快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

娘のような母と母のような娘の切れない絆 『タトゥーママ』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳)

「いいの。だって、マリゴールドがわたしのお母さんなんだもん。」
喜ばせようと思ってこういったのに、マリゴールドはまた泣きだした。
「あたしったら、なんてバカな母親なのかしら。どうしようもないね。」
「この世でいちばんのお母さんだよ。おねがいだからもう泣かないで。目がまっ赤になっちゃう。」

  ジャクリーン・ウィルソンによるヤングアダルト小説、『タトゥーママ』(小竹由美子訳)を読みました。

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  主人公のドル(ドルフィン)は、母親のマリゴールドと姉のスターと暮らす10歳の女の子。
 マリゴールドはきれいでスタイルもよく、絵の才能があり、自分がデザインしたカラフルなタトゥーを全身に入れている。ドルはそんなマリゴールドを、「世界じゅうで、いちばん魅力的」なママだと思っている。

 けれども、マリゴールドは時々おかしくなる。昔の恋人であり、スターの父親でもあるミッキーを忘れられないのだ。仕事もせず、ふさぎこんで泣いてばかりいたかと思うと、急にハイテンションになる。お酒を飲みに行って、一晩中娘たちをほったらかしたりもする。
 ママに似た美人でしっかり者のスターは、これまでずっとマリゴールドとドルの面倒をみてきたけれど、八年生(中学生)になり、マリゴールドにすっかり愛想をつかしてしまう。

 そんなある日、ロックバンドのエメラルドシティーが再結成コンサートを開く。ミッキーが大好きだったバンドだ。そこに行けばミッキーを見つけられるはずだと、マリゴールドはいそいそと出かける。なんと思惑通りに再会し、娘のスターの存在をはじめて知ったミッキーは感激する。

 これでミッキーと一緒に暮らすことができると信じるマリゴールドだが、ミッキーはスターだけを引き取ろうとする。またもミッキーに捨てられたマリゴールドは、ますますおかしくなり、残されたドルは必死にマリゴールドを支えようとするが……

 胸が苦しくなる物語だった。
 いびつな愛し方しかできないマリゴールドに胸が痛くなった。
 十年以上も昔、ほんの2、3週間付き合っただけのミッキーを運命の人と思いこみ、いつまでも慕い続ける。それからどんな男と付き合っても、ミッキーのかわりにはならない。

 娘たちへの愛情もコントロールできない。「あたしって駄目な母親」と言って泣きだしたかと思うと、ぶかっこうなクッキーや生焼けのケーキを食べ切れないほど大量に作る。転校をくり返してきたせいで、ドルに友達がいないと知ると、学校に押しかけて、ドルの友達になってくれるようクラスメートに頼む。愛情過多で、そしてだれよりも愛情に飢えている。

 そんなマリゴールドを受けとめ、支えようとする健気なドルの姿がなにより切なかった。マリゴールドの関心が完全にミッキーとスターに向いていても、マリゴールドを見捨てたりはしない。スターもそんなマリゴールドにあきれ、いったんは父親のミッキーのもとに行くけれど、やはりマリゴールドとドルを見捨てることはできない。 

「あんな人、大っきらい。」スターは小声でいった。まるではきだすように。
「そんなことないでしょ。」わたしはあわてていった。
「ううん、きらいだよ。」
「大好きなんでしょ。」
「あの人はどうしようもない役立たずの母親よ。」とスター。
「そんなことない。わたしたちのこと、愛してるんだよ。……

  ジャクリーン・ウィルソンはイギリスで人気の児童文学作家だが、どの作品においても、大人の愚かさや、子どもを取り囲む現実の厳しさを容赦なく突きつける。
 「どんな親でも無条件に子どもを愛するもの」という建前を描いたりはしない。
 『ダストビン・ベイビー』のエイプリルは、生まれてすぐにゴミ箱に捨てられる(だから「ダストビン・ベイビー」)。 

  『シークレッツ』のトレジャーは、義理の父親に革のベルトで殴られ、実の母親も義理の父親の味方をする。トレジャーの親友となるインディアの母親は有名なファッション・デザイナーであるが、太っている娘をみっともなく思い、関心を持とうとしない。 

シークレッツ

シークレッツ

 

  だからこそ、マリゴールドの純粋な愛情がいっそう胸を打つ。でも、母親として上手に愛することができない。一方、娘たちは、「マリゴールドファンクラブのナンバーワン」とスターに言われるドルはもちろん、マリゴールドに批判的なスターも、やっぱり母親のことが「大好き」で離れることができない。
 主語を大きくするのは乱暴な言い方かもしれないけれど、女性ならだれでも、何があっても切ることのできない母と娘の絆に強く感じるものがあるのではないだろうか。

 互いに愛情を持っているのに、それゆえにがんじがらめになり、身動きがとれなくなることは、どの親子間にも起こりうる。家庭というのは閉ざされた空間なので、外部の人間が介入しないと窒息する場合もある。

 この物語においても、そういう外部からの救いの手がうまく用意されている。子どもは外部の人間と接し、自分の家以外の場所を知ることで成長する。
 マリゴールドとスターにしか心を開くことができなかったドルも、新しい友達や信頼できる大人と出会い、自分の世界を広げていく。

 マリゴールドは成長することができるのだろうか? 「まとも」な母親になることができるのだろうか? 
 それはわからない。でも物語の最後、冒頭と変わらず「あたしって駄目な母親」と泣き崩れるマリゴールドが、かつての自分がなりたくなかった母親像と自分もまったく同じなのではないかと気づく瞬間、何かが少し成長したのかもしれない。

 「まとも」な母親にはなれないかもしれない。でもそれでいい。ドルもスターも「まとも」じゃないママを愛しているから。

 ところで、大人の都合に翻弄される健気な子ども――子どもみたいな大人と大人みたいな子ども――を描いた物語として、まずは『じゃりン子チエ』が頭に浮かぶ。
 ストーリーは紹介するまでもないだろうけど、小学生のチエちゃんが大人より賢く、そして小鉄やアントニオといった猫が人間より賢い、というのがこのマンガのおもしろさだ。

  あと、岡崎京子の『ハッピィ・ハウス』も思い出した。13歳にしてヘビースモーカーのるみこは、パパとお兄ちゃんが出ていった家にさっそく男をひっぱりこむママを追い出して、たったひとりで、いや、ぬいぐるみのうさことふたりで、「本当の家」での生活をはじめる。  

ハッピィ・ハウス (週刊女性コミックス)

ハッピィ・ハウス (週刊女性コミックス)

 

  そして、昔の恋を忘れられない母親を描いた物語として、江國香織の『神様のボート』も胸に残る一冊である。 

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2002/06/28
  • メディア: 文庫
 

  現実と妄執のあわいをさまよう母親とともに各地を転々とする娘。成長する娘は、否応なしに現実に目を向けるようになる。現実を生きていない母親に違和感を抱きはじめる。

 現実と向きあって生きていくのが大人のあるべき姿なのだろう。けれども、そんなふうに生きることのできない大人もいる。そんな大人であっても、子どもにとっては切っても切れない親であり――親子関係とは難しいなとあらためて感じる。

