快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「強きを助け、弱きをくじく」はギャグになっているのか? 『タクシー運転手 約束は海を越えて』

 前回に続き、すっかりアジアづいている今日この頃。寒い日にはサムゲタンが食べたくなり、暑い日には韓国冷麺が食べたくなる自分には、やはりヴィクトリア朝ではなくアジアの方が似合うのでしょう……

というわけで、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』を観ました。

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 舞台は1980年の韓国。ソウルのタクシー運転手マンソクは、男手ひとつで11歳の娘を育てている。娘のために毎日せっせとオンボロタクシーに乗っているが、政情が不安定で景気が悪いため、いっこうに暮らしは楽にならず、家賃も滞納している。民主化を求めてデモをする学生を見て、いい気なもんだとつぶやくマンソク。

 そんなある日、マンソクは外国人の客を見つけ、こりゃ金になる!と思って、なかば強引に自分のタクシーに乗せる。運転手だけあって英語は得意だ。といっても、完全なカタコト英語だが。当時は一般人はもちろん、大学生でもカタコト英語すら話せない者が多かったのだ。

 期待どおり、外国人客は光州まで行けば大金を支払うと言うので、マンソクは鼻歌まじりに一路光州へ。ところが、光州への境にさしかかると、軍隊が道を封鎖している。だが、外国人客はなんとしてでも光州に入らないと金は一切払わないと言いだす。金をもらわないと、ガソリン代だけでも大赤字だ。必死で軍人を言いくるめて、裏道からなんとか光州へ入る。が、そこには信じられない光景が広がっていた……


 1980年の韓国の民主化運動、光州事件を舞台にした映画である。中国での民主化運動、天安門事件はその映像が全世界に広がって衝撃を与えたが、光州事件についてはよく知らないひとも多いのではないだろうか。正直、私も名前を聞いたことがある程度だった。しかし、この映画を観て、光州事件と、事件が隠蔽されていた経緯――政府による厳しいメディア統制――を知り、考えさせられた。


 だが、この映画がすぐれているのは、この映画に限らず韓国映画全般に言えることだが、重いテーマでありながらも、いや、むしろテーマが重ければ重いほど、エンターテイメント性が突出していることだ。こんな大事件を取り扱いながらも、「なにも考えずに楽しめる」要素もふんだんにあるところがすごい。


 すっかり肝を冷やしたマンソクが止めるのにもかかわらず、実は外国人記者だったタクシー客は、光州市民たちとともに軍隊が銃を構える現場にまで入っていく。素朴な一市民であるマンソクは、軍隊が市民に発砲するなんてことがどうしてあり得るのか? と、ただただ驚愕しながら逃げ回る。そこから、ビルのなかでの逃走劇や、ハリウッド映画のようなカーアクションまであって、観客をまったく飽きさせない。そして、物語の底には、娘への愛情や、光州で出会った人々との交流という人情がしっかりと流れている。


 ちなみに、この映画は実際に光州を取材したドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーターのエピソードからできており、ソン・ガンホ演じるタクシー運転手も実在の人物をモデルにしている。光州の一般市民が大勢犠牲になり、タクシー運転手たちが協力して負傷した市民を救ったというのも事実らしい。

 ソン・ガンホたちを執拗に追う警官役のチェ・グィファが鬼気迫る演技だったせいか、若いときの鳥肌実が頭に浮かび、いまの鳥肌実がほんとうにヤバイひとになっているらしい(よう知らんけど)ことを考えあわせると、いっそう寒気がした。

 それにしても、先にも書いたように、メディア統制のおそろしさが印象に残った。軍隊が市民にむけて無差別に発砲するという異常事態も、「共産党員による暴動を軍隊が制し、軍人五名が死傷」という具合に報じられる。

 しかし、現状を考えると、こんな映画が作られて、韓国国民の5人に1人が見るという事態(動員数が1500万人で、韓国の人口は5500万くらいなので)からは、日本より韓国の方が民主主義が機能しているようにも感じられる。
 この映画の製作、そしてヒットは単なる偶然ではなく、朴槿恵前大統領が逮捕され、文在寅政権が発足した動きと関連しているらしいが、不正を行った大統領をきちんと逮捕するという点においても、韓国の方が民主的のように思える。
 
 もちろん、軍事政権の記憶がまだ色濃く残っているという理由も大きいのだろう。でも、いまの日本で、こんな映画を作り、それが大々的にヒットするなんてことがあるだろうか? と考えると、どうしても暗い気持ちになる。「民主化を求める市民とそれを制圧する軍」というと、現在の日本では、どういうわけだか、一般の市民であっても軍の目線に立つひとが多いようなので。

 いや、「どういうわけだか」と書いたけれど、どういうわけかは推測できる。おそらく、「自分はこれだけ我慢している。だから我慢せず声をあげる者が許せない」のだろう。「自分はおとなしく上に従っている。だから従おうとしない者が許せない」「自分は貧しくともせっせと働いてる。だから働こうとせず生活保護を求める者が許せない」などなど……。

 この心情は現在の日本人特有のものではなく、この映画のマンソクも、冒頭でデモをする学生たちを冷ややかな目で眺めている。

 正義なんて富める人間が口にする寝言だ。助けあいなんて偽善だ。他人が自由を求めるのが許せない。他人が権利を主張して、「得」を求めるなら、なにがなんでも阻止したい。たとえそのために、自分自身も「損」を被ることになっても。
 こんな気分がいまの世の中に蔓延しているような気がする。

