり前じゃないかって? いやUMA(幻の珍獣)のように存在しない(と思われる)ものを追い求める本も多いのです)、ほかの本よりおもしろおかしい要素は少ないが、最後まで読み進めると「知の刺激」というようなものを感じられた。


 「納豆は辺境地の民族が食べるもの」という指摘には深く納得した。海に近い開けた平野部では食べるものがたくさんあり、あえて納豆を常食する必要はない。タイやミャンマーでもバンコクなどの都市部ではなく、北の山岳地方の民族が作って食べている。そして日本でも「蝦夷民族由来」という説があるように、東北の山間部が発祥地とされている。

 そしてもっと大きく見ると、中国を中心とする東アジア文化圏で、納豆を好んで食べるのはタイやミャンマーの山岳部、日本に韓国とやはり「辺境地」なのだ。(中国の漢民族は基本的に納豆を食べる習慣がない) 内田樹も『日本辺境論』を書いていたように、当然ながら日本は世界の中心でもなんでもなく、世界の、そしてアジアから見ても「辺境地」である。 

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 

 なんだか社会的、あるいは時事的なメッセージみたいですが、この本の一番大事なところは、高野さんが納豆を取材し始めた動機――納豆は日本にしかないものだと言いたがる人たちに向けて、そんなことはないと否定したかったということだと思う。日本人は外国人に対してすぐに「納豆は食べられますか?」と聞きたがる。(私も聞いたことあるかもしれない)

 (その答えが)「食べられません」だと、「やっぱりね」というように、どことなく優越感を漂わせた顔をする。まるで納豆が日本人に仲間入りするための踏み絵みたいだ。
 その度に「納豆は日本人の専売特許じゃないだろう……」と強い違和感がこみあげる。シャン族やカチン族の納豆を思い出すからだ。

 最近「日本すごい」「こんなものは日本しかない」みたいなコンテンツも多いようですが(よう知らんけど)、外国のことを知れば知るほど、日本(日本人)と外国(外国人)はそう隔たっていないこと、当然ながら日本も世界のひとつのパーツなのだから、ということがよくよく実感できるのではないかと思う。

 今後、日本国内や国際的な基準で「日本の納豆菌を使用していなければ『納豆』と認めない」とか、「ワラから採集した納豆菌で作っているものだけが『納豆』だ」などと決められるかもしれないが、一般の人間には関係ない話である。……
 納豆は納豆。それだけだ。

 でもほんと納豆を食べたくなる本だった。ごはんにかけるだけじゃなく、納豆オムレツに納豆チャーハンも食べたくなった。東北地方では納豆汁が広く食べられているそうだが、たしかに味噌汁に入れるだけでもおいしい。高野さんはラーメンに入れることもお勧めしている。

 簡単に作れるということもはじめて知った。日本では納豆菌=ワラという固定観念があるが、アジアのように何らかの葉からでも作れるし、そこまでしなくても、市販の納豆を混ぜることで簡単にできるようだ。チャレンジしようかな。
 あと、この本で紹介されていた朝鮮半島で食べられているチョングッチャン(納豆チゲのようなものらしい)もおいしそうだ。次こそは現地取材してほしい。いや、自分で現地に食べに行こうかな。

 

旅する犬の物語② ビビリ犬マドのタイ旅行記『旅はワン連れ』(片野ゆか)

 さて、前回から気を取り直すために(?)、続けて読んだ犬本は、片野ゆか『旅はワン連れ』。 

旅はワン連れ

旅はワン連れ

 

 タイトルのとおり、ワンコを連れて旅行する話なのですが、国内をちょろっと一泊とか二泊旅行するのではなく、タイの南はチャーン島、そしてチェンマイからさらに北まで、犬連れで二か月近く旅行するのだから、人間も犬もかなりの覚悟と準備が必要になる。

 どうしてそんな旅を決行したのかというと、愛犬マドはかなりのビビリ犬で、保健所から引き取られて一年半経つというのに、散歩中に出会うものはもちろん、取材で家を留守にしがちな”お父さん”さえ、ときには恐がってしまう始末なので、今度もっと「楽しい犬生」を送るために、”お父さん”も一緒に旅行に行って外の世界に慣れよう!というために。

 しかし、もちろん検疫など出入国の手続きもめちゃめちゃ面倒だし、いくらおおらかな国タイといっても、犬が泊まれる宿はすごく限られている。犬連れの移動も、国際線の飛行機は乗れても、タイの国内線は不可。高速バスも不可なので、おそろしく時間のかかる国鉄に乗らないといけない(しかも、駅に停まった合間にトイレもさせないといけない)。

