快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

マイノリティであるということ――10/31 トークイベント(ゲスト:松浦理英子)「現代文学を語る、近畿大学で語る」

 10月31日、作家の松浦理英子がゲストで参加したイベント「現代文学を語る、近畿大学で語る」に行ってきました。

 平日の昼間だったけれど、これまで『ナチュラル・ウーマン』や『裏ヴァージョン』などの作品を幾度も読み返したことを思うと、そりゃ午後休取るしかない!!と。

 しかし、平日の昼間の大学イベントなので当然ではあるけれど、やはり学生が多かった。いくら若作りしても学生には混じれないことをひしひしと感じているうちに、松浦さんが登場。
 想像していたより小柄で、想像していたより明朗な口調で話す、毅然とした佇まいのひとだった。 

 マイノリティであるということ――

 これがこの日のトークの基調テーマとなった。

 松浦さんは78年に文學界新人賞を受賞したデビュー作「葬儀の日」から、一貫して男性性や女性性というものに疑いを抱く作品を描いている。新人賞の時点でも、選考委員のひとりから「単なるエスではないか」と批判されたらしい。

 それからも、若い女の主人公の親指がペニスになるという衝撃の設定で話題を呼んだ『親指Pの修行時代』まで、ほかの女性作家をひきあいに出してまでけなされたりと、ミソジニーをぶつけられることが多かったとも語られていた。(ここで「才能のある批評家は日本にひとりしかいない」と松浦さんが言っていたのもたいへん気になったが) 

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

 

 どうして攻撃の対象にされるのか考えたところ、マイノリティに主眼をおいた作品を描きつつも、登場するマイノリティたちは、「自分がおかしいのではないか」などと悩んだり、ひけめを感じたりせず、自分の欲望をそのまま受けいれているところが可愛げがないと思われたのではないか、と分析していた。

 つまり、マジョリティの好奇心や上から目線の同情心に応えていなかったからだろう、と。いわゆる“観光小説”――マジョリティによるマイノリティ・ツーリズムと表現していたが――マジョリティの好奇心にあわせる形で、マイノリティの欲望を開示する小説は書きたくないときっぱりと語っていた。
 

 たしかに、「ナチュラル・ウーマン」の容子にしても、一切のひけめや躊躇はなく、ただひたすらまっすぐに花世を愛する。一方、花世はそんな容子に畏れを感じるようになり、ふたりの関係が壊れはじめるくだりが、とてつもなく痛々しいのだが……

「人を好きになるのが怖いと思ったことある?」

花世がまた問をよこした。

「わからない。」

感じたままを私は答えた。体の震えはまだ静まらなかった。 

  時系列では「ナチュラル・ウーマン」よりあとの「微熱休暇」において、容子はヘテロセクシュアルの由梨子と接するときに、はじめてひけめに近い感情を味わう。しかし、それは由梨子に対しての感情であり、けっして世間の大多数を意識してのものではない。 

由梨子を知る前の私は欲望や情熱に身を任せることに何の疑問も抱いていなかった。あらゆる欲望を実現し、理屈をつけて行為を避けようとする者がいれば軽蔑した。 

 『優しい去勢のために』は、エッセイというカテゴリーに入るのだろうが、ただのエッセイではなく、解説の斎藤美奈子さんの言葉を借りると、「覚醒を促すことば」がふんだんに詰めこまれている。その解説のなかで、斎藤さんは『親指Pの修行時代』についてこう書いている。 

こんな小説を読んでしまったら、その日から、もうだれも妻や夫や恋人と呑気に性交なんかできなくなる。別言すれば、この小説を読んだ男は、全員インポテンツにならなきゃおかしい、と思うのだ。 

  フリーク・ショウ(見世物)という派手な設定を使った『親指Pの修行時代』は、先程の言葉でいう “マイノリティ・ツーリズム“ を逆手にとった作品であり、「この小説を読んだ男は、全員インポテンツにならなきゃおかしい」とまで斎藤さんが表現する、ラディカルな過激さが一部の男性批評家たちから反発を呼んだのかもしれない。 

優しい去勢のために (ちくま文庫)

優しい去勢のために (ちくま文庫)

 

  司会の江南亜美子さんは、松浦さんの系譜に連なる作家として、性の固定観念に疑問を呈する作品を書いている村田沙耶香、古谷田奈月を挙げていた。

 村田さんの作品は前にも書いた『コンビニ人間』や『消滅世界』などを読んだけれど、古谷田奈月は未読なのでさっそく調べたところ、精子バンクが国営化され、異性と性交することなく子どもが作れるようになった近未来社会を描いた『リリース』に興味をひかれたので、ぜひとも読んでみようと思った。 

リリース

リリース

 

  そういえば、『バッド・フェミニスト』のロクサーヌ・ゲイが、『コンビニ人間』に高い評価をつけている。
    私の勝手な印象では、欧米圏のフェミニスト女性は男性に幻滅すると、往々にして女性をパートナーにしたりと、どうしてもカップル文化が根強いのか、対になること自体を否定する思想はあまりないようなので、とことんまで「対」や「性」を否定する(コミットしない)こういう小説は受けいれられにくいのではないかと思っていたが。

www.goodreads.com

  話を松浦さんに戻すと、トークイベントでは、「近畿大学で語る」にも焦点があてられ、松浦さんが近大の講師をしていたときの話にもなった。
 近大の文芸学部って、どうやら実作を目標とした学部らしい。アメリカの大学にある創作学部をモチーフにしているのだろうか。それにしても、松浦さんに指導してもらうってすごいことだ。

 というわけで、作家志望のひとへのメッセージを求められた松浦さんは、「マイノリティの視点」から小説を書いてほしいと語った。続けて、ここで言う「マイノリティの視点」とは、社会正義を訴えるものではなく(それならば、さっきの“マイノリティ・ツーリズム“に陥りかねない)、自分のなかの異物を見つめることだと補足した。
 共感や連帯を求めるよりも、マイノリティであるという孤独をかみしめてほしい、と。

 あと、次の作品はいつ出るのかという質問については、ここ数年は少し刊行ペースが早くなっている、経済的事情もあるのでと冗談交じりに答え、なので、来年は新作を出せたらいいな、と話していた。
 「駄作を書く勇気が必要」だと話していた。これまでの作品はどれも非常に濃厚なので、松浦さんの「駄作」、あるいは「凡作」というのも読んでみたい気がする。来年の楽しみがまたひとつ増えた。

