快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

それぞれの愛と成長の物語が、ナイジェリアの物語と響きあう『半分のぼった黄色い太陽』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 著 くぼたのぞみ訳)

「われわれの土地について、彼らがおまえに教えることには答えが二つある。本当の答えと、学校の試験に通るための答えだ。本を読んで、両方の答えを学ばなければいけない。本はわたしがあたえる。すばらしい本だぞ」

  以前に『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』を紹介しましたが、そのチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』を読みました。 短編はこれまでも読んでいたけれど、長編を読むのはこれがはじめて。

半分のぼった黄色い太陽

半分のぼった黄色い太陽

 

 アディーチェは代表作『半分のぼった黄色い太陽』――ビアフラ戦争(1967年~70年)の影響を主要人物3人を通して追う物語――のタイトルを、ビアフラの旗のシンボルにちなんでつけた。

 と、『世界文学大図鑑』に紹介されているように、この『半分のぼった黄色い太陽』は、1960年代のナイジェリアを舞台にしており、クーデターとともにイボ族の虐殺がはじまり、イボ族がビアフラ国の独立を宣言して内戦へと発展する経緯が、物語の中でも描かれている。ビアフラの旗は、このウィキペディアのページで画像を見ることができますね。 

世界文学大図鑑

世界文学大図鑑

 

  60年代前半、大学町スッカで数学を教える若い学者オデニボのもとに、村育ちの少年ウグウが住みこみのハウスボーイとして雇われるところから、物語がはじまる。
 イギリスの支配から独立したばかりのナイジェリアに情熱と誇りを抱くオデニボは、週末になると学者仲間と国の現状や将来あるべき姿について議論を戦わせていた。

 ウグウはちゃんとした教育を受けていないにもかかわらず、たいへん聡明な少年で、料理などの家事全般もすぐに要領を覚え、ご主人たちの議論に胸を躍らせ、心地よい英語の響きにうっとりと耳を傾けるようになる。冒頭の引用にあるように、オデニボはハウスボーイであるウグウにも勉強の大切さを教える。

 そんなオデニボとの生活に満足していたウグウだったが、ある日、ご主人の恋人のオランナが家にやって来る。 

彼女の名はオランナだった。でもご主人はたった一度しかその名を口にしなかった。たいてい「ンケム」と呼んだ。わたしの人、という意味だ。

  オランナは首都ラゴスの裕福な家庭で育った美しい娘で、“プリンス”と呼ばれるほどお金持ちの恋人ムハンマドもいたが、さほどお金持ちでもなく、しかも醜いと周りから言われるオデニボと恋に落ち、留学していたロンドンから帰国して、スッカでオデニボと暮らすことを決めたのだった。

 母親はオランナがスッカに住むのに反対だったが、オランナの双子の姉カイネネは、自分の恋人であるイギリス人のリチャードも、執筆活動のためスッカで暮らすことになったと告げる。

 リチャードはイボ=ウクウ美術に関心があり、ナイジェリアについての本を書きたいとイギリスからやって来たのだ。そして、とあるパーティーでカイネネと出会う。双子だというのに、だれもが美人だと褒めたたえるオランナにまったく似ていないカイネネにリチャードは目が離せなくなる。 

オランナの隣に立つと、カイネネはいっそう痩せて見えた。ほとんど両性具有といってもいい。タイトなマキシがボーイッシュなヒップラインを描き出している。リチャードは長いことカイネネを見つめながら、彼女も自分を探しあててくれないかなと思った。

  この小説は、ウグウ、オランナ、リチャードの三人の視点から交互に語られていく。

 最初の60年代前半の章は、独立してまもないナイジェリアの不穏な情勢について、オデニボと仲間たちは喧々諤々の議論を交わすものの、日常生活がおびやかされることはなく、オデニボとオランナ、カイネネとリチャード、それぞれの愛の物語に主眼をおいて描かれている。

 次の章では、60年代後半が語られる。登場人物たちの関係は、一見大きな変化は無いように思えるが、何かがはっきり異なっている。決定的な何かが起きたのだ。

 そうしているうちにクーデターが勃発し、イボ人の虐殺がはじまる。白昼、公衆の面前でイボ人がむごたらしく殺されることが日常になる。
 リチャードは、ついさっき言葉を交わした相手が目の前で殺されるという体験をする。オランナは無残に殺された親族の家からほうほうの体で逃げ帰り、悪夢のような光景を目撃したショックから、身体が動かなくなる。

 ここで、また舞台はいったん60年代前半に戻り、オデニボとオランナ、カイネネとリチャードのあいだで起きた事件が語られる。四人がそれぞれ損なわれた、取り返しのつかない裏切りについて。

 最後は再び60年代後半に戻り、どんどんと泥沼化していくビアフラ戦争が描かれる。オデニボとオランナ、カイネネとリチャード、そしてウグウの全員が戦争に巻きこまれ、運命の歯車が狂いはじめる――

 この本を読むまで、ビアフラ戦争についてはまったく知らなかったけれど、戦争そのものがモチーフとして描かれているわけではなく、日常生活が戦争によって破壊されていくさまが描かれているので、予備知識が無くても問題なく物語に入りこむことができた。

 とくに、前半はそれぞれの愛の形――オランナのオデニボへの思い、リチャードのカイネネへの思い――について繊細に描写されていて、登場人物の心情がひしひしと伝わってくるので、ある事件でそれぞれが受けた心の傷、戦争に直面して混乱する姿がいっそう際立ち、強く胸に訴えかけてきた。 

一瞬、理不尽にもオランナはオデニボから去ってしまいたいと思った。やがて理性がもどってくると、彼を必要とせずに愛せたらいいと思った。必要が、努力することを免除する力を彼にあたえていたから。必要は、彼のまわりに頻繁に感じる選択肢のなさでもあったから。

 「必要とせずに愛する」というのは、たしかにひとつの理想のように思える。けれども現実には、そんなの不可能だ。愛するということは、相手を必要とすることなのだから。いや、もしかしたら、相手を必要とせずに、ただひたすら愛することができる地平が存在するのかもしれないけれど、いまの私には見当もつかない。

 以前『ホテル・ルワンダ』を見たので、たとえ同じ国民であっても、民族間の争いが恐ろしい虐殺に発展することも珍しくないということは知っていた。
 その原因は、植民地時代にヨーロッパの国々が好き勝手に線を引いてアフリカの大地を区切り、自らの領土とした土地を効率的に統治するために、民族同士を分断して支配したからだ。

 かつての宗主国から来たリチャードは、ナイジェリアではいつも居心地の悪い思いを味わう。ナイジェリア人と接する際には後ろめたさを感じ、アフリカを遅れた土地と見做している白人たちと接する際には憤りを覚える。
 皮肉屋で誇り高いカイネネに激しく魅かれながらも気後れを感じ、なかなか愛を成就させることができない。