べつの言葉によって自らを変容させていく試み 『べつの言葉で』(ジュンパ・ラヒリ著 中嶋浩郎 訳)

人は誰かに恋をすると、永遠に生きたいと思う。自分の味わう感動や歓喜が長続きすることを切望する。イタリア語で読んでいるとき、わたしには同じような思いがわき起こる。わたしは死にたくない。死ぬことは言葉の発見の終わりを意味するわけだから。

  『停電の夜に』『その名にちなんで』など、日本でも高い人気を誇るインド系アメリカ人作家ジュンパ・ラヒリは、イタリア語を愛するあまりに「イタリア語と結びつくために」、40歳を過ぎてアメリカから家族とともにイタリアに移住する。イタリア語の本だけを読むというのはアメリカにいたときからすでにはじめていたが、移住してからはイタリア語だけで生活し、ついには作品すらもイタリア語で書きはじめる。 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

  冒頭の引用では、イタリア語との関係を恋になぞらえているが、たしかにラヒリのイタリア語へののめりこみぶりは、恋愛に耽溺するのによく似ているように感じられる。この『べつの言葉で』の前半部分では、そのあまりの傾倒ぶりに当惑すら覚えてしまうが、読み進めていくうちに、ラヒリがイタリア語を求めた理由があきらかになっていく。

 インド人の両親を持つラヒリが最初に身につけた言葉は、両親が話していたベンガル語であった。しかし本を読みはじめ、学校にも通うようになると、ラヒリの中でベンガル語は後退し、かわりに英語と一体化していった。英語はアメリカで生きていくうえで欠かせない言葉でもあった。

 けれども、両親は娘が英語を使うことを快く思っていなかった。一方、娘は友達の前でベンガル語を話すのが恥ずかしかった。アメリカの店では、訛りのある英語を話す両親を無視して、自分に問いかけてくる店員に腹が立った。そしてまた、間違った英語を話す両親にもいらいらした。 

わたしのこの二つの言語は仲が悪かった。相容れない敵同士でどちらも相手のことががまんできないようだった。その二つが共有しているものはわたし以外に何もないと思ったから、わたし自身も名辞矛盾なのだと感じていた。 

イタリア語を勉強するのは、わたしの人生における英語とベンガル語の長い対立から逃れることだと思う。母も継母も拒否すること。自立した道だ。

  こうして、ジュンパ・ラヒリは第三の言語としてイタリア語を学びはじめ、ついにはイタリア語で生きていくことを選択した。しかし、イタリアに行ったからといって、アメリカで感じた呪縛から完全に逃れることができたわけではない。

 イタリアの店に行くと、店員はラヒリに「どこからおいでですか?」と尋ねる。しかし、自分よりずっとイタリア語が下手な夫には何も聞かない。顔かたちと名前(アルベルト)のせいで、「ご主人はイタリア人でしょう」と決めつけられる。さらには、「イタリア語はご主人から習ったのか」とまで言われる。そんなときは打ちのめされた気持ちになる。
(話は逸れるが、「主人」という言葉をめぐる問題があるけれど、こういう台詞を吐く人が使う言葉は「夫」ではなく、絶対に「ご主人」なのだろうなとつくづく思う)

 アメリカのボストンに居た頃、町ですれちがった男に「くそったれ、英語が話せねえのか」と怒鳴られたことや、あるいは、両親の故郷であるインドのコルカタでは、アメリカ育ちだからベンガル語なんてわかるわけないと決めつけられ、英語で話しかけられた思い出が蘇る。どこへ行っても自分の言葉を話すと驚かれる。どこへ行っても所属できない気持ち。

 生まれ育った国で「外国人」とみなされる親を持つ子どもは、どこにも所属できない気持ち、余所者であるかのような一種の疎外感を抱えてしまうのかもしれない。

 ブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というタイトルは、息子のちょっとした落書きがもとになっていて、タイトルからもその心情がうまくあらわれている。 

 イギリス人である夫と日本人である作者を親に持つ息子は、イギリスの労働者階級の町にある中学校ではたったひとりの東洋系として人目をひき、日本に来ると「ガイジン」としてじろじろ見られる。ときには「日本語話せないのか」とおっさんにからまれたりもする。息子はこうつぶやく。 

「日本に行けば『ガイジン』って言われるし、こっちでは『チンク』とか言われるから、僕はどっちにも属さない。だから、僕のほうでもどこかに属している気持ちになれない」

  『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の最終章で、息子はギターを手にしてロックを鳴らすことで、「ブルー」を変えていこうとする。
   『べつの言葉で』のラヒリはイタリアで暮らし、いまだ確固とした隔たりを感じる不完全なイタリア語で作品を書くことによって、自らを変化させて自由になろうと試みる。 

別の人間になりたいと願う翻訳家の女がいた。はっきりした理由があってのことではない。ずっとそうだったのだ。

 というのが、ラヒリがイタリア語で書いた最初の掌編小説「取り違え」の冒頭である。べつの言葉によって別の人間になりたいと願う女。オウィディウスの『変身物語』を愛するラヒリの強い思いが投影されている。 

 「ずっとそうだったのだ」と書いているように、この願いはイタリア語に傾倒するようになってから芽生えたわけではない。

 英語で書かれたラヒリの作品を翻訳してきた小川高義による『翻訳の秘密』を読むと、初期作品から一貫してラヒリは「わからないこと」に身を浸し、それを「解釈」することで自らを「変容」させてきたことに気づかされる。 

翻訳の秘密―翻訳小説を「書く」ために

翻訳の秘密―翻訳小説を「書く」ために

  • 作者:小川 高義
  • 発売日: 2009/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  ラヒリのデビュー短編集『停電の夜に』の原題は、 短編のタイトル ”Interpreter of Maladies” が採用されており、interpretは単なる「通訳」という意味ではなく、異なるものやわからないものを解釈しようとする試みだ、と小川さんは考察している。

 さらに、ラヒリがネット上で発表したエッセイの結びの言葉 ”I translate, therefore I am” に焦点をあて、translationは「翻訳」というより「変容」のニュアンスが強く、ときには「場所の移動」を含むことさえあると指摘し、「わからないものを解釈しようとして、みずからの変化も生じる」ことが、まさに「ラヒリのテーマそのもの」としている。2007年の文章だが、まさに現在のラヒリを予言した読解だと思った。深く読むことによって、作者が進んでいく方向も見えてくるようになるのだろう。

 先の掌編小説「取り違え」は、翻訳家の女が黒いセーターを取り違えられる物語である。彼女は自分のセーターを取り戻すことができたのか? 別の人間になることができたのだろうか? 