 また、現在の最新作である『最愛の子ども』を書いたときは、これでもう死んでもいいというくらいの気持ちになったと話していた。 

最愛の子ども

最愛の子ども

 

  この小説は、学校というクローズドな空間で紡がれる三人の女子高生の関係がテーマであり、最後に学校を卒業してそれぞれの世界に進む姿が印象的なため、きらきらした希望を描いた話とよく思われるが、作者の松浦さんとしては全くそうではなく、学校というアウシュビッツのような(この比喩は不適切かもしれませんが、と言いながら)閉塞空間で冷え冷えとする心にもたらされる、かすかな救済を描いた話だと語っていた。

 たしかに、十代の行き場の無さ、よるべなさが胸のなかで蘇る小説だった。だからこそ、ふいに訪れる甘やかな瞬間が深く心に刻まれた。

  そのほかにも、学生の頃から松浦作品を読んできたという谷崎由衣さんは、当日の資料にエッセイも寄稿したり、雛倉さりえさんの小説『ジェリー・フィッシュ』の映画化についての話など様々なトピックがあり、充実したトークイベントだった。

 マイノリティであるということ、自分のなかの異物を見つめること、孤独であるということ……小説を書くわけじゃなくても、これからの人生の銘にしたいと心から思った。

10/21 岸本佐知子&津村記久子トークショーと『あなたを選んでくれるもの』(ミランダ・ジュライ 著 岸本佐知子 訳)

 先週の日曜、スタンダードブックストア心斎橋で行われた、翻訳家の岸本佐知子さんと作家の津村記久子さんのトークショーに参加してきました。

 おもな内容は、ミランダ・ジュライの新作『最初の悪い男』にまつわるもので、まだ読んでいないため(この日に買いました)、トークの詳細については感想を書けないけれど(でも、かなりぶっ飛んだ小説であるらしく、期待が最高潮に高まった)、トークショー自体は津村さんのキャラもあって、めちゃめちゃ笑えるものになった。


 津村さんの本は以前『ダメをみがく “女子"の呪いを解く方法』を読み、おもしろかったけれどダウナーなひとなのかと思っていたが、まったくそうではなく、テンポよくテンションの高い大阪弁トークにひきこまれた。 

 しかし、大阪はみんな笑いに厳しい「修羅の国」だと語っていたけれど、いやいや、結構おもんないひと多いで~とも思ったが。(たしかに、「自分は笑いのレベルが高い」「自分は笑いをわかってる」と思いこんでいるひとは、他地域より高いかもしれんけど)ちなみに、そんな津村さんのいま一番お気に入りの芸人は、ミキらしい。「総合力で」とのこと。わかる気がする。

 で、トークショーの前にミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』を読み返した。 

あなたを選んでくれるもの (新潮クレスト・ブックス)

あなたを選んでくれるもの (新潮クレスト・ブックス)

 

  これは、映画『ザ・フューチャー』の脚本執筆に煮詰まった作者が(「書くお膳立てをすっかり整えておきながら、書くかわりにネットでいろいろなものを見ていただけだ」……いや、映画の脚本を書いたことはないが、気持ちわかりますね)、
毎週届く冊子『ペニーセイバー』(メルカリの雑誌版のようなものらしい)に、「革のジャケットを売ります」「インドの衣装を売ります」、はては「オタマジャクシを売ります」などの広告を出しているひとたちに興味を抱き、脚本執筆を中断してインタビューをはじめるという本だ。

 なので、小説ではなく、といってもエッセイともちがう……ノンフィクションとしか言いようのない作品なのだけれど、なにより印象深いのは、この本の主役であるインタビューに応じたひとたちは、何の作為もなく偶然選ばれてインタビューを了承しただけなのに、ミランダ・ジュライの小説や映画の登場人物とまったく同じたたずまいをしているように感じられた点だった。

 単純にミランダ・ジュライが書いているからかもしれないし、このネット時代にあえて紙の雑誌に広告を出すひとたち(つまり、世間の流れと外れている)だからかもしれない。

 なんにせよ、出てくるひとたちは、年齢も性別もバックグラウンドも様々なのだけれど、みんなどことなく奇妙で孤独であり、でもその奇妙と孤独さは独特でありつつも、一方でどんなひとにも通じるような普遍性も持ち合わせていた。

 また、この本のもっとも刺激的なところは、こういったひとたちをただルポしているだけではなく(ルポ自体もじゅうぶん興味深いが)、それが『ザ・フューチャー』にも反映されていく過程だ。

 『ザ・フューチャー』に取りかかりながら三十代後半を迎えたミランダは、子どもを持つタイムリミットを意識しつつも、子どもを持つとこれまでのような創作活動はできないのではないかと追いつめられ、「時間」が人生の主役のように感じるようになっていた。

かくして、わたしの時間は時間を計算することで明け暮れていった。見知らぬ人々の言葉に耳を傾け、未知なるものの力を信じようと努力しながら、心のどこかでは、いつまでこれが続くんだろう、子供をもつことに比べて、これにどれほどの意味があるんだろう、と考えている自分がいた。 

 私もミランダと同年代だけれど(ミランダの方が少し上ですが)、結婚していないせいか子どもについて真剣に考えたことはないが、たしかに、歳を取るにつれ愛情の種類が変化しつつあるのを、いままさに実感している。

この男と死ぬまでずっといっしょにいることを神に誓って以来、わたしは死についてもよく考えるようになった。彼と結婚したときに、避けがたく訪れる自分の死とも結婚したような気がした。 

 そう、十代、二十代のころとちがって、いまは愛する猫を抱いていても、どちらが先になるんだろう……いや、この子が死ぬのは想像を絶するくらい悲しいが、でも絶対においてはいけない! と死に関することが頭から離れなくなったりする。人間に対しても同様で、愛情の種類が「一緒にいたい」「結婚したい」「このひとの子どもが欲しい」などではなく、もはや「看取りたい」に変質しつつある。 