 登場人物たちは目の前の愛をうまく扱うことができず、ときに裏切りに翻弄される。それをつぶさに観察しているウグウは、愛というものはまだ理解できず、幼なじみの相手にほのかな恋心のようなものを抱いているだけで、妹をはじめとする周囲の女たちがどんどんと成長し、大人になっていくのにひたすら慄く。

 けれども、戦争が激しくなるにつれて、何もかもが逆転する。

 オランナは、あれほど強くたくましく思えたオデニボの肉体が、痩せてすっかり小さくなっているのに驚く。一生忘れられないと思えた裏切りすらも、遠くなっていく。

 そして、それまでひたすら観察者だったウグウが、戦争という現実に否応なく直面させられる当事者となる。ほんとうに守りたい相手が見つかる。

 前半部分では、どうしてウグウが語り手なのかよくわからなかったが、物語の最終章でその理由が判明する。ウグウの登場からこの物語がはじまった意味がはっきりとわかる。ウグウが真の意味で語り手となり、この物語だけでなく、ナイジェリアを語り継ぐ存在となるのだ。

 登場人物それぞれの愛、裏切り、そして成長という個人的な物語を、国家や戦争という大きな物語に重ねあわせることに見事に成功した小説だと思った。次は『アメリカーナ』を読まないと。

まるでリトマス試験紙のように、自分を振り返る―『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ 著 斎藤真理子 訳)

でもそのときはわからなかった――なぜ出席番号は男子から先についているのか。出席番号の一番は男子で、何でも男子から始まり、男子が先なのが当然で自然なことだと思っていた。

 遅ればせながら、話題の『82年生まれ、キム・ジヨン』を読みました。 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

  この小説はご存じの方も多いでしょうが、1982年に生まれたキム・ジヨンが、ふとしたきっかけで、あたかも他人が憑依したかのように話すようになり、心配した夫に付き添われて病院に行き、そこの精神科の医師がキム・ジヨンの半生を綴るという設定になっている。

 なぜこの小説が話題になっているかというと、キム・ジヨンの半生を描くことで、韓国社会に色濃く残る男尊女卑の思想が浮き彫りになり、女性が差別されてきた長い歴史と、いまもなお差別が残る現在が告発されている。

 また、全世界での #Me Too ムーブメントとも連動した、フェミニズムの盛りあがりの波(が日本で起きたのかどうかはよくわからないが)に乗ったことも原因だと言われている。

 やっぱり、と私は思った。韓国は徴兵制があるせいかマッチョな男が多いと聞くし、男尊女卑もまだまだ根強いらしい。人気の韓国映画K-POPの裏側では、日本では考えられないようなひどい女性差別も残っているにちがいない。

 女は大学に行くなとか、勉強なんかせずに見た目を磨け、女に学問などいらない、女は仕事よりも結婚相手探しに励め、子どもを産まない女は女じゃない……みたいな偏見にキム・ジヨンが苦しめられて、ついには精神を病む物語なのだろう、と。

 そして実際読んでみると、あれ? 予想していたのと少しちがう、と思った。そこまでひどい現実かな? と思った。
 一番印象に残ったのは、さほど日本と変わらない、というか、なんなら日本よりましな面もあるのではないだろうか、ということだった。

 もちろん、冒頭で引用した学校の制度や、嫌がらせをしてくる同級生の男子、就職活動の大変さなど、女であるゆえの困難は描かれているが、一方で、韓国では戸主制度(日本で言う戸籍制度かな)は両性平等の原則に違反するとして、2005年に廃止されていたり、女だから勉強や進学しなくてもいいという考えはすでに消え去っている。

 姉とキム・ジヨンの進学を応援してくれた頼もしい母親に、それなりに優しく思いやりがある夫も印象深く、日本の現実より――少なくとも私の目に映る現実よりは――いいところもあるのではないか、最初に読んだときはそんな気すらした。

 そこで、あらためて自分のこれまでの学校や社会での経験を振り返ると――いつも男子が先の名簿(いまはちがうらしいですが)、女子の方がテストでいい点を取ると悪口を言う男子たち、女子は家から通える学校がいいという通念、「うちの女の子」と言う職場の男性たち、電話に出ると「男を出せ」と言う客、女性をすぐに「おばさん」呼ばわりする男性たち(「(○○は)おばさんだから」「あんなおばさんになっちゃダメだよ」……)、女性の容姿をけなす男性たち(「ブス」や「(○○は)顔がマズい」……)――ぜんぶよくあることだと思い、深く考えないようにしていたことに気づかされた。


 この現実を当たり前だと思っていたから、キム・ジヨンを読んでも、そこまで話題沸騰となるほど、ひどいことが描かれているのだろうか? と、一瞬不思議に感じてしまったのだ。

 そういえば、去年東京医科大の入試の不正問題が発覚したときも、そりゃそうだろうなと感じ、とくに驚かなかったことも思い出した。
 けれども、私が高校生だったころは、理系の女子は医学部を目指すのが好ましいとされていたのだ。いや、薬学部でも看護士でもいいから、医療系の仕事が推奨されていた。理由は、女性が企業で働き続けるのは難しいから。

 いまも現実はたいして変わっていないかもしれないが、当時は女性が企業で働き続けるのは難しい、というのが当たり前の前提として受けとめられていたのだ。(念のため、平成の話です)なのに、つい最近まで、医学部を受験しても点数で差をつけられていたのだ。

 この「キム・ジヨン」を読んで、自分がそんな理不尽な社会で生きていることを、あらためて突きつけられたように感じた。また、自分自身がそういう価値観を内面化していることにも気づかされた。
 「そういう価値観」とは、男女差別だけではなく「自己責任論」も加わっているかもしれない。

 先日なぜか知らぬ間に「人生再設計第一世代」なるものに位置づけられてしまったのだが、そのど真ん中の世代のせいか、「就職先が見つからない」「仕事を続けることができない」「生活が苦しい」のは、「自分が悪い」「自分の努力が足りなかったから」という思考回路が埋めこまれてしまっている。

 「自分が悪い」のではなく、「社会が悪い」という考え方もあり得るのだと思えるようになったのは、ごく最近のことであり、同世代(「人生再設計第一世代」)の多くはそうではないだろうか。

 
 たぶんこの思考回路は韓国にも存在していて、以前読んだパク・ミンギュの『カステラ』は、そういった価値観を内面化した若者たちが、深刻な不景気や人生の挫折に直面して、途方にくれるさまがうまく描かれていたと思う。 

カステラ

カステラ

 

  考えたら、韓国の現代小説は、社会の問題と個人の問題をバランスよく連携させるのがほんとうに上手だ。(そういう小説が厳選されて翻訳されている、と考えた方が正しいのかもしれないが)