 でも、それでも、犬と一緒に旅行、うらやましい!!と思った。愛犬をスリング(だっこ紐)に入れて、バンコクの屋台でごはんを食べ、チャーン島では一緒にシーカヤックをして、チェンマイではサンデーマーケットに行き、スコータイでは散歩がてらに遺跡を探訪し……。私もタイは大好きで、バンコク、アユタヤ、チェンマイなど回ったけれど、愛するペットと一緒なら何倍楽しかったことだろう。けど、猫はやはり一緒に旅行には行けないしな。。。

 また、持っていったグッズもいろいろ紹介されていて、トイレシーツ、犬用シャンプー、フィラリア予防薬などは当然として、おからパウダーとイチモウダジンが気になった。おからパウダーは便秘予防になるらしい。うちの猫にも食べさせてみようかな。あと、イチモウダジンというのは、カーペットなどにくっついた抜け毛をきれいに掃除できるらしい。アマゾンでも安いし、よさそう。毎日猫の毛だらけのベッドで寝て、猫の毛だらけの服で会社に行っている私ですが。 

  それにしても、犬を連れての長期外国旅行って、だれにでもできるものなのだろうか? 
 いや、できないかもしれない。というのも、作者片野さんが犬を専門とするノンフィクションライターであるのにくわえ、なんといっても、”お父さん”である夫は、辺境ライターでおなじみ、高野秀行さんなのだから。

 ミャンマーの麻薬地帯やアマゾン、中東からアフリカのソマリまで行きつくしている(唯一インドは入国禁止なので、残念ながら行きつくせないようだが)高野さんだけあって、タイは以前住んでいたため(チェンマイ大学で日本語講師をされていたのだ)タイ語も話せるし、犬を連れて旅行するくらい余裕のはず。だからか、犬を抱いてゴーゴーバーのお姉ちゃんと映った写真も、かなりの笑顔っぷりだった。

 と思って読んでいたら、なんと旅行中、その”お父さん”がダウンしたのだった。そう、おなじみの(高野ファンにとっては)腰痛で。高野さんの腰痛については、以前ここでも名著『腰痛探検家』を紹介したけれど(いや、単に腰痛を克服しただけではなく、腰痛から人間の心理の機微、そして人生の真理まで洞察した名著なのです)、ほんとまめに走ったり泳いだりしないとすぐに悪化するようだ。 

腰痛探検家 (集英社文庫)

腰痛探検家 (集英社文庫)

 

  でもほんと、”群れ”(家族三人)で旅する様子を読んでいると、理想の夫婦だなーとつくづく感じる。ふだんは、「理想の夫婦」なんて言葉を聞くと、そんなんあるわけない、絶対嘘やろって思ってしまうのだが。

 犬との幸せな日々が長く続くように、、、と思っていたら、いまさっき、講談社のPR誌『本』の町田康の「スピンク日記」を読むと、なんとスピンクが亡くなったとのこと。別れが来るからこそ、一緒にいる日々が尊い、というのはよくよくわかっているのですが、でもやっぱり別れのつらさに慣れることはできそうにない。。。 

スピンク日記 (講談社文庫)

スピンク日記 (講談社文庫)

 

 

旅する犬の物語① 『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』(ダン・ローズ著 金原瑞人訳)

ティモレオン・ヴィエッタは犬のなかで最高の種、雑種犬だ。

さらに、ティモレオン・ヴィエッタには際立った特徴があった。普通の犬には見られない特徴、たまたま親切な家庭に迷いこんできただけの野良犬とは一線を画する特徴が。ティモレオン・ヴィエッタは雑種犬だったが、少女の瞳のように愛らしい目をしていた。

ああもう、つらかった。とにかくそれが『ティモレオン』を読んでの感想だ。 

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)

 

  私は猫を飼っているので一応猫派ですが、犬との暮らしも憧れる、一緒に散歩したいし、旅行もしてみたい……なんて気持ちで、この本を読んだら、とんでもなくダークな気持ちになった。

 雑種犬ティモレオンは、孤独な初老の男コウクロフトの飼い犬として、愛された人生、もとい犬生を送っていた。飼い主コウクロフトは、かつて成功した作曲家としてイギリスで暮らしていたが、とある事情でイギリスにいられなくなり、イタリアで暮らすようになった。
 同性愛者のコウクロフトはひとり暮らしで、恋人ができても長続きすることはなく、「長いこと、ティモレオン・ヴィエッタとしか話をしていなかった」。