 と言いつつ、私自身デモなどの社会的な活動に参加したことはまったくないので、えらそうなことはなにひとつ言えないのですが。
 でも、「強きを助け、弱きをくじく」というのは、タケちゃんマンのギャグだけでじゅうぶんだとは思っておきたい……って、タケちゃんマンって古すぎやろって感じだが、まあ同じ80年代ものってことで。でもほんと、これがギャグだってことが伝わらない世の中になっているような気がする。

1967年から2013年までの香港の「正義」の変遷とは――『13・67』(陳 浩基 著 天野健太郎訳)

 さて、2017年中国ミステリー最大の話題作『13・67』を読みました。 

13・67

13・67

 

  以前に高野秀行さんがツイッターで絶賛しており、これまで高野さんが絶賛した作品はまったくハズレなしなので(『解錠師』『ストリート・キッズ』など)、きっとおもしろいにちがいない!!と期待していたら、2017年翻訳ミステリー読者賞も受賞し、読者がもっとも多く票を投じたのだから、絶対におもしろいにちがいない!!と、自分のなかで上げに上げきったハードルを(勝手に)課して読んだのだが、それでもまだ余りが出るほどおもしろかった。

 ちなみに、最近では高野さんは『アティカス、冒険と人生をくれた犬』を推していたので、これも読まないと。 

アティカス、冒険と人生をくれた犬

アティカス、冒険と人生をくれた犬

 

 この『13・67』は六つの中編小説からなる作品集であり、タイトルで『13・67』とあるように、1967年から2013年の香港を描いている。

1997年6月6日は、大多数の香港人にとって、ごく平凡な一日だった。(略)
しかし、クワンにとって今日は特別な一日だった。なぜなら、彼の最後の勤務日だったからだ。
警察官となって三十二年、五十歳となったクワン上級警視は明日から、輝かしいリタイアの日々を送ることになる。  

1997年7月1日、香港の祖国復帰のあと、皇家香港警察は「皇家」(ロイヤル)の称号を外し、「香港警察」へ生まれ変わる。

と、香港の歴史にとって忘れられない年、1997年を舞台にした作品もある。

 といっても、香港返還といった歴史に残る大イベントを直接描いているわけではなく、取りあげられているのは、ギャングの抗争や財閥一族での殺人といった、ごくありふれた――「ありふれた」ものが「事件」なのかと考えると矛盾しているが――事件である。
 しかし、その事件の裏側には、イギリスと中国の狭間におかれた香港の姿と、そんな特殊な状況を生き抜いてきた香港人のたくましさが刻まれている。

今、彼の命が尽きようとしている。そして長年、彼が身をもって築き、支えてきた香港警察のイメージもまた、風前の灯であった。香港警察の威信はいつからか失墜の一途を辿り、2013年の今、すっかり色あせている。

 さらに、この本は時系列を逆から語っており、2013年からはじまり、1967年で終わる。冒頭から、先に引用した(本のなかでは後から語られる)1997年時点で希望に満ちていたはずの香港警察が失墜し、どんな悪も見逃さない「天眼」と呼ばれたクワンが息を引き取りつつあるようすが描かれる。

 ところが、クワンの弟子筋にあたるロー警部は、意識を失い、なかば植物人間状態のクワンの脳波をコンピュータで読み取り、YES・NOのシグナルを出すことによって(YES・NO枕が頭によぎったのは私だけだろうか?)、財閥の頭首である阮文彬を殺した犯人を当ててみせるというのである。そんなことが可能なのか?


 それ以降の物語も、クワンを主人公とした連作となっており、香港の芸能界を牛耳るマフィア、ギャングの大親玉である石兄弟との闘争、本国で借金を作り、出稼ぎに来た香港で息子を誘拐されたイギリス人一家が登場する。

 1967年を舞台にした最後の作品は、左派による反英暴動を背景として、テロ組織によって香港のあらゆるところに仕掛けられた爆弾を追うというストーリーであり、この本のなかでただひとつ一人称で語られている。

香港がどうしてこんなふうになってしまったのか、私にはわからなかった。
四ヵ月前には、この都市がこうなるとは考えてもみなかった。
まるで今、香港は狂気と理性の境界線上に一本足で立っているかのようだった。
そして、境界線はどんどん曖昧になっていき、なにが理性でなにが狂気なのか、なにが正義でなにが罪悪なのか、なにが正しくてなにが間違っているのか、わからなくなっていった。

「私」とはいったいだれなのか――? それがあきらかになったとき、この物語の持つ円環構造におどろかされる。ただ主人公をはじめとする登場人物が共通しているだけの連作ではなく、物語全体を貫く大きなテーマが、1967年から2013年まで繋がっていることに気づかされる。

――覚えておけ! 警察官たるものの真の任務は、市民を守ることだ。ならば、もし警察内部の硬直化した制度によって無辜の市民に害が及んだり、公正が脅かされるようなことがあるなら、我々にはそれに背く正当性があるはずだ。

 「正義」とはいったいどういうものなのか?

 この本全体でも示唆されており、訳者のあとがきでも書かれているように、1967年時点の香港では「反英」が「正義」であったが、1997年以降の香港では「反中」が「正義」となる。

 そもそも「権力」が「正義」を執行することが「正義」と言えるのだろうか? 「正義」と「権力」は両立し得るのか? 

