快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

コミュニケーションとディスコミュニケーションの狭間の祝祭 「こちらあみ子」「ピクニック」(今村夏子)

 十五歳で引っ越しをする日まで、あみ子は田中家の長女として育てられた。父と母、それと不良の兄がひとりいた。

小学生だったころ、母は自宅で書道教室を開いていた。もとは母の母が寝起きしていたという縁側に面する八畳ほどの和室に赤いじゅうたんを敷きつめて、その上に横長の机を三台並べただけの、狭くて質素な「教室」だった。

   何が何だかわからないまま一気に読み終え、しばらく唖然としてしまう、『こちらあみ子』はそんな小説だった。 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 冒頭では、あみ子はおばあちゃんの家に住んでいる。そこへ近所に住む仲良しの小学生さきちゃんが、竹馬に乗って遊びにやってくる。さきちゃんは、あみ子が中学のときに好きだった男の子に殴られて前歯を無くした話を聞きたがる。
 いったいどういう経緯でおばあちゃんの家にいるのか、なぜ好きだった男の子に殴られたのかと思っていると、上記の引用がはじまり、あみ子のこれまでが語られる。

 あみ子の母が開いていたような書道教室、私も通っていた。同じ公団のちがう棟にある家の一部屋で、同じようにじゅうたんが敷きつめられていて(でないと墨汁が飛ぶからだと、いまならわかる)、トイレを借りたときにほかの部屋がちらりと見えたりした…と思い出したり、そこに通っていた大好きなのり君とのやりとりにどこか懐かしい、郷愁のようなものを感じたりもするが、もう少し読み進めると、そんなノスタルジックな甘い話ではないとすぐに気づかされる。

 あみ子によって母が壊れ、家族が崩壊していくのが読者には手にとるようにわかるが、物語はあくまであみ子の視点から描かれる。
 兄とスキップして帰った道、父がくれたハートマークのチョコレートクッキー、のり君がくれた蒸しパン、もうすぐやってくる赤ちゃんへの期待、おもちゃのトランシーバー……

 途中、”邪悪な子ども” を描いた小説なのかな? とも思い、嫌悪感すら覚えてしまったのだが、あみ子はあくまでも無邪気で悪気はない。

 その点については、以前に紹介した『夜中に犬に起こった奇妙な事件』と共通するものがある。この本の主人公の少年も悪気はないが、その言動で親が非常に苦しめられているのが伝わり、読んでいて非常につらくなる小説だった。
 ただ、この小説は、主人公は自他ともに認める「ひとと上手くつきあえない」病気という設定で、親も(問題はあるものの)学校もサポートしようと試みていて、いわゆる「社会」との接続が感じられた。

 けれども、「こちらあみ子」では、あみ子は病気と設定されているわけではなく(周囲が腫れもの扱いしているのは感じられるが、あみ子の視点から書かれているので、具体的にどう見られているのかはわからない)、しかも舞台は田舎町の家と学校のみという閉ざされた空間で、「外部」との接続はなく、よりいびつさが際立っている。

 なにより不穏なのは、たしかにあみ子はふつうではないのだが、読んでいくうちにあみ子より、父と母の方がおかしいのではないかとも思えてくるところだ。
 母は登場からどことなく不安定な素振りを見せるし、一番まともそうでありながら、家族が崩壊しつつあるのに何もしない父はかなり不気味である。父はあみ子が何を訴えても、妄言だと思っているのか、一切耳を貸そうとしない。

 父とも母とも会話ができず、大好きなのり君にも殴られたあみ子は、壊れたおもちゃのトランシーバーに向かってひとりでしゃべる。 

「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」

誰からもどこからも応答はない。

「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子。こちらあみ子。応答せよ」何度呼びかけても応答はない。

  あみ子の声は誰にも届かない、と思ったそのとき、不良の田中先輩こと兄がやって来る。いくらあみ子が訴えても父が無視し続けたことを、「助けてにいちゃん」と言われた兄はたちどころに解決する。

 このシーンは奇妙に感動的で、カタルシスを感じる。いや、感じるというより、事実ここからあみ子の世界が変わったのかもしれない。坊主頭と会話を交わし、あみ子にとってはじめての友達と言える(のり君は恋の相手だったので)さきちゃんがあらわれるのだから。

 読み終えたばかりのときは、圧倒的なディスコミュニケーションを描いた小説のように思われたが、こうやって考えていると、そうとも言えない気がする。
 いや、コミュニケーションかディスコミュニケーションかというと、ディスコミュニケーションが多く描かれているのだけれど、それよりも、コミュニケーションとディスコミュニケーションの狭間のようなものが浮かびあがると言うべきか。

 そして、単行本に収録されている「ピクニック」も、これまた手ごわい小説だった。「こちらあみ子」ほど強烈な違和感を発散しているわけではないが、じわじわと足元が揺るがされるような感じ。

 ルミたちが勤めるレストラン『ローラーガーデン』の新入りとして、七瀬さんが入ってくるところから物語がはじまる。ルミたちはウェイトレスとして、ビキニ姿にローラースケートを履いて働いているのだ。 

女の子ではないけれどルミたちの母親ほどの年齢には達していない。その中間あたりだろうかと思われた。本人に歳いくつ? と訊ねたら「秘密です」と返ってきた。結婚しているの? と訊いたら「まだしてません」、彼氏いるの?「はい、います」、彼氏何歳? 「三十三歳」、彼氏なにやってるひと? 「タレントです」

七瀬さんは有名なお笑いタレントの名前を口にした。

  そう、この正体不明の七瀬さんは、目下売り出し中のお笑いタレント「春げんき」とつきあっていると言うのだ。(ジャニーズのアイドルなどではないのが、うまいですね)七瀬さんが十二歳の頃に偶然出会い、それから十年後、まったくの新人だった彼が出演した深夜ラジオをまた偶然聞いて再会したらしい。

 そしてルミたちはその話を受けとめる。信じているのか信じていないのかは明言されないが、七瀬さんの恋物語は、ルミたちの「ネタ」になる。

 みんなで「げんきくん」(七瀬さんの呼び方)の出る番組を鑑賞する、彼とデートするために田舎から東京に行く七瀬さんを見守る、彼が落とした(とテレビで語った)携帯電話を探す七瀬さんを応援する……「ネタ」というと悪意や嘲りのニュアンスが強く感じられるので、共同幻想と言ってもいいかもしれない。