 さて、岡村靖幸千原ジュニアの対談に興味があったので、連休中に『週刊文春WOMAN』を買ったところ、この『キム・ジヨン』に『カステラ』、そのほか多くの韓国の小説を翻訳している斎藤真理子さんが「韓国フェミニズム文学がわたしたちを虜にする理由」を寄稿していて、『キム・ジヨン』のヒットの理由について分析していた。 

週刊文春WOMAN 2019GW (文春ムック)

週刊文春WOMAN 2019GW (文春ムック)

 

  やはり、『キム・ジヨン』を読むひとはみな、私と同じようにそれまで経験してきたことを振り返るようだ。
 日本でも韓国でも、まったくの他人事として受けとる女性は皆無なのだろう。逆に、自分の親や恋人はもっと理解がなかった、学校や職場はもっとひどかったと思う女性は、日本でも韓国でも少なくないのでは、と想像するが。

 さらに、このなかで斎藤真理子さんが推薦している本が、前に紹介したキム・グミの『あまりにも真昼の恋愛』をはじめ、どれもおもしろそうで、いったいどれから読んだらいいのやらと、うれしい悲鳴をあげたくなるラインナップだった。

 なかでもとくに気になるのは、以前紹介した『アンダー、サンダー、テンダー』もおもしろかったチョン・セランが、50人の人生を描いた群像劇『フィフティ・ピープル』。

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 そして、 韓国と日本の少女の交流を描いた短編などが収められた、チェ・ウニョンの『ショウコの微笑』。これは前に紹介した『殺人者の記憶法』(日本翻訳大賞受賞作ですね)を訳した吉川凪さんが監訳しています。

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

 

 そして、フェミニズム小説のアンソロジー『ヒョンナムオッパへ』でしょうか。「オッパ」って、たしか「お兄ちゃん」という呼びかけであり、女性が恋人(男)に向けて使う言葉なんですよね。(一度は「オッパ」と呼ばれてみたい、という発言を聞いたことがある) どんな物語なのか……気になる。

 日本翻訳大賞でもたくさん候補にあがっていたし、ほんとまだまだ韓国の小説の勢いが止まらないのはまちがいないようです。

ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集

ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集

 

 

 

 

行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ 『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン 著 三辺 律子 訳)

毎日、だれかのからだで目覚める
毎日、ちがう人生を生きる
毎日、きみに恋してる

 以前、ジョン・グリーンとデイヴィッド・レヴィサンが共作した『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』を紹介しましたが、今度はデイヴィッド・レヴィサン単著の『エヴリデイ』を読みました。 

エヴリデイ (Sunnyside Books)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

 

  冒頭に引用した帯の句にあるように、この物語の主人公である「A」は、毎日毎日ちがう誰かの身体に入りこむ。

 ある日は、両親とマリファナ好きの兄と暮らすレスリー・ウォンだったり、ある日は、サッカーをしているスカイラー・スミスだったり、またある日は、ロック好きのエイミー・トランだったり、オタク系の優等生ネイサン・ダルドリーだったり。

 入りこんだ人物として一日を過ごし、夜になって眠り、目覚めるとまたちがう誰かの身体に入っているのだ。
 Aにとっては、すべてがその日限り。毎日毎日知らないひとたちと出会ってともに過ごし、次の日はもう会うことがない。それが当たり前だと思っていた。リアノンに出会うまでは…… 

ジャスティンのロッカーからジャスティンの教科書を出そうとすると、うしろのほうに気配を感じた。ふりむくと、女の子が立っていた。感情がぜんぶ透けて見えるような子。ためらいつつ期待し、気おくれしつつ彼が好きでたまらない。いちいち記憶にアクセスしなくても、ジャスティンの彼女だってわかる。

  ある日、ジャスティンの身体に入りこんだAは、ジャスティンの彼女であるリアノンと海へ行ってデートをする。
 
 どうやらふだんのジャスティンは、リアノンにとっていい彼氏ではないらしい。
 一日でいいから、リアノンを幸せにしてあげたいと思うA。いつもとちがって自分を大切にしてくれるジャスティンに、とまどいながらも喜びを隠せないリアノン。
 そして、次の日はまたちがう誰かの身体に入っているとわかっているのに、リアノンに恋してしまうA。ジャスティンの身体にとどまりたい。それだけをただ強く願う。
 

 願いもむなしく、翌日はまたちがう身体に入っているのだけれど、リアノンのことを忘れることができず、ちがう身体でもリアノンに会いに行ってしまう。
 エイミー・トランのときはリアノンの学校に行って、転校するので下見をさせてほしいとリアノンに接近する。ネイサン・ダルドリーのときに、パーティーでリアノンと知りあい、メールを交換することに成功する。つまり、これからは誰の身体に入っても、メールでリアノンと連絡を取り続けることができるのだ。

 と、あらすじからわかるように、なかなかあり得ない話だった。
 これまでも映画『転校生』や大島弓子のマンガなど、他人の身体に乗りうつる物語は読んだことがあるけれど、だいたい生きている(あるいは死につつある)誰かが、何かの拍子で他人の身体に入るものだった。

 だが、この物語は主人公の実体がなく、しかも毎日毎日ちがう誰かの身体に入り、さらに人間と恋におちてしまうのだ。一応、いくつかルールが決められているのだが(宿主は近場に住む16歳限定だとか、日常に破綻をきたさないよう宿主の記憶にアクセスできるとか)、正直なところ、ちょっと設定に無理を感じるところもあった。

 けれども、そんな強引な設定をしてでも、「ひとを好きになるというのはどういうことか」を、作者はこの物語で突きつめて描きたかったのだろう。

(ここからネタバレというか、結末まで触れています)
 

 リアノンの立場で考えてみる。
 もし、自分の好きなひとが、見知らぬ他人の外見になってしまったら、受けいれることができるだろうか? ときには性別も変わり、ときにはすごく太っていたりと、ぜんぜんちがう姿であらわれるのだ。

 「相手の見た目で好きになったわけじゃない」と主張するひとは多いけれど(もちろん、見た目重視のひとも多いが)、ならば、まったくちがう姿でも好きでいられることができるのだろうか? ここ最近は、性別についてもこだわらないというひともある程度いるが、では、男だった恋人が女になってあらわれたら受けいれられるだろうか…?