 クワンにとっての「正義」とは、「制度」や「権力」ではなく、とにかく市民を守ることである。
 「正義」とはそれぞれに異なる、個人的なものなのだろうか? 
 個人の「正義」と集団の「正義」が対立することはないのだろうか?
 こういった考えが、「黒と白のあいだの真実」というタイトルにこめられているのだろう。

――と、読者に考えさせることから、下記の訳者あとがきで書かれた著者の目論見は大成功といえる。

著者はあとがきで本作において、「本格派」と「社会派」を融合させる目論見を書いている。トリックという虚構の醍醐味とリアリズムという現実社会へのコミットメントを両立させることを目ざした結果、たしかに、
この小説は「本格ミステリ×香港(人)×歴史リアリズム」として成功している。

 もしかしたら、本格ミステリ×歴史リアリズムというと、難解で読みづらいのでは?と危惧されるかもしれないが、そんな心配はまったく無用。
 それどころか、まるで最初から日本語で書かれた小説のように読みやすい文章でおどろいた。韓国の翻訳小説でもたまにあるけれど、同じ漢字文化圏だから? しかし、中国語は文法も大きく異なるはずだが。


 また私は、香港は二十代前半にパックツアーで一度行ったきりで、地理はぼんやりとしかわからないのだが(本に地図はついてます)、小説のなかでは地名がはっきり示され、辺りの雰囲気も濃厚に描写されているので、土地勘があるひとなら、この小説をもっと楽しめるのではないかと思う。


 そしてなんと、ウォン・カーウァイ監督がこの小説の映画化権を獲得したとのこと。いったいどんな感じになるのだろうか?

 結局香港には一回しか行っていない私も、学生時代にはもちろん『恋する惑星』を見て、フェイ・ウォン可愛い~!と思って、サントラも買って聞き(クランベリーズのドロレスが先日亡くなっておどろいたが)、金城武ファンになった友達がプロマイド(死語ですかね)を買いたいというので、天王寺にあった香港映画センター(みたいなところ。いまでもあるのだろうか)についていったりもしました。
 映画の公開も楽しみです。ちゃんと公開されるんかな?

 

不思議な魅力のあるデビュー作(勝手に配役も考えた) 『永遠の1/2』(佐藤正午 著)

 さて、4連休もどこに行くわけでもなく、ゴキブリみたいに家にへばりついていたら、あっという間に終了しました。やったことといえば、録りだめしておいた山本文緒原作のドラマ『あなたには帰る家がある』を見ながら、掃除らしきことをした程度。 

  しかしこのドラマ、なかなか目が離せない。
 中谷美紀がガサツだけど善良なオバサン妻を演じるのって、キャラがちがうのでは?と感じていたが、意外にもはまっている。前にも書いたけれど、なぜか研ナオコに見える瞬間があるショートヘアも似合っていると思えてきた。
 
 あと、ヒュー・グラントが還暦間近となったいま、優柔不断のやさ男を演じたら世界一の玉木宏(※個人の感想です)に、ユースケ・サンタマリアは、バラエティでもおなじみの死んだ魚のような目がモラハラ夫にぴったりだし(ちなみに、モニタリング!に出ていたとき、「日本のヒュー・ジャックマン」と名乗っていた。その少し前、スペースシャワーの番組では、曰く「日本のエド・シーラン」と)、どんな役を演じてもワケありに見える木村多江は安定の薄幸演技、と見応えがある。

 それにしても、玉木宏(が演じる役)、不倫相手とのホテル代にカードを使うって、マヌケにも程があるやろ(しかも4万8千円ってめっちゃ高い)と思うが。しかもちょっと聞かれただけですぐにテンパり、あっさり認めて平謝りする。「嘘もつけないくせに浮気するな!」と中谷美紀が怒るのももっともだ。


 で、前置きが長くなりましたが、その山本文緒が解説を書いた佐藤正午の『ジャンプ』に続き、『永遠の1/2』も読みました。 

永遠の1/2 (小学館文庫)

永遠の1/2 (小学館文庫)

 

失業したとたんにツキがまわってきた。 

いま思えば不思議な気さえするけれど、ぼくは、一年近く続いた女との関係をたったの二時間で清算できたことになる。しかも結婚はしない、殺人も犯さない、涙の一滴だって女の眼からこぼれないというのだから、これは離れ業だ。

 この小説は主人公の「ぼく」が仕事を辞め、次の仕事に就くまでの約一年間を描いている。

 『ジャンプ』の主人公は、失踪した恋人を必死で探す語り口によって、実はしょうもない男であることを読者に隠蔽していたが、この小説の主人公は、冒頭から仕事を辞めてぶらぶらし、婚約者と別れたかと思えば娼婦を金で買い、またすぐに競輪場で女をナンパしたりするので、しょうもない男であることが最初からあきらかなようだが、実は、この小説でしょうもない男なのは「ぼく」ではない。
 
 無職生活になってすぐ、「ぼく」はその娼婦と、さらに父親からも人違いをされかける。どうやら「ぼく」にそっくりな男がいるらしい。

 それからの「ぼく」は仕事を探すでもなく、ナンパした良子がワケありのめんどくさい女だったことに気づいてうんざりしたりと、ぱっとしない生活を過ごすのだが、一方で、「ぼく」にそっくりな男は、ひとの女をたぶらかし、ついでに金も盗んで駆け落ちしたかと思うと、またすぐに別の女に手を出したりと、波乱万丈の人生を送っているらしい。

 おかげで、その男はあちこちから恨みをかい、しばしば人違いをされる「ぼく」もそのとばっちりを受ける羽目になるので、そいつを捕まえてやろうと「ぼく」は必死に探すが、えんえんとすれちがい続ける……。
 
 と書くと、パラレルワールドといった、SFを取り入れた小説のようだが、そういうわけでもない。正直なところ、自分にそっくりな男がくり広げる騒動という設定があまり生かされておらず、ただひたすら「ぼく」が、そっくりな男をめぐるあれこれ以外には、これという事件のない日々を淡々と語っていくだけだ。
 
