快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

冬のロスマク祭 『さむけ』『ウィチャリー家の女』(ロス・マクドナルド 著 小笠原豊樹 訳)『象牙色の嘲笑』(小鷹信光 松下祥子 訳)

この女が問題にしてもらいたがっているほど、わたしはこの女を問題にしていない。そもそもこの女を全面的に信用してはいないのだ。女の美しい肉体には二つの人格が交互に現れるようだった。一つは感受性の強い、しかも無邪気な性格。もう一つは、かたくなで捉えがたい性格。

 これまで私にとって、「かたくなで捉えがたい」ハードボイルドを追求すべく、ロス・マクドナルドの『さむけ』を読んでみたところ、おもしろくてすっかりひきこまれ、『ウィチャリー家の女』『象牙色の嘲笑』とたて続けに読んでしまいました。 

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

 

 『さむけ』は、ひと仕事を終えた探偵リュウ・アーチャーが、突然アレックスと名乗る青年に声をかけられるところからはじまる。


 結婚したばかりの妻、ドリーが行方不明になったとのこと。ちょっとした気まぐれの失踪、あるいは結婚詐欺などよくある事件かと思いつつ、アレックスに懇願されて捜査したところ、ドリーはあっさり見つかったが、アレックスのもとに帰るつもりはないという。

 どうやらドリーには母親が殺された過去があるらしい。ドリーの友達だという大学教授ヘレンと知りあい、話を聞こうとするが、「感受性の強い」しかし「かたくなで捉えがたい」ヘレンは、だれかに脅迫されているなど要領を得ないことを話しだし、リュウ・アーチャーはヘレンを相手にするのをやめる。そしてすぐに、ヘレンが死体で発見される……


 で、これはまだ話の発端で、ここからまた新たな殺人や、謎だらけの登場人物が続々と発覚する。正直、物語が進むにつれて、そもそものドリーとアレックスの話はいったいどうなったの??という瞬間すらおとずれる。といっても、物語は一貫してリュウ・アーチャーの視線から語られるので、さほど混乱はしない。


 さて、ハードボイルドというと、一匹狼で徹底した〈個〉である探偵が、〈多〉である社会と対峙する物語というのが、一般的な定義だと思う。その〈多〉は、ギャングの社会であったり、あるいは警察であったり、荒廃した都会に住む人々であったりするが、リュウ・アーチャーが向きあう社会は、徹底して「家族」である。機能不全に陥った家族。


 この『さむけ』でも、アレックスの父親、ドリーの父親、ヘレンの両親……など、さまざまな「家族」が出てくる。直接事件に関係がなくても、その描かれ方はどれも印象深い。なかでも、喧嘩して家を出て行ってしまった娘ヘレンの訃報を聞かされるホフマンの姿はもの哀しい。

激しく、何度も何度も、ホフマンは自分の顔を殴った。目、頬、口、顎。みるみる粘土色の皮膚にどす黒い殴打の跡が生じた。下くちびるが切れた。
血まみれのくちびるで、ホフマンは言った。「うちのかわいい娘を駄目にしたのは、わしなんだ。わしがぶん殴って家から追い出したんだ。あれはもう帰ってこなかったんだ」 

 愛情があってもうまく通じあえない親子。夫婦の関係はもっと悲惨だ。愛情は消え去り(あるいは、最初からそんなもの存在していないか)、互いに裏切り、欺きあう。そしてまた性懲りもなく、次の相手を漁る。

「しかし、あなたは生き残って、また恋愛をした」
「男はだれでもそうしたものじゃないでしょうか」

『さむけ』と並ぶもうひとつの代表作、『ウィチャリー家の女』も、タイトルからはっきりわかるように家族の話だ。 

ウィチャリー家の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-1)

ウィチャリー家の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-1)

 

 リュウ・アーチャーのもとへ、ホーマー・ウィチャリーという金持ちの男がやってくる。一人娘のフィービーが行方不明になったという。

 調べるとすぐに、失踪の少し前に、フィービーは母親キャサリンの姦通を告発する手紙を目にしていることが判明する。ホーマーはキャサリンとはもう別れたので決して話をするなと、リュウ・アーチャーに強く命令する。フィービーとキャサリンを探しはじめるリュウ・アーチャー。フィービーは生きているのか? キャサリンの姦通の真相は……?

わたしは正面の鏡に映った女の顔を盗み見た。ひどい厚化粧である。塗りたくったおしろいの下の肉が腫れているように見えるのは、暴力のためばかりではなく、悲しみと恥辱の絶えざる打撃のせいであるらしい。それにしても、かつて魅力的な女性だったろうことは、はっきり見てとれた。 (略)

 「わたしって、お化けみたいでしょ?」

『さむけ』でも『ウィチャリー家の女』でも、家族の関係が壊れるのに呼応して、女たちもどんどんと壊れていく。自分を愛し、支えてくれる男とともに立ち直る女もいれば、年齢とともに愛した男や若さへの執着がどんどん膨張して「お化けみたい」になる女もいれば、ヘレンのようにまるでなにかの殉教者のようにあっさりと命を奪われる女もいる。