 やっぱり難しいように感じる。
 では、いったいそのひとの何を好きだったんだろう? 見た目が好きだったのか? 「ぜんぶ」が好きだったのか? 「ぜんぶ」って何? と考えてしまう。

 

 Aの立場で考えてみる。
 リアノンと出会ったAは、どんな姿になってもリアノンに会いに行くことで頭がいっぱいだ。今日目覚めた場所はリアノンから〇時間の距離、とすべてがリアノン基準になってしまう。

 そしてあらゆる嘘をついて、学校をさぼったり車を借りたりして、リアノンのもとへ向かう。♪行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ~とBGMをつけたくなる勢いだ。この気持ちが、ひとを好きになる原点であり、すべてだと思う。 

愛のなせる業ってやつ。世界を書き直したくなる。登場人物を選び、舞台背景を作り、筋書きを支配したくなる。愛する人が正面にすわる。これを可能にするなら、永久に可能にできるなら、なんだってしたいと思う。

  しかし、ひとつの身体にとどまることのない、実体のない自分との関係は不毛なだけだ。自分にはリアノンを幸せにすることはできない。

 もちろん、このAのような事態は実際にはあり得ないけれど、自分の存在が相手にとってプラスにならないという場面は、現実にもちょくちょくあるのではないだろうか。 
 自分が身をひいた方が、相手の視界から消えてしまった方が、相手が幸せになれるのではないか……そんなとき、自分は決断することができるのだろうか? 


 この物語も、まさにAがその決断をしようとしたところで終わり、この先どうなるのか? と思っていたら、実は続編、続々篇がある三部作らしい。続きも気になるので、続編の刊行を楽しみにしたいと思います。

 しかし、現実においても、不誠実な恋人を持つ女子が、自分を大切にしてくれる相手に心を動かされるのはよくあることだが、往々にして、結局そういう女子は不誠実な恋人に戻っていったりもするが……(ベタな偏見ですみませんが)
 

 恋愛以外の要素についても、次々と登場する乗りうつられる高校生たちには、自殺願望のある女の子や、貧困家庭に住む男の子、男の恋人がいる男の子などがいて、アメリカの現実が反映されていて興味深かったので、いろんな方に読んでもらいたい物語でした。

 ちなみに、『傘がない』はもちろん本家もいいのですが、UAヴァージョンもなかなか素敵。あ、タイトルが同じ『エブリデイ』も、♪every day、every night、会いたくて~となんだか符合していますね。

 

 

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Freedom or Death?? ジャネット・ウィンターソン『Courage Calls to Courage Everywhere』

  前々回に紹介した、BUSINESS INSIDER JAPAN編集長の浜田敬子さんによる『働く女子と罪悪感』トークイベントで印象に残ったのは、ジェンダーに関する話題が一番炎上するという話だった。憲法改正問題や中国・韓国との関係よりも、男女差別の話題がとにかく激しく燃えあがるらしい。

 例として挙がったのが、この「日本の男性は席を譲らない」という記事で、筆者の方が最初にツイッターで発言したところ、「レディーファーストなんておかしい」「男女平等というのなら、席を譲ってもらうとか考えるな」という意見が殺到したそうだ。

www.businessinsider.jp

    同等の権利を求める女性たちに対して、女はじゅうぶん優遇されているじゃないかと男たちが反発するのは、洋の東西を問わず、昔からあることらしい。
 というのも、最近、前回『オレンジだけが果物じゃない』を紹介したジャネット・ウィンターソンの『Courage Calls to Courage Everywhere』を読むと、同じような事例が紹介されていた。 

Courage Calls to Courage Everywhere (English Edition)

Courage Calls to Courage Everywhere (English Edition)

 

  このタイトルは、イギリスで女性参政権運動を率いたひとり、ミリセント・フォーセットの言葉からとられている。本にも書かれているが、2018年、ロンドンの議事堂前広場に、初の女性像としてフォーセットの像が建てられた。jp.reuters.com

  この本はもともとテレビで講演するためのエッセイとして書かれた短いもので、最初は『Women’s Equality: The Horrible History』という題を考えていたが、”history”とすると過去の終わった話のような印象を与えるため、変更したらしい。(Horribleというのも、それはそれでおもしろい気もするが)

 タイトルからわかるように、イギリスの女性参政権運動が盛りあがった時代から現在に至るまで、女性が直面したさまざまな問題を検証している。本の表紙が緑と紫がベースになっているのは、女性参政権運動の中心となった女性社会政治連合(WSPU)のシンボルカラーが白と紫と緑だったからだと思われる。

 工業都市マンチェスター生まれのウィンターソンは、女性参政権運動の中心人物のなかで唯一の労働者階級の出身で、10歳から紡績工場で働きはじめたアニー・ケニーを「わたしのヒロイン」だと称賛している。

 そして、先のレディーファーストの記事で思い出したのが、ここで取りあげられていた ”BOATS OR VOTES” 問題だ。

    1912年、タイタニック号の惨事が起きたとき、「女性と子供優先」という船のルールによって、女性が優先的に救命ボートに乗せられた。
    その頃、イギリスでは女性参政権運動が盛りあがっていたため、「女はこうやって優先的に救助されているというのに、参政権を与えろなどと男女平等を主張するのか」という反発の声があがったらしい。既視感のある光景だ。

Nobody asked whether putting women in charge of health and safety at big companies like the White Star Line might have resulted in the Titanic carrying enough lifeboats to start with――

 と、ウィンターソンはそもそも女が安全管理の責任者になっていたなら、じゅうぶんな数の救命ボートを用意したのではないだろうか、と考察している。

 まあ、それについては何とも言えないが(サッチャー小池百合子片山さつきといった女性政治家を考えると)、レディーファーストや女性優遇策の背景には、女性が低い地位に置かれているという事実があるのはまちがいない。

  この本は全体的には至極あたりまえのことが書かれていて、『オレンジだけが果物じゃない』や『さくらんぼの性は』のようなウィンターソン独特の奇想を期待すると、ちょっと拍子抜けするかもしれない。


 しかし、先日の上野千鶴子の東大入学式での式辞も、ごくあたりまえのことを言っているように感じたけれど、あれだけの支持と反発を呼んだことを考えると、あたりまえのことを何度も言い続けるのも大事なことなのだろう。

 ジャネット・ウィンターソンらしいと思ったのは、ハンソン社が開発したアンドロイド、ソフィアを紹介しているくだりだ。ソフィアはサウジアラビアでは市民権を与えられていると書き、「つまり、サウジアラビアの女性より人権を手にしているということだ」と皮肉をきかせ、こう続けている。 

Actually, I am half in love with Sofia.  She is clearly a democrat, and doesn’t think we need to live in a gender-bound world of binaries (He/She/Female/Male)

  『Courage Calls to Courage Everywhere』は、以前に紹介した、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』のようなごく短いエッセイなので、興味がある方はぜひ読んでみてはどうでしょうか。 

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

 

  正直なところ、アディーチェの本を読んだときは、やはりアフリカでは男女平等はまだ遠いのかな…とうっすら思ったが、フェミニズムの最先端だと思っていたイギリスでも、性差別禁止法ができたのが1975年と知ると、どこの国でも道ははてしなく遠いと感じる。

 この本の最後には、女性参政権運動家の象徴とも言える、エメリン・パンクハースト(いまの日本で言うと、それこそ上野千鶴子のような存在だったのだろうか…毀誉褒貶の多さも含めて)の演説 ”Freedom or Death”がおさめられている。
 演説の序文で、この勇ましいタイトルについて、ウィンターソンはこう書いている。 

It’s brave, it’s uncompromising, it’s a rallying cry for women then and now. But – and this is a big but – why is the penalty of freedom, for women, violence on a scale that too often ends in death?