 ところが、『ローラーガーデン』の輪のなかに十六歳の新人が加わったことで、ルミたちと七瀬さんで作りあげた世界に変化が生じ、さらに決定的な事件が起きる……

 ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』に収録されていてもおかしくないこの小説。
 「こちらあみ子」はあみ子の視点から描かれているので、あみ子に困らされている周囲の姿がぼんやりとしか読み取れない点が不穏な要因のひとつであったけれど、「ピクニック」はさらに発展して、七瀬さんを受容する「ルミたち」という複数の視点から描かれ、不穏さが拡散されている。あみ子対周囲の人間だったのが、七瀬さん&ルミたち対新人となり、ふつうじゃない方が多数派となる。 

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

 

 そして、この小説の要となっているのは、最初は七瀬さんが作りあげた幻想にルミたちが巻きこまれた形になっているが、そのうちに、ルミたちが七瀬さんを駆りたてるようになっていくことである。

 いったんは「げんきくん」の携帯電話探しを諦めかけた七瀬さんだが、ルミたちに応援されたので、毎日泥だらけになってまで続ける。ルミたちは「げんきくん」の浮気を心配する七瀬さんを励まし、ついには七瀬さん不在で「げんきくん」を見に行くようになり……そうして「ピクニック」がはじまる。

 そう、七瀬さんと「げんきくん」の恋愛は、ルミたちにとって祝祭というかカーニバルだったのかもしれない。ならば、当人たちの身の上がどう変化しようと終わらせることはできない。自分たちだけでカーニバルを続けるのだ。

 彼岸と此岸、なんとか交信しようとするトランシーバー、終わらない祝祭、そんなイメージが浮遊する今村夏子の小説世界だった。

2019/8/10 翻訳者村井理子さん&編集者田中里枝さんトークイベントー『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『サカナ・レッスン』(キャスリーン・フリン著)より

 さて、まさに真夏のピークの8月10日、梅田蔦屋書店で行われた翻訳者村井理子さんと、編集者田中里枝さんのトークイベントに参加しました。

 おふたりがタッグを組んだ最初の本、『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』の著者キャスリーン・フリンが、日本の読者のために書き下ろした『サカナ・レッスン』の発売を記念したイベントで、そのテーマはずばり「翻訳本の未来を考える」というもの。 

ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室

ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室

 

  

サカナ・レッスン 美味しい日本で寿司に死す

サカナ・レッスン 美味しい日本で寿司に死す

 

  この日なにより印象に残ったのは、おふたりが翻訳本をひとりでも多くのひとのもとへ届けたいという、強い信念を持っていることだった。

 いや、信念を持つだけなら誰にでもできるかもしれない。けれども、今回の『サカナ・レッスン』が原書があって翻訳本を作るというスタイルではなく、キャスリーンが書いたものをリアルタイムで翻訳し、それを本にするという例のないパターンの本であるように、実際にさまざまな試みを行っている方たちの言葉なので、説得力があった。(フィクションでは、柴田元幸さんが訳されているバリー・ユアグローが、日本の読者向けに短編を書き下ろすというのはあったように思う)

 もちろん、そんな試みができたのも、前作『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』がヒットしたからであるが、この本のヒットも偶然ではなく、日本の読者に向けた工夫が施されていたからだということがよくわかった。

 そもそも、私はこの本をかなり長いあいだ積読していたのだけど、それはなぜかというと、おもしろそうだと思う一方で、なんとなくひっかかる点があったからだ。
 いわゆる手作り教というか、“ていねいな暮らし”思想というか、農薬や添加物まみれの市販のものを食べるなんて人としてまちがっている、みたいな説教臭い本ならちょっと嫌だなと思っていたからだ。

 さらに、タイトルからは、料理ができない=ダメ女みたいにも読めなくもないのにも、少し抵抗があった。

 アメリカなら、主婦であっても外食やインスタント食品を活用するのはふつうであり、ことさら非難されないのかもしれないが、よく言われているように、日本の主婦、とくに「お母さん」が要求されている家事の水準はきわめて高いので、女性に余計にしんどい思いをさせる本ではあるまいか、ともうっすら危惧していた。

 けれども実際に読んでみると、そういう説教臭さ、「正しさ」を押しつける要素はほとんどなく、それよりも「料理は苦手」と自認している女性たちが、そう思うに至った経緯や、彼女たちがオムレツなどの簡単なものを作ることによって充実感や自己肯定感を手にする姿が印象に残った。

 こういったメッセージは、もちろん原書にもともと書かれているのだろうけれど、編集と翻訳の過程でより強まったであろうことが、この日のトークで感じられた。

 まず、村井さんがこの本を田中さんに持ちこんだとき、最初田中さんは断ったらしい。料理は得意ではないので、料理本ならもっとふさわしい編集者がいるのでは、と。しかし、田中さんが自己啓発系の本を多く手掛ける出版社に移ったときに、こういう切り口で翻訳本を作ることができるのではないかと考え、村井さんに連絡をとったという話だった。

 そして、原書はペーパーバックで300ページ強あるが、内容を一部削除したりとエディットを加えたとも話されていた。
 翻訳本では、料理が苦手な女性たちを著者が取材するくだりがひとつの章として、本文とは別枠で書かれていて、それゆえにひとりひとりのキャラクターやバックグラウンドがよく伝わってきて共感できたけれど、原書では本文のなかに地続きで書かれているらしい。このあたりのエディットが巧みだなとつくづく思った。


 料理を専門としていない翻訳者と編集者が、さまざまな工夫を凝らして作った本であるからこそ、料理本の読者層以外にも受けいれられる本になったのだということがよくわかった。『サカナ・レッスン』の冒頭に出てくる、村井さんがキャスリーンに送ったメールでも、その思いが綴られている。 

キャスリーン、わたしたちの文化では、女性はなにごとにも優秀であることを求められがちです。…… すべてにおいて完璧でありながら、料理だって完璧でなくちゃいけないんです。料理ができない女性は「ダメ」という烙印を押されてしまいがち。わたしたちはそんな風潮に反論したいのです。

  原書の内容をある程度カットするというのも、日本で翻訳本を売るためには必要なことだろう。一般的にもよく言われていて、この日も話にあがっていたけれど、欧米ではぶ厚くて字の細かい本が多いようだが、日本ではやはり、基本的にはある程度薄い本の方が好まれる傾向があると思う。

 考えたら、ノンフィクションに限らず、小説でも、先にあげたバリー・ユアグローが(おそらく)本国より日本で人気があるのは、柴田さんの訳文だけではなく、ショートショートが日本人の好みにあっているというのもあるだろう。村上春樹にしても、ねじ巻き鳥や『1Q84』などの大作で世界的な作家となったけれど、日本のファンは短編の方が好きというひとも多いように感じる。