 そんな思いを抱えつつ、映画の構想がまったく実を結ばないままインタビューを続けていたミランダは、「クリスマスカードの表紙部分のみ」を売る81歳のジョーに出会う。

 結婚して今年で62年と語り、そのあいだ面倒をみてきたたくさんの犬や猫の写真を家中に貼っている。近所の動けないひとたちを助け、愛する妻に卑猥な詩を捧げたりもする。ミランダは「強迫観念に取りつかれた天使のように、がむしゃらに善をなそうとしていた」と初対面のジョーの印象を記している。 

にもかかわらず、このインタビューには死が充満していた。比喩ではない、本物の死。犬や猫たちの墓、彼が買い物を代行している未亡人たち、それに彼が何度も口にした彼自身の死――だがそれを彼は淡々と、まるでたくさんのことをやり終えなければならない期日か何かのように話した。

  そして、ミランダは『ザ・フューチャー』につながる手ごたえをようやく感じることができ、そこからジョーとともに映画の撮影が本格的に進んでいく展開が胸をうつ。この本については、ミランダによるちょっと変わったルポタージュと最初思っていたので、こんなに感動的な内容だったとはうれしい驚きだった。

 私はもともと彼女の小説を読むより先に、最初の長編映画君とボクの虹色の世界』を映画館で見、すごく感じ入って大好きな映画になったので、この『ザ・フューチャー』が公開されたときも、おおいに期待した。

 しかし、期待が大きすぎたのか、当時の正直な感想としては、『君とボクの虹色の世界』の方がよかったな……と思ってしまったのだった。おもしろいのだけれど、そこまでピンとこなかったというか……。
 いや、『君とボクの虹色の世界』は「ひとりっきりの孤独」を描いており、『ザ・フューチャー』は「ふたりでいる孤独」を描いているとも言え、私は前者の方が共感できただけかもしれない。けれど、この本を読むと、『ザ・フューチャー』をもう一度じっくり観たくなった。(しかも、いま知ったが、アマゾンプライムに入ってるやん) 

ザ・フューチャー(字幕版)

ザ・フューチャー(字幕版)

 

 まあとにもかくにも、なにより次は『最初の悪い男』を読まないと! 

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

華麗な恋愛と創作の軌跡、そして絶望 『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』(デイヴィッド・ロッジ 著 高儀進 訳)

彼は生涯で百人を優に超える女と寝たに違いないが、何人かとは一回寝ただけで、大多数の女の名前は忘れてしまった。彼は自分がほかの男より強い性的衝動を持っているのかどうか、大方の男より、それを満足させるのにもっと成功しただけなのかどうかはわからなかった。たぶん、二つの仮説が正しいのだろう。それでは、その性欲はどこから生まれたのだろう?

  多くの女性と愛を交わし、そして自転車で走ることを好んだ男……といっても、火野正平のことではない。『タイムマシン』などの作品で「SFの父」と呼ばれるH・G・ウェルズの話である。
 『小説の技巧』などでおなじみのイギリスの人気作家デイヴィッド・ロッジが、ウェルズの生涯を小説として描いたのが、この『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』だ。 

絶倫の人: 小説H・G・ウェルズ

絶倫の人: 小説H・G・ウェルズ

 

  タイトルから推測できるように、おもに私生活、とくに華麗な女性遍歴について焦点をあてている。
 といっても、単に暴露話を披露しているわけではなく、ウェルズの場合、恋愛をはじめとする人間関係と創作が密接に関連しているからである。関連しているというか、ウェルズはとにかくひっきりなしに小説を書き、ひっきりなしに女性と付きあい、そしてまたひっきりなしに小説を書く。

 小説家にはいろんなタイプがあると思うけれど、H・G・ウェルズは長編第一作といえる1895年の『タイムマシン』で一気に流行作家となり、それからも『宇宙戦争』『透明人間』とベストセラーを次々と生みだし、SFという新しいジャンルを定着させ、第一次世界大戦中の1916年に発表した『ブリトリング氏、乗り切る』も高い評価と人気を獲得する。冒頭の引用で百人を優に超える女たちとの関係について言及されていたが、百冊以上もの作品も生みだした。

 ウェルズにとっては、小説を書くという行為は何ら特別なものではなく、自分の意見や思いを表明するのに一番手っ取り早い方法なのだ。こういうひとが「天才」なのだろうと、つくづく感じた。

 次から次に女性と付きあうことも、小説を書くことと同じように、ウェルズにとっては息を吸うように当たり前のことなのだ。その場限りの身体だけの付きあいもあれば、お互い割り切ったままそれなりに長く続くこともある。

 本気になって駆け落ちをすることもあれば、けっして離婚しようとしないウェルズに女が疲れ果てることもある。当然ながら、既婚者であり、フェビアン協会員として社会改良運動にも尽力している人気作家が駆け落ちすると、世間から後ろ指を指される。
 
 しかも自由恋愛主義者のウェルズは、作家仲間のイーディス・ネズビットの娘や、フェビアン協会の仲間の娘に次々に手を出して(ウェルズ的には純粋な恋愛なのだが)、フェビアン協会も追われ孤立無援となる。

 するとウェルズは、この状況をもとに自由恋愛を賛美する小説を書こう!となるのである。こうして、私生活で問題が発生する→小説で世間に物申すという仕組みが、永久機関のようにしばらく続いたりもする。

 この小説は、ウェルズと女性たちとの関わりに重きを置いているが、ヘンリー・ジェイムズとの関係もたいへん興味深かった。
 多情多作なウェルズと、生涯ほとんど女性との交流がなかったらしい純文学作家ヘンリー・ジェイムズは、あらゆる意味で対照的に感じられるが、ふたりは互いを信頼し、尊敬していた――ある時までは。

 いや、最後まで敬意が失われたわけではなかったのかもしれないが、文学に対する考え方の相違や、複雑な人間心理から、ふたりの関係が避けられない破綻にむかうさまは読み応えがあった。ちなみに、デイヴィッド・ロッジは『絶倫の人』より前に、ヘンリー・ジェイムズを主人公とした『作者を出せ!』という伝記小説を書いているらしい。こちらもすごく気になる。 

作者を出せ!

作者を出せ!