  そして、DVやレイプなどの女性への暴力、国によっては非合法な中絶、教育を求めた結果、撃たれてしまったマララ・ユスフザイ、いまでも続いている女性器切除……などの例をあげている。

 たしかに、「自由か死か」というのはかっちょよくて威勢のいいスローガンだが、ウィンターソンが書いているように、特大の “but” が頭に浮かぶ。

 考えたら、自由の代償が死というのは怖すぎないか。誰もがそれほど強くない。みんながみんな、エメリン・パンクハーストやマララさんのように、自由や教育のために命を賭して戦えるわけではない。女であろうと、男であろうと。

 先の上野千鶴子の祝辞も、東京医科大の入試での女性差別問題や『彼女は頭が悪いから』などのホットな話題を取りあげたので燃えあがったようだけど、一番大事なのは、ここではないかと思う。 

フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

 さっきも書いたように、ごくごくあたりまえのことだけど、弱者であっても、自由や生きる権利が保障される世の中であってほしい……けれど、そんな日は来るのだろうか?

来たるべき新世界へ――女と女の物語~百合(かもしれない)ブックガイド

 先日『元年春之祭』を課題本にして翻訳ミステリー読書会を開催し、そのレポートがこちらのサイトに掲載されました。  

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

 

 『元年春之祭』は、歴史ミステリーであり、いま注目のアジアミステリーでもあり、”読者への挑戦状”が登場する本格ミステリーでもあり、ふたりの少女の成長を描いた青春小説でもあり、そして “百合” ミステリーという裏の顔(?)もあります。 

百合の面白さは「人間関係」の面白さだと思います。学園のような、閉じられた狭い世界の中だからこそ、互いに対して過剰になってしまう感情のぶつかり合いに惹かれます。

歴史上、“女性の世界”は、“男性の世界”に比べて、常に狭い中に閉じ込められてきましたよね。端的に言えば「家」ですが。時代小説として、そうした世界に生きる女性を描く以上、百合と形容されるような人間関係の物語になるのは必然でした。

陸秋槎氏トークショー(『ミステリマガジン』 2019年3月号)より

  そこで、読書会用の資料として、 “女と女の物語~百合(かもしれない)ブックガイド“を作りました。

 といっても、私も“百合”の定義があまりよくわかっておらず、代表作らしい『ゆるゆり』とか『ラブライブ』などはまったく知らないので、あくまでも自分の好きな作家や小説の範囲で選んだため、(かもしれない)と入れておきました。


ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳) 

 それならわたしがそこにどんな言葉を見つけたかを教えましょう。「クロエはオリヴィアが好きだった……」。びっくりしないでください。赤面してはいけません。女性だけの場ですから、こういうことも時折あると認めましょう。時折、女性は女性を好きになるものです。

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

  『自分ひとりの部屋』は、女性が自分の部屋――つまり、自分の収入――を得ることの大事さを語った、いままさに読むべき本であるが、『対岸の彼女』の感想でも書いたように、女同士の結びつきについても述べられている。女性の自立とシスターフッドは、対となって補完しあうものなのかもしれない。

◎ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』(岸本佐知子訳) 

あの二人は“自然にそむく欲望”にふけっている、と母は言っていた。 

オレンジだけが果物じゃない (白水Uブックス176)

オレンジだけが果物じゃない (白水Uブックス176)

 

  これまでの人生で好きな翻訳本を三冊挙げろ、と言われると、選ぶであろう一冊。

 キリスト教ペンテコステ派の信者の家に養子として引き取られた作者による、自伝的でありながらも、マジカルリアリズム風味の小説。
 熱心な信者であった母はジャネットを牧師とすべく、宗教の英才教育を施すのだが、成長したジャネットは女性と恋におちてしまう……母と娘のヘンテコな関係に思わず笑い、たまらなく切なくなる小説。


◎ 金井美恵子『小春日和』

 オレたち、友達になれそうじゃん? うん、まあね 

小春日和(インディアン・サマー) (河出文庫―文芸コレクション)

小春日和(インディアン・サマー) (河出文庫―文芸コレクション)

 

  ”百合”というより、女の友情を描いた「少女小説」。
 小説家のおばさんのもとに預けられた桃子が、大学で花子と名乗る生意気そうなチビと出会い、すぐに意気投合する。それぞれのややこしい親たちや、話の合わない男の子たちなんか無視して、映画のことや小説のこと、はてしないおしゃべりに興じる。それだけのことが至福と感じられる方におすすめの小説。

 
◎ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』(越前敏弥・ないとうふみこ 訳)

 「いっしょに遊べるあなたみたいな友だちが、ずっとほしかったの。どんなにほしかったか、あなたにはわからないと思う。アンナ、ずっとずっと友だちでいてくれるわよね?」 

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

 

  両親を亡くしたアンナは、いつも表情のない「ふつうの顔」をして、なにも考えずに日々を過ごすのが習い性となっていた。仲よしの友だちがいないとか、どうでもいい。
 そんなアンナはひと夏を海辺の田舎町で過ごすことになるが、いくら「ふつうの顔」をしていても、「ただのあんたそのもの」と地元の子になじられ、やはり友だちはできそうもない。だが、ふと見かけた金髪の女の子が気になりはじめる……

 

伊藤計劃『ハーモニー』

「きみはわたしと同じ素材から出来ているんだよ、霧彗トァンさん」

嬉しそうににっこり笑ってそう言うと、ミァハは駆けだして、わたしの視界から消えるまでずっと走っていた。 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

  先日の『SFマガジン』の百合特集号で、この『ハーモニー』が挙げられていて、読んだときは気付かなかったけれど、たしかに“百合”と言えるかもと思った。
 オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』のような、優しさに満ちあふれた世界で自殺を試みる少女たち。生き残ったのはいったい誰なのか? “百合”ディストピア

 

パトリシア・ハイスミス『キャロル』(柿沼瑛子 訳)

「キャロルと一緒にいたいの。彼女と一緒にいれば幸せだし、それがあなたとなんの関係があるというの?」 

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 

  先程の『思い出のマーニー』と同様に、少し前に映画化されて話題になった作品。
 同性愛は病気や犯罪のように扱われていた刊行当時、ハイスミスは偽名でこの小説を出版した。若いテレーズの焦燥感が、キャロルへの恋愛感情に拍車をかけ、どんどんとのめりこんでいくさまがうまく描かれている。
 このあとのふたりがどうなるのかはわからないけれど、後味のよいラストがハイスミスのミステリーとは一風異なる印象。