 この二作より前に発表された『象牙色の嘲笑』は、初期はチャンドラーの影響が濃いと言われているように、たしかに『さよなら、愛しい人』やダシール・ハメット『マルタの鷹』など通じる、いわゆる一種の「悪女(ファム・ファタール)もの」である。(ちなみに、『ロング・グッドバイ』はこの作品の一年後に発表されている) 

  リュウ・アーチャーのもとに、ユーナ・ラーキンと名乗る年配の女が依頼にやってくる。家で働いていたルーシーという黒人の若い女を探してほしいという。探すといっても居場所の見当はついていたので、リュウ・アーチャーはすぐにルーシーを見つける。ユーナの指示に従って、ルーシーを観察していたが、街を出ようとしたルーシーは何者かに殺されてしまう。

 殺されたルーシーは、チャールズ・シングルトンという行方不明の男の情報を求める新聞記事を手にしていた。男には懸賞金がかけられている。
 チャールズ・シングルトンを調べはじめたリュウ・アーチャーは、愛憎の迷宮へと足を踏み入れてしまう。いくら愛しても裏切られる。愛した相手には愛されない。報われない愛情の行き先が悲劇を生む。

「ほんとうにおかしいのはね」しばらく間を置いてから先を続けた。「愛している相手は絶対にこっちを愛してくれないってこと。こっちを愛してくれる人、(略)そういう人たちはこっちが愛せない。

 先に書いたように、この物語は「悪女(ファム・ファタール)もの」のフォーマットを使っているが、後の『さむけ』『ウィチャリー家の女』と同様に、リュウ・アーチャーの目に映る人物はどれも類型的ではなく、なかでも、ちょっとしか出てこない脇役の女性たちがいきいきと描かれているのが印象深かった。
 
 ルーシーが転がりこんでいた家の隣に住む黒人の婆さんや、チャールズ・シングルトンの家で働くシルヴィアといった、善良な魂がきちんと書かれ、最後に倫理が説かれていたので、陰惨な事件が主題になっていても後味が悪くない。

「あんたが殺したのは、個々の人間だけじゃない。切り刻み、煮つめ、焼いて消し去ろうとしてきたのは、人間らしさという観念だ。人間らしさという観念が我慢ならなかった」

 それにしても、ロス・マクドナルドの妻が、以前『まるで天使のような』を紹介したマーガレット・ミラーなのですが、人間の心理を暴くミステリーばかりえんえんと書く夫婦って、、、ほんと興味深いというか、空恐ろしいというか(女子高生に流行っている「マジ卍」ってこんなときに使えばいいのだろうか?)、またどちらかの次の作品を読んで考察を続けたいと思います。

 

2017年ベスト本――最愛の犬本② 『その犬の歩むところ』(ボストン・テラン 著 田口俊樹 訳)

この若い犬をご覧。血のように赤い石のそばにじっと佇み、体を休めている。四肢をすっくと伸ばし、胸を張り、頭を高く掲げて。

 さて、今年のベストといえるもう1冊の犬本は、2017年のミステリーランキングにもよく挙げられている『その犬の歩むところ』です。 

その犬の歩むところ (文春文庫)

その犬の歩むところ (文春文庫)

 

 ミステリーランキングにも挙げられていると書きましたが、犬が探偵役を務めたり、犯人を捜したりする物語ではない。
 ただ一匹の犬の足取りを、その父親の代から丁寧に追うことによって、犬をめぐる人々の物語が、「アメリカ」という大きい物語を映し出す小説である。


 まず語り手の「ぼく」は、一匹の老いた犬がさまよい歩いたすえに、〈セント・ピーターズ・モーテル〉にたどり着くところから物語をはじめる。

 そこで犬の話が続くのかと思いきや、まずはそのモーテルに住むアンナが、動乱する祖国ハンガリーから脱出してなんとかアメリカに渡り、そこでようやく幸せな暮らしを手にしたはずが悲劇に襲われ、老婆が経営するモーテルに流れ着くまでの顛末が語られる。
 老婆が亡くなり、ひとりでモーテルに暮らしはじめたアンナのもとに、次から次へと犬がやって来る。そして、この老いた犬もその一匹であった。

 当然のように、アンナはその老犬の面倒をみるようになり、つけていた首輪にに質札のようなものを発見する。そこには GIV と刻まれていた。ギヴがこの犬の名前なのだとアンナは思う。老犬は、アンナとアンナの飼い犬エンジェルと束の間幸せな時間を過ごし、エンジェルとのあいだに牡の仔犬をつくり、静かに息絶える。

老犬よ、おまえはひとりぼっちではない。なぜなら天国はここに――おまえが身を埋めるこの偉大な木々の中に、名が刻まれた石の中に、おまえの骨を覆う土の中にあるのだから。おまえにもすぐに恵みが与えられるだろう。

で、ここまでが序章なのです。ここからこの小説のメインとなる、父親と同じギヴという名を与えられた牡の仔犬の物語がはじまる。

 父親が亡くなってすぐ、ギヴに試練がおとずれる。モーテルの客であったバンドマンの兄弟にさらわれてしまう。ここからギヴの波乱万丈の犬生が幕を開ける。

 そして、まだ語り手の「ぼく」は姿を見せない。「ぼく」はいったいどこでギヴと出会うのか?