 

  作家たちとの関係でいうと、フェビアン協会の仲間バーナード・ショーも一筋縄ではいかないキャラクターでおもしろかった。

 さらに、ドロシー・リチャードソンとも関係があったというのにはおどろいた。ドロシー・リチャードソンといっても、だれ?という方が多いだろうが、『とがった屋根』などの小説で、ジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフより先に“意識の流れ”という手法を採用した作家である。

 関係を持ったのは、ドロシーが小説を書きはじめる以前のことなのだが――なにしろドロシーは妻ジェインの学生時代の親友だったのだ――それからおよそ二十年後の1920年代、ウェルズが小説家として時代遅れになったころ、新しい作家として注目を集めだしたジョイスやウルフ、D・H・ロレンスと並んで、ドロシーの名前が挙がるところが上手いつくりになっていた。 

ヘンリー・ジェイムズも今じゃあH・Gと同じくらい時代遅れじゃないの?」とマージョリーは言う。

「おそらく、そうだろうな」とアントニーは言う。「しかし、彼は知識階級の中にいまだに信奉者を持っている。母の話では、アメリカの大学では彼を偉大な作家として教えてるそうだ」

  ほんとうにモテる男は、別れた女たちからも恨まれないらしいが(井上公造曰く)、ウェルズも手あたり次第といっても過言ではない女性遍歴にもかかわらず、最後まで別れようとしなかった妻ジェインはウェルズの原稿をタイプしたりと死ぬまで尽くし続け、別れた女たちともずっとやりとりを続けている。

 もちろん、ベストセラー作家のウェルズが女たちに資金援助を惜しまなかったという面もあるだろうが(ケチな男はモテない、というのは洋の東西を問わない真理なようだ)、人間的魅力も大きかったのだろう。

 この小説は、1944年に肝臓癌で死期の近いウェルズが過去を回想するという形式になっているが、かつての愛人であり、ジャーナリスト・小説家として有名になったフェミニスト作家レベッカ・ウェストもウェルズを見舞い続ける。 

かつてサマセット・モームは、H・Gの性的魅力の秘密は何かと、薄ら笑いを浮かべながら彼女に訊いたことがあった。H・Gは彼女の二倍の齢の男で、特別美男子ではなく、背はわずか五フィート五インチで、肥満の傾向がある。彼女は答えた。「あの人は胡桃の匂いがした。そして、素敵な動物のように跳ね回った

  病床のウェルズは絶望感に襲われている。
 自分の小説がすっかり時代遅れになったからではない。たしかに、ヘンリー・ジェイムズのように「偉大な作家」ではなく、大衆的なベストセラー作家であったウェルズの小説はいまや古本屋で高く積まれている。

 しかし、ウェルズがなによりつらいのは、科学が人類の未来を明るくすると信じていたのに、自らの予見――しかも、きわめて悪い予見ばかりが――次々と現実のものになっていることだ。

 一度ならず二度の世界戦争、かつて自分が『空の戦争』で描いた空爆による無差別爆撃、民族虐殺といった秩序の崩壊、もしかすると、自らが描いたもっとも悲惨なヴィジョン――原子力を利用した新型爆弾も実際に起こり得るのかもしれない。

 ウェルズの予言はことごとく現実のものとなったわけだが、自らの作品についてはどうだったのだろうか? 
 かつてヘンリー・ジェイムズの「偉大さ」をあてこすったウェルズだが、自分の小説もマスターピースとして後世に読み継がれていくことは予知していなかったのかもしれない。ひとは自分のことだけはわからないものだとあらためて思った。 

H・Gは彗星のようだった。彼は十九世紀の終わりに無名の境遇から突如姿を現わし、文学の蒼穹で数十年、燦然と輝き、驚異と畏怖と恐怖の念を人に与えた。地球を滅ぼすおそれがあったが、実際にはガス状の尾の有益な効果で、地球を変貌させた。『彗星の日々に』の彗星のように。

 

愛の形にはいろいろある 『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』(ジョン・グリーン、デイヴィッド・レヴィサン著 金原瑞人、井上里 訳)

  『アラスカを追いかけて』『さよならを待つふたりのために』などでおなじみの人気作家、ジョン・グリーンと、目下『エヴリデイ』が話題のデイヴィッド・レヴィサンが共作した『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』、当然読み逃すわけにはいきません。 

ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン (STAMP BOOKS)

ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン (STAMP BOOKS)

 

 それにしても、共作っていったいどういうこと?? と思いながら読みはじめると……まず第1章は、「僕」であるウィル・グレイソンの語りではじまる。ウィルは『アラスカを追いかけて』のマイルズと同じような、ちょっと内省的で繊細な高校生男子。

 しかし、その友人タイニーは、タイニーという名前がまるで悪い冗談のような、「ゲイの中では世界一でかい」ゲイであり、常にテンションMAXでひっきりなしにしゃべりまくったかと思うと、あっという間に恋に落ちて悩んだりと(こう書くと寅さんみたいですね)、かなりクセが強い。
 タイニーの「ゲイ・ストレート同盟」の友人のなかには、「レズかもしれないし、レズじゃないかもしれない」ジェーンがいる。そこで、僕とジェーンが崇拝するロックバンド、ニュートラル・ミルク・ホテルの再結成ライブがあるというので、僕たちはライブ会場へとむかう……

 と、個性的な友人に魅力的な女の子が顔を並べ、まさにジョン・グリーン・ワールド全開である。いくら「僕」がうじうじしていても、やっぱりリア充感の強い世界だな~と思いつつ、第2章に進むと、

自分が死ぬか、僕以外を全員殺すか、いつも迷ってる。

選択肢はふたつにひとつ。ほかのことは、ただの暇つぶしだ。 

 と、様相が変わる。

 しかも、この「僕」は「毎朝、スクールバスが事故にあって、ひとり残らず燃える残骸の中で死にますように」と祈る始末で、第1章の「僕」のうじうじよりも、はるかに陰気である。
 この「僕」もウィル・グレイソンであることが判明する。といっても、パラレルワールドなどではなく、単に同姓同名のふたりのウィル・グレイソンを、奇数章はジョン・グリーン、偶数章はデイヴィッド・レヴィサンが書いているのだけれど、作風のちがいがはっきり伝わって興味深い。