 翻訳本がなぜ敬遠されるのかについては、ほかにも、いわゆる「翻訳文体」が読みづらい、単純に地名や人名が難しい&馴染みがない&ピンとこない、高尚というかスノッブな感じがして近づきにくい……といった原因があるのではと分析されていたが、田中さんは今後も極力そういうものを排除した本作りをしていきたいと語られていた。翻訳文体については、村井さんの言う、“語尾ポリス”も非常に興味深かった。

 たしかに、もっと「気軽に読める」翻訳本が増えてほしい。やはり「気軽に読める」本が増えないことには、コアファン以外に翻訳本の読者が広がることはないと思う。

 「気軽に読める」というのは、もちろん内容が薄いという意味ではなく、とくに難しいことが書かれているわけではなく、するすると楽しく読めるけれど、いつまでもその内容が胸に残る、折にふれて思い出す……というのが、翻訳本に限らず理想の本ではないかと、常日頃から考えたりする。

 

ユダヤ人を迫害したのは誰か? 『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』(マイケル・ボーンスタイン、デビー・ボーンスタイン著 森内薫 訳)

あまりにひどい話だ。手は怒りで震えていた。でも今となっては、そのサイトを見てよかったと思う。それによって、私ははっきり自覚した。もしも私たち生存者がこのまま沈黙を続けていたら、声を上げ続けるのは嘘つきとわからず屋だけになってしまう。私たち生存者は、過去の物語を伝えるために力を合わせなければいけない――。

  この本の語り手、マイケル・ボーンスタインは4歳のときにアウシュヴィッツ収容所から解放された。収容所が解放されたときに生き残っていたのは2819人で、そのうち8歳以下の子どもはわずか52人だった。 

4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した

4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した

  • 作者: マイケル・ボーンスタイン,デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート,森内薫
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2018/04/25
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 そのあとボーンスタイン氏はアメリカに渡り、アウシュヴィッツでの経験については家族にすらもほとんど話すことはなかった。なにしろ4歳の頃の話なので、どこまで正確な記憶かもあやしい。嘘やあやふやなことなんて言いたくない。そしてなにより、思い出したくない記憶だというのも大きな理由である。

 アウシュヴィッツを遠い記憶の彼方に追いやって70年もの年月を過ごしてきたが、あるとき、ソ連軍によって収容所が解放されたときの記録写真に、4歳の自分の姿が写されていることを知っておどろく。

 写真からさらに驚愕の事実を知る。その写真を利用して、ホロコーストはなかった、ユダヤ人のついた大嘘だと主張するひとたちが存在しているのだ。
 アウシュヴィッツユダヤ人を虐殺したと言われているが、この写真を見ろ、子どもたちはこんなに元気に生き残っているじゃないか、と――

(ちなみに、その写真は収容所が解放されてすぐに撮られたわけではなく、子どもたちの状態が落ち着いてから撮影されたとのこと)

 そこで冒頭の引用につながる。これ以上生存者が黙っていたら、嘘つきがどんどんとのさばるだけだ。話す覚悟をしなければならない。「自分と家族が半世紀以上のあいだ胸の奥にしまい込み、固く鍵をかけていた物語」を解き放たないといけない。
 そう決意したボーンスタイン氏は、テレビ番組のプロデューサーをしている娘のデビーに協力を仰ぎ、娘との共著という形でこの本を記しはじめる。 

歴史の歪曲のために父の写真を悪用したサイトを見たとき、私は、この仕事をなんとしてもやり遂げようという闘志をかえってかき立てられました。誰かがホロコーストについての嘘を語るなら、その100倍もの声で真実を語ればいいのだと。

  この本はタイトルからもわかるように、ボーンスタイン氏のアウシュヴィッツ収容所での経験が主眼となっているが、どちらかというと、その前後の物語の方がより印象に残った。

 収容所の様子については、前回の『夜と霧』や、読書会の課題書『ローズ・アンダーファイア』(こちらはフィクションだけど、多くの資料をもとに書かれている)と共通しているところが多かったからかもしれない。
 もちろん、現実に起きたできごとなのだから共通しているのは当然であり、収容所内でのむごい殺戮の衝撃や、そんな状況においても助けあう囚人たちの姿が呼びおこす感銘が弱まるわけではないのだけど。

 けれども、この本で一番恐ろしく衝撃的だと感じたのは、ドイツ軍が降伏して収容所が解放され、ボーンスタイン家の生き残った面々がポーランドに戻り、再び集ったそのときに地元住民たちに襲われるくだりだ。 

「おまえたちが――おまえたちのシナゴーグと黒魔術の蝋燭が――この国に敵を呼び寄せたんだ。ドイツ人はこの戦争で一つだけいいことをしてくれた。それはおまえらユダヤ人をポーランドから追い出したことだ」

  ユダヤ人虐待はナチスがはじめたわけでも、ナチスの専売特許でもなかった。

 ヨーロッパ全体に広がっていたユダヤ人への差別や暴力、「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害にナチスが乗っかったのだ。ナチスは社会に蔓延していたユダヤ人への差別感情を煽動することで民衆の支持を得て、それがついにはホロコーストにまで至ったということがまざまざと伝わってきた。
 そして、ドイツ占領下でのユダヤ人以外の住民たちは収容所の存在や、そこでいったい何が行われているのかもうすうすは知っていたが、見て見ぬふりをしていたことも。


  1939年にドイツ軍がポーランドに攻めこんでから、ボースタイン一家がアウシュヴィッツに送られるまでの日々の描写はまさに地獄だ。
 一家はポーランドのジャルキに住んでいたが、「ドイツ軍が侵攻してきた最初の一日だけで、ジャルキでは約100人の無実の人々が殺された」。 

 それ以降も、ドイツ兵によるユダヤ人の虐待や殺人が続く。ボーンスタイン氏の父親はユダヤ人評議会の議長という役に就いており、ドイツ人将校と交渉できる立場であったことから、一家はジャルキでの死を免れる。しかし状況は悪化する一方であり、ここで殺されずに済んでも、いずれは収容所に送られるという噂を耳にする……

 こういう経験談を読むと、どうしてもっと早くに逃げなかったのだろう? と、いつも思ってしまう。

 いや、それは完全な後知恵というか、歴史がどうなったのかを知っているからこその考えであることはわかっている。リアルタイムで経験していれば、ボーンスタイン一家のように、いまは苦しいけれどそのうちに戦争は終わるだろう、アメリカも参戦するという噂だし、そうすればすぐにドイツ軍も追い払われるはずだ……と考えてしまうのだろう。

