快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

歴史小説/時代小説の難しさ パンデミックに襲われた奈良の都を描いた『火定』(澤田瞳子)

間が空いてしまいましたが、先月は人生初の入院&手術を受ける羽目になりました。その顛末は、こちらの

note.com

に書いてあります。


さて、800字書評の先月の課題書は、澤田瞳子『火定』でした。 奈良の都に天然痘が広がるさまを描いたパンデミック小説です。

まずは、自分の書評をアップします。

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「病とは恐ろしいものだ」と、『火定』の主人公である名代は思う。「人と人との縁や信頼、理性をすら破壊し、遂には人の世の秩序までも、いとも簡単に打ち砕いてしまう」

この小説は現代より約1300年も昔の奈良時代を描いている。ところが、都に痘瘡(天然痘)が広がるさまは、コロナ禍に見舞われた現代と恐ろしいほど酷似している。
病を持ちこんだ遣新羅使について、「彼らをひとところに押し込め、新たな発病者が現れなくなるまで、何があってもそこから出さぬことだったのだ」と、もうひとりの主人公である諸男が考える場面は、どうしてもダイアモンド・プリンセス船の騒動が頭をよぎる。


貴族から貧しい庶民まで多数の者が命を落とすにつれて、ひとびとは人間の無力さと生の儚さに直面する。自分だけが助かればいいと考える比羅夫のような者や、恐怖につけこんで金儲けをする宇須のような者が出現するくだりも現代と共通している。
とくに、宇須に煽られた民衆が自分たちと異なる相貌の者、異なるルーツを持つ者を抹殺しようとするさまは、近隣国への醜い感情をあらわにする現代人の姿と重なるものがある。

何が変わって何が変わっていないのかを象徴しているのが、悲田院の孤児たちの存在だ。病に罹った孤児たちは、蔵に押しこめられて見殺しにされる。現代では考えられない所業のように思える。
だが、現代でも弱い者は見殺しにされているのではないだろうか? これほどまでにあからさまになっていないだけで。しかも、隆英のように孤児と運命をともにする者が、現代には存在するだろうか? 

時代小説には苦手意識があった。何百年も昔の人が、現代人と同じような価値観や倫理観に従って行動しているのを読むと、そんなやつおらへんやろ~とどうしても違和感を抱いてしまう。
この小説においても、迷える青年である名代や、悪役になりきれない諸男といった主要な登場人物については、この違和感をぬぐえないところもあった。また、宇須や虫麻呂といった強烈なキャラクターがあっさり命を失うのも少々肩透かしに感じられた。

しかし、悲田院の蔵をあける場面の凄惨さには、そういう物足りなさも打ち消されてしまった。「彼らの死は決して、無駄ではない」と書かれている。たしかに、無駄な生や死はない。けれども、意味があるのかどうかもわからない。人間は死ぬまで生きる、ただそれだけだという無常を、死体が積み重なる秋篠川の岸辺から強く感じた。

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1300年も昔の奈良時代を舞台としているにもかかわらず、パンデミックに襲われた都の人々がパニックに陥るさまは、まさに現在の世の中をありのままに写し取っているような臨場感があった。
さらに、この小説が投げかける、人間にとって病とは何か? 生と死は何か? という問いは、まさにいまの自分に合致したテーマであった。


けれども、退屈することなく最後まで読み進めたものの、そこまで物語の世界に没入できなかったというのが正直な感想だ。


第一には、ほかの受講生も指摘していたが、書評でも引用した「彼らの死は決して、無駄ではない」といった、生と死への意味づけのようなものが小説内で綴られていることに、ちょっと抵抗を感じてしまったからかもしれない。上にも書いたように、人間は死ぬまで生きる、ただそれだけなのではないかと思った。


第二には、これも書評で書いたように、歴史小説/時代小説(ちなみに今回、史実に基づいて書かれているものが歴史小説で、古い時代を舞台にしながらも、荒唐無稽な設定や筋立てで書かれているものが時代小説だと知った)を読み慣れていないからかもしれないが、何百年も昔の世界を描いているのに、登場人物たちが現代の価値観や倫理観に従って行動していると、どうしても違和感を抱いてしまう。


とはいっても、まったく現代と異なる価値観で登場人物が動いていたならば、現代の読者は共感できず、物語の世界に入りこむことができないだろうから、難しい問題だとは思うけれども……


というようなことを考えつつ、次に『指差す標識の事例』を読みはじめた。 

 こちらは17世紀のイングランドを舞台とした歴史ミステリーで、去年翻訳ミステリー大賞を受賞した作品である。
 4部構成の小説で、第1部はヴェネチア出身の医学生コーラが語り手となり、まだ人体の仕組みが解き明かされていないこの時代に、さまざまな実験をくり返しながら、科学の発展に貢献しようと奮闘するさまが綴られている。


『火定』と同様に〈医療〉〈歴史〉の要素があり、さらに〈外国〉すら加わって三拍子そろっているが、不思議なことに、こちらに対しては、歴史小説/時代小説への違和感が湧きあがってこないことに気がついた。どうしてだろうか?

〈外国〉の〈歴史〉小説ゆえに、最初からまったく異なる世界の読み物として受けとめているので、ひっかからないのだろうか? 
それとも、それぞれの小説の登場人物の描き方の問題だろうか? (『火定』は三人称で、『指差す標識の事例』は手記という形式の一人称という点は関係があるように思える)

原文ではなく翻訳文であるがゆえに、現代風の話し言葉であっても、逆にひっかからないのかもしれない。(『火定』は奈良の都を舞台としているのに、登場人物が江戸っ子みたいな口調なのが気になった、という感想を述べた受講生もいた)


この疑問の解はまだよくわからないけれども、小説というものは非常に微妙なバランスで成り立っているのだな、ということをあらためて感じた。

地球も、私たちも、資本主義に略奪されている――斎藤幸平『人新生の資本主義』

 さて、今回の800字書評の課題は、斎藤幸平『人新生の資本主義』だった。
 2020年に発売されたこの本は、6万部を超えるベストセラーとなり、新書大賞も受賞したのでご存じの方も多いと思う。 