 じゃあ、おもしろくない小説なのか?と聞かれると難しいところで、すごくおもしろい!というわけではないのだが、なんだか不思議な魅力がある。多くのデビュー作がそうであるように、未分化のなにかと作者の生(なま)の衝動が埋もれている感じがする。
 
 私が読んだ新装版には、2016年に作者が書いたあとがきが収録されていた。そこで、作者はこの小説を読み直すのは苦痛だったと書いていて、さらに

この長い小説を書いた新人にどこか見所はあるのか?
あるとして一点、どうにかこうにか挙げられるのは、僕は、彼の文章力だと思う。
ここで文章力というのは、文章がうまいとか、こなれているとか、読ませるとか、粋だとか、そういう意味では全然ない。
たとえばそれは、僕が思うに『永遠の1/2』において発揮されている文章力というのは、粘り、とか、根気とかの言葉に置き換えられるものである。
無遅刻無欠勤 真面目 地道 丈夫なからだ 凡庸
ぜひとも欠かせない条件、とまで言わないにしても、あっても絶対に邪魔にはならない資質ではないか、というのが僕の意見である。

  とあり、なるほどと思った。

 たしかに、この小説の大きな魅力は文章だと思う。1980年代の小説なのに、ちっとも古臭くない。もちろん、ディテールは「この年巨人に入団した江川」だったり、主人公の妹が「30過ぎたら行き遅れになるよ」と母親から言われたり、時代を感じるのだが。
 作者は「読ませるとか」という意味ではないと書いているが、じゅうぶんに「読ませる」文章であり、当時はかなり斬新だったのではないだろうか。

 さらに、「無遅刻無欠勤 真面目 地道 丈夫なからだ 凡庸」というのは、なかば冗談というか含羞がまじっているのだろうけど、長年小説を書き続けてきた作者の言葉として重みがある。
 
 ところで、この小説を検索したところ、映画になっていることを知った。
 主人公は時任三郎で、まあそれはいいとして、良子が大竹しのぶってどうだろう?? いや、「めんどくさい女」にはぴったりな気もするが、良子は足がすらっと長く、きれいな後ろ姿をしている女なのだ。となると、若いころでも大竹しのぶではないような。。

 では、いまならだれがいいのか? 先にも書いた木村多江は「ワケあり」にふさわしいが、良子は29歳なので難しいか。(小雪も同様か。時代が変わっているので、年齢の設定をあげてもいいだろうが)
 若手で「めんどくさい女」が似合うというと……仲里依紗はどうでしょう?(だれに話しかけているのか) 
 そして二つ下の主人公は……池松壮亮なんかいいんじゃないでしょうか。(再びだれに話しかけているのか)

 あと、実はこの小説は女子高生も登場する。しかも、山口メンバーどころじゃない事態になるのだが、だれが適役か……(映画では中嶋朋子だが)ベタだけど、橋本環奈とか? なんて勝手に妄想して現実逃避をする連休明けでした。
 

『ストーナー』の訳者が遺した翻訳への愛と情熱、そして脱力ギャグ 『ねみみにみみず』(東江一紀 著 越前敏弥 編)

 さて前回、第四回日本翻訳大賞が決まったと書きましたが、第一回読者賞を受賞した『ストーナー』の翻訳家、東江一紀のエッセイ『ねみみにみみず』を読み、ほんと翻訳家はエッセイがうまいひとが多い、とつくづく思った。 

ねみみにみみず

ねみみにみみず

 

  

ストーナー

ストーナー

 

  「執筆は父としてはかどらず」や「訳介な仕事だ、まったく」という章タイトルからわかるように(?)、翻訳という仕事をテーマとする文章が多数収録されており、翻訳や語学の学習者はもちろん、翻訳本の読者にとっても、非常にためになる本である。

 たとえば、翻訳書につきものの「訳者あとがき」について、作者はこう語る。

訳者が作品について、あるいは作者について、ぐたぐたと、あることないこと(あることばかりじゃ、ページが稼げない)、知ってること知らないこと(知ってることばかりじゃ、箔が付かない)、思ってること思ってないこと(思ってることばかりじゃ、商売にならない)書き連ねるという趣向

  そうだったのか。いや、最後の「思ってることばかりじゃ、商売にならない」というのは、これまでもうっすら勘付いてはいたが、前のふたつについては想定外だった。まだまだ自分は修業が足りない世間知らずだと痛感するが、このあとを読んで、さらに自分の甘さを思い知る。

もうひとつ問題なのは、いえ、問題と言っても、べつに取り立てて書くほどの大問題じゃなくて、ぜひとも皆様にお聞かせしたいほどの中問題でもなくて、実にまあ枝葉末節の、気にするのもばかばかしいようなフォーク、じゃなくてナイフ、じゃなくて瑣事なので、読者諸兄にはすっと読み飛ばしていただきたいのだが、それはつまり、このあとがきを書くという仕事がですね、なんとただ働きだっちゅうことだ。 

  なんということか。訳者があとがきで「ぐたぐたと、あることないこと」を書き連ねるかと思えば、出版社は出版社でそれに一銭も支払っていないとは。翻訳本の現場では、労働にはすべて対価が生じるという資本主義の原則が破壊されていたのだった……

 とまあこんな具合に、随所に、というより、いたるところに、なんなら本題より多く、脱力ギャグを散りばめながら翻訳家の日常生活が綴られている。そのギャグのくだらなさ(いい意味で)やトホホ感は宮田珠己のエッセイに近いかもしれない。
(ちなみに、きのう出町座で行われた、この本の刊行記念のトークイベントに行きましたが、最近はあとがきに原稿料を払う出版社もあるそうです)

 え? 脱力ギャグはともかく、ほんとうにためになるのかって? いやもちろん、実際に英語を訳してみるコラムも収録されている。ひとつ例をあげると 

 George Bush is a fake, a fool, and a wimp.