 

村上春樹スプートニクの恋人

わたしはやはりこの人に恋をしているのだ、すみれはそう確信した。間違いない。(氷はあくまで冷たく、バラはあくまで赤い)。そしてこの恋はわたしをどこかに運び去ろうとしている。 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

  いま考えると、この『スプートニクの恋人』は、村上作品の中でどういう位置づけになるのだろうか? 
 “a wired love story”とされているらしいが、たしかにかなりwiredだ。はじめて読んだときも、そしていまでも、散りばめられたメタファー(のようなもの)を解読できてはいないが、登場人物のひとりが観覧車で味わう感覚が、なぜかおそろしいほどリアルに感じられ、いまも記憶に焼きついている。 

 

橋本治「愛の牡丹雪」(『愛の矢車草』所収)

留子と暮らしていて、ふっと気がつくと、部屋の中にはなんにも異質なものがないのだった。 

愛の矢車草―橋本治短篇小説コレクション (ちくま文庫)

愛の矢車草―橋本治短篇小説コレクション (ちくま文庫)

 

  村上春樹と同世代で、先日惜しまれつつ亡くなった橋本治の業績は、現代小説から古典、評論まで幅広く、とうてい一言で括ることはできないが、LGBTという言葉が生まれるずっと前から、ジェンダーについて深い考察を示していたことはまちがいない。 

 『愛の矢車草』もまさに “wired love stories” と言える短編集だが、そのなかでも「愛の牡丹雪」は、「オバサン」たちの「愛の生活」を綺麗事としてではなく描き、興味深い。橋本治なら『恋愛論』もおすすめ。 

 

サラ・ウォーターズ『半身』(中村有希訳)

シライナから離れていることが、どれほど辛いことだったか。とくん、と、胸の奥が震える。おなかの子が初めて動けば、きっとこんなふうに感じるのだろう。 

半身 (創元推理文庫)

半身 (創元推理文庫)

 

  レポートでも書いたけれど、“百合小説界の神様”といっても過言ではないサラ・ウォーターズ。『荊の城』を原作とした、韓国映画『お嬢さん』の衝撃も記憶に新しい。

 ヴィクトリア朝の“霊媒”である女囚と、監獄を慰問訪問する貴婦人の関係を描いたこの初期作品は、後の作品と比べると過激な場面はないものの、愛を押し殺しているゆえの息詰まるような心理描写と、最後に明らかになるトリッキーな真相とのコントラストがさすが。

 

 ◎キャサリンマンスフィールド「しなやかな愛」(『新装版レズビアン短編小説集』所収  利根川真紀編訳) 

ベッドの周りのカーテンに描かれた緑の蔓でさえも、絡み合って不思議な花冠や花輪を編み、わたしたちのまわりで葉の抱擁を交わしてうねり、無数のしなやかな巻きひげの中にわたしたちを閉じ込めた。 

新装版レズビアン短編小説集 (平凡社ライブラリー)

新装版レズビアン短編小説集 (平凡社ライブラリー)

 

  ニュージーランド出身でロンドンで執筆活動を行った作者と、同時代のヴァージニア・ウルフとは、作家として互いに意識しあう関係だったらしい。34歳で亡くなった短い生涯で、日常のできごとを繊細に綴った短編を遺した。叙情的でありながらも、どこかシニカルな視線はいまでも古びていない。 

 この再刊された『新装版レズビアン短編小説集』は、タイトルから想起するような “いかにも” な作品はほとんどなく、女たちのさりげない心の結びつきをテーマにした作品が多いため、以前の題名『女たちの時間』の方がふさわしいようにも思えるが、いずれにせよ、折にふれて読み返したい短編集。
 

松浦理英子『犬身』

自分の愛犬が怪我をするのより赤の他人が怪我をする方を迷いもなく選ぶ。そういう玉石梓に房恵は強い好意を感じた。それが「玉石梓の犬になりたい」という思いの始まりだった。 

犬身 上 (朝日文庫)

犬身 上 (朝日文庫)

 

  ”I wanna be your dog.” を、これほどまでに昇華した小説があるでしょうか?

 女同士の微妙な関係と言えば、『裏ヴァージョン』もおすすめ。かつて親友だったふたりが、家賃と小説を交換する関係となる。恋愛ではなく、かといって単なる友情ともちがう、鬱屈した愛情の応酬に圧倒される。
 また、いわゆる“百合”テイストがもっとも強いのは、個性の異なる三人の女子高生を描いた最新刊の『最愛の子ども』かもしれない。

 

レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』(柴田元幸訳)

聞いてるの、アニー? たとえば私たち二人が最高に幸せなとき、私があなたを見るとする。そういうときに前兆とかが私の胸に湧いてきて、こんなに幸せじゃない方がいいんじゃないかって思ったりするわけよ。だっていったん何かを手に入れたら、それなしじゃいられないって思うようになっちゃうでしょう。そうして、失ってしまってもまだ欲しがりつづけてしまうのよ。「アニー」 

安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した。「私たちがやったこと」 

私たちがやったこと (新潮文庫)

私たちがやったこと (新潮文庫)

 

  レベッカ・ブラウンは、ケア・ワーカーとして患者たちと接した日々を綴った『体の贈り物』や、自らの家族を描いた自伝的小説『若かった日々』のように、ありのままの現実を淡々と描写した文章もすばらしいけれど、この『私たちがやったこと』や、最近の『かつらの合っていない女』のような、詩のように幻想的な作品も魅力的だ。
 「私たちがやったこと」は、「私」は男と読めるように訳されているが、原文はどちらともわからないように書かれているらしい。


 まだまだこのほかにも「女と女の物語」は尽きることなく、レポートにも書いたように、読書会にご参加頂いたみなさんからも、いろいろ挙がりました。


 元号も変わるし、新しい時代になる……
 とは特段思わないけれど、ジェンダーをめぐる世界がどんどんと新しくなっていくのはたしかだ。来たるべき「すばらしい新世界」に飛びこむために、こういった本を読んでみて、ジェンダーや性の固定観念から離脱するのもいいのではないでしょうか。

 

”働く女”が心に刻むべき秘訣とは 『働く女子と罪悪感』(浜田敬子)出版記念トークイベント 

 3月24日に隆祥館書店で行われた、『AERA』元編集長であり、現Business Insider Japan統括編集長の浜田敬子さんによる、『働く女子と罪悪感』出版記念トークイベントに参加してきました。 

 『働く女子と罪悪感』は、浜田さんのこれまでの仕事の歩みを――朝日新聞に記者として入社し、地方支局で体力の限界まで働き、そこから『週刊朝日』、そして『AERA』に異動し、『AERA』副編集長を9年勤めたあと、「女性初」の編集長になる――飾ることなく、率直に振り返った本である。

 書店に行くと、仕事に関する本は山積みにされている。女性の働き方をテーマにした本も多い。しかしその中で、自らの実績をもとに、仕事について具体的に語った本というのはどれくらいあるだろうか? 