  しかし、ベストセラーになったからといって、けっして易しい本ではない。気候変動問題を起点とし、最近よく耳にするSDGs(持続可能な開発目標)といった、資本主義のもとでの環境問題への取り組みは単なるアリバイ作りに過ぎないと喝破する。そしてマルクスを解釈し直すことで、資本主義から脱却して、新しい世の中の仕組み作りを提案する――というのが、本書の骨子だ。

 いまの資本主義の世の中は「持続可能」なものではない、という作者の主張には深く肯いた。もちろん、現代社会の問題点を論じた本や論客は、これまでにも数多く存在している。
 しかしこの本は、そういった所謂「リベラル」な論客が唱えがちな「脱成長論」について、日本では「高度経済成長の恩恵を受けてあとは逃げ切るだけの団塊世代の人々が、脱成長という『綺麗事』を吹聴しているというイメージが強い」ため、世代対立へと矮小化され、「緊縮」政策へと結びつけられていった、と分析する。

 さらに、古い脱成長論がなぜダメなのかについて

古い脱成長論は一見すると資本主義に批判的に見えるが、最終的には、資本主義を受けいれてしまっているからである。資本主義の枠内で「脱成長」を論じようとすると、どうしても「停滞」や「衰退」といった否定的イメージに吞み込まれてしまうのだ。

 と斬っている。
 資本主義を維持しながら、利潤追求や市場拡大、労働者や自然からの収奪をやめろというのは、真の「空想主義」であると書いている。たしかに、そのとおり。 

 では、どうしたらいいのか? 
 資本主義以外の世の中なんてあり得るのだろうか? ソ連は見事に破綻したじゃないか。中国だって、経済は資本主義を取り入れているのではないか? 誰だってそう思うだろう。ここで作者は、マルクスを読み直すことによって、新しい脱成長が可能になると説く。

共同体社会の定常性こそが、植民地支配に対しての抵抗力となり、さらには、資本の力を打ち破って、コミュニズムを打ち立てることさえも可能にすると、最晩年のマルクスは主張しているのである。 

  だが、そもそもマルクスの『資本論』をきちんと読んだことがないので、作者が読み解くマルクスのどこが新解釈なのか、これまでの受けとめられ方とどう変わっているのかについては、正直なところよくわからなかった。

 けれども、マルクスを軸に作者が提唱する〈コモン〉――「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す」――市民が相互扶助に基づき、民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する概念には興味をひかれた。
 そんな世の中になればいいな、反射的にそう思う。一方で、そんなこと可能なのか? という疑問も反射的に浮かぶ。 

 書評というのは自分語りではない。というのは基本中の基本だとわかっているけれど、「資本主義がすでにこれほど発展しているのに、先進国で暮らす大多数の人々が依然として『貧しい』のは、おかしくないだろうか」と問いかけるこの本の書評については、自分の生活の実感を書かずにはいられなかった。 

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(題)持続可能な努力目標

 

 「SDGs(持続可能な開発目標)は大衆のアヘンである」

  『人進世の「資本論」』の冒頭のこの言葉に、思わず深く肯いてしまった。といっても、作者のように環境問題について真剣に考えているからではない。単純に、環境問題に向き合う余裕がない人生を送ってきたからである。

 1970年代後半から1980年代初頭に生まれた私たち、就職氷河期世代は、親の世代より高い学歴を得るために受験戦争に放りこまれ、多くの者が大学や短大に進学した。しかしいざ就職する頃には、有名企業が次々に倒産し、正規雇用の職を得ることすらも難しい時代になった。30代に入って生活を安定させようとした矢先、リーマンショック東日本大震災に襲われた。同世代の中には無職から脱出できない者も多い現実を知っているので、非正規であっても、薄給であっても、仕事があるだけマシという感覚がしみついている。

 そこで地球温暖化が緊急の問題だと言われても、正直なところ、これまではピンとこなかった。地球の温度が3℃上昇することより、来月の家賃が払えるかという問題の方が重要だった。

 だが、この本を読み進めていくうちに気がついた。地球も、私たちも、資本主義に略奪されているという意味においては同じではないか、と。「人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる略奪の対象とみなす」と作者は指摘する。資本主義の成長には、地球の資源と廉価な労働力、つまり私たちの収奪が欠かせない。労働条件の悪化と環境破壊は別個の問題ではなく、同じ俎上に載せるべきなのだ。

 私たちは、努力して競争に勝って成長することがなにより大切だと刷りこまれてきた世代だ。社会主義のもとでは、努力する者も努力しない者も平等に扱われ、努力が報われないと教えられた。しかし、私たちの努力は報われたのだろうか? 個人レベルでの成功はあっても、世代レベルで見ると、生活はどんどん貧しくなっている。そのうえ、競争社会では弱者を助ける余裕はない。大半の者が敗者となり、相互扶助すらも困難な社会が持続可能であるとは思えない。

 では、資本主義から脱するためにはどうしたらいいのか? 努力信仰と成長神話を植えつけられた私たちが、〈コモン〉に移行するのは可能だろうか? まずは、私たちの努力の矛先を変えてみてはどうだろうか。資本主義を持続させるためではなく、自らの生活や労働を持続させるために努力する。それが第一歩になるのかもしれない。

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 〈コモン〉というのは魅力的な概念だが、ほかの方も書評で指摘していたように、人間の欲望の根深さ――みんなと一緒は嫌だ、他人よりちょっとでも得をしたい、損は絶対にしたくない……といった心理を考えると、実現できるのか難しい気がする。

 といっても、この本は単なる理想論や空想主義を語っているわけではなく、「フィアレス・シティ」の旗を掲げて、都市公共空間の緑化、電力や食の地産地消、公共交通機関の拡充……などを宣言し、グローバル企業を対峙する姿勢を鮮明にしたバルセロナの取り組みなど、具体的な例も挙げられている。