 ただ、一家がジャルキからすぐに逃げなかったのは、戦争に対して楽観的に考えていたからだけではない。差別され続けてきたユダヤ人にとって、ユダヤ人が多く居住するジャルキは安息の地であったからだ。
 つまり、ドイツ軍に支配されたジャルキを脱出しても、ユダヤ人が安心できる場所はポーランドやその近辺にはそうそうないとわかっていたから、逃げられなかったのではないだろうか。

 収容所での凄惨な体験談を読むと、どうしてこんなことができるのだろう? と心の底から疑問に感じる。
 一方で、人間同士の差別の芽は、昔から現在まで世界中の至るところにあり、けっして無くなることはない。往々にして、権力者はそういう差別感情を煽動して利用する。焚きつけられた差別感情がホロコーストへつながるのは、想像よりもずっと簡単なことなのだろう。

 訳者の森内薫さんのあとがきによると、この本と同時期に『ゲッべルスと私』を訳されたらしい。 

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

 

  この本はナチスの宣伝相に勤務していた女性による手記であり、つまりホロコーストをまったく逆の立場から描いている。
 こちらを読むと、おそらくはとりたてて差別的でもなかった「普通の人」が、どのようにしてナチスに加担(と言っていいのかわからないが)させられていくのかがわかるのかもしれない。

 私自身、勇敢でもなく正義感が強いわけでもない「普通の人」だという自覚がある。自分の命を危険にさらしても、差別されているひとを守るなんてできそうもない。だからこそ、こういう本を読んで考え続けなければいけないとつくづく感じる。

「いま翻訳者たちが薦める一冊 憎しみの時代を超える言葉の力」フェアより 『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子 訳)

 さて、プロフィールでもちらりと書いているとおり、ミステリーにとくに詳しいわけでも何でもないのに、僭越ながら大阪翻訳ミステリー読書会の世話人をしているのですが、9月開催の読書会の課題本に『ローズ・アンダーファイア』(エリザベス・ウェイン著 吉澤康子訳)を選びました。 

ローズ・アンダーファイア (創元推理文庫)

ローズ・アンダーファイア (創元推理文庫)

 

  第二次世界大戦まっただなかの1944年、英国補助航空部隊に勤務するアメリカ人女性飛行士のローズは激しい空襲から命からがら逃れ、得体の知れないドイツ人との戦いに恐怖を感じていた。
 しかし、連合国軍が解放したパリに入り、フランス国歌を歌いながらエッフェル塔を飛行機で旋回し、未来への希望を感じる。ボーイフレンドのニックとの結婚も近い。

 ところが、飛行中にドイツ軍に捕えられ、すべてが暗転する。スパイの疑いをかけられ、強制収容所に送られてしまったのだ……
 そして、ローズの強制収容所での日々が語られる。強制収容所については、多くのひとが凄惨なイメージを漠然と持っていると思うが、それでもなお想像を上回る凄まじさだ。

 この『ローズ・アンダーファイア』については、読書会後にまたあらためてご報告しますが、せっかく読書会を開くのでこれを機に、戦争をテーマにした本をできるだけ読んでみることにしました。
 また、ちょうど翻訳ミステリーシンジケートのサイトでも「『いま翻訳者たちが薦める一冊 憎しみの時代を超える言葉の力』フェア」の紹介があったので、しばらくはこのフェアの本を中心に取りあげたいと思います。

honyakumystery.jp

 そこで最初は、超名作『夜と霧 新版』から。 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

  超名作と言いつつ、恥ずかしながら読むのは今回がはじめて。読んだら絶対に重い暗い気持ちになるはず、強制収容所の悲惨な実態が夢にまで出てきそう、不潔でむごたらしい描写が多いのではないか……といった先入観があったので、これまで手を出さなかったけれど、実際に読んでみると、こんな偏見はすべてまちがっていたことに気づいた。

 もちろん、収容所の話なので重い暗い内容であり、むごたらしいほどの過激な描写はないものの、悲惨な実態が描かれている。
 けれども、この本の主眼は「強制収容所の悲惨な実態」ではなく、そういった極限状態におかれた人間の肉体と精神がどう変容するかについて、筆者が医者として、当事者として冷静に観察し、人間の普遍的な本質を探究している。

 この本は、強制収容所に入れられるところからはじまる。
 その背景である、ユダヤ人の迫害やナチスドイツの支配、第二次世界大戦についての記載はない。この本が最初に書かれた1946年のヨーロッパにおいては、説明するまでもなかったからだろうと思ったが、訳者あとがきでは、あえて「ユダヤ人」という言葉を使わないことで、「この記録に普遍性を持たせたかった」のではないかと書かれている。

 たしかに、この本で書かれていることは、ナチスによる犯罪の告発ではなく、ユダヤ人という一民族の悲劇にとどまるものではない。
 それを通して、被害者にも加害者になり得る人間とはいったいどういう存在なのか、人間は何によって生き延びることができるのか、そして、生の意味はあるのか、というところにまで考えを深めているから、年月を経てもまったく古びずに、いまはじめて読む者の心にも強く訴えかけるのだと思った。

 筆者は「施設に収容される段階」「まさに収容所生活そのものの段階」「収容所からの出所にないし解放の段階」と三段階に分けて、被収容者の心の反応を解析している。
 なかでも一番興味深く、かつ恐ろしいのが「まさに収容所生活そのものの段階」の心理だ。最初の段階でのショックを経ると、人間はあっという間に感情を鈍磨させて喪失し、無関心の状態に陥ってしまう。 

自分はただ運命に弄ばれる存在であり、みずから運命の主役を演じるのでなく、運命のなすがままになっているという圧倒的な感情、加えて収容所の人間を支配する深刻な感情消滅。こうしたことをふまえれば、人びとが進んでなにかをすることから逃げ、自分でなにかを決めることをひるんだのも理解できるだろう。

 と、被収容者の精神について説明されているが、こういう心理は、強制収容所ほどの強烈な体験を経なくとも、長年にわたり強く抑圧され、希望を失った人間が抱きがちなように思われる。そう、いまの日本にも少なくないのではないかと……

 とはいえ、被収容者がみなまったく同じ精神状態に陥るわけではない。
 もちろん誰もがうちひしがれるわけだが、多くの仲間が運命に翻弄され、なりゆきにまかせてとことん堕落していくなか、なんとか人間の矜持を保ち続けた者、最後まで希望を失わず生き延びた者もいる。残り少ないわずかなパンを、自分より衰えた仲間に分け与える者もいた。 