 

人間を「物」として扱う社会とは――『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド著 谷崎由衣訳)、『フライデー・ブラック』(ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著, 押野素子訳)

砦までの道のりでコーラの祖母は何度か売られ、宝貝やガラスのビーズと引き替えに奴隷商の手から手へと渡った。ウィダで彼女の値段が幾らだったか知ることは難しい。というのもまとめ買いだったから。八十八の人間が、ラム酒と火薬を入れた木箱六十個と交換された。

 『地下鉄道』は、主人公コーラの祖母アジャリーが誘拐されて売られ、船につめこまれてアメリカへ送られる場面からはじまる。何度も何度も売られ、商人の手から手へと渡る。そうしてジョージアのランドル農園に行きつく。

 三人の夫とのあいだに五人の子どもを産むが、ひとりは錆びた鋤で足を切って死に、ひとりは奴隷頭に殺された。それでも、子どもを売りとばされないだけマシだった。成長した娘はメイベルといい、のちにコーラを産んだ。 

地下鉄道

地下鉄道

 

  コーラは母親メイベルを恨んでいた。メイベルはコーラを置いて脱走したのだ。
 農園の主人ランドルは警報を発令し、白人の民警団や逃亡奴隷を捕まえることで生計を立てる自由黒人が森を捜索した。奴隷狩りの名手リッジウェイは二年にわたり徹底的に追うが、それでも見つけることができず、老ランドルの死の床で詫びた。

 10歳か11歳で――正確な歳は誰も知らない――みなしごになったコーラは、祖母から受け継がれた畑を守るために斧を手にして戦った。そうして、頭がおかしくなった女たちの小屋に押しこめられた。農園では、それなりに穏健に奴隷を扱っていたランドルに続いて、長男のジェイムズも死に、冷酷な次男のテランスが主人となった。

 そんな折、コーラは奴隷仲間のシーザーから一緒に逃げようと誘われる。なんでも、「地下鉄道」という北へ通じる鉄道が地中を走っているらしい。白人の力添えのもと、その「地下鉄道」に乗る手はずを整えたとシーザーが語る。だが逃亡して捕まえられたら命はない。迷うコーラだが、憎きメイベルに思いを馳せ、自分も脱出することを決意する……

 差別問題について語るのは難しい。差別はいけない、けっして許されることではないとは、この時代、だれでも口にする。
 しかし、どうして差別というものが生じるのか、どうして差別がなくならないのか、という問題と真剣に向き合おうとするならば、社会構造や差別する側の心情を複眼的に解析しないといけない。

 この『地下鉄道』では、逃亡奴隷となったコーラやシーザーと、どこまでも追いかけるリッジウェイ一行との活劇という側面にくわえて、ジョージアの農園での奴隷の暮らし、農園主であるジェイムズとテランスそれぞれが抱える「病」、表面的にはジョージアよりはるかに進歩的に見えるサウス・カロライナの真の姿、ノース・カロライナで逃亡奴隷をかくまうマーティンとエセル夫妻などの白人の命運がていねいに描き出されている。

 それによって、いくつもの視点から小説を読み解くことが可能となり、「鉄道」に乗るだけあってスピーディーに展開するストーリーを味わうだけではなく、人間を「物」として扱う社会のあり方や、差別する側が抱える問題について、自分が体験したかのように理解できる。 

アメリカでは、人間は物だという警句がまかり通る。大洋を渡る旅に耐えられない老人に掛けるコストは削減するべきだ。強い個体群から出た若い牡鹿に、顧客はよい金を払う。子どもを捻り出す奴隷娘は造幣局のようなもので、金を生み出す金である。 

  人間を「物」として扱うこと、「商品」と見做すことが奴隷制の本質なのだろう。冒頭に引用したように、アジャリーが売買される場面からこの小説がはじまるということも、それを象徴している。
 さらに、アジャリーを買った者は、「じつにしばしば破産した」。最初の主人は、ホイットニーの綿繰り機をめぐる詐欺にひっかかり、アジャリーは治安判事によって処分を命じられる財産のひとつとなった。

 ちなみに、Wikipediaのホイットニーの項によると、ホイットニーの発明した綿繰り機は「産業革命の鍵」となり、「(ホイットニーが意図していたか否かとは無関係に)アメリカの奴隷制度の経済的基盤を築いた」とされている。

 また、この小説でもっともおそろしく、そしてある意味もっともおもしろく感じてしまうのは、逃亡奴隷を追いかけることに執念を燃やすリッジウェイ一行のくだりではないだろうか。

 リッジウェイは、鍛冶屋の職人として地道に働く父親に反発し、農民や商人、金持ちにも自らの理想像を見つけることができず、逃亡奴隷を追いかける獰猛な警邏団に生きる目的を見出す。そうして、銃や畑の工具を作る父親も、逃亡奴隷を追いかける自分も、「どっちもイーライ・ホイットニーに仕えてるんだ」と語る。

 白人が先住民から力でもって新世界を奪ったこと、土地や奴隷という自らの財産を確保すること、これこそがアメリカにおいて、なにより正しいことであり、真の偉大なる精神(グレート・スピリット)だという信念を抱く。このリッジウェイの思考回路や上昇志向は、現代人に無縁だと言えるだろうか? いや、もっとも現代人に近い心性があるように思われる。 

 しかしリッジウェイ自身は、土地や奴隷を所有することにまったく興味を持っていない。同類だと感じた黒人少年ホーマーを買い受け、自由黒人として読み書きを教える。黒人少年ホーマーはシルクハットに誂えのスーツという正装をまとい、何があってもリッジウェイに付き従う。皮肉ともいえるこの倒錯した奇妙な関係が、小説に深みを与えている。

 人間を「物」として扱う社会は、現代を舞台にした短編集『フライデー・ブラック』にも克明に描かれている。 

フライデー・ブラック

フライデー・ブラック

 

 「ジマー・ランド」では、主人公の「俺」はゲームの登場人物となり、白人を脅かして最後には銃で撃たれる怪しい黒人を演じている。「俺」を罵倒し、殺してやりたいと願うプレイヤーたちの相手をするのだ。あくまでアトラクションとして。
『地下鉄道』のサウス・カロライナの“驚異の自然博物館”において、コーラがアフリカから連れてこられた奴隷役を演じさせられる場面と重なる。 

男は俺に拳銃を向けた。俺が生きるか死ぬかは、俺のことなど何も知らない男の胸一つで決まる。そしてその男は、俺に生きる価値などないと思っていた。

「待ってくれ」と俺は言ったが、男は俺を撃った、偽の弾丸が俺の胸で破裂した。

  タイトル作の「フライデー・ブラック」では、ショッピングモールの店員である「俺」は、ブラック・フライデーに殺到する客の相手をする。三日間で百万ドルの売上をあげないといけない。その大半が「俺」の腕にかかっている。

 店に押し寄せる客は、「火事や銃声から逃げる人」のようだ。そう、まさに戦場だ。比喩ではなく、「俺」は最初のブラック・フライデーで腕を噛みちぎられ、客たちは殴り合い、いったん人の波がひくと死体がごろごろと転がっている。それでも、モールの経営陣は、「顧客サービスと人間どうしの結びつきを大切にする当モールの姿勢に、変わりはありません」と語る。