 この小説は、犬も人間も等しく運命に翻弄されて過酷な目に遭う。虐待、戦争、自然災害、愛する者との別れ――どれも犬にも人間にも襲いかかってくる。

 それでも犬は、ギヴは、人を信じることと愛することをやめない。前回紹介した『おやすみ、リリー』のように、犬が老いたり病気になったりする話はもちろんつらいけれど、この小説のように、ひたすら無償の愛を注ぎ続ける犬の姿も泣けてしまう。

ギヴは誰が相手でもルーシーを守ろうとするだろう。必要とあらば、宇宙のあらゆるものを敵にまわしても。なぜなら、ギヴにとってルーシーは自分が生きることそのものだからだ。そして、ギヴは混じりけなしの愛の塊だからだ。 

  この小説の試練として、虐待、戦争、自然災害と書いたけれど、どれも決して架空のできごとではない。イラク戦争カトリーナがこの小説の重要な背景となっている。生の「アメリカ」が、ギヴの歩みに刻まれている。

 ギヴを盗む兄弟が父親から受ける虐待の場面では、かなり前に読んだ、村上春樹訳のノンフィクション『心臓を貫かれて』に出てくる父親を思い出した。 

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

 

  アメリカの物語においては、「大草原の小さな家」のような理想の父親像が確固としてある反面、異常としか思えない父親像も往々にして描かれる。もちろん、実際に存在しているからだろう。


 この小説の最後の試練にギヴが立ち向かうとき、読んでいて、もうギヴを行かさんでええやん、そっとしてあげて!と思った。

 でも考えたら、その前の最大の試練の悲しみからギヴが立ち直るためには、もう一度愛する者を守るために戦うことが必要だったのかもしれない。
 「混じりけなしの愛の塊」であるギヴは、愛することが「生きることそのもの」なのだから。


 うちの祖母は犬を飼っていて、口癖は「犬は裏切らへん」であった。母親は「まるでだれかに裏切られたみたいなこと言って!」と文句を言っていたけれど、ほんとうにそのとおりだなあ……としみじみ思い出した。なんでも、旧石器時代からヒトは犬を飼っていた形跡があるそうだ。


 犬好きという松浦理英子のエッセイ『優しい去勢のために』所収の「犬よ! 犬よ!」でも、野良犬が駆逐された環境で育つ子供たちについて、

人間に本当になつき慕ってくれる唯一の動物である犬という素敵な友達と大いに触れ合う機会がないとしたら、何かとても有意義なことを学べないで成長することになりはしまいか。

と書いている。われわれ人間は、できるだけ犬と触れ合って、ほんの少しでも見習うべきなのかもしれない。 

優しい去勢のために

優しい去勢のために

 

 ちなみに、この小説の原題は、『GIV: The Story of a Dog and America』と、そのとおりのストレートなタイトルのよう。悪くはないけれど、『その犬の歩むところ』という邦題の方がストーリーを暗示させる要素が強く、冴えたタイトルだと思った。 

【12/4 追記】2017年ベスト本――最愛の犬本① 『おやすみ、リリー』(スティーヴン・ローリー 著 越前敏弥 訳)

二十代がまさに終わる日の夜、新しくやってきた子犬を腕に抱いたとき、ぼくは泣き崩れた。愛を感じたからだ。愛みたいなものじゃない。ちょっとした愛でもない。限界なんかなかった。ぼくは出会ってからたった九時間の生き物に、ありったけの愛を感じていた。
 ぼくの顔の涙をなめていたリリーを思い出す。
 あなたの! めから! ふって! くる! あめって! すてき! しおあじって! だいすきよ! これ! まいにち! ふらせて! 

 さて、気がついたら2017年もあと一月を切りました。

 そこで、今回は2017年のベスト犬本を紹介したいと思います。ちなみに、ベスト「犬」本というのは、犬の本のなかでベストという意味ではなく、2017年のベストだと思った本が、たまたまどちらも犬の本だったからです。


 まずこちら、『おやすみ、リリー』は表紙の犬の絵と、「おやすみ」という言葉から想像できるように、愛犬リリーとの別れがテーマとなっている。 

おやすみ、リリー

おやすみ、リリー

 

というと、動物好きの人たちは「そんな本、つらくて読めるわけない!」と思うことでしょう。基本私も、そんな不吉な予感の漂う本には近づかないことにしています。

 でも、そんな私でも、最後まで夢中になって読みきってしまったこの本。
 読むのがつらくなかったかって? そりゃもちろんつらかった。涙が止まらなくなる場面もひとつやふたつではなかった。

 それでも読んだあとは、まさに上の引用にあるように、主人公の「ぼく」(テッド)と同じく、私の心も「ありったけの愛」で満たされるのを感じたのだった。


 そう、この本を読んで涙が出るのは、愛犬が病気になって衰えていくからだけではない。それよりも、「ぼく」とリリーとの日常の大切さや愛おしさが、いきいきと描かれていることに胸をうたれるからである。