 ただし、バルセロナは気候も良く、観光などの資源も豊富なちょうどいい規模の都市だからできるのでは? 資源のない発展途上の町だったら、あるいは貧しく治安も悪い町だったら、こういう取り組みはできるのだろうか?  とも考えてしまう。

 けど考えたら、じゅうぶんに発展しつつも大都市過ぎず、歴史や資産がある街、というと、わが大阪もこういう取り組みを行う条件は備えていたはずだと思うけれど、逆の方向へ舵を切ってしまったのが悲しい。♪大阪の海は~悲しい色やね……

 

人間は差別心を手放すことができるのだろうか? 1964年に人種差別を描いた、有吉佐和子『非色』

 有吉佐和子『非色』を読みました。 

非色 (河出文庫)

非色 (河出文庫)

 

 1964年に発表されたこの小説は、黒人差別を扱っていることが問題視され、絶版になっていたらしい。しかし、Black lives matter運動の盛りあがりによって再び脚光を浴び、去年復刊されて話題を呼んだ。

 戦後まもない時代、戦争によって母と妹とともに住んでいた家を焼き出された主人公の笑子は、とにかく食べていくために進駐軍のキャバレーへ向かう。日本の会社はまだ機能していなかったので、職を得るためには進駐軍に近づくしか方法がなかったのだ。
 英語もできないのにキャバレーの入口に押入り、イエスやノーや言っていると、大男の黒人がクロークの職を与えてくれた。次に笑子は、キャバレーで少しでも給料のいい仕事を得るために、がむしゃらに英語の勉強をはじめる。

 すると、職を与えてくれた大男の黒人がまたも姿を見せ、英会話を教えてあげようと申し出る。男の正体は、キャバレーの支配人のひとり、進駐軍のトーマス・ジャクソン伍長であると判明する。トムと笑子はデートを重ねるようになり、ついには結婚する。しかし、娘のメアリイが三歳になったとき、トムに帰国命令が下る。
 除隊したトムと一緒に暮らすために、笑子はニューヨークへ向かうが、そこで待ち構えていたのは、まったく思いもよらない事態であった……

 とにかくこの小説は、徹底してリアリスティックに差別が描かれている。

 日本にいたときのトムは、何もかも失った当時の日本人とは比べものにならない豪勢な生活を享受している。トムと笑子は、デートでアーニー・パイル劇場(GHQに接収された東京宝塚劇場)に行き、ステーキにアイスクリームといったディナーを食べる。ふたりが結婚したのは1947年だが、新婚家庭には冷蔵庫や電気洗濯機が備わっている。


 ところが、ニューヨークの貧民街(ハーレム)に戻ったトムは、住む場所もなく友人の家を転々とした末に半地下の家を見つけ、ようやくありついた仕事は、病院の夜間で働く雑役夫まがいの看護夫であった。華やかなニューヨークを心に描いて、えんえんと船に乗ってやって来た笑子は、荒廃したハーレムの街並みと、日の当たらない新しい住処に愕然とする。メアリイは「マミイ、船の中と同じだね」と言う。

 作者のリアリスティックな視線は、人間が抱く差別心も容赦なく暴いている。

 笑子の母親は、笑子がトムと付きあうことで一家の金回りがよくなると、あからさまに笑子の機嫌をとるようになる。
 だがトムと結婚すると言い出すと、にわかに手のひらを返し、「あんな黒い人と結婚するだなんて!」と、世間さまに顔向けできないとか、御先祖様にどうやってお詫をするのかと激高する。内心では結婚を迷っていた笑子だったが、母親の言葉への反発心によって、結婚を決意する。

 この小説の興味深い点は、母親のような人物を悪人として断罪しているのではなく、その差別心や俗物ぶりを人間の愚かさとしてありのままに描いているところにある。結婚にあれほど反対した母親だが、結局ちゃっかりとふたりの新居に出入りするようになり、「アメリカさんの家は温かくていいねえ」とぬけぬけと言う。

 笑子が妊娠した際は、結婚すると話したときと同様に、「黒ン坊生れちゃ困るじゃないか」と当然のように堕胎を勧めるが、出産時には手作りの人形を持って顔を出し、笑子が働いているあいだはやむなく孫娘の面倒をみる。この小説は、こういう普通の――善良とも言える――人々の心に根付く差別心をさらけ出し、差別というものの厄介さを浮き彫りにしている。

 くわえて、差別されている者のあいだで、さらなる差別が生まれる事実も描いている。ニューヨークに渡った笑子は、プエルトルコ人が黒人よりも差別されていることを知る。ともにニューヨーク行きの船に乗った竹子は、笑子と同じく黒人兵と結婚した女であるが、

「うちの黒も言うてるで。ニグロはどんなに困ってもプエルトリコの真似はようせんて。黒の方が、あんた、まだしも教養があるし文化的や」

と言い放つ。笑子の友人となる竹子も基本的に善人として描かれているが、自分たちの所属している黒人社会より下と見做されているプエルトリコへの侮蔑の念を隠さない。笑子はかつて母親に感じたものと同じ反発心を竹子に抱くが、 

あんたはええ人やと思うていたけど、相当人が悪いなあ。プエルトリコをかばうのは、ええ気持ちやからなんやろ……?