 なんといっても、タイニーにさんざん振り回され、ジェーンには素直になれない奇数章のウィル・グレイソンと、やたら自分に興味を示すゴスロリ系女子のモーラにも心を開けず、ネットで知り合ったアイザックとの交流だけが生きがいの偶数章のウィル・グレイソンが思いがけない場所で出会う場面が、この小説の最大の読みどころだ。

 衝撃の真実を知らされて、うちひしがれるウィル・グレイソン(どちらの章のかは読んでみてください)が、もうひとりのウィル・グレイソン(o・w・g)に自分でもなぜだかわからないまま、心のうちを打ち明けてしまう。 

本能という本能が、体を縮めて手近な下水管に転がり落ちてしまえ、と急き立ててくる――だけど、o・w・gにそんな仕打ちはしたくない。o・w・gを僕の自殺の目撃者なんかにしちゃいけないような気がする。

  この小説は、奇数章では「僕」とジェーンとの不器用な恋愛が瑞々しく描かれ、偶数章の「僕」はネットで知り合ったアイザックに恋をするゲイだったりと、恋愛に焦点がおかれているように見えるけれど、恋愛がテーマではない。

 逆に、人生は恋愛がすべてではないということが強く伝わった。いや、恋愛がすべてではないというより、愛の形にはいろいろある、といった方が的確かもしれない。そのことは、「僕が世界で一番愛しているのは、親友なんだよ」というウィル・グレイソンのセリフからもはっきり示されている。

 さまざまな愛の形は、ウィル・グレイソンとタイニーの友情だけでなく、偶数章においては、女手一つで「僕」を育てている母親との細やかな愛情、そしてモーラとのほろ苦い関係にも描かれている。モーラの気持ちを思うと、切なくなる女子も多いのではないでしょうか。 

関係が終わった人たちのことを、”ex”と呼ぶ理由がわかるような気がする。途中で交差した道が、最後には分かれてしまうからだ。

  あと、奇数章では、ジョン・グリーンのこれまでの作品と同様に、詩も効果的に使われている。今回はE・E・カミングス。二回結婚して二回離婚しているそうです。ちらっと引用されるエミリー・ディキンソンの詩も、心に残る。

 もちろん、ロック・ミュージックも出てくる。ニュートラル・ミルク・ホテルは知らなかった。
 しかし、ジェーンの偽IDの「ゾラ・サーストン・ムーア」って、ソニック・ユースのサーストン・ムーアなのだろうけど、いまのアメリカの高校生がサーストン・ムーアに憧れるのだろうか? いや、ジェーンは90年代のインディー・ロックが好きな女子という設定なのだろうけど。

 ちなみに、少し前にキム・ゴードンの自伝を読んだけれど、妻(キム・ゴードン)と愛人のあいだで右往左往するサーストン・ムーアの姿が印象的だった。それはともかく、好きなバンドの歌を捧げてもらう以上に素敵なことって、この世にあるでしょうか?(いや、ない) 

GIRL IN A BAND キム・ゴードン自伝

GIRL IN A BAND キム・ゴードン自伝

 

  さっきタイニーのことを寅さんみたいと、なんとなく書いたけれど、ある意味それは当たっていて、タイニーは恋する道化であり、自分のことを必要としてくれるひとを求めるあまりに、ありのままの相手の姿も、ほんとうの自分の気持ちも見失っていたことに最後に気づく。

 物語の最後、自ら作ったミュージカルで、そんな自分をありのままに演じる。 

タイニーは、元カレたちの様々な側面を最後まで知らずにいたことを、表現しようとしている。恋に夢中になりすぎて、何に恋をしているのか考える時間がなかったのだ。

  ミュージカルを見たウィル・グレイソンは、タイニーと「何かで通じ合っている」ことを確信する。ウィルとタイニーがほんとうにわかりあえたのかは、わからない。落ちることを恐れるなと訴えるタイニーと、浮きあがることを願うウィル。結局、最後まで噛みあわなかったのかもしれない。

 異なる人間同士が何もかもわかりあえて、曇りなく幸せになるという結末は用意されていない。アラスカは何も言わずに遠くへ行ってしまった。

 それでも、恋愛ではないけれど、ただの友情とも言い切れない何かでつながっていることを、ウィルとタイニーはしっかりと感じている。

おれはただ、きみに幸せでいてほしい。おれと付き合っていても、ほかのだれかと付き合っていても、だれとも付き合っていなくても。ただ、幸せでいてほしい。人生と仲良くやっていてほしい。ありのままの人生と。

 

 

静かな北欧の村で、ふたりの女のアイデンティティが絡まりあう 『誠実な詐欺師』(トーベ・ヤンソン 著 冨原眞弓 訳)

 歯を磨いたり洗い物をするときなどは、スマホでよくラジオを聞くのだけど、NHKラジオの「仕事学のすすめ」という番組に、前回の『コンビニ人間』の村田沙耶香が出ていたので聞いてみた。

 すると、パーソナリティーから、「この小説に出てくる白羽さんは、遅刻をするうえに仕事中に携帯をいじるといった問題行動が多く、こういう部下に悩まされているマネージャーも非常に多いと思うのですが、どうしたらこういう白羽さんのような人間にやる気を出させることができるでしょうか?」と、えらい難題を突きつけられていた。

 村田さんの答えとしては、「白羽さんが抱えている一番大きな問題はプライドだと思うので、仕事をすることによってプライドを回復することができれば、コンビニの仕事が生きがいの恵子のようになるかもしれない」というようなものだった。

 たしかに、恵子の生活のすべてはコンビニのバイトに捧げられている。寝るのも翌日のコンビニのバイトに備えて体力を回復するためであり、食事にしても、もともと恵子は食事に味を求めていないので(味をつけないで食べるため、白羽がおどろく場面がある)、コンビニのバイトのための栄養補給である。驚嘆すべきプロ根性、感心すべき仕事人間だと言える。(しかし、作者の村田さんもコンビニでバイトをしながら小説を書いていたときは朝2時に起きていたらしく、それもすごい)

 そして、極端なまでの仕事人間というと、少し前に読んだトーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』に出てくるカトリを思いだした。 

誠実な詐欺師 (ちくま文庫)

誠実な詐欺師 (ちくま文庫)

 