 なんといっても、「ぼく」の目に映るリリーはただの犬ではない。
 「ぼく」とリリーは毎日いろいろおしゃべりをし、木曜の夜は「いま一番イケてる男子」について一緒に語りあい(そう、「ぼく」はゲイなのです)、金曜の夜は一緒にモノポリーをし、土曜には一緒に映画を観て、日曜には一緒にピザを食べる。これがふたりの――正確にいうと、ひとりと一匹ですが――毎日の暮らしだ。 

犬の何よりすてきなところは、そばにいてほしいと人が特に強く思っているとき、なぜかそれを察することだ。そして何もかもをほうり出し、しばし寄り添ってくれる。 

  この物語はリリーの病気に気づいたときからはじまるが、病気の進行と並行して、「ぼく」とリリーのこれまでの生活も語られる。

 最初の引用はリリーとの出会いの場面だけど、「ぼく」はリリーを抱いたとたんに泣き崩れている。それがどうしてかは明確には語られていないものの、ほかの回想シーンから、「ぼく」は両親の離婚や、またゲイであることから、幾度も傷ついたり悩んだりしてきたことがほのめかされている。

 母親から愛されているかどうか、いまでも不安を抱いていることや、パートナーと安定した関係を築けないことに苦しんでいることが、随所で描かれている。そんな「ぼく」がリリーと共に暮らしはじめ、過去のリリーの大病、リリーの次に(?)愛する妹の結婚、パートナーだったジェフリーとの別れを経て、成長していくさまがしっかりと読者に伝わってくる。


 そうして「ぼく」に最大の試練が訪れる。リリーとの別れが……

 でも、あくまでも「ぼく」の語り口は軽妙で、リリーに襲いかかる病魔を「タコ」と呼び、ときにはばかばかしく感じるほどユーモラスに闘ってみせる。まるで風車に戦いを挑むドン・キホーテのように。
 しかも、「タコ」もなかなかの曲者で、いらんこと言いのへらず口野郎だ。ときには妙に哲学的なセリフも吐く。このコミカルさも、小説の強いアクセントとなっている。

「でも、何よりもリリーに感謝している。リリーがぼくの人生に登場してからというもの、ほんとうにいろんなことを教わった。我慢、やさしさ、静かな誇りと気品をもって困難に立ち向かうこと。リリーはだれよりもぼくを笑わせてくれ、だれよりも強く抱きしめたいと思わせてくれる。最高の友であるという約束を、忠実に守ってくれる」 

 ところで、私はこの本をまず原書で読んで、案の定泣いてしまったにもかかわらず、それでもやっぱり動物のいる人生がいい!と強く願いました。

 すると、思いが通じたのか、職場の人から猫を拾ったので引き取ってくれる人を探していると聞き、うちの子と一緒に暮らすようになりました。なので、人生を変えられたといっても、おおげさではない一冊です。


 で、もう一冊の犬本についても、あわせて書こうと思っていたが、長くなってしまったので、近々アップします……

【12/4追記】

 コメント欄にも書きましたが、この小説はただただ悲しいだけではなく、軽妙でコミカルなところと、じわっと切ないところが、緩急をつけながらうまく結びつけられている。

 作者のスティーヴン・ローリーは、この小説がデビュー作だけど、フリーライター、コラムニスト、脚本家としてのキャリアが長いだけあって、文章にユーモアをおりまぜるさじ加減がうまく、読んでいると思わず笑みがこぼれてしまう。


 この物語は、作者のスティーヴン・ローリーが愛犬「リリー」を失くした経験をもとにしており、またスティーヴン・ローリー本人もゲイであり(ツイッターにいまのイケメン彼氏との写真をしょっちゅうアップしているらしい)、となると「そのままやん!」って感じですが、主人公のテッドは作者の分身だと読みとってまちがいないよう。

「ぼくはエドワードだ。テッドって呼ばれてる」耳もとでそうささやき、自分の耳をリリーの頭に近づけた。そのときはじめて、リリーが話すのを聞いた。
このひとが! わたしの! かぞくに! なるのね!

 がしかし、主人公テッドも作者と同じフリーライターという設定のようだけど、リリーにかまけてばかりで、いったいいつ仕事してるんだ??と最後まで気になった… 

優等生を演じてきた少女に降りかかる恋愛と悲劇 『ハティの最期の舞台』(ミンディ・メヒア 著 坂本あおい 訳) 

演技するうえで最初に学ぶべき大切なことは、観客の心を読むことだ。どんな自分を期待されているのか察知して、そのとおりにする。

 翻訳ミステリー大賞シンジケートのサイトでの、「シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』であり、ローレン・ワイズバーガーの『プラダを着た悪魔』に連なる〈ニューヨークに憧れる早熟な地方の文系女子の挫折〉の物語」という霜月蒼さんの紹介文を見て、これは読んでみないと!と思っていた『ハティの最期の舞台』を読みました。 

ハティの最期の舞台 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ハティの最期の舞台 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 物語の筋は単純だ。アメリカの田舎町で、美人で利発なうえに演技の才能もあり、周囲から一目置かれていた高校生のハティが死体となって発見される。
 ハティの両親と昔からの付き合いである保安官デルが捜査にあたり、クラスメートから聞き込みをすると、まずはハティのボーイフレンドのトミーが浮上するが、実は、ハティは最近学校に赴任してきた国語教師ピーターに思いをよせていたということが判明する……