 と返され、笑子は心の中を見透かされたように、居心地の悪い気分になる。

 白人社会の中で、ユダヤ人、イタリア人、アイルランド人が卑しめられ、卑しめられた人々は奴隷の子孫である黒人を蔑視し、そして黒人はプエルトリコ人を最下層とする。
 人間は誰でも「自分より下」を設定し、それより優れていると思わないと生きられない存在なのではないか……笑子はそう気づきはじめる。

 1964年の時点で、ここまで人種差別を掘り下げた有吉佐和子の力量に驚かされるが、この小説のもうひとつの大きな魅力は、笑子をはじめとする女たちのたくましさだ。


 女学校を出たばかりの笑子は、母と妹を養うために社会に出るが、それ以降ずっと、家族を養うために休むことなくひたすら働き続ける。ニューヨークに渡ってからは、稼ぎの少ないトムに代わって一家の大黒柱となり、次々に増えていく子どもたちを育てるために、せっせと貯金に励む。

 しかも働くだけではなく、自分でも呆れるくらいのお人好しで、船で出会った竹子や麗子といった友人たちの面倒もこまめにみる。笑子の正義感と優しさによって、差別という解決策が見出せない深刻な主題が、読者の心の中にすんなりと入りこむ。


 たくましい女性は笑子だけではなく、笑子の雇用主となる高級日本食レストラン「ナイトウ」の女主人や、ユダヤ人学者の妻として国連で働くレイドン夫人といったニューヨークで生き抜く日本人女性たちの姿も、出番は短いものの印象に残り、彼女たちの送ってきた人生を想像させられる。

 そしてなにより、笑子と並ぶたくましい女性というと、娘のメアリイである。外で忙しく働く笑子に代わって一家の主婦となり、バアバラ、ベティ、サムといった妹や弟たちを育てる。
 聡明なメアリイは学校でも抜群の成績をおさめて、小学校3年生にして、「アメリカ人という言葉は少し複雑のようです」と作文を書く。 

いつの日か私たちの家系にプエルトリコ人が混じることも考えられます。プエルトリコ人はそれを歓迎するでしょう。そうすれば誰もあの人たちをアメリカ人ではないなどとは言わなくなるでしょう。 

  ところが、トムの弟のシモンが居候として家にあがりこんでくると、家を統治するメアリイは働く気のないシモンを叱責し、「シモンのような男がいるからニグロは馬鹿にされるのよ」「アフリカの土人だわ」と罵るようになる。こんな狭い家の中ですらも上下関係が発生し、相手を蔑んで差別する心が生まれることに笑子は驚愕する。


 人間は差別心を手放すことができるのだろうか? 
 簡単に答えの出せる問題ではないけれど、この小説のラストの笑子の決意には希望が感じられ、厳しい現実のただなかでも前向きな気持ちになれる一冊だと思う。

三十年経ったいま、不思議な軽やかさを持ったフェミニズム小説として読めた『後宮小説』(酒見賢一)

 先月の800字書評の課題本は、酒見賢一後宮小説』でした。 

後宮小説(新潮文庫)

後宮小説(新潮文庫)

 

  『後宮小説』は、1989年に日本ファンタジーノベル大賞第一回受賞作品に選ばれて大きな話題となり、のちに『雲のように風のように』という題でアニメ化もされている。小説は読んでいなくても、アニメは見たことあるという方も多いのではないでしょうか。

 このときの日本ファンタジーノベル大賞の選考委員は、荒俣宏安野光雅井上ひさし高橋源一郎矢川澄子という豪華な顔ぶれで(ほんとうは手塚治虫も入っていたが、急逝したため、残りの5人で審査したらしい)、井上ひさしによる「シンデレラと三国志金瓶梅ラストエンペラー」という評のとおり、中国をモデルにしたと思われる架空の王国でくり広げられる壮大な艶笑法螺話だ。恩田陸がこの小説を読んで作家になることを決めたというのも、有名な逸話らしい。

 念のため、後宮とは何かというと、「天子の宮中の奥深い部分の意味で、江戸の大奥、イスラム世界のハレムに類似する」(日本大百科全書(ニッポニカ)より)で、つまりは皇帝の世継ぎを生むための女たち(夫人)が待機しているところ、である(たぶん)。
 言うまでもなく、後宮にしろ大奥にしろハレムにしろ、フェミニズムの視点を持つ現代の読者に受け入れてもらうためには、なんらかの仕掛けを必要とする。(よしながふみの『大奥』がいい例ですが)

 では、このバブル真っ盛りの時代に書かれた『後宮小説』は、どのように描いているのかというと……という観点から、以下のように書評を書きました。

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(題)子宮からの解放

 『後宮小説』は、田舎育ちの少女銀河が素乾城の後宮に入るところからはじまる。銀河は後宮がどういうところかもほとんど理解していないにもかかわらず、後宮へ続くトンネルを通るとき――狭くて暗く、膣口を連想させる――自分でも理由がわからないほどに取り乱す。そして同じく宮女候補である高慢なセシャーミン、やたらと無口な江葉とともに、角先生による「女大学」の講義を受ける。

 

 この講義で印象深いのは、真理とは何か? という問いだ。角先生は、すべての真理は子宮から生まれてくると論じる。子宮を模した後宮に「女大学」、さらに真理は子宮に宿るといった論調は、現代のフェミニズムの視点で考えると違和感を覚える。

 

 銀河は皇帝双槐樹の正妃に選ばれるが、すぐさま素乾城が危機に陥る。角先生の弟子である菊凶の陰謀のもと、幻影達率いる幻軍が襲ってきたのだ。銀河は後宮軍隊を設立し、つねに冷静沈着な江葉を将軍に命じる。江葉はめざましい軍才を発揮し、意外なことにセシャーミンまでもが軍隊に志願する。女たちが生きのびるために連帯して、敵と戦う。ここで『後宮小説』は、突如としてシスターフッド小説に変貌する。

 「呆れるほど楽しそう」に戦う銀河や江葉と比べて、男たちはいとも簡単に死んでいく。菊凶はあっさり斬られ、角先生は馬車の中で息を引き取り、双槐樹すらも銀河に子を孕ませるやいなや毒杯で命を落とす。まるで昆虫のようだ。冒頭から房事に焦点をあてていたにもかかわらず、肝心の銀河と双槐樹の交わりの場面はいともあっけなく終わる。それよりも銀河が自ら江葉に接吻をするときの方が、甘やかな官能性が感じられる。

 素乾朝と素乾後宮は滅びる。『後宮小説』とは、後宮が滅びる物語であったのだ。つまりこの小説は、女たちが子宮を模した後宮から解放される物語だとも言える。前半で生じた違和感がここで解消される。