わたし、カトリ・クリングは、しばしば夜中にベッドのなかで考えごとをする。夜の考えにしては妙に具体的かもしれない。とくにお金、たくさんのお金のことを考える。すみやかに手に入れたい。賢明に、誠実に、蓄える。お金のことなんか考えずにすむように。ありあまるお金が欲しい。

  と聞くと、激しく同意!と思ってしまうが(でも、「賢明に、誠実に、蓄える」のところは真似できる自信はない)、このモノローグが示すように、カトリはお金と数字をひたすら信じる、どこまでも実務的な人間だ。

 物語の舞台である北欧の田舎の村人たちは、帳簿の数字などで不明な点があればカトリのもとへ聞きにいく。カトリはややこしい計算もやすやすと解き、まちがいやごまかしをけっして見逃すことはない。そして、余計な会話は一切交わさず、にこりともしない。村人たちは用が終わるとカトリのもとをそそくさと退散する。

 そんなカトリが、お金を手に入れるために行動をおこす。村でひとり暮らしをしている年配の女性、年齢は明記されていないが老人に近い歳であろうアンナに目をつける。単に家族のいない年寄りだからではない。アンナは画家であり、世界中の子どもたちから愛される兎の絵本を生みだしているのだ。

 実のところ、美しい森に、兎のパパ、兎のママ、兎の子を描き加えると、森の神秘を損なってしまうように思えてならないが、出版社や子どもたちの期待に応えるため、アンナはその絵本を描き続けなければならない。

 というと、このアンナとは作者のトーベ・ヤンソン自身がモデルになっていると誰もが思うだろう。アンナは「一途な人間に固有の強烈な説得力」を持っており、とにかく絵を描くことにしか興味がない。

 そんな世間知らずゆえに、あるいは、世間知らずの面をカバーするために、ふだんアンナは村人たちと愛想よく接しているが、最近にわかに自分に近づいてきた風変わりな若い女、カトリにとまどう。カトリはアンナにむかってこんなことを言う。

「花や子どもや犬が好きだと決めつけられる。でも、そんなもの、あなたは好きじゃない」 

  カトリはあっさりとアンナの内面を見抜いてみせる。これはけっして「子どもを愛するピュアな心を持つ画家が、こすからく計算高い若い女にだまされる話」ではない。

 アンナとカトリは両極端のように見えて、他人に理解されない孤独な魂を持っているという点は共通しているのだ。作者の姿がアンナに色濃く投影されているのはまちがいないが、カトリもまた作者の分身のように思える。

 アンナが自然と絵を愛するように、カトリにも愛するものがある。弟のマッツと犬だ。そもそも、カトリがお金がほしいと心から願ったのも、マッツにボートを買ってあげたいからなのだ。

 鋭敏すぎるゆえに村人たちから敬遠されているカトリとちがい、マッツは周囲から頭が足りないと思われている。カトリはアンナの身のまわりの世話をするという名目で家にあがりこむことに成功し、アンナとカトリとマッツ、そして犬との奇妙な共同生活がはじまる。


 さらに、カトリはアンナの身のまわりの世話のみならず、秘書として働くことを申し出る。カトリがアンナのごちゃごちゃの書類棚から契約書の類を取りだし、すべて分類して整理し直し、出版社との契約や申し出を精査し、「犯罪的とさえいえる軽信、またはたんなる無頓着や不精のせいで、アンナ・アエメリンが手に入れそこなった金額の合計」を弾き出すシーンは圧巻だ。

 もうひとつ印象深いのは、アンナのもとに大量に届く子どもたちからの手紙をめぐるエピソードだ。手紙をABCと分類し、それぞれに応じた返事を送り、下手したら際限なくやりとりを続けてしまうアンナにむかって、カトリはそういった手紙は物欲しげで「すべてささやかな脅迫の試み」だと言い放つ。そして、アンナの秘書として手紙の代筆をはじめる。 

「ちがう! これを書いたのはあなたで、わたしじゃない! 自分の両親に腹をたてた子どもに、両親にもいろいろ事情があって大変だからと説明して、なんの慰めになるというの! そんなの慰めじゃない。わたしならそんなことはいわない。両親というものは強くて完璧でなければならない。でなければ、子どもは親を信頼できないわ。書きなおして」

 カトリはとつぜん激昂した。「頼るに値しない相手をいつまでも頼っていろと? いつまで子どもたちを騙せば気がすむんです。信頼できないものを信頼させるなんて! 早くから学ぶべきです。さもないとやっていけないでしょう」 

「感じのいい手紙を返す、それが肝心……。心得ておいて。でも、あなたにできるかしら。子どもは好きじゃないでしょう?」

 カトリは肩をすくめ、例のすばやい狼の薄笑いを浮かべた。「それはあなたも同じですね」

 両極端のようで似通った頑なさを持つ、アンナとカトリのアイデンティティが互いの存在で危機に瀕し、それぞれが自分のなかで強固に築きあげてきた世界が揺らぎはじめる。

 カトリによって、自分が見てきたものがまちがいだったと知らされたアンナは、もう周囲の村人や出版社を素朴に信じることができない。そんなアンナは、マッツに文学を教え、犬と遊ぶことによって、自分でも気づかぬうちに、カトリの「所有物」を解放する。

 完全にカトリの庇護下にあったはずのマッツはカトリに言い返すようになり、従順だったはずの犬は吠えるのをやめない。眠れぬ夜を過ごすカトリ。自分はまちがっていたのだろうか? ふたりは何度も心のなかで問いかける。

 北欧の春のようにひそやかに物語は終わりを迎える。アンナは芽吹きの気配を感じ、再び絵筆を取る。カトリはどこへ行くのだろうか? 弟と犬を手放したカトリの目の前には、どこまでも世界が広がっている。

「普通」と「普通じゃないもの」の線引きとは? 『コンビニ人間』(村田沙耶香)

 さて、遅ればせながら、文庫になった『コンビニ人間』を読みました。 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

  主人公の古倉恵子36歳は、「少し奇妙がられる」子供時代を送り、自分では自分のどこがおかしいのかわからないまま、中学や高校でも他人と関わることなく一人で過ごし、大学時代に、ふとしたきっかけでコンビニでアルバイトをはじめる。 