 こう書くと、ごく平凡なストーリーのように思えるが、事件を担当する保安官デルによる一人称で捜査の展開が語られるメインパートと、ハティとピーターが交互に過去を語るサブパートが重なりあって、徐々に事件の真相がみえていく構成がうまく作られていて、退屈することなく一気に読んでしまった。


 解説では、この小説は『ゴーン・ガール』を引き合いに出されることがあると書かれているが、たしかにピーターのパートは、『ゴーン・ガール』の夫ニック(映画ではベン・アフレックがにやにやと演じていた)の語りと似ていないこともない。やむを得ない事情で田舎に来たものの、文化水準の低さに絶望し、完璧なはずだった自分たちの夫婦関係に疑問を抱きはじめるあたりが。 

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

 

 けれど、解説でも「ただし読後感はだいぶちがいそうだ」とあるように、最終的にはまったくちがう話だった。

 どこがちがうかというと、単純に、登場人物すべて『ゴーン・ガール』の夫婦のような"イヤなやつ"ではないということだ。
 いや、ハティもピーターも、自分は周囲の無教養な田舎者たちとはちがうという選民意識を持っているので、"イヤなやつ"ではあるのかもしれないが、ふたりともピュア過ぎたため(英語でいう"naive" なところを多く持っていたため)"イヤなやつ"にはなりきれず、互いを信じ、未来への希望を抱き、それゆえに悲劇がおきる。


 この小説で一番心に残るのは、内省的でありながらも、いきいきとしたハティの語り口だ。
 最初の引用にあるように、実際に女優志望であるハティは、ふだんでも常に演技をしている。優等生として求められる自分を演じている。

心のどこかでは、一度でいいから演技よりも深いところまで見通して、ブリジット・ジョーンズみたいにありのままのあなたが好きと言ってほしいと思ったりするかもしれないけど、そんなことは絶対に起こらない。いっしょにインディペンデント映画を見にいこうと思ってくれる人はいない。読んでいる本は笑われるし、話し方から気取ってるって思われる。だから、いつか本当の自分の人生がはじまるのを待ちながら、わたしは舞台に立つ。

と、なかば諦めにも似た思いで、この田舎町での高校生活をやり過ごしていたハティ。
高校を卒業して、ニューヨークへ引っ越したら、ようやく自分の本当の人生がはじまるのだと思っていた。

 ところが、ピーターがあらわれる。この田舎町でトマス・ピンチョンのサインを欲しがる男が。(しかし、トマス・ピンチョンってアメリカでも「文学」のシンボルなんですね) 演技をしなくてもわかってくる相手があらわれたのかもしれないと思ったハティは、情熱をそのままピーターにぶつけるようになる。

「人生すべてが演技なのか?」
 ハティは頭を垂れ、やがて顔に恥のような何かがよぎった。
「そう」ささやきだった。
「それで、僕はどんな役を演じることになってるんだ?」
「そんなことは求めてない!」顔が勢いよくあがった。 

  自意識過剰な優等生の少女が壊れはじめるというところが、『ベル・ジャー』を想起させるのだろうか。 

ベル・ジャー (Modern&Classic)

ベル・ジャー (Modern&Classic)

 

私が『ベル・ジャー』を読んだのは、新訳もまだ出ていなかった昔で、しかもペーパーバックで読んだので記憶はあやふやだけど、シルヴィア・プラス本人がモデルと思われる主人公の精神が徐々に蝕まれ、精神病院に入れられる描写が心に焼きついている。

 この小説で、最終的にハティが襲われる悲劇は『ベル・ジャー』的なものではないが、冒頭の場面で、家出を決行しようとするハティの切羽詰まった姿からは、これまで拠りどころにしていた精神の崩壊と再生を感じる。

 わたしは――たぶん、生まれてはじめて――自分がだれなのかはっきり理解して、そして自分は何を求めていて、それを手に入れるにはどうしたらいいか理解した。

 それだけに、結局のところ、ハティは新しい世界に羽ばたくことができないまま、人生の幕がおろされたのが痛ましい。

 仮にピーターと脱出できていたらどうなったのだろうか? 
 文科系カップルとして幸せに暮らせたのだろうか? いや、『ゴーン・ガール』のように、文科系カップルの凄惨な結末を迎えたのだろうか? あるいは、ハティはオーヴンに頭を突っこむことになるのだろうか? など、読み終えたあとも、「もしも」の可能性を幾度も考えてしまう小説だった。

 

わたしの大好きな本の半生 『わたしの名前は「本」』(ジョン・アガード 著 金原瑞人 訳)

 フィルムアート社の読者モニター募集に申し込み、この『わたしの名前は「本」』を読ませてもらいました。 

わたしの名前は「本」

わたしの名前は「本」

 

  タイトルからわかるように、「本」が「わたし」という一人称で自らの由来を語る形式の物語で、まずは「本の前に、息があった」と、本になるまえの口承物語の時代からはじまる。(ちなみに、私が読んだのはゲラ版なので、最終的な本とはちがう箇所があるかもしれません)