 という文が課題になっているコラムでは、「ペテン師、ピエロ、ポンコツの3P」とか「インチキ、トンチキ、おまけにチャンチキ野郎」などの読者からの投稿が楽しい。最優秀賞に選ばれた作品については、ぜひ本で確認してください。

 最後の編集後記では、実際に作者が蒐集してきた罵倒語集の一部が披露されているが、これがまたどれもひねりがきいていて感心させられるので、ぜひとも読んでみてください。個人的には「トマトのへた」と「しわん中に顔が同居」が気に入った。 

He has big lips. I saw him suck an egg out of a chicken. This man has got child bearing lips. 

  とはいったいだれの悪口か? これもぜひ実際に本を読んで確かめてください。

 しかし、どれほど脱力ギャグによって埋めつくされていても、作者の壮絶な仕事ぶりもじゅうぶんに伝わってくる。
 「わたし、塀の中の懲りない訳者です」と題されたエッセイでは、七か月間で「ミステリー四冊、ノンフィクション二冊」を翻訳しないといけない「締切り地獄」にいることが語られる。 

というわけで、一念発起、一意専心、猪突猛進、乾坤一擲、委細面談、地獄のワーカホリッキングライクチックフルネスリー生活に突入する決意を固めました。七か月間、わき目もふらずに働きまくるのだ。言うなれば、長期ひとり合宿。執行猶予なしの自主懲役。

  次のエッセイでは「なんでわたしが、錯乱するほど忙しく働かなくちゃなんないのかってこと」について、「ひと言で言えば、食えない」からと書かれているが、もちろん翻訳書が売れなくなり、初版部数がひところの半分になって一冊あたりの収入が減ったというのは事実だろうけれど、それほどまでに文字通りに身を削って働いたのは、やはり仕事への情熱、絶対に手を抜かないという完璧主義が大きかったのではないだろうか。

 先にあげた『ストーナー』の美しい訳文でも、その凄みがよくわかると思うけれど、私のおすすめは(といっても、全訳書を読破しているわけでは全然ないが)、やはりドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』だ。 

ストリート・キッズ (創元推理文庫)

ストリート・キッズ (創元推理文庫)

 

  ニューヨークの下町を舞台に、父親の顔も知らず、ドラッグ中毒の母親になかば育児放棄されたストリート・キッズのニールが、グレアムという謎の男のもとで探偵稼業をはじめる物語。
 というと、ワルで荒くれ者の(死語ですね)ニールがハードなドンパチ(これも死語ですね)をくり広げるのかと想像するかもしれないが、まったくそうではなく、ピュアで繊細、しかも聡明で、コロンビア大学で英文学を専攻しているというニールのキャラがとっても新鮮だった。
 
 さて、先に引用した訳者あとがきについてのエッセイには、続いて 

いえ、いえ労力に見合う報酬をよこせと言ってるんじゃないの(くれるんだったら、固辞はしないけど)。訳者あとがきにはね、作者と作品と読者に対する翻訳者の無償の愛が込められているのだということを、ちょっとだけわかってほしいのであった。

 とあるが、まさにそのとおり、翻訳の仕事に一生を捧げた東江さんの「作者と作品と読者に対する翻訳者の無償の愛」が、ギャグという含羞(あるいは含羞というギャグ)の合間から、深津絵里、まちがい、深田恭子、いやちがう、なによりも深く(←ちょっと東江さん風に書いてみた)伝わってくる一冊だった。
 
 

大きな選択を迫られるとき――『ピンポン』(パク・ミンギュ 著 斎藤真理子 訳)『マレ・サカチのたったひとつの贈物』(王城夕紀)

 さて、第四回日本翻訳大賞が『殺人者の記憶法』と『人形』に決まりました。『殺人者の記憶法』は前にも紹介したように、原作も映画もおもしろかったので納得。
 『人形』はポーランドで人気の小説らしいが、手をつけるにはかなり気合のいる長さのよう。いや、『殺人者の記憶法』が中編なので、足して2で割ると考えると大丈夫なはず(?)

人形 (ポーランド文学古典叢書)

人形 (ポーランド文学古典叢書)

 

 それにしても韓国の小説は勢いあるなーとつくづく思い、第一回日本翻訳大賞の受賞作『カステラ』の作者パク・ミンギュの『ピンポン』を読んでみた。 

ピンポン (エクス・リブリス)

ピンポン (エクス・リブリス)

 

  世代的に『ピンポン』というと、どうしても当時きらきら輝いていた(いや、いまも独特の活動をしていると思いますが)窪塚洋介の「アーイキャンフラーイ」が頭に浮かぶ。
 こちらの『ピンポン』も、「ペコ」や「スマイル」と同様に、「釘」と「モアイ」がピンポンにうちこむ青春ストーリーなのかな……と予想しつつ読みはじめたら、思ってたのとぜんぜんちがった。

君と僕は、世界に「あちゃー」された人間なんだよ。

「釘」も「モアイ」も学校でいじめられているのだが、そのいじめのレベルがなかなかえげつない。(えげつないって関西弁かな? 通じるかな) いや、いじめというか、もう完全な犯罪やん、というレベル。

 実際、いじめのリーダーである「チス」は警察に追われる身になったりする。それにしても、このチスの描き方もうまかった。なに食わぬ顔で凄惨な暴力をふるい、周囲に恐怖をあたえて支配する。そして、時おり「釘」に優しい言葉をかけたりするので、そのおそろしさがいっそう際立つ。たまにいるモンスター犯罪者(尼崎や北九州での家族殺人事件など)のパーソナリティってこういうのではないかと、リアルに想像できる。