 客はブラック・フライデーで人気のブランドの服や大型テレビを買うことに、「俺」は売り上げをあげることに、血道を上げる。買い物をすることが、儲けることが、命よりも大事なのだ。

 いや、現代社会では、買い物ができないこと、儲けることができないことは、死んでいるのと同じと見做される。買い物をすることや、儲けることによって、生きる価値が与えられ、「何者」かになったような気持ちになれる。逃亡奴隷を捕まえることに生きる目的を見出したリッジウェイと似ているのかもしれない。
 けれども、続く短編では、「俺」をはじめとする店員たちの消耗ぶり、やるせない日々が描かれている。 

小売業界では、ルーシーになっちゃだめ。殺伐とした状況を、少しでも良くする方法を見つけなくちゃ。ルーシーは先月、昼休み中に四階から飛び降りた女の子。タコ・タウンのレジ係だった。

  これらの短編からは、「売買」というものが持つグロテスクさが強く伝わってくる。売る側も買う側も無傷ではいられない。何かが大きく損なわれる。差別する者も同じだ。何かが大きく損なわれる。

 藤井光さんの解説によると、『フライデー・ブラック』の作者であるアジェイ=ブレニヤーは、『地下鉄道』のコルソン・ホワイトヘッドの推薦を受けたらしいが、共通する問題意識を考えると深く納得する。

 そしてなにより、この二作のすぐれた点は、重いテーマを扱っているにもかかわらず非常に読みやすく、エンターテインメントとしてもじゅうぶんに楽しめるというところだと思う。
 それぞれの訳者あとがきにも書かれているように、『地下鉄道』は『マッドマックス』などのアクション映画を見ているようなスリルも味わえ、『フライデー・ブラック』の方は、テーマパークやヴィデオ・ゲームを楽しむように読むこともできる。重そう、難解そう、という理由で躊躇している人がいれば、思い切って手に取ってみてほしい。

やっぱり優しくなければ生きている資格がない――レイモンド・チャンドラー『高い窓』(村上春樹訳)

彼女は二本の腕をデスクの上で折りたたみ、顔をその中に埋めてしくしくと泣いていた。それから首をひねって、涙で濡れた目でこちらを見た。私はドアを閉めて彼女のそばに行き、その細い肩に腕をまわした。……

娘は飛び上がるように身を起こし、私の腕から逃れた。「私に触らないで」と彼女は息を詰まらせながら言った。

  レイモンド・チャンドラー『高い窓』(村上春樹訳)を読みました。 

高い窓 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

高い窓 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  今作でのフィリップ・マーロウは、資産家の未亡人ミセス・マードックから依頼を受ける。夫の形見であるプラッシャー・ダブルーンという貴重な金貨が盗まれたらしい。
 といっても、犯人探しを依頼されたわけではない。犯人はすでにわかっていると未亡人は話す。一年ほど前に「馬鹿げた結婚」をした息子レスリーの嫁、リンダ・コンクエストにちがいないと確信している。一週間ほど前に家を出ていったリンダを探し出し、金貨を取り戻すようマーロウに命じる。

 マードック邸を出たマーロウは、見知らぬ金髪の男に尾行されているのに気づく。素人同然の尾行に呆れたマーロウが近づくと、金髪の男はアンソニーと名乗り、同じく探偵業を営んでいると自己紹介し、マーロウに名刺を渡す。
 それから、マーロウは金貨について何か知っていると思われる古銭商モーニングスターのもとを訪ね、モーニングスターが金髪の男と連絡を取っていることを知る。先程の名刺に書かれていた住所に向かうと、金髪の男の死体があった……

 と、単なる家庭内のいざこざと思われた金貨探しが殺人事件へと発展するこの『高い窓』、訳者あとがきでも書かれているように、フィリップ・マーロウシリーズの中では一番と言っていいくらい、筋立てがシンプルで整合性がとれている。それゆえに、このシリーズの特徴が一番わかりやすい作品かもしれない。

 

※ここからは物語の内容に少し関係するので、これから読む方はご注意ください。

 

 フィリップ・マーロウ、もしくはチャンドラーの作品が持つ魅力とはどういうものか?
 と、シリーズを読んでいるあいだずっと考えていたが、その魅力はやはり、次から次へと出てくるへんてこりんな登場人物をリアルに切り取る描写の妙、そして、どんな人物でも受けとめてみせるマーロウの包容力だと思う。
 ちらっとしか出てこない脇役、なんなら完全な端役であっても、チャンドラーの小説においては、もしかして事件にかかわる重要人物なのか? と疑ってしまうくらい強く印象に残る。 

ベルフォント・ビルディングでは、明かりのついている窓は数えるほどしかなかった。この前と同じくたびれた老人がエレベーターの中で、畳んだ粗布の上に腰を下ろし、虚ろな目でただまっすぐ前を眺めていた。そのまま歴史に吸いこまれようとしているように見えた。……

「ヌーヨークではとんでもなく速いエレベーターがあるそうな。三十階くらいひゅっと行っちまうらしい。高速エレベーター。ヌーヨークにあるそうな」

「ニューヨークなんてどうでもいい」と私は言った。「私はここが好きなんだ」

  この『高い窓』で、忘れがたい脇役のひとりは、モーニングスターのオフィスが入ったベルフォント・ビルディングのエレベーター係の老人だ。

 「南北戦争の頃からずっと」畳んだ粗布の上に座っているかのようなたたずまいで、「まるで自分の背中にエレベーターを背負って運んでいるみたいに」荒い息をついて、エレベーターを操作する。
 すっかり耄碌しているのかと思いきや、三度目にマーロウがやって来たとき、最初のときと二度目のときにマーロウが着ていた服と降りた階をぴたりと言い当てる。「あんたのことを見くびっていたようだな」とマーロウを感服させ、事件の解決の「鍵」を提供する。

 また、もっとも読者の胸に刻まれる人物は、ミセス・マードックの秘書マール・デイヴィスではないだろうか。

 村上春樹は『リトル・シスター』の訳者あとがきで、チャンドラー作品の女性登場人物について、「どこかみんな『書き割り』みたいな雰囲気がある」と、ハリウッドの映画の女優が演じる古典的なキャラクターのようだと述べている。 

  たしかに、ファム・ファタール的な役割の女性登場人物については、「書き割り」感がある、つまり、ベタな人物造形だと言えなくもないが、それ以外の女性たち、『リトル・シスター』の訳者解説で賛辞を送っているオーファメイ・クエスト、この『高い窓』のマール・デイヴィスなど、一見どこにでもいそうで、でもどこか常軌を逸している人物像が実にうまく描かれていて感心する。『さよなら、愛しい人』に出てくるアン・リオーダンも可愛らしい。ただ、さわやかで健全過ぎて、マーロウにはそぐわなかったのかもしれないけれど。