 たいていは、謎のコンサルタントとか、いったい何をしているのかよくわからない作者が、「こうすればミスをしない」「仕事が早く終わる」「生産性があがる」……などなどについて、ミス防止にメモを取れだとか、早く終わらせるために部下に仕事を渡せとか、生産性をあげるためにはメールにすぐに返信しろとか、”そりゃそやろ”みたいなことを書き連ねている本がほとんどではないだろうか? 

 いや、そりゃそやろみたいな内容でも、具体的なアドバイスがあればまだマシで、なかには、精神論とか心構えに過ぎないことしか書かれていない本も多いように思える。もう平成も終わるというのに、「女性の強みは気配りだ」なんて平気で書いている本もある。

 とくに、女性がこれまでやり遂げた仕事の経験をシェアする方向で書いた本というと、非常に限られてくる。
 昔、松永真理さんの『iモード事件』がベストセラーになったのも、もちろん当時iモードがものすごく注目されていたのが一番の原因だろうが、やはりその希少性もあったのではないかと思う。 

iモード事件 (角川文庫)

iモード事件 (角川文庫)

 

 この本は精神論的なものは一切ない。そのかわり、こういったことが書かれている。

  地方支局の新人記者時代、東京のデスクによる記事の修正に「違う」と思いつつも、疲れ切っていたこともあり反論せずにいたら、掲載された記事について取材先の遺族からの申し入れがあり、結局「お詫び」を出した顛末。

 『AERA』副編集長時代、男性部下たちの中には、一切目を合わせることなく話をしたり、異様に丁寧な言葉で返事をしたり、自分が去った後ゴミ箱を蹴ったりする者もいたこと。

 そして、一記者から副編集長になり、『AERA』に仕事人生を捧げてきた自分の上に、雑誌の編集経験のない男性がいきなり「編集長」となってやって来たときの悔しさ……。

 作者は仕事については「熱い」人間だが、けっして感情的ではなく、上司や部下との付き合い方といった、どこの職場でも起こり得る問題について、合理的な解決策を模索している。 

私自身、上司の好き嫌いはもちろんあった。でも、この上司と仕事をすると面白い企画ができるという気持ちがやがて、その上司への敬意につながった。そして私自身が上司の立場になった時は、「黒い猫も白い猫もネズミをとる猫はいい猫だ」と自分自身に言い聞かせていた。

  部下には本人がやりたいと思うような仕事を提示して、「この上司についていったら得だ」と思わせる。合わない上司や理不尽な事態に直面しても、自分の成し遂げたいことのためなら、ある程度受けいれる――
 この考え方は、根本的に、誰もが仕事で成し遂げたいことがある、成長したいと思っているということを前提としている。誰もがそうとは限らない、という声もあるかもしれない。

 でも、私も作者と同様に、いま仕事に幻滅しきっているひとであっても、もともとはやりたいことや成し遂げたいことがあり、働くというのはそれを発掘することではないかと考える。きれいごとかもしれないけれど。

 女性による仕事の本というと、最近流行りの「ワーク・ライフ・バランス」ものかと思われるかもしれないが、その方向を期待すると肩すかしかもしれない。
 とにかく作者はワーカホリックだ。出産後も地元から両親を呼びよせて育児を頼み、夫にも育休を取ってもらい、フル回転で働いている。
 なので、育児と仕事を両立するヒントを求めて読むと、「私にはこんなの無理……」と思ってしまうかもしれない。

 でもやはり、この本にヒントはある。それは「管理職になること」だ。

 どこの会社にもいるでしょ? 部下に仕事を押しつけて、自分はさっさと帰ってしまう管理職が。昔の職場でも、帰るの早っ! バネでもついてんのかな、と思う上司がいた。
 いやまあ、部下に押しつけてというのはともかく、仕事のわりふりやミーティングの時間など調整できる管理職になることが、時間に制限のあるひとにとってふさわしい働き方だと思う。
 ところが、よく知られているように、女性は管理職になりたがらない。 

女性たちが管理職になりたがらない理由、それはひとえに自信のなさだ。それも自分を過小に評価しすぎていると感じる。その自信のなさはどこから来るのか。

  自信がないのはよくわかる。女性の根深い自信過小問題については、これからもじっくり考えたい。

 けれども私自身、いまの職場にうっかり10年もいてしまっているため、管理職でもなんでもないけれど、後輩に仕事をふったりしているが、ふられる側よりふる側の方がやはりラクだと感じる。(お局に一挙手一投足管理されるより、自分がふる方が……あ、つい本音が)

 とくに、いまはなるだけ早く帰るようにしているので、自分で管理できる方が有難い。それでもやはり、後輩にどれだけ渡したらよいのかわからなかったり、「自分でやった方が早い」と思ったりするのが課題ですが。それにしても 

からしたら、なぜ男性たちはその能力も伴わないのに、管理職を打診されると引き受けるのか、それも不思議だが(もちろん能力の高い男性もいる)

  とあるように、会社で働いているとおわかりかと思いますが、どう見てもマネジメント能力がないのに管理職になるひとたち、ほんと多いですね。
 いや、仕事のマネジメントとか部下を成長させるとかいったレベルではなく、他人の話をちゃんと聞くとか、通常のコミュニケーションにも難があるレベルの管理職もいる。

 これ以上書いたら愚痴っぽくなりそうなので、ここまでにしよう……トークイベントの感想については、また後日にでも。
 

 働くことについて検索してみると、このジェーン・スーさんのインタビューもおもしろかった。

book.asahi.com

 たしかに、『働きマン』はもちろんおもしろく読んだけれど、読んでいて苦しくなるところもあった。『ハッピー・マニア』の突き抜けぶりを期待してしまったからかもしれないけれど。

 『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック 女子刑務所での13ヵ月』、気になっていたけれど、仕事にも応用できそうな本だとは知らなかった。読んでみないと。 

オレンジ・イズ・ニュー・ブラック    女子刑務所での13ヵ月

オレンジ・イズ・ニュー・ブラック 女子刑務所での13ヵ月

 

 何かの壁にぶつかった時、サバイブする方法は正論をぶつけること以外にもあると、この本は教えてくれます。

 というのは、浜田さんも書かれていますが、”働く女”が心に刻むべき秘訣だと、つくづく思う。 

公民権運動の闘士から弁護士となったジェイの闘いを描く『黒き水のうねり』(アッティカ・ロック 著 高山真由美 訳)

暴動を煽動し、連邦政府職員――ジェイと似たりよったりの若造で、政府にやとわれた情報提供者――を殺害するための共同謀議を企てたとして、検察はジェイを告発した。検察は電話で三分半足らずのジェイとストークリー・カーマイケルとの会話のテープを押さえ、ジェイの運命を確定した。