収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。

  この『夜と霧』を読むと、人間が極限状態を生き抜けるかどうかは、内面の世界の有無にかかっていることがよくわかる。

 たまに、「飢えた子どもの前では、本や音楽などの芸術なんて何の役にも立たない」といった言説を目にすることがあるが、そんなことはけっしてない。被収容者たちはときに空の美しさに感動し、収容所においては歌や詩、さらにギャグまでもが非常に有用な「自分を見失わないための魂の武器」であったと書かれている。(このあたりは課題本『ローズ・アンダーファイア』にも関係しますが)

 極限状態においては、いや極限状態に限らないかもしれないが、内面こそがすべてなのだ。
 筆者は「工事現場」で強制労働をさせられている最中に、妻の姿をまざまざと見る。妻と語りあう。目の前にいるはずもなく、生きているのかどうかもまったくわからない妻の声を聞いたのだ。その瞬間、至福の境地に達してこう思う。 

思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。

 「繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えた」という逆説を説明するために、筆者があえて語ったこの個人的エピソードは、『夜と霧』のなかでもひときわ強い印象を与える。

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」と、詩人の言葉を引用して、筆者は収容所で仲間たちに語りかけるが、内面世界は何があろうと、誰にも奪えるものではないのだ。

 そのほかにも、この本は収容所の実態をテーマにしたものではないと先に書いたが、それでもやはり、収容所の実態も興味深い。どんな状況であっても、人間が集まれば「社会」になるのだなと実感する。このあたりも、『ローズ・アンダーファイア』と共通しているので、読書会で考えたい。


 かつての私のように、怖い、憂鬱になりそう……と思って、まだ手に取っていない方にこそ、ぜひ『夜と霧』を読んでほしい。陰惨な内容ではまったくなく、書かれているメッセージはどれも真っ当で、たいへん読みやすいながらも、強烈な体験と深い思索に裏打ちされた説得力がある。

 この夏、選挙やらオリンピックやらでなんだか騒がしいですが、この『夜と霧』をはじめとする、上記のフェアの本を読んでじっくり考えにふけり、内面世界を深化させるのもいいかもしれません。

 

初心者のための田辺聖子~ハイ・ミス小説のオススメ(中級編)~『愛してよろしいですか?』『夢のように日は過ぎて』『薔薇の雨』

それにしても、ハイ・ミスにとって

「……たら」

というのは禁句なのであることを、知らないのかなあ。

私と小田美枝子がしゃべっているとき、どちらかが「……たら」というコトバを使うと、

「タラは北海道!」

と叫んで、次の言葉を封じてしまう、約束ごとがある。

(もし、あのとき、こうなってたら……)

(もし、あの人と結婚してたら……)

なんて、いっていたら、ハイ・ミス商売は張っていけない。前だけ向いてあるきましょう。

   さて、田辺聖子さんは長いキャリアにおいて、現代を舞台にした恋愛小説から古典を題材にした物語、また「カモカのおっちゃん」シリーズなどの軽妙なエッセイ、実在の人物の評伝など幅広い作品を書かれているが、代表となる作品群の筆頭に “ハイ・ミス” ものを挙げることができるだろう。

 といっても、いまや“ハイ・ミス”と聞いてもピンとこない方も多いかもしれない。大辞林によると、“ハイ・ミス”とは「年のいった未婚の女性」と定義されているが、田辺作品での “ハイ・ミス” とは、三十歳以上の独身であるということに加えて、自立した働く女性という意味もあるように思える。現在でいうと、少し古いけど ”負け犬“という言葉が近いだろう。

 この一連の“ハイ・ミス”作品群では、“ハイ・ミス”たちが自分より一回り年下の若い男たちや、あるいは一回り年上の人生経験豊富な男たちとくり広げる恋愛模様が描かれている。
 いまの目から見ると、大人の女を主人公にした恋愛小説というとさほどめずらしくもないかもしれないが、田辺聖子さんが “ハイ・ミス” ものを書き始めたのは1970年代前半である。昭和四十年代後半だ。

 もちろん「セクハラ」などの言葉も概念も存在せず、ほとんどの女性が二十代で結婚して仕事を辞めて、家庭に入っていた時代だ。

 三十過ぎた独身女性というと、周囲から「はよ結婚せなあかんで」とやいやい言われるのは当たり前で、堂々と「行き遅れ」「オールドミス」と侮蔑されることもめずらしくなかった。当時の「三十過ぎた独身女性」は、いまの三十過ぎの独身女性とは見られ方もまったく異なっていただろう。

 そんな時代に、結婚もせず、家庭に属することなく “ハイ・ミス”として生きていこうとするのだから、弱気になってなんかいられない。

 冒頭の引用は、三十四歳の斉坂すみれを主人公とする、”ハイ・ミス” ものの代表作のひとつ『愛してよろしいですか?』からであるが、「ハイ・ミス商売」を張っていく気構えが示されている。 

愛してよろしいですか? (集英社文庫)

愛してよろしいですか? (集英社文庫)

 

  また、もうひとつの代表作と言える『夢のように日は過ぎて』では、主人公である三十五歳のキャリアウーマン芦村タヨリは「アラヨッ」という「こだわりフレーズ」を持っている。 

夢のように日は過ぎて(新潮文庫)

夢のように日は過ぎて(新潮文庫)

 

  「アラヨッ」というのは、「飛び移る、乗り換える、乗り越える」といった「思い切った行動をとるときのかけ声である」と書かれている。
 同じかけ声であっても「ヨイショ」とちがう点は、「ヨイショはすすまぬ気持ちを引き立てて」という、誰かから強要されたことに取り組むような「消極的な受け身の生きかた」をあらわしているが、  

「アラヨッ」というとき、本人の弾みがある。面白がってやってる感じがある。人の目を意識してるサーカスの曲芸みたいなところがある。 

 と説明されている。そうだ、「ハイ・ミス商売」はけっして誰かから強要されたものではない。
 逆に、人並みの生きかたを押しつけようとする世間の圧から逃れるための「サーカスの曲芸」のようなものだ。自分の人生を「面白がって」生きるためには、景気のいいかけ声が欠かせない。

 それにしても、このタヨリ姐さんは、田辺作品の”ハイ・ミス”主人公の中でも、きわめて威勢がいい。母親のいつもの小言を聞いて、こう考える。 

(結婚せえへん人間は修養が足らん。人間がでけへん。結婚したら人間ができますねん、あんたはまだ半人前や)

人間ができりゃいいってもんではない。人間ができるというのは伝統的演技力を身につけることであろうけど、それではワンパターンの人生になってしまう。夫の姓を名乗り、うっとうしいオジンオバンを、おとうさんおかあさんと呼び、いけすかない男や女を、おにいさんおねえさん、おとうといもうとと呼ぶなんて、どう考えても、私にはできない。やりたくない。