コンビニ店員として生まれる前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思いだせない。

 しかし、コンビニで働きはじめて、世界が一変する。

 私はバックルームで見せられた見本のビデオや、トレーナーの見せてくれるお手本の真似をするのが得意だった。今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。

  それから大学を卒業しても就職せず、ずっとコンビニでのバイトを続けている。彼氏もおらず、恋愛もしたことがない。 

なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。

  就職も恋愛も結婚にも興味がない恵子は周囲から異端視されるが、コンビニという空間では、異物は排除され、すべてが「強制的に正常化」される。主人公の恵子は、コンビニでなら「普通」でいられると安堵し、長年にわたりコンビニとの蜜月関係を築きあげる。

 ところが、そんなコンビニに通りすがりの客としてではなく、バイトとして異物が入りこんでくる。35歳の独身男、婚活のためにコンビニバイトをはじめた白羽だ。
 これがまた「キモい」「ウザい」「イタい」を体現したような男で、読者をこれだけ不快にさせる登場人物もめずらしい、と思わず感心してしまうほどの描かれっぷりだ。

 といっても、現実にあり得ないようなキモさではなく、バイトの仕事もまともにこなせないのに仕事中に携帯をチェックし、店長に注意されると「底辺のコンビニ店長ふぜいが……」とぶつぶつ言ったり、目をつけた若い女性客を待ち伏せしようとしたり、「今は仕事をしていないけれど、ビジョンがある。起業すれば女たちが群がる」と言ってのけたり、イタい男のあるある!ネタを寄せ集めてぶちこんだようなキャラクターである。 

 当然、あっという間に白羽はバイトをクビになり、コンビニすら追い出される羽目になるのだが、恵子はそんな白羽に「私と婚姻届を出すのはどうですか?」と申し出る。なぜ、そんなことを言い出したのかというと―― 

ここ二週間で14回、「何で結婚しないの?」と言われた。「何でアルバイトなの?」は12回だ。とりあえず、言われた回数が多いものから消去していってみようと思った。

  恵子の思惑どおり、「男の人と一緒に暮らしはじめた」と周囲に伝えると、妹は姉がようやく「普通」になったと感動の涙を流し、同級生たちは狂喜乱舞する。 

皆、初めて私が本当の「仲間」になったと言わんばかりだった。こちら側へようこそ、と皆がわたしを歓迎している気がした。

  これで恵子は世の中ともうまく関係を結べるようになる……はずが、コンビニの仕事仲間たちに、バイトをクビになった白羽と一緒に暮らしているとうっかり漏らしてしまったがために、恵子にとってなにより大切な生きる場所であるコンビニの居心地が一変する――

  というストーリーであり、文庫本の帯にも「『普通』とは何か? を問う衝撃作」と書かれているように、この小説では、「普通とは何か?」「普通なんて存在するのか?」ということを真正面から問うてくる。
 主人公をはじめとする登場人物を「戯画化」に近いくらい極端なキャラに設定していることもあり、テーマがとても明快に伝わってくる。

 おそらく、多くの読者は「普通」を押しつけてくる人々の気持ち悪さ、うざったさをつくづく感じることだろう。もちろん私も、恵子を応援したい気持ちになった。応援というか憧れかもしれない。

 一応働いていて、それなりに社会に適応している(つもりの)自分は日和ってしまったが、恵子くらい思いっきり異端になりたかった、と。……いや、自分は適応しているのか? 結婚もしていないじゃないか。自分は恵子とどこがちがうのだ? 
 と、こんなふうに「普通」と「普通じゃないもの」の線引きについて考えさせられる物語だった。

 いまちょうど、『新潮45』での「LGBTは生産性がない」という言説が炎上しているが、この本に出てくる恵子や白羽は、いわゆる「LGBT」のカテゴリにはあてはまらないけれど、じゃあ「普通」なのだろうか? 生産性があるのだろうか? 

 この本のなかでも、恵子が「普通」側に属する同級生たちに「アセクシャル」なのかと聞かれる場面があるが、そういうカテゴリ分けに意味があるのか、そもそも性的指向とはカテゴライズできるものなのか、どうしても疑問を感じてしまう。

  そしてもうひとつ感じた疑問は、先に書いたように、この小説ではあえてかなり登場人物を戯画化していて、この恵子や白羽のような人間は「そんなやつおれへんやろ~」(from こだまひびき)と誰しも思うだろうが、では、世の中は妹や同級生たちのような、「普通」を絵に描いたようなひとたちばかりで構成されているのだろうか? ということだ。

 もちろん、ある程度の年齢になったら、就職して恋愛して結婚するのが「普通」だと考えているひとは多い。しかし、私の周囲を見ても、そういう「普通」の枠からはみ出しているひとは少なくない。(自分も含めて……まあ類友なのかもしれんけど) また、傍からはどう見ても「普通」のカテゴリに入っていても、それに疑問を感じつつあったり、あるいは「普通」でない一面を隠し持っているひとも少なくないだろう。


 戯画化された登場人物たちによって現代社会を描いたこの小説は、これはこれですごくおもしろく読めたのだけど、もっと「普通」と「普通じゃないもの」が混ざりあったような小説、一見「普通」に生きているひとの奥で蠢く「普通じゃないもの」が描かれた物語も読んでみたいと感じました。

英国魂でしぶとくタフに生き延びよう 『花の命はノー・フューチャー』『This is JAPAN』(ブレイディみかこ 著)

 みなさんご存知のとおり、ここ最近、地震や大雨、そして台風のくり返しで、訃報も相次ぎました。(樹木希林も『万引き家族』見たところなのでおどろいたが、やはり子どもの頃から読んでいた、さくらももこの衝撃が大きかった……)

 ほんと人生いつなにが起きるかわからない、こうやって好きな本を読んだり、好きな音楽を聞いたり、好きなライブに行ったりというのも、いつまで続けられるんだろう? 

 なんて、思いを馳せたりしていましたが、連休中にポール・マッカートニー御年76歳の新曲を聞いたら、これがまた素敵だったので、やはりできるだけ長生きして、好きなものをしつこく追いかけなあかん、 と誓いを新たにしました。


 しかし、御大の新曲のどこがいいかというと(いや、氏の音楽の才能については、世界中が周知しているのは承知していますが) 

Did you come on to me, will I come on to you?