 後日談として記されている、銀河が初期の女権論者であるリヒトシトリ侯爵夫人であるという説からも、フェミニズムを意識していることがわかる。後宮を滅ぼす糸を引いた菊凶が、真理は子宮に宿るという後宮哲学を唱えた角先生の愛弟子であることも象徴的だ。後宮に入るときにあれだけ脅えた銀河が、後宮を出てから各地を飛び回って伝説を作る。たしかに真理は子宮に宿るのかもしれないが、子宮から解放されるときに真理が目覚めるのではないだろうか。

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 こう書いたあとで気づいたけれど、「子宮からの解放」というテーマ、というか結論になってしまったのは、松浦理英子『優しい去勢のために』で書かれていた「性器からの解放」が念頭にあったのかもしれない。 

優しい去勢のために (ちくま文庫)

優しい去勢のために (ちくま文庫)

 

  しかし上のような評を読むと、『後宮小説』は、最近多いフェミニズム小説の先駆けだったのかという印象を抱くかもしれないが、『後宮小説』の大きな魅力は、どこまで嘘か誠かわからない法螺話を大仰に語る、人を喰った語り口のおもしろさだと思う。この物語の冒頭を引用すると―― 

 

腹上死であった、と記載されている。

 腹英三十四年、現代の暦で見れば一六〇七年のことである。

史書というものは当時の人間が書くものではなく、後代の人間が書くものである。更に言えば次の王朝の士官が書くのが通例である。よって、この歴史書の筆者は王の腹上死を実際に目撃したわけではないし、直接に調査し得たわけでもない。

  と、語り手が歴史書を参照しながら語るスタイルになっていて、谷崎潤一郎春琴抄』を引きあいに出した書評を書いた人もいた。でっちあげの歴史書という点では、たしかに似ている。

 しかし奇妙な愛憎劇を描いた『春琴抄』とはちがい、擬史という技法をふんだんに活かして荒唐無稽な架空の国を作り上げて、最後に爽快にぶっ壊し、後日談やあとがきすらも読者を翻弄させる文体を徹底した『後宮小説』には、高橋源一郎が「重力の軛を逃れて浮遊している」「軽さ」と評しているとおり、不思議な軽やかさがある。
 そこが三十年経ったいまでも楽しく読める秘訣でもあり、たしかに新人のデビュー作としては破格のものであっただろうと、今回はじめて読んでつくづく感じた。

人生に勝者や敗者なんて存在するのか? デイヴィッド・ベニオフ『25時』~『99999』(田口俊樹訳)

 デイヴィッド・ベニオフの短編集『99999』(ナインズ)を読みました。 

  デイヴィッド・ベニオフは、第二次世界大戦時のロシアで生きのびようとする青年たちを描いた『卵をめぐる祖父の戦争』で高く評価され、さらに小説のみならず、『ゲーム・オブ・スローンズ』の脚本家としても華々しい成功をおさめ、まさに現代を代表する才人と言っても過言ではない。 

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)
 

  この短編集『99999』は、生まれ故郷ニューヨークを舞台としたデビュー作『25時』と『卵をめぐる祖父の戦争』のあいだに発表された短編集であり、この二作の橋渡しとなる一冊だ。 

  デイヴィッド・ベニオフの小説では、「現実をうまく生き抜いている者」と「不器用で失敗ばかりしている者」が対照的に描かれている。何もかも手に入れた前者が「勝ち組」で、何ひとつ手に入れられない後者が「負け組」なのだろうが、勝ち負けは絶対的なものではなく、その時々で入れかわる。そこがベニオフの小説が持つ独特の哀感である。

 『25時』の主人公のモンティは、だれからも愛されるハンサムな白人男性であり、軽い気持ちで手を染めた麻薬売買で莫大な金を手に入れ、可愛い恋人と優雅に暮らしている。一方、その友人ジェイコブは冴えない高校教師で、金にも恋愛にも恵まれず、教え子に対してつい妄想を抱いてしまう自分を心の中で罰している。もうひとりの友人スラッタリ―は金融業で成功をおさめているが、かなわぬ思いを胸に秘めている。 

25時 (新潮文庫)
 

  そんなモンティがついに警察に捕まり、刑務所に送られる前日を追っているのが、この『25時』である。「だれからも愛されるハンサムな白人男性」という手札は、刑務所であっても有効だ。つまり、刑務所でモンティを待ち受けているものは……といっても、モンティがどうやってこの危機から脱出するのかを描いたサスペンス小説ではない。(モンティを陥れた人物は明かされるが)

 収監の日を前にしたモンティとスラッタリー、そしてジェイコブの心情に焦点が置かれている。どうしてこんなことになってしまったのか受けいれられない――北上次郎さんの解説では「青春の悔悟」と表現されている――モンティ、これまで華やかな中心人物だったモンティの運命が一変して、どうふるまったらいいのか戸惑うジェイコブとスラッタリー。三人が最後に示す「友情の証」とは……?

 ちなみに、この小説はおもに主人公モンティの視点から描かれているが、ジェイコブを中心にしたパートの方が読んでいておもしろく、ジェイコブの教え子の女子高生や教師仲間の姿がいきいきと描写されている。
 作者も「イケてる」人物より、悶々とした「イケてない」人物に語らせる方に手ごたえを感じたのはないだろうか。『卵をめぐる祖父の戦争』では、女の子への妄想で頭がいっぱいのレフを語り手とすることで、戦争の悲惨さを容赦なく暴きつつも、人間という存在を愛すべきものとして捉えることに成功している。

 そして、この短編集『99999』の表題作「99999」は、インディーズのロックシーンを舞台とし、シビアな音楽業界を生き抜いてきた敏腕スカウトマンのタバシュニクと、ニューヨーク郊外で両親や仲間と暮らし、愛犬の名前をタトゥーにするパンクロッカー〝サッドジョー〟が対照的に描かれている。どちらが「勝ち組」で、どちらが「負け組」なのかは言うまでもない。 