つまりピンポンというものは、僕の考えでは、人類がうっかり「あちゃー」しちゃったものと、絶対「あちゃー」されないものとの戦争なんだ。

 そして、「釘」と「モアイ」が原っぱでうち捨てられていた卓球台を見つけて、ピンポンをはじめることになるのだが、次から次へとさまざまな人々のさまざまなエピソードが、脈略なく、と思えるほど唐突に、挿入されてなかなか物語は進まない。

 卓球用品店の「セクラテン」による卓球史の語りから、コンビニを経営している夫婦の揉めごと、ハレー彗星を待ち望むひとびと、はてはモアイの従兄がファンだというアメリカの作家ジョン・メーソンの小説が語られたりもする。

 たしかに『カステラ』でも、リアリズムから離れた奇抜な展開があったけれど、短編なので取り残されるほどではなかったが、こちらは話を追うのが少々しんどくなるところもあった。
 
 物語は最後まで失速することはなく、これまた唐突に、「釘」はピンポンを通じて、大きな選択を迫られる。最後の「釘」の選択は、小説のよくある方程式のようなものから外れているかもしれないが、前半にもこうしっかり書かれていることを考えると、この小説を貫く価値観として理解できる。 

理由はただひとつ、僕が誰とも
意味のある関係を
結びたくないからだ。ほんとに、いやなんだ。
人間とは誰とも関係を持ちたくない、関係されたくないし、関係したくないんだ。頼むからって感じだ。なのに何で、なのに何で――僕をほっといてくれないんだ? 

  ディストピア世界を描き、最後に選択を迫られる小説というと、王城夕紀の『マレ・サカチのたったひとつの贈り物』もそうだ。 

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

 

  マレ・サカチこと坂知稀は、突然ちがう場所にワープするという(テレポーテーションというのか)「量子病」におかされている。

 いつ、どこに、移動するのかは自分では制御できない。日本の田舎町に行くこともあれば、マンハッタンの繁華街に現れることもあり、灼熱の砂漠に着いたと思えば、極寒の北極圏に跳んでしまうこともある。青い服だけが、動きをともにすることができる。つまり、それ以外の服を着ていたら、裸になってどこかで出没してしまうのだ。そして、行く先々でさまざまなひとと出会い、否応なしに別れていく。

 そんな坂知稀が生きている世界は、資本主義が極度に進んで格差が広がり、一度目のワールドダウンを経て、二度目のワールドダウンを目前にしている。テロとデモが止むことはなく、ひとびとはネットに逃げ場を求めるようになる。 

「これはネット上というフロンティアを急速に拡大させて、永遠の楽土資本主義を現実化するための装置なんだ」ネット上なら、物語も欲望も無限に広げられる。フロンティアは無限だ。人間に欲望がある限り、資本主義は死なない。

  最後に、坂知稀もとある選択を迫られる。この選択は倫理的にもコレクトのように思えるが、コレクトであることが小説の価値になっているわけではなく、量子病ゆえに断片的な出会いと別れをくり返してきた坂知稀が全編でしっかり描かれているから、小説として説得力があるのだろう。 

そしていつか、貴方が見てきたもの、貴方だけが見てきたもので、新しい選択をするの。

  けれども、実生活においては、選択って迫られたくないものですね。すべて流れのまま、なんとなく、なしくずし、という「三な主義」が一番いい処世術のような気がする。

滑稽な人間の生について考えてみる 『深い河』(遠藤周作 著)『今日はヒョウ柄を着る日』(星野博美 著)

 手元にないのでうろ覚えだが(実家にあるはず)、学生時代に読んだエッセイ『佐藤君と柴田君』で、親が古びてきたので病院に通っていると柴田さんが書いていて、そのとき「そうか、親って古びるものなんだ」と思った記憶がある。 

佐藤君と柴田君 (新潮文庫)

佐藤君と柴田君 (新潮文庫)

 

 しかし、あれから幾年月が過ぎ、わが親もしっかり古びてしまい、病院や施設に同行する今日この頃。

 そんな日々のあいまに読んだ、星野博美『今日はヒョウ柄を着る日』でも、「いまだかつて経験したことのない『老い』という新しい世界に日々向き合っている」親と一緒に暮らす日々が綴られている。 

今日はヒョウ柄を着る日

今日はヒョウ柄を着る日

 

 自分より常に大人だったはずの人の変化は、若い世代にとっては苛立つものだ。昔はそうではなかった、を基準値にすれば、双方にとって受け入れがたいことが多くなる。彼らだってそう望んで変化しているわけではない。

 たしかにそのとおりだ。というか、「昔はそうではなかった」は、自分自身に対して思うことすらあるが。

そこで私は「親の住む老いという国に、留学している自分」という設定を思いついた。

 なるほど。たしかに、介護施設の「談話室」で老人ばかりに囲まれていると、当然ながら自分は少数派なので、言葉の通じない外国に行ったのと同じような気分になる。いずれ自分もたどる道と思うと、留学生というより、年長クラスにまぎれこんだ年少生といったほうがふさわしいのかもしれない。
 
 そんな感じで、老いの国の留学生として過ごしながら、職場の社長に勧められた遠藤周作の『深い河』を読んだ。 

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

 