 冒頭の引用のように、はじめてマードック邸を訪れたマーロウは、痩せて神経質そうで、あまり幸福そうには見えないマールを奇妙に思う。事件が進展するにつれて、マールはミセス・マードックに完全に支配され、心身ともに消耗していることがあきらかになる。
 物語の終盤、長年の理不尽な仕打ちによって疲れ果て、倒れたマールが、「私は起こったことを残らずあなたにお話ししたいの」と話すと、マーロウは言う。 

「言わなくていい。もう知っているから。マーロウはすべてを心得ている。まっとうな人生を送る術を別にすればね。そいつだけはどうしてもうまくできない。とにかく今はゆっくりと眠ることだ。そして明日になれば、君をウイチタまで送り届ける。そして君のご両親に会う。旅費はミセス・マードック持ちでね」 

 なんとかっこいい台詞だろうか。「すべてを心得ている」とは! まっとうな……云々のところも、通常ならば、何ぬかしてんねんってつっこんでしまいそうになるが、訳あり一家の事件に巻きこまれながらも、こうやって薄幸な少女に救いの手を差し伸べるマーロウが口にすると、納得してしまう。

 マーロウの決め台詞はおなじみ、“If I was’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” いわゆる「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」だが、やはりマーロウの優しさがこのシリーズを貫く背骨であり、ハードボイルドを特別なもの――something special――にした魔法なのではないだろうか。

 しかし、どうしてこんな主人公をチャンドラーが生み出せたのか考えると、なんだか不思議な気もする。チャンドラーが18歳年上の妻を大事にしていたのは有名な話だが、その一方で、不倫騒動を起こし、勤めていた会社を解雇させられている(解雇の原因は不倫だけではなく、アルコールの問題などもあったようだが)。

 もちろん、作者が聖人君子でないのは当たり前だろうが、この『高い窓』の訳者あとがきによると、チャンドラーは「ものを書くことで金を儲けたためしがない」と知人に「愚痴っぽい手紙」を書いたりと、あまり“いさぎよい”人間ではなかったように思われる(そもそも、“いさぎよい”人間は文章を書いたりしない気もする)。

 けれども、ひとえにその卓越した文章力で、騎士精神あふれる主人公から、エキセントリックなまでに純粋な少女、低俗なチンピラたちまで、いきいきと命を吹きこみ読者を魅了する。ものすごくいまさらではあるけれど、小説というのはおもしろいものだなとあらためて思う。 

その家が視界から消えていくのを見ながら、私は不思議な気持ちを抱くことになった。どう言えばいいのだろう。詩をひとつ書き上げ、とても出来の良い詩だったのだが、それをなくしてしまい、思い出そうとしてもまるで思い出せないときのような気持ちだった。

  マールとの別れのシーンは、読んでいて少し切なく、でも後味のよい心地になる。大事にしていたものが自分のもとから旅立っていき、もう二度と会うことがないんだろうな、と思うような気持ち。
 あるいは、子どもの頃や学生時代に読んだ記憶があり、内容の詳細までは思い出せないけれど、とにかく夢中になって読んだということだけは覚えている小説を振り返るような……(いや、内容の詳細をすっかり忘れるのは私だけかもしれないが) 

自分の肉親について文章を書くということ レイモンド・カーヴァー「父の肖像」(『ファイアズ(炎)』)、村上春樹『猫を棄てる』

自分の肉親について説得力のある文章を書くというのは決して簡単なことではない。結局のところ、文章の力によってどこまでその人物を相対化できるか、そしてその相対化された像のなかにどれだけどこまで自分の感情を編み込めるか、という微妙な勝負になる

   村上春樹レイモンド・カーヴァー『ファイアズ(炎)』の訳者あとがきで、カーヴァーによるエッセイ「父の肖像」について、こう書いている。そして今回、自らの父親を題材にした、『猫を棄てる 父親について語るとき』というエッセイを発表した。 

 カーヴァーの「父の肖像」は、上記の引用に続けて、「見事なばかりの説得力を持っている」と村上春樹が書いているように、父親がどういう人物であったのか、そして私はそんな父親をどう見つめていたのがよくわかるエッセイである。 

あるクリスマスに私は父に会って、「小説家になろうと思うんだ」ということができた。「整形外科医になろうと思う」と言ったって同じことだっただろう。「何について書くつもりなんだい?」と彼は訊ねた。それから助け舟を出すかのように、「お前のよく知っていることを書くといいよ。一緒に行った魚釣り旅行のこととかな」と言った。そうするよと私は言ったが、そうするつもりなんてなかった。

  カーヴァーが書いているように、カーヴァーの父親は読書家ではなく、文学や芸術に関心のない人物だったようだ。ワシントン州で農夫として働いたあと、ダムの建設労働者となり、それからオレゴン州に移って製材所で働き、そこでカーヴァーが生まれた。働く先々に家族のみならず親戚一同や友人までも呼び寄せ、仕事の面倒をみたが、他人のためにお金を使ってばかりで、自分の家はいつまでたっても貧しいままだった。アルコールの問題を抱えていて、女性関係もだらしがなかったようだ。

 ところが、そんな父親が突然倒れる。神経衰弱になり、働けなくなる。1956年の話なので神経衰弱と診断されたが、現在ならば鬱や更年期、あるいはアルコールに起因するものなど、もっと適切な診断がくだされ、もっと適切な治療を受けることができただろう。結局、父親は何年も精神病院に閉じこめられ、電気ショック療法を受けさせられた。

 それでもなんとか、父親は社会復帰を果たした。おおかたのものを失った父だったが、友人に紹介された仕事をなんとかこなせるようになった。しかし、ちょうどその頃、カーヴァー自身も家族を持ち、自分の生活を支えることで精一杯だった。小説家になりたいという思いを伝えたのもこの頃だったが、父親がどうしているかまで気を向ける余裕がなかった。 

それから父は死んだ。私は彼にいろんなことを言えないまま、遠くはなれたアイオワ・シティーにいた。別れの言葉も言いたかったし、父が新しい職場でよくがんばっていたことを賞めてやりたかった。そして社会に復帰できたことを誇りにしていると伝えたかった。

  カーヴァーは母親からもらった若い頃の父親の写真を壁にかけ、折にふれてはそれを眺めていたが、くり返す引っ越しのなかで、ついに失くしてしまう。そこで、その写真を頭に思い浮かべて、「二十二歳の父の写真」という詩を書き、「父さん、僕はあなたのこと好きだよ/でも感謝するわけにはいかないな。僕もやはり酒にふりまわされているようだ。」と、父親、そして自分にも引き継がれた脆さを見つめようとする。

 数ページの短いエッセイだが、父親の半生を淡々と綴っているだけのようでありながら、父親への愛情が読者の心にもよく伝わってくる、しみじみとした余韻が残るエッセイである。
 対して、村上春樹の『猫を棄てる』を読むと、この不穏なタイトルが示唆するように、どこかおさまりのよくない心持ちになる。  