If you come on to me, will I come on to you?

僕を誘ってるの? 僕から誘っちゃおうかな?

君から口説いてくるなら、僕だって口説いちゃうよ

 と、あんな大御所なのに、こんなに軽く楽しく歌いあげるところが偉大ですね。
 ほんとうに偉いひとや才能のあるひとは、絶対に仰々しく深刻ぶったりしないというのは、ふだんの仕事でもよく思うことなのだけど、あらためて感じ入りました。

 そういえば、こないだ読んだブレイディみかこの『花の命はノー・フューチャー』(いいタイトルですね)では、筆者が深い愛をこめて綴るジョン・ライドン(元セックス・ピストルズジョニー・ロットン)の生きざまが心に残った。 

ピストルズの栄光をドブに捨てるのか」みたいなことを散々言われながら、B級リアリティ番組に出て、芸人顔負けのリアクションを披露するジョン・ライドン
 たしかに、ピストルズの栄光をひたすら守って生涯を過ごすより、笑いにする方がずっとパンクだ。それにしても、イギリス人独特のタフさ、サバイバルの仕方は興味深い。

 この『花の命はノー・フューチャー』は、ブレイディみかこのデビュー作(の復刻版)であり、これが書かれた2005年当時は、イギリスのワーキングクラスが住む地域で、連れ合いとふたりで気ままな暮らしを楽しんでいた(少なくとも書かれている限りでは)筆者だが、そこから子どもを産み、しかもイギリスの保育士の免許まで取って働きはじめる。

 それに伴って、書いている内容も身のまわりの話から、階級問題やイギリスのEU離脱問題にまで広がり、社会時評に近くなっていくが、もともとの「ワーキングクラス」からの視点はけっして失っていない。そこで満を持して、日本の社会を取材して書いたのがこの『This is JAPAN』だ。 

  ブレイディみかこはイギリスと同様に、日本でも「地べた」からワーキングクラスの現場を観察する。筆者が日本を離れた1980年代とちがい、いまの日本では貧困ははっきりと可視化されている。
 しかし、それでもやはりイギリスのワーキングクラスとは大きな隔たりがある。

 イギリスでは、労働者であっても、あるいは子どもですら、自分の人権はなにより大事なものだと確信している。一方日本では、生活困窮者を支援する「もやい」でボランティア活動を志願するような意識の高い大学生でも、「人権ってなんですか?」と質問する。不思議に思った筆者は、小学校で教える人権教育について調べる。

わたしは大きな項目が含まれていないことに気づいた。
「貧困」である。「貧困問題」が人権課題に入っていないのだ。

  そう、日本の学校で習う人権教育とは、「女性を差別してはいけない」(女性のところには、ほかにも障害者、同和問題、外国人、アイヌの人々……などが入る)という差別問題ばかりで、「そもそも、著しい貧困は人の尊厳を損なうものであり、そのことを社会が放置することの人権的な問題は教えられていない」のである。

日本の社会運動が「原発」「反戦」「差別」のイシューに向かいがちで経済問題をスルーするのと同じように、人権教育からも貧困問題が抜け落ちているのではないだろうか。まるでヒューマン・ライツという崇高な概念と汚らしい金の話を混ぜるなと言わんばかりである。が、人権は神棚において拝むものではない。もっと野太いものだ。 

  自分たちの人権の大切さを教わることなく、自己責任論がしみついた日本の若者たちの姿は、この本の最初の章で書かれている、歌舞伎町で不当な労働問題について訴えるキャバクラユニオンの面々を、おそらく同様に夜の世界で酷使されている黒服たちが「つべこべ言わずに働け!」と罵る場面によく表れている。

 それから筆者は、「もやい」に相談に来ている貧困の当事者を実際に見て、たとえ貧困に陥っても、「自分たちは新自由主義の犠牲者だ!」と立ちあがるイギリスやスペインの若者たちとのあまりの落差に愕然とする。

 とにかく、相談者たちは覇気がないのだ。自分のことなのにまるで他人事のようで、カウンセラーのアドバイスにもただ頷くだけで、そうするともしないとも言わない。だれかに決めてもらうのを待っているのだ。なんか想像つくなあ…という気もするが。そして、筆者は以下のように考える。 

日本の貧困者があんな風に、もはや一人前の人間ではなくなったかのように力なくぽっきりと折れてしまうのは、日本人の尊厳が、つまるところ「アフォードできること(支払い能力があること)」だからではないか。

  つまり、人権という概念が根づいていない日本では、支払えなくなった自分は人間失格だと思ってしまうというわけだ。日本では、「義務」(支払い)を果たせない人間は、「権利」を守ってもらうに値しないという考えがしみついてしまっている。

  と、この本を読んで考えていると、ちょうど下記のような記事があがっていた。

news.yahoo.co.jp

 客観的に見ると、べつに年寄りでもないし、学歴もあるし、知人もいるようだし、なんとかなる状況だったのでは? と、どうしても思ってしまうのだけど、もうそんなことも考えられないほど、疲れきって追いつめられてしまったのだろう。

 この本では、貧困問題のほかに、筆者の専門である保育園を視察したルポもあるのだが、それも読みごたえがあった。牛乳パックを駆使した ”Austerity measure” には、あるある!(日本の保育園には)と、膝を打ちそうになった。


 念のためにつけ加えておくと、筆者は「イギリスはすばらしい! それにくらべて日本の惨憺たるありさまといったら……」と書き連ねているわけでは全くない。もともと階級社会であり、1970年代から不況に陥ったイギリスは、貧困問題については日本よりタチの悪い側面もたくさんある。
 しかし、労働者階級のパワーは、(良くも悪くも)日本をはるかに凌駕しているというのは、まちがいない事実のようだ。

彼らはけっしてひるまない。ブロークン・ブリテン上等と言わんばかりのやけくそのパワーで突き進むので、この先どんなに大変なことになっても、とりあえずこの人たちは死なないだろうと思わされてしまう

  やはり私たちも、ポール・マッカートニー御大やジョン・ライドンのように、しぶとくタフに生き残るためには、英国魂の注入が必要なのでないかと思ったりする初秋の夕べなのでした。とりあえず、もう地震も台風も来ませんように!