 古代の本というと、シュメール人が粘土板に楔形文字を刻んだ……などは一応世界史で習った覚えがあるが、カエルを送ってメッセージを伝えようとしていたなどは知らなかった。カエルでメッセージがちゃんと伝わるのかって? いや、案の定伝わらないのですが。詳細は読んでみてください。


 それから、アルファベットが生まれ、古代に紙として使われたパピルスが作られ、それから羊皮紙が作られるようになり、中世では修道士たちが羽根ペンで羊皮紙に書写をする。

 と書くのは簡単だけど、実際は羊皮紙を作るにもおそろしい手間がかかり、また羽根ペンで書くにしても、当時は店でインクを売っているわけではないので、「虫こぶ」なるものを取ってきて(オークの木にできるこぶらしい)、すりつぶして鍋に入れて水にひたしてと、ひどくたいへんだったようだ。印刷のない時代はすべて手で書き写さなければいけなかったので、修道士たちが一枚一枚書写をする。

 これだけの苦労をしてでも、人々は書いて伝えようとした、あるいは書いて残そうとした。その情熱を思うと、ただただ圧倒される。


 そして、本の歴史において、いや、人類史上において画期的なできごとがおきる。グーテンベルク活版印刷機を発明する。

聖なるものを閉じこめていた封印をはがして、「真実」に翼を与えよう。そうすれば、真実は人々の魂に届き、人々は真実の言葉によって、世界を知ることができる。 

 

というグーテンベルクの言葉のとおり、翼を与えられた活字は、学者や修道士といった一部の人々だけでなく、一般の人々の間にも普及していく。


 以降は、産業革命の発展にともない、蒸気機関を使った高速印刷機が生まれ、世界大戦を経てペーパーバックが生まれ……と本の歴史がひととおり語られたあと、本をめぐる状況に焦点があてられるのだけど、私はそこがとくに興味深かった。


 シュメール人が「記憶の家」と呼び、エジプト人が「魂をいやす場所」と呼び、チベット人が「宝石の海」と読んでいた場所。そこはどこでしょう?


 そう、図書館です。
 はるか昔から図書館は存在し、図書館員は「粘土板の番人」として知られ、アッシリアの王やエジプトの王、ローマ人たちも図書館を愛好していた。人々はインドの寺院でも、サハラ砂漠の片隅でも、図書館に行って本を読んでいた。

 時が経つにつれて、図書館は一部の人たちの秘密の部屋ではなくなり、一般の人でも無料で自由に本を借りて読めるようになった。そう、まさにバベルの図書館、と思うと

わたしは昔から、天国とは図書館のような場所だと想像していた

と、やはりボルヘスの言葉が紹介されていた。

 大富豪のアンドルー・カーネギーは、「少年少女のためにお金を有効に使うとしたら、公共図書館を作るのが一番だ」と、世界中に2500以上の図書館を設立したらしいけど、まさにそのとおりだと感じる。

 私も子供のときから近所の図書館に通って、本を読むようになったので、本好きな子供にとって図書館は欠かせないものだと思う。最近、図書館のせいで本が売れないみたいな議論をよく目にするけれど、図書館を規制すると、よけいに本離れが加速するだけではないかと思えてならない。


 しかし、本の歴史を振り返ると、先にも書いたように、古来からの人類の本に対する情熱に感じ入ってしまう。
 それだけ重要なものであるがゆえに、敵視されたこともあった。この本では、「かつて、焼かれそうになっ」た時代のことも語られる。
 
 2000年前の中国の焚書坑儒からはじまり、キリスト教の歴史において、植民地の歴史において、そしてナチスドイツによって、セルビアの紛争において、イラク戦争において、幾度も焼かれてきた。「そういうとき、わたしは、ある詩を思い出す」と、ドイツの劇作家、詩人のブレヒトの「本を燃やす」という詩が紹介されている。人はどんなときでも本に真実を刻みつける。


 そしていまや「わたし」の環境はスクリーンにもなった。電子書籍だ。しかし、これまで見てきたように、粘土板やパピルスに羊皮紙とさまざまな変貌を経てきた「わたし」にとっては、さしておどろくものではない。
 ただ、あの懐かしい「本のにおい」を、すぐに人々が忘れ去ることもないだろうと考えている。


 と、本の半生が語られるこの本を読むと、人は生きているかぎり、なにかを読んだり書いたりすることから逃れられないのだなあらためて感じた。

 この本には、上で引用したもの以外にも、エミリー・ディキンソンやマーク・トゥエインなどの本にまつわるたくさんの詩や言葉が引用されているのだけれど、一番気に入ったのが、グレイス・ニコルズというイギリスの詩人の詩だった。

わたしの大好きな本は 指で触れられ、めくられ
小さなバターのしみがついて パンのくずがはさまって いるかもしれない
たまに猫のひげも 所々、角が折れて 涙のあとも 茶色のよごれも
(もしかしたら、紅茶のしみ)

 