 本などとは無縁であっただろうカーヴァーの父親と異なり、村上春樹の父親は仏教系の専門学校時代から俳句を愛好し、兵役を経て京都大学に進学したあとも、「京大ホトトギス会」の同人として熱心に活動した。学問を深く愛し、もともとは大学院に残って学者になりたかったようだが、家族の生活を支えるために名門私立学校の国語教師となった。

うちの母親は「あなたのお父さんは頭の良い人やから」と僕によく言っていた。父の頭が実際にどれくらい良かったか、僕にはわからない。そのときもわからなかったし、今でもわからない。というか、そういうものごとにとくに関心もない。

  作者が書いているように、父親は自分の果たせなかった夢――好きなだけ勉学に励み、自分と同じ京都大学に進学して、ゆくゆくは学問で身を立てる、というような――を息子に託していたようだ。しかし、その息子は「身を入れて勉強をしようという気持ちにどうしてもなれなかった」ので、父親を失望させる結果となり、親子の溝は広がっていく。よくある話と言えばそうかもしれない。

 のちに息子が小説家としてデビューしたときは、文学を愛した父親はたいへん喜んだらしいが、溝が修復されることはなく、「関係はより屈折したものになり、最後には絶縁に近い状態となった」。けれども、絶縁に至った経緯については「僕と父とでは育った時代も環境も違うし、考え方も違うし、世界に対する見方も違う。当たり前のことだ」と書いているだけで、具体的には何も語っていない。

 そうして、父親が亡くなる少し前にようやく「ぎこちない会話を交わし、和解のようなこと」をおこなう。けれども、「和解のようなこと」と書いているように、ほんとうに和解したようには感じられない。作者はまだ父親の問題、父親が抱えていたものを受けとめられないのではないかという印象が残る。それゆえに父親の軍隊での経歴を調べ、詳細に掘り下げているのだろう。あとがきにはこう記されている。 

僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間――ごく当たり前の名もなき市民だ――の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。

  しかし正直なところ、このエッセイを読んでも、戦争体験が父親にどういう影響をもたらしたのかはよくわからない。父親と作者のあいだで交わされた会話などの具体的なエピソードにも乏しく、父親の人物像も、学問好きで対外的には立派な人物であったことくらいしか掴めない。

 父親の人格のどこかに戦争によって形成されたもの、戦争が影をおとしているところを、作者は見出していると思われるのだが(それが絶縁につながった「考え方」や「世界に対する見方」の違いなのだろう)、それが書かれていないので、どことなく釈然としない読後感が残る。父親が戦地から戻された理由も、再度戦地に赴くまでのあいだ何をしていたのかも謎のまま残り(いまとなってはほんとうに謎なのだろうが)、なんとなく腑に落ちない気持ちになる。 

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通りぬけない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

  いくつもの面において父親と自分は違うとしながらも、猫を棄てにいった思い出、毎週日曜日に一緒に行った映画館、足繁く通った甲子園球場のように、父親と共有したものも数多くあると作者は書いている。

 上記の引用は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からであるが、父親に心の傷を与えたと思われる軍隊での出来事を調べるのは、父親から引き継いだもの、父親と自分を深く結びつけているものを探り当てようとする試みだったのだろう。父親の写真を見つめて、父親と自分に流れるものを理解しようとしているカーヴァーと同じように。

 だが、この本において、その試みがどこまで成功しているのかどうかはよくわからない。少なくとも読み手にとっては、先にも書いたように、肝心なところがすっぽり抜けているようで物足りない感じも残る。結局、もし父親が(あるいは母親が)戦争で死んでしまっていたならば、自分は存在しなかった、という至極当たり前の結論で踏みとどまってしまったような印象も受ける。

 だからといって、この本を読んでがっかりしたという意味ではない。父親との回想記を「いろいろあったけれど、父親が亡くなる前に和解できた、めでたしめでたし」というような”いい話“にするのではなく、こんなふうにおさまりの悪い、作者のほかの文章とも組み合わせることのできないエッセイとして発表するところが、誠実な姿勢だと思った。

 とくに最後の子猫のエピソードは印象に残る。木の上でひからびた子猫――「結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す」。生きることというのは、基本的にひたすら上っていくことなのだろう。けれどいつかは降りなければならない。下の世界へ身を投じることの難しさが、生きることの難しさに通じるのかもしれない。

 

勝手に考えた「コロナブルーを乗り越える本」『東京日記』(内田百閒)『だいたい四国八十八ヶ所』(宮田珠己)『雨天炎天』(村上春樹)

 「コロナブルーを乗り越える本」という集英社インターナショナルのサイトで、さまざまな作家や翻訳家の方たちが、「こんな時代だからこそ読みたい」本を紹介していて、これがかなり読みごたえがある。

www.shueisha-int.co.jp

 紹介されている本がどれもおもしろそうなので、紹介文を読んでいるうちに、そういえば同じ作者のあの本もこんなときにいいかも、いや、紹介者自身の本もいま読みなおすとまた新たな感想を抱けるかも……と、あれこれ思いがわきあがってきたので、ここで(某首相のように)勝手に便乗することにしました。

 まずこのサイトで、「いま読まないと!」と思ったのは、宮田珠己さん推薦の内田百閒『東京焼盡』。
 「当時すでに五十六歳だった百閒の飄々と生きるしたたかな姿に、生きてりゃいいんだ生きてりゃ、と背中をどやされたような気がする」という本書の魅力については、サイトを見てもらうとして、とりあえず家にあった『東京日記』を読み返した。 

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

 

  内田百閒の作品というと、飄々としたユーモアのある『百鬼園随筆』や、行方不明になった愛猫をテーマにした『ノラや』、あるいは鉄道文学の元祖とも言える『阿房列車』が有名かもしれないが、この『東京日記』や初期の『冥途』など、師である夏目漱石の『夢十夜』を継承したような幻想的な作品も印象深い。

 と、いま「幻想的」と書いたけれど、今回読み返してみて、「幻想的」という言葉で表現されがちなあやふやな世界ではなく、私たちの生きる現実に迫りくる恐ろしさを切実に描いていることに、あらためて気づいた。 

玄関に出て見ると中砂のおふささんが薄明かりの土間に立っている。中佐が死んでからまだ一月余りしか経っていない。その間に既に二度いつも同じ時刻にやって来た。上がれと云っても上がらない。初めの時はお宅に中佐の本が来ている筈だと云って、生前に借りた儘になっている字引を持って行った。

 ここに収録されている「サラサーテの盤」は、死んだ友人「中砂」の二番目の妻である「おふささん」が事あるごとに家にやって来て、中砂が貸していた物を取り立てるというだけの筋であるが、貸していた物のひとつ、サラサーテのレコード盤に収録されている「チゴイネルヴァイゼン」が不気味な響きを奏でる。