少年院に入れられた仲間と一緒になるために、シェルのガソリンスタンドのSの字を撃つような人間がもしいるとしたら、サッドジョーがそれだ、と。

  けれども「99999」でも、『25時』での三人のぶつかり合いと同様に、タバシュニクとサッドジョーが対峙したあと、タバシュニクがほんとうに勝ったのだろうか? という逡巡と、ほろ苦い「悔悟」が胸を襲う。人生において、勝者なんてほんとうに存在するのだろうか? このやるせなさが短編集『99999』を貫くトーンだ。

 どこまでが現実で、どこまでが語り手の妄想なのか判別しがたい「獣化妄想」も、対照が効果的に使われている。
 ライオンをもやっつける(比喩ではない)屈強なハンターである父のもとで暮らす主人公「ぼく」は、ライオンになる夢想を頭のなかで思いめぐらせながら、フリック美術館に通う日々を送っている。そんなある日、いつものようにフリック美術館で聖フランシスの彫像に見入っている主人公の前に、「すべての女の恋人(ラヴァ―)」と名乗る男プチコがあらわれ、ふたりは美術館をうろつくライオンを目撃する……。
 永遠に清らかな聖フランシスに自らを重ね合わせる内向的な主人公が抱く獣性への憧憬が、ライオン、そしてプチコという形をとったと考えられる。

〝逡巡と悔悟〟というテーマがもっとも強くあらわれているのが、「幸せの裸足の少女」だ。
 フットボール選手であった16歳の主人公は、気まぐれに友人の父親の車を勝手に乗り回して、ニュージャージーからペンシルヴェニアに向かう。えんえんと続く緑の畑のなか、裸足で自転車に乗る少女に出会う。彼女を助手席に乗せ、たわいもない話をして、一緒にチョコレートを食べる。たったそれだけの話。 

私にとっては人生で初めてのいいキスだった。彼女の唇はチョコレートの味がし、キスしおえると、彼女はショートパンツの尻のポケットからたたんだキャンディ・バーの包み紙を取り出して、私に手渡した。開くと、中に彼女の名前と電話番号が書いてあった。

  けれども、その後主人公は彼女に電話をすることができなかった。あの幸せだった午後の思い出を壊してしまうことが怖かったのだ。
 14年後、フットボールから心が離れてしまった主人公は、もうひとつ大事にしていたものを取り戻そうと、あの時と同じようにクラッシュの「ロンドン・コーリング」を聞きながら、彼女を探しに車を走らせるが……


 「悪魔がオレホヴォにやってくる」は、チェチェン戦争に駆り出されたロシア兵を主人公とし、『卵をめぐる祖父の戦争』につながる作品である。
 新米兵士である主人公レクシは、ふたりの古参兵とともにチェチェンへの雪深い山道を進んでいる。軍隊に入ることは昔からの憧れだった。まわりの女の子たちもみんな、銃を持って制服を着た兵士たちに夢中になっていた。
 ところが、こうして見渡すかぎり雪だらけの道を歩いていると、こんなことに意味があるのか? と疑問がわいてくる。古参兵ニコライはこんなことを言う。 

おれたちがやってることにはなんの意味もないんだよ。これはゲームさ。ほんとうのこと知りたいか? モスクワにしてみりゃ、おれたちが死んだほうがいいのさ。

  古参兵たちは〝モスクワ〟という言葉にありったけの悪意と呪詛をこめて発音する。

 そして三人は小屋に隠れていたひとりの老婆を見つける。古参兵たちはレクシにその老婆を撃つように命じる――

 とくに印象深かった短編3つを紹介したが、そのほかにも、世界の終わりをアイロニーたっぷりに描いた「分・解」、〝ノー〟と拒絶され続けてきた女優志望の主人公が最後に手にした〝イエス〟とは? が明かされる「ノーの庭」、主人公が別れた恋人の父親の遺灰とともに赤いレーシング・カーを走らせる「ネヴァーシンク貯水池」など、突飛な状況でありながら、登場人物の心情に思わず寄り添ってしまう物語が綴られている。

 主人公が飛行機のなかで大便を垂れ流す場面からはじまる「幸運の排泄物」も、突飛な状況という点においては屈指と言えるだろう。奇跡のような美しい肉体を持つダンサーであるヘクターと絵描きの「ぼく」の恋愛が、どうして大便、排泄物に至るのか? 

 「ぼく」が本番を前にしたヘクターに「幸運を祈る」と言うと、ヘクターはダンサーにはそんな言葉は不要だと告げ、かわりに〝排泄物〟(Merde)と言うように頼む。〝排泄物〟は幸運と表裏一体のものなのだろうか?〝排泄物〟は美しい恋愛と過酷な現実を結びつけるものでもあり、象徴するものでもある。ベニオフの得意とする対照が究極の形であらわれている。
……それにしても、冒頭の場面の飛行機には乗り合わせたくないものだと、思わずにはいられなかったが。

 さて、『ゲーム・オブ・スローンズ』の次は『三体』のドラマ化に取り掛かっているらしい(Wikipedia情報)デイヴィッド・ベニオフですが、小説の次作はいつになるのか? これだけ多才な人物なので、まだまだ先になるかもしれないけれど、首を長くして待ち続けようと思います。

「人種」というありもしないもので選別される命 梁英聖『レイシズムとは何か』

 さて、800字書評講座の今月の課題書は、梁英聖『レイシズムとは何か』でした。

レイシズムとは何か (ちくま新書)

レイシズムとは何か (ちくま新書)

 

 『レイシズムとは何か』では、まず冒頭の章で「レイシズム」の歴史を振り返り、近代以前からあった異民族への嫌悪や忌避と、近代以降の「人種」差別がどう異なるのかを考察している。

 この本では、16世紀の異端審問期のスペインにおいて、ユダヤ民族を差別するために成立した純血法が、近代以降の「人種」差別の起点になったと考えている。17世紀後半には、北米で奴隷制レイシズムが結びついて黒人も差別される対象となり、18世紀には、「分類学の父」として有名なリンネがヒトを4つに分類したことで、「人種」というものがはじめて科学に持ちこまれた。

 19世紀以降、帝国主義と資本主義の発展にともなって、「人種」差別が世界中に広がり、ナチスホロコーストという悲劇を生んだにもかかわらず、なおも「人種」差別は根絶することはなく、いまもなおBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動が続いている。

 では、いったい「人種」とは何なのだろうか? 「レイシズム」の定義とは? そして、「日本に人種差別はない」のだろうか?