  ここから結婚というものについても考察するのだが、「私自身、家事はキライじゃないけれど、ずーっと、ヒトの分もさせられるというのはいやだ」という結論に至り、この小説は昭和から平成にかけて書かれたものなので、三十年以上前の作品だが、現在もほとんど変わっていないことを実感する。

 しかし、世間の風当たりには強気に立ち向かう ”ハイ・ミス”だが、恋愛においてはなかなかそうはいかない。

 そもそも、いい歳をした独身の働く女の前に、真面目で純情かつ誠実な若い独身男性といった、学生時代にはごろごろ転がっていたかもしれない男がやって来ることはそうそうない。(個人的実感も含まれているかもしれないが……)

 あらわれるのは、酸いも甘いも嚙み分けた既婚者、あるいはバツイチだったり、若い独身であっても、ワガママな坊ちゃん男だったり、自由過ぎて何を考えているのかつかめなかったりとクセの強い男ばかりだ。

 『愛してよろしいですか?』のすみれは、旅先のローマで出会った一回り年下の大学生ワタルにふりまわされる。心のおもむくままの行動をとるワタルに「狼狽させられ」、「彼の若さを、痛感させられてしまう」。 

何かにつけ、〈させられてしまう〉という受け身であるところに、彼との関係の特色があるが、それは不快なのではないのである。

そして恋においては、率直なほうが優位に立つ。

また、率直は伝染する。そして相手を武装解除させる。

 と、全集の解説で田辺聖子さん自らが書かれているが、「恋においては、率直なほうが優位に立つ」とは、真理ですね。

 短編『薔薇の雨』では、千日前の丸福珈琲で「人目を忍ぶ」ふたりが密会する。といっても、ふたりとも独身なのでとくに人目を忍ぶ必要はないのだが、強いていうと、(二人の年齢に対して)という思惑がある。
 そう、ふたりは五十歳と三十四歳のカップルなのだ。

薔薇の雨(新潮文庫)

薔薇の雨(新潮文庫)

 
 

 もっとも留禰は五十歳にみえないほど若々しいのを自分で知っているし、守屋も三十四歳という年齢よりは、どちらかというと老けてみえるのも事実なので、傍目にはとりたてて不釣合なカップルには見えないだろう。

  五十歳と三十四歳というと、つい男が五十歳で女が三十四歳だと思ってしまいそうになるが、この小説では女の留禰が五十歳だ。

 といっても、『愛してよろしいですか?』同様に、手練手管の中年女が初心な若い男を手玉にとってふりまわす話などではない。
 たしかに、五十になった留禰は、男の身勝手、聞き分けのなさに微笑しながらも、(身勝手で聞き分けないから男なんだ)と思える分別を持ち合わしている。そしてまた同時に、そろそろ若い男と別れる潮時かもしれない、と考える分別も。

 三十四歳の守屋には、若い女との縁談も持ちこまれている。
 留禰は守屋との別れのことばかり考えてしまう。どうやったら傷つかずに別れられるのか? いざ別れが訪れたとき、髪をふり乱して相手にすがるような真似は絶対にしたくないと強く思う。けれども、実際にそのときになれば、もしかすると泣きわめいて引き止めようとするかもしれないとも想像する。

 タヨリさんの「アラヨッ」じゃないが、「信条」を持たなければならないと心に決める。 一方、若い守屋は、「信条」なんて持たないことが「信条」だと言ってのける。 

「オレ? 何もない。何かきめても場合によってはクラッと正反対のことをやるから、きちんと筋を通されへん。なまじ信条や憲法があると、それに振りまわされてしまう」

  理性と情念を冷静に天秤にかけようとする留禰と、そんなものをひょいと乗り越える守屋。年上の女の揺らぐ心情に男女のちがい、そしてそこから生まれる機微を、短編でこれほど描き切るとは見事だとあらためて感じる。

 しかし、田辺作品に描かれた「大人のおとぎ話」ともいえる恋愛模様やときめきが、どれくらい現実に起こり得るのかはわからない。

 一連の“ハイ・ミス”作品に出てくる、甘く優しく、かつ怜悧な若い男や、人生の裏も表も知っている魅力的な中年男なんて、ほんとに実在するの? ツチノコネッシーと同類じゃないの?? という気持ちになる妙齢の女性も多いことでしょう。けれども、

 ときめいたり、華やいだりという気持ちは、本当は人生のどこにでも撒かれている〈星〉だから、もし巡りあったときには大事にして、喜んで、いつまでも心に残る思い出になってほしいですね。 

([た]1-1)百合と腹巻 Tanabe Seiko Co (ポプラ文庫)

([た]1-1)百合と腹巻 Tanabe Seiko Co (ポプラ文庫)

 

 と、田辺聖子さんが語られている(「薔薇の雨」も収録されている『百合と腹巻』のインタビューで)のを胸に刻んで、タヨリさんのようにこうやって過ごすしかないのでしょう。

私は、これから先、どんなことが起きても

「アラヨッ」

で乗り切ろうと思う。

 

 

 

 

初心者のための田辺聖子~入門編~ 『ジョゼと虎と魚たち』『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』

「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうない、思うてたんや」

  田辺聖子さんが亡くなったので、小説やエッセイを読み返しているここ数日。
 そこで、まだ読んだことのないひとのために、「入門編」として、いくつかオススメ作品を紹介したいと思います。すべて結末が伺える内容になっていますが、ミステリーではなく、話の筋を知っていても楽しめると思いますので何卒ご容赦を……

 短編で一番知られているのは、妻夫木聡池脇千鶴主演で映画化された「ジョゼと虎と魚たち」でしょうか。 

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

  ごくふつうの大学生活を送る恒夫が、脚が不自由な少女ジョゼとひょんなきっかけで出会い、ジョゼと祖母がひっそり暮らす家に出入りするようになる。

 ほんとうはクミという名前があるのに、サガンの小説に憧れてジョゼと名乗り、高飛車で口鋭いジョゼに、恒夫はとまどいつつも興味を抱く。ある日、就職活動に追われていた恒夫がひさしぶりにジョゼの家を訪れると、祖母が亡くなっていて、ジョゼはアパートでひとり暮らしをはじめていた。そのまま恒夫はジョゼと一緒に暮らすようになるのだが……

 たったこれだけの話なのに、どうして胸をうつのか考えると、物語全体がはかなさやこわれやすさ、英語でいう”fragile”なトーンにおおわれているからではないだろうか。