 もちろん文章なので、「チゴイネルヴァイゼン」がどんな曲かははっきりわからないのだが、「演奏の中途に話し声が這入っている」というのが、生者と死者、あるいは正気と狂気との境目があいまいになるこの小説の象徴となり、薄気味悪さをひきたてている。
 ちなみに、「サラサーテの盤」は、『ツィゴイネルワイゼン』という題名で鈴木清順監督によって映画化されている。映画は未見なので、この短編からいったいどういう仕上がりになっているのか、あれこれ想像するのもおもしろい。

 中砂の前妻は「その頃はやった西班牙風」で死んでいる。だからこの時期にぴったり、というわけではないが、平穏と思っていた日常生活が、実は疾病や自然災害にすぐに左右される脆くはかないものであったという事実を、あらためて思い知らされている現状が、『東京日記』全体に漂っている不穏さと重なるような気がする。

 『東京日記』に収められている「長春香」は、作者のもとにドイツ語を習いに来ていた女性が関東大震災で亡くなったという話であり、「死屍のなお累累としている」東京の焼野原で彼女を探す作者の心情が、淡々とした筆致からも痛切に伝わってくる。

 ところが最後、仲間と彼女の追悼会を開くのだが、まずは神妙に冥福を祈ったあと、闇鍋パーティーのような事態になり、「闇汁だって、月夜汁だって、宮城先生(百閒の琴の師匠である盲人の宮城道雄)にはおんなじ事だぜ」と、悪い冗談を誰かが口にしたかと思えば、「お位牌を煮て食おうか」と「私」が言いだし、位牌をばりばりと二つに折って鍋に突っこむ。
 こんなぎょっとする出来事が当たり前のように描かれるのが、内田百閒の文学の真骨頂だと思う。

 そして、内田百閒を紹介している宮田珠己さんの『だいたい四国八十八ヶ所』も、この時期に読むのにいいのではないでしょうか。 

だいたい四国八十八ヶ所 (集英社文庫)

だいたい四国八十八ヶ所 (集英社文庫)

  • 作者:宮田 珠己
  • 発売日: 2014/01/17
  • メディア: 文庫
 

  以前読んだときは、何もない道をマメだらけになった足でひたすら歩き続ける痛さを想像して、これはたしかに苦行だな……そりゃ霊験あらたかになるのもまちがいない(その後、作者に霊験あらたかな何かが起きたのかは知らない)と思ったけれど、いま読み返すと、外を自由に歩き回り、すれちがう人々と会話を交わし、時には同行するというだけで、なんだかワンダーランドのような気さえする。

 というと、この本でなくとも旅行記すべてにあてはまるとも言えるが、この本の特徴は、まずは四国の魅力、なかでもお寺や、地元の人々によるお接待といった独特のお遍路文化のおもしろさがよく伝わってくるところである。

 地元の人々によるお接待というと、いわゆる「ふれあい」のようで、そういうの苦手やな~と思う方も少なくないかもしれないが(私もそうですが)、所詮その場限りの旅人相手なので、べったりしていない(たまに厄介な相手に捕まることもあるが)。お遍路仲間とのやりとりにしても同様で、なんとなく出会って別れる、すれちがう瞬間だけの深入りしない交流というのが気軽でいい。

 また、「外を自由に歩き回り」と書いたが、正確には「自由」ではない。行先は決まっているのだ。23番札所薬王寺の次は、店も自動販売機もトイレもない苦難の道を経て室戸岬を辿り、24番札所最御崎寺に行かないといけない。ポイントをクリアして先に進むというRPG的な要素がある。

 そしてとある札所で、納経所に誰もおらず、朱印をもらうのに20分ほど待たされてしまい、年配のおっさん遍路が苛立って係員に文句を言う場面に遭遇した作者は、「せこい。実にせこい」と感慨を抱く。 

お遍路であれ何であれ、旅の醍醐味のひとつは、わけのわからないことや、予定外の事態に遭遇することである。…… 肝心なのは、時間や合理性に対する感覚が変容することであり、一筋縄でいかなかったり、思い通りにいかなかったときに、その理不尽さややりきれなさを味と思ってこそ、旅が旅になるのである。

  巡礼の旅というと、村上春樹の『雨天炎天』もある。 

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)
 

  四国八十八ヶ所は、庶民の素朴な信仰がごった煮のように詰めこまれているが、この本の舞台であるギリシアのアトス半島は、正教会の神聖な修行の場であり、俗世界と隔絶された女人禁制の地である。そこには二十の修道院があり、約二千人の僧が質素な自給自足の生活のもとで祈りの日々を送っている。

 この土地に興味を持った春樹氏は、おなじみの「カメラの松村君」と編集者とともに修道院巡りの旅をはじめるのだが、険しい山々の連なり(「この半島には交通機関というものがまったくと言ってもいいほど存在しない」)、温暖なギリシアの町とまったく異なる悪天候、そして修道院で供されるつましい食事にすっかり参ってしまう。あれだけ走っている作者ですらこうなのだから、女人禁制でなくとも絶対に行くまい、と固い決意を抱いてしまう。

 その一方、旅行(記)とは不思議なもので、そのつましい食事をぜひとも食べてみたい気にもなる。
 同じ粗食でも、修道院によって料理レベルには大きな差があるようで、こうばしいパンにあたたかいスープ、新鮮な野菜が出てくるところもあれば、石のように固くて、青かびだらけのパンに冷えたスープが出てくるところもある。

 そしてまた、くり返しになるが、旅行(記)とは不思議なもので、青かびパンがずっと心に残ったりするのだ。春樹氏は旅を終えてから、「何日かたつとアトスが不思議に恋しくなった」と書く。 

そこでは人々は貧しいなりに、静かで濃密な確信を持って生きていた。そこでは食べものはシンプルだけど、いきいきとした実感のある味をたたえていた。猫でさえ黴つきパンを美味しそうに食べていた。

  ちなみに、この青かびパンを食べさせられた修道院は、もともとは行く予定に入っていなかった。当初アトスで三泊する予定だったのが、なぜか帰りの船が港に姿を見せず、急遽もう一泊することになり、やむなくそこで一夜を過ごす羽目になったのだ。こういう想定外の寄り道が、後になって一番思い出深い場所になることはよくある。 

逆に言えば、物事がとんとんとんと上手く運ばないのが旅である。上手く運ばないからこそ、我々はいろんな面白いもの・不思議なもの・唖然とするようなものに巡りあえるのである。そして、だからこそ我々は旅をするのである。

  先程の宮田さんの言葉を思い出す。どうやら旅の達人は同じ結論に辿りつくようだ。
 またいつか自由に旅ができる日が戻ってくることを祈ろう…

 しかし、三冊しか紹介できていないのに結構長くなってしまった。
 集英社のサイトで、春日武彦さんが紹介されていたジュリアン・バーンズ、そして春日武彦さんの本など、まだまだ紹介したい本があったのだけど……まあ、コロナ禍が続けばまたそのうちに紹介したい、いや、コロナ禍は一刻もはやく終わってほしいので、また別の機会に紹介したいと思います。  

だいじょうぶ?と聞かれたら、どう答える? 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生 著)

麦戸ちゃんはさいきん学校にこない。麦戸ちゃんの家は大学のすぐ近くにあるから、七森は二限終わりに寄ってみようかなと思ったけど、きのう彼女ができたばかりだったし、共通の友だちでも女の子と家で会うのを白城は嫌がるかもしれないと(まだそういうことを確認する段階にもなっていないけれど)思って麦戸ちゃんにはラインだけした。

だいじょうぶ?