なぜか親子の話から、ダン・ブラウン『ロスト・シンボル』『天使と悪魔』『ORIGIN』(『オリジン』?)にまで思いを馳せた

 『母がしんどい』『呪詛抜きダイエット』などを描いている、田房永子さんによる清水アキラ親子についての考察がおもしろかった。(リンク先のLove Piece Clubは18禁サイトかと思うので、念のためご注意を)

www.lovepiececlub.com

「小学生みたい、それか昭和の犬」って、まさにそのとおりだ。
それにしても、『マルコヴィッチの穴』のあのポスターが、マルコヴィッチではなくぜんぶ清水アキラになったなら、、、嫌すぎる。田房さんは

親子の絆 とかを大切に思う価値観の人にとっては、嫌なコラムだと思う。(ていうかそういう人にとっては私の書くもの全部嫌だと思うけど…笑)

とツイートしていたが、ほんといわゆる"親子(もしくは家族)の絆の大切さ"みたいな、安直な常套句は滅んでほしいものです。


 ところで、私があの「保釈しません!」という会見で思い出したのは、少しネタバレになるのかもしれないけれど、ダン・ブラウンの『ロスト・シンボル』だった。

 

ロスト・シンボル (上) (角川文庫)

ロスト・シンボル (上) (角川文庫)

 

読まれた方にはおわかりかと思いますが、一芸に秀でた親を持つのも、なかなかつらいものなのかもしれない。(ピーター・ソロモンと清水アキラを一緒にするなと言われそうだが)


 考えたら、ラングドン教授シリーズの第一作『天使と悪魔』も、
セルン(欧州原子核研究機構)や、キリスト教コンクラーベや、現代に蘇った秘密結社イルミナティ……などなど、「なにがなんやら」とすっかり頭が混乱したかと思いきや、
殺人者(ハサシン)に何度襲われても、密室に閉じこめられても、挙句の果ては空を飛ぶヘリコプターから飛び降りても絶対死なないラングドン教授に度肝をぬかれたりと、

尋常でないくらい濃密なストーリーが展開されるなか、最初から最後まで貫かれるテーマは、親子とはどういうものなのか? ということだった。 

天使と悪魔 (上) (角川文庫)

天使と悪魔 (上) (角川文庫)

 

 ヒロインであるヴィットリアと殺されたヴェトラの関係からは、血がつながっていなくても"親子の絆"が成立することもあるのだと示され、後半で明かされるコーラーの親は、いまならば"毒親"と言えるのではないかと考えさせられる。

 そして、カメルレンゴの「奇跡的」な "親子の絆"……(それにしても、映画版のカメルレンゴ役を演じていたのが、ユアン・マクレガーでおどろいた。結論としては、トレイン・スポッティングの方が似合っていると思った)


 それにしても、この『天使と悪魔』はシリーズ第一作だけあって、そのあとの作品で何度も取りあげられるテーマがすべて詰めこまれている。科学と宗教の対立、狂信的な秘密結社、美術品に隠された暗号、、、そして、10月に出た新作『ORIGIN』(最近の傾向だと、『オリジン』という邦題になるのだろうか)も、まさに科学と宗教をめぐる物語だった。 

Origin: A Novel

Origin: A Novel

 

  『ORIGIN』は、ビルバオグッゲンハイム美術館からはじまる。

 この美術館のことはまったく知らなかったのだけど、花や野草で埋めつくされた超大型犬パピーや、鉄でできた巨大グモのママンといった、現代美術の斬新すぎるオブジェが次から次へと出てきて、ものすごーく行きたくなった。日本でいうと、金沢の21世紀美術館みたいな感じだろうか。日本人作家中谷芙二子による『霧の彫刻』も見てみたい。


 ここで、ラングドン教授のかつての教え子であり、すっかり時代の寵児となった天才的頭脳の持ち主カーシュが、生命誕生の秘密を解明しようとしたそのとき、事件が勃発する。
 しかも、今回のヒロイン(いっそ寅さん風に"マドンナ"というほうがふさわしい気もする)はスペイン皇太子の婚約者なので、スペイン王室をも巻きこんだ大捜索劇へと発展する。

 例のごとく、追われる身となったラングドン教授とヒロインが真相を推理するのだが、今回はなんと、カーシュが創った人工知能ウィンストンがラングドン教授の相棒となる。
 ウィンストンを呼び出して助言を求めるラングドン教授が、どうしても「ドラえも~ん」と助けを求めるのび太に思えて仕方がなかった。ちょうどしずかちゃん(ヒロイン)もいるし。


 また、これまでの作品と同様に、名所旧跡の案内もぬかりない。カサ・ミラって、ほんとうに住んでる人がいるのだとはじめて知りました。そして、スペインなので当然(?)サグラダ・ファミリアでクライマックスを迎える。さっきのビルバオとあわせて旅行に行きたい度がMAXになることはまちがいなし。スペイン王室への無礼もこれでチャラになるはず……

 
 というわけで、今作は、AIにしても「生命のひみつ」にしてもそんなに難解ではなく、また、宗教的でもスピリチュアル的でもないため、先の『天使と悪魔』などに比べると、「なにがなんやら」度は低いと思うので、
これまで苦手だった、実は『ダ・ヴィンチ・コード』も挫折したなんていう方も、また手に取ってみてはいいのではないでしょうか。