 ――について、まず私が提出した800字書評を転載します。

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題:「人種差別を許してはいけないとあらためて思いました」?

                             
レイシズムとは何か』の書評を書くのは非常に難しい。


 この本では、レイシズムとは「ありもしない人種をつくりだし」、つまり「人種化」することで、「生きるべき者/死ぬべき者」を分けるものだと定義している。その選別によって、レイシズムは単なる差別や偏見にとどまらず、ジェノサイド(大量殺戮)となることを明確に示している。

 なかでもひときわ説得力を発揮しているのが、欧米諸国と異なり、日本には反レイシズムという歯止めがないことを指摘しているくだりだ。日本の反差別は、「何が差別で何がそうでないのかという真理の基準」を定めることなく、マイノリティの告発や証言に依存してきた。

 その結果、「差別を撤廃しないといけない」という前提すら共有されず、被害者に寄り添うのと同時に加害者と対話することも重視し、本来なら「言論の自由」を守るためにレイシズムと闘わなければならないのに、「言論の自由」と差別禁止が対立する特殊な構造に陥ってしまった。

 では、レイシズムの現状を見事に解析したこの本について、なぜ書評が書きづらいのか? 書評の対象として扱われることを拒否している本だからである。

 体よくまとめて、「人種差別を許してはいけないとあらためて思いました」などの感想を述べて終わるなんてことは断じて許されない。それでは、マイノリティの告発や証言に依存してきたこれまでと何ひとつ変わらない。命を選別される側にとっては、「寄り添い」も「対話」もなんの意味もないということを、私たちひとりひとりに突きつけてくる本だからである。

 「もうこれ以上、マイノリティの被害と歴史を消費してほしくない」と、作者はあとがきで綴っている。マイノリティの体験談に心を痛め、自分は差別的な人間ではないと自己満足する「消費」を止めて、自らが主体となって具体的な行動へ踏み出さなければならない。

 差別を煽動する者に反対の声をあげ、ヘイト本を売る出版社や書店をボイコットし、いまだ国籍や性別で社員を選別する企業の商品は購入せず、さらに個人の心がけのみならず、差別を禁止する明確な法整備を求める……これらはマイノリティに「寄り添う」ための行動ではない。フレドリック・ダグラスが言う「自由」を、自分の手に取り戻すための行動なのだ。命が選別される世の中では、だれひとりとして、けっして自由になれないのだから。

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 と、書評で書いたように、この本はレイシズムとは何かを解説しているだけではなく、どうして日本では差別やヘイトスピーチがはびこっているのかを深く分析している。さらに、「被害者の声を聞け」という日本型反差別が被害者を沈黙へ追いこんでしまう構造や、日本の入管法が明確なレイシズム政策であることを指摘している。

 ニュースや本で「被害者の声」を聞いて同情し、差別なんて許してはいけないとひとりで頷きながら、結局何もしない私のような人間も加害者であると痛烈に突きつけてくる本である。

  上の書評では、「差別を煽動する者に反対の声をあげ」ないといけない、なんて勇ましく書いているが、実のところ、差別的な発言を行う職場の上の人に、自分がクビになるかもしれないという覚悟のもとで、「それは差別だ!」と言えるのかというと、正直難しい。

 ならば、いったいどうしたらいいのか? 自分にできることはあるのか? とあらためて問うてみると、言葉を失って沈黙してしまうが、でもやはり、どんなささやかなことでも無意味ではないと信じて行動するしかないのだろう。

 書評の最後にフレドリック(フレデリックという方が一般的ですが、この本ではフレドリックでした)・ダグラスが唐突に出てきているが、フレドリック・ダグラスは南北戦争より以前から奴隷廃止運動を展開した「公民権運動の父」と呼ばれる人物である。
レイシズムとは何か』では、この言葉を引用している。 

自由がいいとは口では言いながら社会的な運動を軽視する者は、土地を耕さずに収穫をほしがる者である。雷鳴や稲妻を嫌いながら雨が欲しいと言うのである。(略)権力は求められずに譲歩などしない。そんなことは過去にもなかったし今後もあり得ない。 

  まさにそのとおり、この気持ちを忘れてはならないとつくづく思った……いや、「思った」では、やはりこれまでと同じやないか~~~と考えさせられる本なので、興味のある方はぜひ読んでみて下さい。

 

国際女性デーに 女性の連帯から何かがはじまる――『99%のためのフェミニズム宣言』(ナンシー・フレイザーほか(著), 菊地夏野(解説), 惠愛由 (翻訳))

 前回に続き、800字書評(正確には、批評講座だけど)ですが、今回のお題は本ではなく、森喜朗氏の例の発言について評論するというものでした。
 正直なところ、例の発言とそれをめぐる報道については、「またこの人か……」と思った程度で、それほど注目してなかったのですが、あらためて考えながら、以下のように書きました。 

※※マーガレット・アトウッド誓願』のネタバレがあるので、ご注意を※※

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題)1%と99%が手を結ぶとき                              


 今回の発言に関する報道を聞いてまず感じたのは、そもそもそういう会議に出席できるのはどういう女性なのだろう? という疑問だった。

 先日放映されたNHKスペシャル「コロナ危機 女性にいま何が」では、コロナによって職場を奪われた女性たちが取材されていた。ある女性は子どもを抱えて困り果て、またある女性は公的扶助を申請しても却下され、なかには風俗の仕事をはじめても思うように稼げない女性もいた。この現状に目を向けると、オリンピック組織委員会とやらが悪い冗談のようにも思えてくる。