やき芋ォ、やき芋ォ、ほかほかのやき芋ォ。

医師から手遅れになった妻の癌を宣告されたあの瞬間を思い出す時、磯辺は、診察室の窓の下から彼の狼狽を嗤うように聞えたやき芋屋の声がいつも甦ってくる。

  と、冒頭から「やき芋ォ」の呼び声と「手遅れになった妻の癌」と軽重な事柄が対照的に配置される。
 いわゆる「緊張と緩和」のようでもあるが、佐伯彰一の解説では、「いわば卑近な日常性モチーフのこの作家における根ざしの深さ」と書かれており、たしかに、かなり昔に読んだ『沈黙』でも、「神」と「卑近」な弱者である人間の関係が描かれていたと思い至る。
 
 この『深い河』は、現代(この小説が書かれた1990年前後?)を舞台とした群像劇である。
 上に引用した、妻に先立たれる「磯辺」、その磯辺の妻をボランティアとして看病した「美津子」、動物を愛する童話作家「沼田」、そして、第二次世界大戦インパール作戦で生き残った「木口」が、それぞれの思いとともにインドツアーに参加し、深い河ことガンジス河に向かう物語である。

 「美津子」のパートに一番の重点がおかれているが、美津子がインドに旅立った経緯は――若いときからずっと空虚感を抱いてきた「美津子」は、だれも愛することができなかった。月並みな男と平凡な結婚をするが、結局離婚し、病院でボランティアを試みたりもするが、心が満たされることはなかった。
 そんなとき、キリスト教系の大学に通っていたころ、残酷に弄んだ神学生大津が、いまインドにいると知って会いに行く。

ボランティアをはじめたのは、そんな彼女の倒錯した気持からだった。愛が燃えつきたのではなく、愛の火種のない女。男との愛欲の真似事だけは何度もやったが、火種に本当の炎がついたためしはなかった。病人の尿器を洗ったり、食事を食べさせたりして、美津子が自分の滑稽さを噛みしめていた頃、大津の手紙を読んだ。 

  なにも信じられない自分が、病院で愛情深い人間のふりをしていることを滑稽に思う美津子と同様に、神を求めて世界を放浪し、ガンジス河にたどりついた大津もどこまでも滑稽で、醜く、無力な存在として描かれている。ガンジス河のほとりで、瀕死の病人の手助けをすることに、いったいなんの意味があるのか?

 しかし、そんな滑稽な行為に執着しているのは、美津子や大津だけではない。妻の生まれ変わりを探す磯辺も、動物が主人公の童話を書く沼田も、仲間たちの鎮魂を願う木口も、だれもが自分の行為を滑稽なものだと感じ、こんなことに意味があるのかと自問し続ける。
 
 先に書いたように、留学生となって、帰りたい帰りたいとわめいたり、気に入らない椅子に頑として座らなかったり(なにがどう違うのか謎だが)、施設のひとたちをえらく困らせている老人たちを眺めていると、そういう光景も、それを見ている自分も滑稽だとつくづく感じる。しかし、そうやって生きていくしかないのだともあらためて思う。
 
 そういえば『沈黙』も、神の目の前で棄教させられる人間の滑稽さやみじめさをとことんまで描き、そんな生に意味があるのかを問うた作品だった。 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 ちなみに、『沈黙』のバックグラウンドを詳しく知りたければ、先にも引用した星野博美の『みんな彗星を見ていた』をおすすめします。 

 スペインやポルトガルの勢力争いと結びついた、西洋のキリスト教布教戦略に、対する日本での 徳川家康などによる風見鶏的なキリスト教対策、それに翻弄される信者と周囲の人間のそれぞれの人生――殉教した者、棄教した者、最終的に弾圧せざるを得なくなった武士たち――が詳細に描かれていて、たいへん興味深く、筆者の熱が伝わってくるノンフィクションだった。
 

傷つけられた者たちの「自立」と「再生」の物語 『なぎさ』(山本文緒 著)

 妹が突然電話してきたのは三日前だった。しばらく会いたくないし声も聞きたくないから連絡しないでくれ、とはっきり言われたのは、ここに越して来る前のことなので何年も前だ。仕方ないことだと納得した私は、それから転居通知をポストに入れただけでまったく連絡を取っていなかった。   

なぎさ (角川文庫)

なぎさ (角川文庫)

 

  主人公の「私」佐々井冬乃は、故郷である長野県から神奈川県の久里浜に夫とともに引っ越し、静かな生活を送っていた。
 そこへ、しばらく音信不通になっていた妹の菫が突然訪れる。子どものころから器用で、勘とセンスに秀でていた妹は、高校を卒業すると同時に漫画家としてデビューし、上京して気ままに暮らしていたが、アパートが火事になり、冬乃と夫のもとに転がりこんできた。

 菫はもう絵を描くつもりはないようで、冬乃の料理の腕を生かして、久里浜で一緒にカフェをはじめようと持ちかけてくる。菫はすぐにカフェ計画を進め、恋人なのか友達なのか謎の男「モリ」まで佐々井家に居候するようになり、カフェ計画に参画する。
 生来引っ込み思案だった冬乃も、それにつれて変化を遂げ、カフェにやりがいを感じはじめるが、一方で夫の様子がおかしくなっていく――
 
 という物語で、飲食店の経営などまったくの素人だった姉妹がカフェを開き、そこから周囲の人間関係が変化し、自分たちも成長する物語――というと、なんだかありがちな「女性の自立ストーリー」だが、山本文緒の小説はそんなに単純ではない。
 
 まず、この主人公夫婦がなにか理由があって故郷を出たことが最初から暗示されている。

だから生まれ育った故郷を出ることを決断するには勇気が要った。出て行くことを告げると、両親は私をなじった。知り合いという知り合いは山々にがっちりと根ざす樹木のようになっていて、表面上は「遊びに行くね」と笑顔を見せても、眼の底は冷ややかだった。