   明日には緊急事態宣言が発令されるらしい。(4月6日時点)

 まさかこんな事態が訪れるなんて思ってもみなかった。こんなディストピアSFのような世界が現実になるなんて。

 何が怖いかって、知らぬ間に自分も感染者になって、他人にうつしてしまっているのではないかという思いが、常に頭から離れないことだ。

 被害者が加害者になる。現実社会ではめずらしいことではない。
 いじめやパワハラをされた人が、別の相手にいじめやパワハラを行ったり、虐待を受けて育った人が、大人になると子どもに虐待をするというのは、悲しいけれど、よくあることだ。しかし、そんな無情な現実がまさかウイルスによってトレースされてしまうとは……。

 そしてちょうど、読んだばかりの「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」が、傷つける/傷つけられることを軸にした小説だったので、いっそう心に残った。 

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

  • 作者:大前粟生
  • 発売日: 2020/03/11
  • メディア: 単行本
 

  この物語の主人公である七森は、「僕もみんなみたいに、恋愛を楽しめたらいいなあ」とぼんやり考える、19歳の内気な男子大学生だ。

 といっても、モテないわけではない。156センチ45キロと女子のような体形の七森は、かわいいと言われて女子グループに連れ回されたこともあるし、高2のときには青川さんに告白されたこともある。
 けれども、なんとも思えずに、断ってしまった。

 青川さんへの罪悪感が消えないまま大学に入り、ちゃんとした恋愛がしたいと心から願うようになった。それが青川さんへの贖罪のような気がするからだ。
 大学で「ぬいサー」こと、ぬいぐるみとしゃべるサークルに入った七森は、そこで意気投合した白城に思い切って告白し、「付き合う」ようになるが、いつの間にか学校に来なくなった麦戸ちゃんのことが気がかりになる……

 多数派になじめない若者の対抗手段として、世間の常識をふりかざす大人に反抗したり、ロックなどのサブカルチャーにふけったりするのではなく、「ぬいぐるみとしゃべる」とは、いまどきの感覚だなと最初は思った。

 しかし、読み進めていくうちに、この小説で書かれている脆く傷つきやすい若者の姿は、けっして「いま」に限った一過性のものではなく、昔から変わることのない普遍的なものだと気づいた。 

家からここまで歩いている途中、「何点くらい?」「六八点」「ブスやん」「まあまあやろ」と学生が話してるのを聞いてしまった。

僕が、怒ることができればよかった。そんなこと、いえてしまえるひとたちのことがこわくなかったらよかった。

  七森は平気で女子を点数付けする男子たちに怒りと恐れを感じ、心の底から傷つく。
 麦戸ちゃんもまた、あることをきっかけにして電車にも乗れず、外に出ることができなくなった。
 七森はしんどそうな麦戸ちゃんを見てまた傷つき、麦戸ちゃんは自分をいたわっている七森を見てまた苦しくなる。

 家にひきこもる麦戸ちゃんの姿から、サリンジャーフラニーとズーイ』のフラニーを思い出した。ボーイフレンドのレーンにおしゃれなレストランに連れて行かれ、そこで倒れてしまい、家にこもって泣いているフラニーを。 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 インチキな連中に怒りを覚え、麦戸ちゃんに必死でよりそおうとする七森は、『キャッチャー』のホールデンなのかもしれない。
 しかし、ホールデンはその語り口にも怒りや攻撃性がにじみ出ていたが、七森と麦戸ちゃんは攻撃性を表に出すことなく、傷つく他人を見て自らも同じように傷つき、ひたすらやさしく互いの傷をいたわりあう。

 このふたりの閉じた世界だけだと、もしかしたら、最近のジェンダー問題を politically correct に描いた物語、と片付けられてしまうかもしれないが、白城の存在によって、この小説はまた別の面を見せる。 

白城もその場にいて、麦戸ちゃんになにも聞かないぬいサーの空気を、破滅しあうようなやさしさなんじゃないかと感じた。

やさしさって痛々しい。あぶない。やさしさがこわいと白城は思う。

  大学のうちに誰ともつきあえなかったら……と不安になった七森は、常に誰かと付き合ったり別れたりをくり返している白城となら気軽に付き合えるのでは、と思って告白し、「いいよ。いまだれもいないし」とあっさりOKをもらう。

 白城と軽い世間話をするのは楽しかったが、とある広告が男女差別だと炎上した話題になったとき、「なんなの。まじでこいつら。文句いってばっかり」「子ども持ったら女は仕事休むのに」と、抗議する女たちにはっきり嫌悪感を示す白城に違和感を覚える。

 politically correct の観点から見ると、白城の言い分はもちろん正しくない。けれども、この小説は、そんな白城を単に世間の誤った価値観の代弁者、純粋で傷つきやすい七森と麦戸ちゃんに対する当て馬役として配置しているのではなく、やさしさゆえにどんどんと傷ついていく七森と麦戸ちゃんに苛立ちを感じる白城の視点も描いている。


 ちなみに、この小説は基本的には七森の視点から書かれているが、ところどころ麦戸ちゃんや白城の視点に移る。読んでいて居心地の悪さを感じる人もいるかもしれないが、それによって物語が深みを増しているように思えた。

 そのほかに3つの短編がこの本に収められているが、「たのしいことに水と気づく」がおもしろかった。
 主人公の「私」は恋人である箱崎と結婚することになったが、気分はいまいち晴れない。 

恋人のこと、他のひとと比べて好きなだけかもしれない。他のひとと比べてこわくないから。やさしいから。私を傷つけないから。ずっとそう感じながら箱崎とつきあってきた。

  しかし、「私」が憂鬱なのは結婚に迷いがあるからだけではない。同居していた妹が二年前に突然姿を消したからだ。妹を待ち続ける「私」の切なさに加えて、「私」とまったく異質な人間、ぐいぐいと「私」の世界に入ってきて、しまいには「ネトウヨ」になる黄未子さんの存在がいいアクセントになっていた。

 最後には、「だいじょうぶのあいさつ」という、引きこもりの兄を中心とした一家を描いた短編が収められているが、「だいじょうぶ」というのは、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」でもキーワードになっている。

 「大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫」と答えるとき、その多くは「大丈夫」ではない。相手を心配させないため、悲しませないため、もしくは、現実から目をそらすための答えだったりする。

 「大丈夫じゃない」と言えるようになることが、ほんとうに大丈夫になるための一歩なのだろう。と思う一方で、どんなことがあっても、「大丈夫」と言ってのける逞しさへの憧れも捨てきれないのは、世代によるものなのか、自分の中にマッチョな何かがあるからなのか、なんて考えさせられたりもした。