五年間、ティモレオン・ヴィエッタは、コウクロフトに心から忠誠を尽くしてきた。人間の男は、やって来ては去る。若い者も老いた者も。やさしい者も腹黒い者も。

 そこへボスニア人の男がコウクロフトのもとに転がりこんできて、平和なティモレオンの犬生は一変する……

 どう一変するかというと、ボスニア人の男はティモレオンを憎み、そしてだれもが知っているように、犬は自分のことを嫌う人間には決して懐かない。よって、ボスニア人の男とティモレオンの仲はどんどん険悪になり、ついにティモレオンは遠くに捨てられてしまう。ここまでが第一部。


 そして第二部は、捨てられて必死で家に戻ろうとするティモレオンが遭遇する群像劇が描かれている。群像劇といっても、心温まるエピソードはない。ティモレオンのまわりで繰り広げられるのは、愛の断絶、裏切り、孤独、喪失……。そう、第一部と同じなのだ。

 あれだけティモレオンをかわいがっていたコウクロフトが、ボスニア人の男の言いなりになってティモレオンを捨ててしまうのは、あまりにも孤独ゆえにその男に捨てられるのが怖かったから。捨てられたティモレオンは、行く先々でまたもどうしようもなく孤独な人間たちとすれ違いながら、必死で家へと向かう。

ティモレン・ヴィエッタは、もうすこしで家に着くところだった。しっぽをぴんと立て、主人の家へ向かう曲がり角に通じる道を、ひりひりする足をすばやく動かして進んでいた。体は痛かったが、もうすぐ家に帰れる。主人の足もとにすわってなでてもらい、食べ物をもらうのだ。

 世の中は不条理だ。ティモレオンが目撃したように、ひとはあっさりと死に、親子の絆もすぐに失われ、あれだけ愛していた相手を捨て、あれだけ愛していたのに捨てられた相手の記憶も薄れる。そして、さんざん人間の孤独を見せつけられてきたティモレオンの宿命も例外ではなかった。


 第二部の群像劇では、お人形のように美しい娘、赤ちゃんのときに医者から「娘さんの知能は赤ん坊並みの知能以上に発達することはないでしょう」と宣告されたローザの物語がとくに印象深かった。ローザ、そして両親を待ち受けていた運命は、やはり不条理なものだったけれども、ローザのまわりには愛も善意も希望もたしかに存在した。

一度だけでいい、とふたりは言った。ローザの笑顔を見ることができたら、残りの人生をずっと幸せに生きられるのに。 

  訳者あとがきで、「読者の思いや期待にはこれっぽっちの配慮もなく」「まさにグロテスクで残酷で不快なのだが、同時にコミカルで切なく美しい作品」と書かれているのが、まさにそのとおりと感じた。正直、つらい要素があまりに多く、コミカルとまで言えるか疑問だが、スラップスティックであることはまちがいない。


 愛犬家の江國香織が解説を書いているけれど、『デューク』はいいお話だったなあ、、、としみじみ思い出した。

つめたいよるに (新潮文庫)

つめたいよるに (新潮文庫)

 

 わたしのデュークが死んでしまった。キスの上手いデュークが。泣きやむことのできないわたしの前に、男の子があらわれた……読み返すたびに泣いてしまう。

 ちなみに、うちのマークもキスが上手です。えっ? 犬や猫にキスなんかしたら不潔だって? そんなの知らなーい!!

 

空飛ぶ少女のゆくえ――『メアリと魔女の花』(メアリ―・スチュアート著 越前敏弥訳)

 ナウシカラピュタ、トトロで自分の中のジブリ映画が止まってしまっているし(紅の豚魔女の宅急便も見たはずだけど、あまり覚えていない)、『君の名は』など最近のアニメも見ていないため、、ジブリやアニメについて語る資格はないのですが、この『メアリと魔女の花』、原作を読んで映画を見に行ったところ、思っていたより楽しめました。

まったく、いやになるくらい、ありふれた名前だ。メアリ・スミスだなんて。ほんとにがっかり、とメアリは思った。なんの取り柄もなくて、十歳で、ひとりぼっちで、どんより曇った秋の日に寝室の窓から外をながめたりして、そのうえ名前がメアリ・スミスだなんて。 

  原作と映画は結構異なる点が多いが、どちらも「なんの取り柄もない」メアリ・スミスがシャーロット大おばさまの家で退屈しているところからはじまる。(ちなみに講演で聞いたところ、「メアリ・スミス」というのは、日本でいうと「山田花子」くらいありふれた名前とのこと)

 その平凡なメアリが、黒猫ティヴに導かれ、夜間飛行という不思議な”魔女の花”と出会い、魔法の力によってほうきで空を飛び、着いたところは「魔法学校」だった――というのは原作も映画も一緒である。