 もちろん、発言の機会を持つ女性が増えることによって、女性全体の地位向上が進むというのは事実だろう。だが一方で、男性社会に入りこむことで、男性社会に都合のいい価値観を身につける女性も増えているのではないかと危惧してしまう。

 今回の発言は男性が発したものだが、去年「女性はいくらでも嘘をつける」と語ったのは女性だった。結局、社会の枠組みが変わらないかぎり、男性が通った道を女性も通ってしまうだけなのではないか――女性のあいだで分断が広がり、彼女たちの内面に能力主義や自己責任論が刻みつけられる――とも思えてくる。

 『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院 2020年)では、男性社会の「内側に入りこむ(リーン・イン)」ことができる1%の女性のためではなく、残りの99%の女性を対象としたフェミニズムを志向している。自分たちが求めるのは、「職場での搾取と社会全体における抑圧」から得られる利益を、支配者層の男女に平等に分担する「支配の機会均等」ではなく、支配を終わらせることだと定義している。

 かつて『侍女の物語』(早川書房 2001年)で、女性が徹底的に抑圧される架空の共和国を描いたマーガレット・アトウッドは、2019年に続編『誓願』(早川書房 2020年)を発表した。そこでは、共和国で実権を握るリディア小母が、共和国内で抑圧を受けながら育った少女と、共和国を脱出した女性が生み落とした少女と手を結ぶ。リディア小母が共和国の価値観を身につけ、女性でありながら支配者となったのは、そうしなければ生きのびることができなかったからだ。1%としての痛みを存分に味わったリディア小母が、共和国の支配に終焉をもたらすために少女たちと結託し、新しい世界を生きる若い女性たちに語りかける。

 現実の世界でそのようなことが起こりうるのだろうか? 女性たちがつながることは可能なのだろうか? 

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  さて、上でも紹介している『99%のためのフェミニズム宣言』は、男性社会の「内側に入りこむ(リーン・イン)」フェミニズム――政府が推進する〝女性活躍社会〟のようなフェミニズム――を「資本主義の侍女」と批判する、たいへん刺激的な本だった。 

 たとえば〝セクハラ〟にしても、異性への単なる性的嫌がらせではなく、権力関係に基づいたものであり、多くの場合、仕事の実権を握る者が、自分に逆らえば生計を立てられなくなる相手に対して行うものであることを考えると、ジェンダーと権力、資本主義が深く結びついていることがわかる。 

貧しい女性たちであり、労働者階級の女性たちであり、人種化された女性たちであり、移民の女性たちであり、クイアやトランスジェンダーの女性たちであり、障害を持つ女性たちであり、資本に搾取されているにも関わらず、「中産階級」(ミドルクラス)の自負を抱くよう促されてきた女性たち

  この本では、こういった女性たちの要求と権利を擁護すると書かれている。最後の「資本に搾取されているにも関わらず、「中産階級」(ミドルクラス)の自負を抱くよう促されてきた女性たち」というのが、多くの高学歴女性たち、高学歴でありながら、同じような学歴の男性とはまったく異なる給料体系や立場(非正規など)で働いている女性たちに刺さる言葉ではないだろうか。

  いや、この本で再三書かれているように、いまや搾取する側も男性ばかりではない。資本主義のヒエラルキーの高い地位に立つ女性も増えてきている。「能力があれば」女性でも高い地位につくことができる。
 けれど、能力で人間を分断するのは正しいことだろうか? 森氏の発言を題材にした講座では、そもそもオリンピックそのものが「競争と優勝劣敗思想をあおる」ものだと批判した方もいた。

 とはいえもちろん、どれだけ成果をあげても、いくら頑張ろうとも、そうでない場合とまったく差がつかず、なんの見返りもない社会が正しいとも思えない。
 資本主義や能力主義が99%の男女を押しつぶしつつあるのは事実でも、それに代わるものを具体的に構想できるわけではない(少なくとも私は)。独自で自給自足のコミュニティを作るとかいった代替案を実践している人もいるのかもしれないが、そういうコミュニティ思想にも一歩引いてしまう自分がいる。

 上の評で「社会の枠組みが変わらないかぎり、男性が通った道を女性も通ってしまうだけなのではないか」と書いたけれど、では、どうやって社会の枠組みを変えるのか? と考えると、やはりクォータ制のようなものを取り入れて、社会の中枢部での女性の割合を増やすしかないのか……しかし、それはつまり「支配の機会均等」なのではないか? とも思え、頭の中でぐるぐると疑問が渦巻く。

 と、ジェンダーと資本主義の問題については、まったく答えは見つからない。けれども、いまのような社会では、1%の女性も99%の女性もどちらも追いつめられ、多大な痛みを被ってしまうのはまちがいない。

 自己責任論や内面化された能力主義に傷ついている人や、いくら働いても生活が楽にならない現状に疑問を抱いている人、あるいは、〝飲み会を一切断らずに〟高い地位についた女性なども、『99%のためのフェミニズム宣言』のような本を読んで問題を可視化するだけでも、社会全体が変わるきっかけになるのかもしれない。

 さて、今日3月8日は「国際女性デー」です。こういう〇〇デーとは、行政主導の単なるかけ声のように思ってしまうけれど、この本の解説によると、起源は20世紀初めの社会主義運動に根ざしているらしい。 

1908年のこの日、1万5000人の衣料品産業の女性労働者たちが賃上げや労働時間短縮、参政権を求めてマンハッタンの中心を行進した。その多数は移民女性だった。その翌年、織物労働者の移民女性たちがストライキを行い、警察や経営者の弾圧にあった。

  そして1910年に「国際女性労働者デー」の組織化が行われた。
 110年前、いやもっと昔から、女性の連帯は続いてきたのだろう。明確な解決策があるのかどうかはわからなくても、痛みに気づいた女性たちが連帯するだけでも、何かが変わり、何かがはじまるのかもしれない。