 まずは、ジョゼ自体が ”fragile” な存在である。脚が不自由で人形のようにか細く、色が抜けるように白い。すぐに呼吸困難になる。
 生活保護に頼るジョゼと祖母の生活も不安定なものであり、まして祖母が亡くなり、「市役所の人」や「ボランティアの女の人」に頼るしかなくなった、ジョゼの暮らしが心もとないのは言うまでもない。
 そしてなによりもはかないのは、ジョゼと恒夫の恋である。 

二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。

  世間から隔絶されたように暮らしはじめるジョゼと恒夫。まるで世界に自分たちふたりきりしかいないような、宙ぶらりんの生活。ジョゼは水族館の魚のように「海底に二人で取り残されたよう」な気がする。

 先に、恒夫について「ごくふつうの大学生活を送る」と書いたけれど、人となりも「ごくふつう」であり、とくに繊細だったり鋭敏だったりするわけではない。ジョゼからサガンの小説の話を聞いても、まったくピンとこないし、ジョゼの理解者や共鳴者として描かれてはいない。

 この小説にかぎらないが、田辺聖子さんのすごいところのひとつは、男を安易に「女の理解者」にしないところ、つまり「このひとだけが私のことをわかってくれる」なんて都合のいいことはけっして描かない点だろう。(と思ったら幻想だった、という展開はあるかもしれないが)

 恒夫の行動はすべて「……させられてしまう」と記されているように、だいたいにおいて能動的ではなく、ブラックホールに吸い寄せられるように、ジョゼに吸い寄せられていく。流されていくままの男を引き留めておくことができるのだろうか?

 小説ではこのふたりがどうなるのかまでは描かれていないが、犬童一心監督と渡辺あや脚本の映画では、はっきりと示されている。
 妻夫木聡の演技によって、恒夫の善良さ、凡庸さ、そして弱さが際立っている。こういう「ふつう」の男子を演じるの、妻夫木くん、ほんと上手いですね。ちなみに当時この映画を見て、いい俳優いるなと思ったのが、新井くんだった……

 小説の結末は、ジョゼがうっすら予感するだけだ。それでいいとジョゼは思う。
 冒頭に引用した虎の場面も、その勇猛さによって、ふたりの恋のはかなさがいっそう引き立っているが、一生見ることはないかもしれないと思った虎を一度でも見ることができたのだから、ジョゼは満足したのだろう。

 長編の代表作は、やはり『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』の乃里子三部作でしょうか。 

言い寄る (講談社文庫)

言い寄る (講談社文庫)

 

 仕事も私生活も順風満帆で、恋愛にも奔放な31歳の乃里子。近寄ってくる男にも不自由しない。けれども、ほんとうに好きな相手にはどうしても言い寄ることができない……

 これが第一作の『言い寄る』。恋愛小説の鉄則ですね。
「手に入れるのが困難なほど、対象の価値が高まる」とシェイクスピアが言うように(チャールズ・ラム『シェイクスピア物語』の「ロメオとジュリエット」より)、手に入れられないものほど執着してしまうというのが、昔からの人間の心理であり真理。スカーレット・オハラとアシュレーを思い出したひともいるのではないでしょうか。

 私としては、いま映画がヒットしている『愛がなんだ』を見て、苦しくなったひとにも勧めたい。(と言いつつ、映画の方はまだ見に行けてないけれど……噂によると、原作ほどつらくないらしいが。以前原作を読んだときは、自分の立っている足元がすっぽり消えて闇に落ちてしまったような、恐ろしい気持ちにとらわれた) 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

  『言い寄る』で、つい自分に都合のいいように相手の言動を解釈してしまう、現実から目をそらしてしまう……といった誰もが犯してしまう、みっともない恋愛の失敗が赤裸々に描かれたかと思うと、続く『私的生活』『苺をつぶしながら』では、愛しあっているふたりの関係が暗礁に乗りあげ、ずたずたになっていくさまが容赦なく描かれている。


 あんなに楽しく素敵な恋愛だったのに、あれだけ溌溂としていた乃里子だったのに、と眩暈すら感じる。嫉妬やプライドや意地が絡みあい、傷つけあうことしかできなくなるふたり。もうこれ以上優しくできない、と乃里子が心を決めるくだりには、胸を突かれる思いがする。

 そう、田辺聖子さんの作品は、もしかしたら「女性向けの恋愛小説」というくくりや、ご本人の愛嬌のある優しい雰囲気から、軽くて甘いだけの小説というイメージを持っている方もいるかもしれないが、けっしてそうではない。

 愛読者には言うまでもないことだけど、ご都合主義に流れることなく、人間と人間の関わりがシビアな視線で描かれている。そしてそれでもなお、軽さや甘さ、優しさを軽んじることなく大切にしたところが、ほかの作家にはない、唯一無二の魅力なのではないだろうか。

 ポプラ社文庫の田辺聖子コレクション、『うすうす知ってた』の解説のかわりのインタビューではこう語っている。(このシリーズは、解説のかわりにインタビューがあり、おもしろく読みごたえがあるのでオススメ) 

小説はどんなふうにでも書けるけれど、「かくあらまほしい」という物を書きたいという気持ちが、心の底にあるのね。

醜いものを醜いままに書くのではなく、「こういうふうに考えたらいいんじゃないかしら」とか、「うまくいくんじゃない?」「こういう人間関係って素敵じゃない?」とか。理想というか希望があるものを書きたいんです。

  ほんとうはもっと紹介したかったけれど、もうすでに長くなってしまった……また続きを書きたいと思います。

誰もがみんな自分の人生の当事者――『図書室』(岸政彦 著)ほか『新潮』(2018年12月号)

どんな猫でもいいから、一匹の猫を(あるいは二匹の猫を)徹底的に幸せにしてあげたいなと思う。日当たりの良い場所に小さな寝床をつくって、そこに可愛らしい柄の、柔らかい毛布を敷いてあげたい。猫は自分が、ありえないほど幸せであることを自分でも気づかないまま、ゆっくりと手足をのばして、ぐっすりと眠るだろう。

  『新潮』(2018年 12月号) に掲載されている『図書室』を読みはじめるやいなや、主人公である団地でひとり暮らしをしている女が、雨を眺めながら猫を飼いたいと思う冒頭の場面が、まさに数年前の自分の姿そのものでギョッとした。 

新潮 2018年 12 月号

新潮 2018年 12 月号

 

   いつの間に見られていたのか? と思ってしまうほどに。

 もう少し読むと、当然ながら、主人公とは年齢もバックグラウンドも異なることに気づき安堵するのだが、それでも、他人事とは思えない要素――無印のシングルベッドに寝ているという些細な点から、「梅田に行って、阪急の紀伊國屋茶屋町ジュンク堂で何か本を買おう」とふと思ったり、「適当に選んで入った人材会社から派遣された」法律事務所で働いている(私の場合は特許事務所ですが)という経歴まで――が多々あり、なんだか落ち着かず、心の置きどころのわからないままひきこまれ、読みふけってしまった。