 映画では、やはりメアリの飛行シーンの躍動感や爽快さが強く印象に残り、たしかにこれまでのジブリのアニメの名場面をどうしても思い出してしまう。

で、ここからの感想はネタバレを含みますが――


 さっき「ナウシカラピュタ、トトロ」と書いたが、よく考えたら、少し前の『かぐや姫の物語』は映画館で見た。どうしてわざわざ映画館に行ったのかというと、こちらの雨宮まみさんの感想を読んで興味をもったからだ。

mamiamamiya.hatenablog.com

かぐや姫の物語』では、求婚者たちに辟易し、都での生活に絶望したかぐや姫が幼なじみの捨丸と再会して空を飛びまわるシーンだけが、姫が楽しそうに生き生きとした場面だった。しかし、結局捨丸とも一緒になれず(実は捨丸には妻子がいたのだった。またも最近話題のゲス不倫ですな)、求婚者たちも断って、月へ帰ってしまう――雨宮まみさんは「姫が月へと帰るのは、自殺だと私は解釈している」と書いている――哀しいお話だったけれど、このメアリも、最後は魔法を捨て、空を飛ぶ力を失ってしまう。

 ということは、『かぐや姫の物語』と同様に哀しいお話なのかというと、まったくそうではない。魔法を解いてピーターや動物たちを救ったメアリは、以前までの平凡なメアリではない。「成長物語」という言葉がまさにふさわしい。

メアリはシダの歯をぼんやり指で引っぱりながら、少しためらった。それから、まっすぐピーターを見つめた。(引っ込み思案でめったに人と打ちとけない、二日前の自分だったら、ぜったいにこんなことは言えなかっただろうと思うと、なんだか変な感じだ) 

  絶世の美女だったかぐや姫とちがい、メアリは原作の冒頭では何度も"plain"(不器量な)という単語で表され、映画ではさすがにブサイクにするわけにもいかないからか、”赤毛”がコンプレックスという設定になっていて、そんな冴えないメアリがすべての魔法を解くというのは、メタファーとしても興味深かった。

 魔法というとなんだか素敵に感じられるが、魔法学校のマダムやドクターの執着ぶりから考えると、魔法というより「呪い」のようにも感じられた。またSFのように妙にハイテクな魔法学校の描写からは、原発などの「人間の手に負えない」最新テクノロジーのメタファーとも解釈できた。

 思い出せば、「アナ雪」でも、エルサの魔力は封印されて、最終的には人畜無害なものにコントロールされていた。いいことなのかどうかはわからないけれど、いまは「魔法」が歓迎される世の中ではないようだ。


 あと、原作と大きく異なっていた点のひとつは、メアリの家族とシャーロット大おばさまだ。原作では、メアリにはふつうに父と母、双子の兄と姉がいて、たまたま大おばさまのところに預けられているという設定だが、映画ではメアリの家族については触れられず、孤児のような雰囲気を漂わせている。

赤毛のアン』や『あしながおじさん』など、孤児というのは児童文学やアニメの定番であり、主人公の少女の淋しさやよるべなさが際立つ。映画では、魔法学校での冒険のすえに、シャーロット大おばさまの過去と邂逅するというストーリーなのだが、ここでは孤児アンナが主人公の『思い出のマーニー』が頭に浮かんだ。 

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

 

  そう考えると、これまでの児童文学やアニメが築きあげたものをきちんと継承している映画なのだなとあらためて感じる。

 原作は映画にくらべるとシンプルなストーリーですが、イギリスの田園風景の美しさやティヴの愛らしさが目に浮かぶように描かれているので、映画を観た人は読んでみてもいいのではないでしょうか。

ふとんの上を歩きまわって、ゴロゴロ喉を鳴らしているティヴはとても満足そうで、とても眠そうな――たぶん、ほんとうに眠いんだろう――ごくふつうのネコだった。もう二度と魔女の使い魔になろうとはしないにちがいない。

 

ハードボイルドな金髪の悪魔――『マルタの鷹』(ダシール・ハメット著 小鷹信光訳)

 サミュエル・スペードの角張った長い顎の先端は尖ったV字をつくっている。……
 見てくれのいい金髪の悪魔といったところだ。

 さて、今更ながらですが、ハードボイルドの金字塔『マルタの鷹』を読んでみました。 

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

まず最初に「ほんとうに『マルタの鷹』を探す話やったんや!」と思った。
何かの象徴ではなかったのだ。となると、以前に読んだブコウスキーの『パルプ』で「赤い雀」を探すというのは、完璧にパロディーだったんですね。(ただ、この鷹は高価な彫刻だけど、『パルプ』の「赤い雀」は生きている鳥でしたが) 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