 『ブルーバード、ブルーバード』が話題のアッティカ・ロック、下記の翻訳ミステリーシンジケートのサイトの記事が気になり、デビュー作の『黒き水のうねり』から読んでみました。 

honyakumystery.jp

 

黒き水のうねり (ハヤカワ・ミステリ文庫)

黒き水のうねり (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  舞台は1981年のテキサス。黒人弁護士ジェイは、自らも差別されるマイノリティであるがゆえに、社会で弱い立場にある者たちを助けようと奮闘している……のだが、実のところ、そういった案件はまったく金にならず、妻バーナディンがまもなく第一子を産もうとしているいま、「主義を貫くだけの余裕が」なく、生活費の確保に追われる日々を過ごしていた。

 バーナディンの誕生日には、ふだん心配をかけている分、誕生日くらいはいい思いをさせてあげたい……と、依頼料を貸している相手の伝手でバイユー(川)を行き来するボートツアーに無料で招待してもらう。

 ボートに乗っていると対岸で悲鳴があがり、誰かがバイユーに落ちるのを目撃する。ジェイが川に飛びこんで助けると、汚れた身なりの白人の女だった。 
 いったい何が起きたのか? 

 本来なら女を警察に送り届けるべきところだが、ジェイは警察署の前に彼女を置き去りにする。厄介事には巻きこまれたくなかった。なぜなら、ジェイはかつて公民権運動に深く関わり、逮捕された前科があるからだ。

 ところが数日後、あの対岸から男の死体が発見される。ボートから悲鳴を聞いた時間に殺されていたらしい。ジェイは泥沼に足を踏み入れかけているのを感じる……

 このバイユーでのできごとから、ジェイは身辺に不穏な気配を感じるようになる。また一方で、牧師であるバーナディンの父から労働紛争の調停や支援も依頼され、そこから過去の公民権運動のいざこざで負った手痛い傷口――とある人物との関わり――もよみがえる。 

いつ彼女を愛することをやめたのか、ジェイは覚えていない。逮捕されたとき、と言えればわかりやすいのだが。自分の殻に引きこもり、気が変になりそうなほど混乱していたあのころ。

  殺人事件に労働紛争、そして公民権運動、というと一見ばらばらのように思えるが、どれにも強者と弱者、差別する側とされる側という図式がひそんでいる。厄介事には関わりたくないと思いつつも、ジェイはどんどん深みにはまっていく。

 というと、ものすごく「正しい」小説のように思われるかもしれないが、ジェイは純粋な「正義の人」ではない。日々の生活に追われるなか、売春婦からの依頼を利用して、がっぽり稼いでやろうかなんて考えたりもする。見て見ぬふり、事なかれ主義で済ませたく、内心で葛藤もする。
 それでもやはり、潔癖で正義感の強いジェイは、最後にある選択をする。

 また、ともすればこの手の小説は息苦しくなってしまうが、バランスを取るかのように、周囲にイージーゴーイングな登場人物が出てくるのも楽しかった。


 赤のウィッグをつけて出勤する秘書のエディー・メイは、デートの予定によって気分が左右されると書かれているので、若い女なのかと思いきや、意外にも孫がいるのだった。(といっても、我々が祖母といって想像するover 60ではなく、もしかしたら50代とか40代後半だったりするのだろうか)
 しょっちゅう孫の迎えがあるとかなんとか言って早退するので、ジェイが孫の数を数えたら “12人いる!” だが、全員の名前を聞いたら同じ名前を二度述べる始末。

 あと、ジェイが捜査の手伝いを依頼するバーテンダーのローリーは、ミステリーでよく見るタイプの、敏腕だがスチャラカしたアマチュア探偵で、キャラ的にも役目的にも物語の都合にあわせて出てきた感もあるが、ローリーが活躍するサイドストーリーも読んでみたいと思った。

 公民権運動についても、かなり詳述されている。冒頭の引用で出てきたストークリー・カーマイケルは「ブラック・パワー」を提唱した実在の運動家であり、SNCC(学生非暴力調整委員会。1960年、反戦・反差別をスローガンとして結成された黒人学生を主体とした米国の公民権運動組織。←デジタル大辞泉より)といった実在の組織も登場する。
 このあたりは、以前に『March』を読んでいたので、ついていくことができた。 

MARCH 1 非暴力の闘い

MARCH 1 非暴力の闘い

 

  この小説で、カーマイケルはこうスピーチしている。 

「労働者階級は、自分たちの階級がなくなればいいと願った史上初の階級である、とマルクスは言った。“穏健派”の黒人のリーダーたちの話を聞いていると、アメリカの黒人は自分たちの人種がなくなればいいと願った史上初の人種であるかのように聞こえる。黒人の同胞たちよ、それをたったいまからやめるのだ」

  『March』の感想でも同じようなことを書いたけれど、公民権法は成立したものの、差別がなくなったわけではない。

 それどころか、ジェイが巻きこまれる労働紛争のように、人種と人種の闘いに階級というものが掛け算されて、いっそう複雑になっている。『March』でマルコムXが語っていたとおり、階級こそが「世界各地の問題の根源」となっているのだ。

 差別される低い階級の者の中には、仲間を裏切る者もいる。どういう方法を使ってでも、のしあがろうとする者もいる。のしあがると容赦なく過去を切り捨てる。新しく手にした身分や地位をなんとしても手放すまいとする。

 「差別される低い階級」にあてはまるのは、黒人だけではない。女もそうだ。過去においても現在においても、ジェイは女の野望に振りまわされる。けれども、過去と現在のジェイが異なるのは、バーナディンと暮らす現在のジェイには "Security" がある――

 ジェイが疲れを癒そうと耳を傾けるオーティス・レディングの『Security』は、まるで本から音楽が流れてくるかのように、強く胸に残る。 

I want security, yeah, without it I had a great loss, oh now

Security, yeah And I want it at any cost, oh now

――心の安定がほしいんだ そう、何に変えても

  それにしても、オーティス・レディングをじっくり聞いてみると、よくこんな歌を20代前半の若者が歌えたものだと感心する。

 1967年、オーティスは26歳の若さで自家用飛行機の事故で亡くなった。翌年の1968年、『Dock of The Bay』が大ヒットした。そのあたりのことは、この泉山真奈美さんの解説に詳しく書かれている。 

dictionary.sanseido-publ.co.jp

 1968年、ロバート・ケネディマーティン・ルーサー・キングJr牧師といった、公民権運動に尽力した人物が次々に暗殺された。
 そんな年に、ひとびとはこの歌をどんな思いで聞いたのだろうなんて考えてしまう。

Sittin' here resting my bones  And this loneliness won't leave me alone ……

Now, I'm just gonna sit at the dock of the bay Watching the tide roll away