  妹との関係も、上記の引用で「しばらく会いたくないし声も聞きたくない」と書かれているように、一緒にカフェを経営する姉妹と聞いて連想するような「仲良し姉妹」ではない。最終的には、それがこのカフェの命運を左右する。 

私はずっと長い間、妹のことをとてもうらやんでいた。(略)成績は私の方が良かったけれど、それ以外のことは何でも妹の方が優っていた。

  以前、山本文緒の『群青の夜の羽毛布』をはじめて読んだとき、そのころはまだ「毒親」という言葉なんてまったく生まれていないころだったのに、母と娘のあいだの愛憎、家族という密閉された空間で育つ狂気を、正面から描いていて衝撃を受けた。 

群青の夜の羽毛布 (幻冬舎文庫)

群青の夜の羽毛布 (幻冬舎文庫)

 

  出世作といえる『恋愛中毒』もそうだったように、一言でいってしまうと「アダルトチルドレン」なのかもしれないが、大きな穴で心がえぐれてしまい、なにかに依存したり執着せざるを得ないひとたちの物語を綴るのが、ほんとうに上手な作家である。 

恋愛中毒 (角川文庫)

恋愛中毒 (角川文庫)

 

  この『なぎさ』でも、主人公の実家がなにやら訳ありで、それが夫との関係にも影を落としていることが読むにつれてわかる。冬乃の事情にひきずられて故郷を離れ、慣れない土地で激務を強いられ、どんどんと消耗していく夫が、主人公姉妹ともうひとりの主人公である「川崎」をつなげる媒介者となる。
 
 そう、実はこの小説では、「三十代の女性がカフェを開いて自立する物語」と、「芸人をあきらめた青年が実社会で働いて自立する物語」が並行して描かれている。元芸人の物語、というと唐突な設定に思えるかもしれないが、冬乃と川崎が交互に語るせいか、とくに違和感なく物語に入りこめる。

 不良になった兄を反面教師にして、子どものころからお調子者キャラとして生きてきた「おれ」は、芸人を目指してコンビを組んで活動するが、すぐにトラブルに巻きこまれて辞めてしまう。彼女と結婚するために就職するが、どういうわけか毎日毎日ヒマで、仕事の合間に上司である佐々井と久里浜で釣りをし、料理上手な佐々井の妻(冬乃)の弁当を食べる日々が続く。 

上司の鼻歌なんかどうでもいいはずなのに、胸の内であれこれつっこんでしまうのは、毎日暇だからだ。入社してから数か月、仕事らしい仕事をしていない。おれは朝からずっと携帯で就職サイトを巡っていた。

  ところが、ヒマで長閑な日々はすぐに終了する。川崎は社会人経験がほとんどないにもかかわらず、いや、ないからこそなのだろうが、会社のブラック体質の餌食となり、身体も精神も限界をむかえる。ちょうどそのとき、芸人時代からの因縁がある謎の男「モリ」と再会して――
 
 ネットでこの小説の感想を読むと、「山本文緒の小説としては毒が少ない」「物足りない」という評もちらほら見かける。

 ネタバレになるかもしれないけれど、たしかに、以前の作品ならもっと冬乃の実家の闇や、親によってつけられた冬乃と妹の心の傷に焦点をあてていただろうと思われるので、その点はちょっと肩すかしにも感じた。かつては田舎の電器屋を営み、電球一個でも配達していたという両親が、どうしてああ落ちぶれたのかについては、説明がほしい気もした。
 
 しかし、この小説が描こうとしているものは、そういう闇ではなく、これまでさんざん闇に打ちのめされてきた冬乃と夫、そして川崎の「自立」と「再生」の物語なのだろう。
 基本的にお人好しの「川崎」と、ひょうひょうとしていて、なにを考えているのか掴みづらい茫洋とした佐々井が、互いを助けあう場面に象徴されるような、善意の世界を見つめた作品なのだと感じた。
 
 心の闇や悪意を無いものとしているのではなく、きちんと見据えながら、主人公たちが乗りこえようとする奮闘するさまが描かれているので、よくある「いい話」で終わらずに、説得力を与えることができたのだと思う。
 
 まだ闇から完全に抜け出せていない妹の今後も気になるし、「モリ」のような、完全に心無い男をあんなに上手に描けるのは、やはり山本文緒ならではだと思うので、続編かスピンオフのような作品も読みたい気もするが。

 考えたら、以前の作品『きっと君は泣く』も、心無い俗物――美人だが高慢な主人公に得体のしれない男――が出てきて、「登場人物に共感」などできない強烈な作品だったことを思い出した。こういう作品もまた読んでみたいのも事実ですが。 

きっと君は泣く (角川文庫)

きっと君は泣く (角川文庫)

 

 けれども、この『なぎさ』では、最後に冬乃が菫にかける言葉、そして最後に川崎が「おれは、お前のようには絶対ならない」とモリに宣言する場面がはっきりと示しているように、「モリ」のような人間が住む世界に引導を渡している。善意が信じられるものなのかどうかはわからないけれど、それでも信じてみようという意志を感じる。
 
 そういえば、今月から『あなたには帰る家がある』のドラマがはじまるよう。 

  中谷美紀玉木宏、そしてユースケ・サンタマリア、とキャストも魅力的なので見てみようかな。
 しかし、こないだ「オールスター感謝祭」で中谷美紀を見たところ、ショートカットで前よりもかなり痩せていて、これまでそんなことまったく思ったことないのに、なぜか研ナオコみたいに見えてしまい、少々おどろきを禁じ得なかった……