  ストーリーは(ご存じの方も多いでしょうが)、私立探偵サム・スペードのもとにワンダリーと名乗る美女があらわれ、妹がフロイド・サーズビーという怪しげな男と駆けおちしたので、サーズビーを監視して、できたら妹と別れさせる手助けをしてほしいと依頼する。サム・スペードは相棒のマイルズ・アーチャーにサーズビーを尾行させる。ところが、アーチャーが死体となって発見される。尾行に気づいたサーズビーに撃たれたのかと思いきや、サーズビーも死体となって発見される。そして、以前からアーチャーの妻アイヴァと不倫していたサム・スペードがアーチャーを殺したのではないかと疑われる……


 と、↑の最後のくだりでおわかりのように、サム・スペード、女遊びや不倫が異常に激しくバッシングされる昨今の日本にいたならば、炎上必至の男である。渡辺謙など最近のゲス不倫ピープルの比ではない。(いっそのこと、謙さんが演じてみてはどうか。年齢がちがうか)

 この『マルタの鷹』に代表される、ダシール・ハメットの描写の特徴として、主人公の内面に入らず、客観描写に徹するということがよく言われているが、たしかにサム・スペードの内面は測りがたい。エエモンなんかワルモンなのか、読んでいても最後までわからない。チャンドラーのマーロウなら、エエモンであることがすぐわかるのに。チャンドラーはハメットに影響を受けて書きはじめたものの、ハメットの三人称による客観描写を採用せず、結局一人称で書いたとのことだが、それがサム・スペードとマーロウとのちがいに繋がるのだろうか。

で、ここから完全にネタバレになりますが――

 

 この作品の読みどころは、なんといってもサム・スペードと、ワンダリー改めブリジッド・オショーネシーの丁々発止の騙しあいである。「おずおずとした笑み」を浮かべ、「訴えかける」ような目で嘘ばかりつくブリジッド。どんな男も手玉に取れると思っている女。

 それにしても、女が殺人の真犯人、あるいは黒幕であるというのは、ハードボイルドのお約束なんだろうか。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』『大いなる眠り』しかり、最近の作品でも山のようにある。フェミニズム学者なら、ミソジニーの標本といって分析するところだ。(そんな分析や批評はすでにたくさんあるのでしょうが)

「わたしを嘘つきだといったわね。こんどは、あなたが嘘をついてるわ。心の奥底では、わたしがどんなことをやったにせよ、あなたを心底愛していることを知ってるはずよ」……
「愛しているかもしれない。だからどうだっていうんだ」


 そして先にも書いたように、ゲス不倫もビックリのスペード、関わる女はブリジッドだけではない。夫を裏切り、サムを愛している(つもり)にもかかわらず、そのあまりの凡庸さにファム・ファタールになり得ない(ミス・ブランニュー・デイみたいですね。いや、私はサザン世代ではないですが)アイヴァ。心優しくひたすら献身的な秘書エフィ。


 ところで、この『マルタの鷹』で検索したところ、非常に詳細に分析されているサイトを見つけた。

第2回 『マルタの鷹』改訳決定版

書評家の杉江松恋さん主催の過去の読書会のレポートのようだ。しかし、参加者みんなこんなレジュメを提出しないといけない読書会とは、なんてハードルが高いんだ……。

 時系列の整理や、唐突に語られるフリッツクラフトの挿話(ホーソーンの『ウェイクフィールド』を少し思い出した)の意義についての考察など、たいへん読みごたえがあるが、なかでも翻訳家田口俊樹さんによる最後の問いかけ、
「サム・スペードとエフィの関係って何?」
というのがおもしろい。

 ちなみに、田口さんは「絶対ヤってると思う」とのこと。が、読書会で討議した結果、「ヤってない派」(下品ですみません)が多数を占め、翻訳した小鷹さんも「ヤってない派」とのこと。「『angel』という呼びかけを見ても、スペードはエフィを女性として見ていないように思います」と。

 で、私も「ヤってない派」ですね。小鷹さんが言うように、深い関係なら、女はangelでいられないのではないかと思うので。いや、深い関係になると、アイヴァ(凡庸な女)か、ブリジッド(ファム・ファタール/悪女)のどちらかになるのか思うと、それはそれでなんだかおそろしいですが…


 しかし、ハードボイルドは奥が深い。いや、もともとの自分のなかに存在しない要素なので、いちいち唸らされることが多い。共感できない読書、というのもおもしろいものだと感じる今日この頃です。