 といっても、いまはまだ翻訳は出ていませんが、来年の春には出るらしいので、しばしお待ちを。

”歴史の証人”となるためのブックガイド② 『1980年代』『小さいおうち』(中島京子)『こびとが打ち上げた小さなボール』(チョ・セヒ 著, 斎藤真理子 翻訳)


 さて、前回は欧米の歴史についての本を紹介したけれど、やはり日本とアジアについての歴史も忘れちゃいかんと、日本の近過去を扱った『1980年代』も読んでみました。 

1980年代 (河出ブックス)

1980年代 (河出ブックス)

 

  というか、斎藤美奈子さんが編集しているので、気になって手に取ったのですが。

 さまざまな書き手が、1980年代のあらゆる事象について考察していて、なかでも作家の中島京子さんと、翻訳家・ライターの斎藤真理子さんが、80年代に流行した「日本を脱出して留学する女性」の当事者として、自らの経験を語っているのが興味深かった。

出版社で働いたのちに、アメリカに留学した中島京子さんは、こう書いている。

就職して何年後かに海外に行くというスタイルは、80年代以降、若い女性の人生コースの一選択肢であり続けている。
彼女たちの海外雄飛は、いつまでも男性優位と同調圧力が止まないこの国を生きる女性たちに、その息苦しさから離れてみる時間と空間を提供しつづけているのだろう。

まさにそのとおり、としか言いようのない。

 中島京子さんというと、以前こちらで話題作の『妻が椎茸だったころ』を紹介したけれど、

dokusho-note.hatenablog.com

歴史を描いた作品としては『小さいおうち』がある。

 女中による控えめな語り口で、ある一家において戦時中に秘められた想いがあかされるという、カズオ・イシグロの『日の名残り』を思わせる物語だった。

 山田洋次監督によって映画化されたのでご存じの方も多いでしょうが……それにしても、奥様が松たか子で女中が黒木華、というのはハマリ役だけど、「板倉さん」が”満男くん”(いや、”純”ですかね)こと吉岡秀隆だったのは、少々イメージとちがったが、、、それこそ現代のシーンを演じた妻夫木くんの方がよかったかと。(注:あくまでも個人の感想です)

 まあとにかく、小説の方は、昭和初期の穏やかな暮らしを戦争が徐々に蝕んでいくさまがじっくりと描かれていておすすめです。いままさに読むべき本かもしれません。 

小さいおうち (文春文庫)

小さいおうち (文春文庫)

 

 そして、斎藤真理子さんのエッセイは、まだ韓国が「軍事独裁のコワイ国」、または「買春観光の国」と思われていた1980年代に韓国語を学ぶということ、について書かれていて、たいへん刺激的だった。

「買春観光の国」って、若い人はご存じないでしょうが(私もそんなに詳しくないが)、1980年代、日本の男たちはアジアに「買春観光」することで有名だった…ってこれぞまさに恥ずべき歴史ですね。

 そういえば、私が韓国にはじめて行ったのは2000年前後だけど、韓流ブームの前だったので、韓国旅行といえば「パチもん(偽ブランド品)買い」か「板門店(またはロッテワールド)観光」が目的だと思われていたのだった。
 それがいまは、韓国といえば、韓流スターに質の高いコスメ、そして街を歩くきれいな女の子たち…となったので、時代のうつりかわりって案外あっという間なんだなと感じる。


 斎藤真理子さんが以前訳された、日本翻訳大賞を受賞したパク・ミンギュの『カステラ』もおもしろかったので、『こびとが打ち上げた小さなボール』もいま読んでいるところだけど、短編集なら読みやすいかなと思いきや、過酷な現実を描いていながら寓話のようでもあり、どの短編もどっしりとした読みごたえがある。 

カステラ

カステラ

 

 

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 思いおこせば『カステラ』も、寓話のような物語を軽妙に語りつつ、ありがちな言葉だけど「現代の閉塞感」――具体的には大学を出ても職がないとか――をしっかりと伝えていた。

 そして、この『こびとが打ち上げた小さなボール』は、急激に経済発展する1970年代のソウルを舞台に、家を奪われる人々の生活を丹念に描いていて、この社会が奪おうとしているのは、家だけではなく人間の尊厳であることがひしひしと伝わってくる。

 ところで、今回ウィキペディアを見て、斎藤真理子さんが斎藤美奈子さんの妹だと知っておどろいた。兄弟姉妹っておもしろいものだなと、ひとりっこの私はあらためて感じた。


 あと、『1980年代』に戻ると、横井周子さんによる「少女マンガ界に咲くドクダミの花」への愛情あふれる文章もよかった。この懐かしい呼び名…そう、少女マンガ史に残る怪作、岡田あーみんの『お父さんは心配性』です。 

お父さんは心配症 (1) (りぼんマスコットコミックス (351))

お父さんは心配症 (1) (りぼんマスコットコミックス (351))

 

  あーみんは自分の作品のテーマは、「ストレートな愛情であり、迷惑スレスレの純粋さ」であると語っているらしい。ほんとそのとおりだ。
 しかしいま考えると、当時の『りぼん』って、『有閑倶楽部』や『ときめきトゥナイト』から、『ちびまる子ちゃん』や『お父さんは心配性』まで載せてたって、どんだけ幅広いねんってつくづく感じる。