  「老いることを意識しだした」主人公は、ここ最近、子どものころのことばかり思い出してしまう。
 母親と猫たちと長屋で暮らし、夜の仕事で帰りが遅い母親を待ちながら猫たちと眠りについた夜。女の子の友だちとダイエーの二階のファンシーショップにクリスマス会のプレゼントを買いに行ったこと。そして、いつも通っていた公民館の図書室で出会った男の子。

 苦手な男子に図書室の自分の場所を横取りされ、主人公は「すごく嫌」だと思う。クラスの男子は美由紀ちゃんのかばんに大量のダンゴムシを入れたりするし、とにかく「最低」で「みんなバカ」だから。 

とにかく、私たちはもう十歳かそこらで、男というものに絶望していたような気がする。絶望というのは少しおおげさかもしれないが、男子たちの行動の理由や動機というものは一生かけても私たちにはわからないし、そういう生き物たちに言葉が通じるとはどうしても思えなくて、だからそもそも男というものは話し合いの対象にはならないと思っていた。

  けれどその図書室の男の子とは友だちになる。別の学校に通う子と仲良くすることは、なんだか自分だけの秘密のようでわくわくする。

 冬休みになり、毎日のように図書室に通うようになるが、どれだけ早起きして行っても、その男の子はいつも座っていて、宇宙や地球や恐竜に関する本を読んでいた。そしてある日突然、男の子が言う。 

「太陽って、いつか爆発するねんで」 

  いつか太陽がどんどん大きくなって地球をのみこみ、みんな死んでしまうというのだ。
 主人公と男の子は人類が滅亡し、野良猫も野良犬も動物園の動物もみんな死ぬことを想像する。あの『かわいそうなぞう』どころの話ではない。ふたりはぼろぼろと泣いてしまう。そこて、来たるべきその日に備えて缶詰を買いだめし、淀川の河川敷へ向かう。

 この子どものころの回想では、冒頭の場面を読んだ私のように、かつての自分の姿をそこに見出し、かつて抱いた感情がひしひしと胸に迫ってきたひとが多いのではないだろうか。

 「いつか地球が滅亡する」「いつかみんな死んでしまう」――突如としてそのことにはっと気づき、パニックに陥りそうになった子ども時代の自分。いてもたってもいられない気持ちになったあのとき。誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。

 まるで自分の人生が再現されているかのように感じてしまうくらいに、どうしてこんなに鮮やかに人生の断面を切り取り、いきいきと描き出せるのだろうと考えていると、前に読んだ『街の人生』を思い出した。 

街の人生

街の人生

 

  『街の人生』は、岸さんが社会学者として行ったインタビューを基にした本で(と言いつつ、よう知らんけどたぶん)、外国籍のゲイ、ニューハーフ、シングルマザーの風俗嬢、といった様々なひとたちの語りがそのまま再現されている。興味深かったけれど、正直なところ、自分が住む世界とまったくちがう世界で生きるひとたちを覗き見するような感覚で読んだ。

 でもこの『図書室』を読んで、『街の人生』は異世界のルポタージュでもなんでもなく、どちらも私たちの住むこの世界を描いていて、本質的には地続きなものだったのだと気づいた。

 図書室から世界の終わりを見つめる子どもたちも、南米からやって来たゲイも、ホームレスとして暮らすひとも、みんな自分と同じように「普通の人生」を生きていて、誰もがみんな自分の人生の当事者であるということが強く感じられた。

 そう、当事者性が濃厚に漂っているのかもしれない。この小説をわかりやすく表現するならば、郷愁とかノスタルジーという言葉になるのかもしれないが、冒頭を読んだ私が思わずギョッとしたように、ただのほのぼのしたノスタルジーではなく、もっと生々しい、ひやりとした手で足首をつかまれるような感触があった。
 ――が、それは私がこの小説の舞台のような淀川の流れる町で育ったから、よけいにそう思うのかもしれないけれど。

 ところで、この『図書室』を読むために、図書館から『新潮 2018年12月号』を借りた。文芸誌ってふだん手に取ることはあまりないけれど、こうやって読んでみると、なかなか盛りだくさんの内容だ。

 高橋弘希芥川賞受賞第一作「アジサイ」も読んだ。(しかし、最初に写真を見たときからバンドマンみたいやなと思っていたけれど、実際に元バンドマンのようですね)
 何の前ぶれもなく、唐突に妻が主人公のもとを去って実家に帰ってしまう話。

 「何の前ぶれもなく」と夫の視点で書かれているが、読んでいると主人公が凡庸で鈍感であるのが伺えるので(町内会の掃除当番などもまったく知らなかったりとか)、こういうところが去られた原因なのでは…? という気もするが、いや、こういうありがちな理由より、もっと謎めいたもの、根源的な何かがあると考えた方が、小説の読解としては正解なのだろうか。

 ほかにもこの号では、例の『新潮45』の検証や、ブレイディみかこによるレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』の書評もおもしろかった。

  以前紹介した『あの素晴らしき七年』(秋元孝文 訳)のエドガル・ケレットのインタビューも、本でも描かれていた家族の話から、アメリカのユダヤ人作家やヘブライ語についての話、そして、トランプ大統領パレスチナ問題といった世界情勢に至るまで、幅広いテーマについて語られていて非常に読みごたえがあった。 

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

 

  また、ヘミングウェイの未発表小説「中庭に面した部屋」(今村楯夫 訳)も、ごく短い作品だったけれど、第二次世界大戦の終わりを迎えようとしているリッツ・ホテルが舞台となっていて、以前にも紹介した『歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)』(ティラー・J・マッツェオ 著 羽田 詩津子 訳)を思い出した。

 そのせいか、訳者の今村さんの解説を読むまで、「中庭に面した部屋」を小説ではなく随筆だと思いこんで読んでしまい、クロードって誰やったっけ? なんて考えてしまったが…。 
 しかしまあとにかく、『歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)』は、ヘミングウェイプルーストといった文豪から、ココ・シャネルなどのセレブリティがいっぱい出てきて、とくに歴史に詳しくなくてもおもしろく読めるのでおすすめです。

歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)

歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)

 

  あ、そして、『図書室』はもうすぐ単行本で出るらしい。書き下ろしのエッセイも収録されるようで、雑誌で読んでいても買いたくなってしまう恐ろしい罠ですね… 

図書室

図書室