快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

Noteに移行しました

さて、タイトルのとおり、これからは note に読書記録をつけていこうと思いますので、これまでこのブログを読んでくれていたみなさま(感謝)、たまたま検索で流れついたみなさま、これからはnoteの方を見ていただければ有難いです。

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いまのところ、これまでここに書いたものを加筆修正した内容が多いのですが、いくつか新しいエントリもアップしています。

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あらためて、これまで読んでくれていたみなさま、読者登録をしていただいたみなさま、ありがとうございました。

noteを読むのがめんどくさい場合は、Twitterでも見ていただければ……
でもTwitterはいつまであるのかわからないのでしょうか。

Reiko Nobuto (@RNobuto) / Twitter

なんにせよ、プラットフォームが変わろうとも、なんらかの形でつながることはできると信じて、引き続きよろしくお願いいたします。

愛国少女から小説家田辺聖子が生まれるまでの記録――『田辺聖子 十八歳の日の記録』『私の大阪八景』

8月の書評講座の課題書は、『田辺聖子 十八歳の日の記録』でした。

言うまでもなく、日記とは通常誰にも見せないという前提で書くものであり、この『十八歳の日の記録』も作者の死後にはじめて発表された。
それなのに、自分だけのために書いたとは思えないほどの文章力と、文章力の礎となっている観察眼に感服した。

私の書評は以下のとおりです。

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(題)小説家田辺聖子が生まれるまでの記録

 

日記とは常に真実を語るものだろうか?
田辺聖子 十八歳の日の記録』と『私の大阪八景』を読んで、そんなことを考えさせられた。


田辺聖子 十八歳の日の記録』からは、私的な日記に書かれたものとは思えないほどの文章力、自分自身や家族、友人への観察眼、作家になりたいというひたむきな向上心が読みとれて、女学生の頃から田辺聖子田辺聖子だったのだと感じ入る。

しかしその一方で、愛国心を高らかに謳い、ヒトラーの死を嘆く軍国少女ぶりには、のちに洒脱な恋愛小説や軽妙なエッセイで多くの女性にエールを送った〝お聖さん〟の印象とは異なり、かすかな戸惑いも覚える。


解説にも書かれているように、この日記の山場は大阪大空襲と終戦の日である。
大阪大空襲の日、まだ火や煙のたちこめる湊町や梅田新道を通って、福島の家にたどり着くまでの描写からは戦争の恐ろしさが生々しく伝わってくる。しかも家は焼け落ち、大事な本も燃えてしまう。

この経緯は、トキコという少女を主人公に据えた小説『私の大阪八景』ともほぼ共通している。
ところが、空襲のあとの心境は日記と小説とは異なっている。

日記ではなおも「私はひるまない。私は泣かない。私は屈しない」と書いている。しかし小説では、トキコは「うそみたいに、がらんどう」な空虚な気分に襲われる。それでも日記には、「いよいよ日本は世界を相手にたたかうことになった」とスラスラと勇ましい文句を並べるのである。


終戦の日には、日記と小説の乖離が著しくなる。日記では敗戦の悔しさを激烈な文語調で綴っている。しかし小説では、トキコの家族はラジオを囲んで、「あ、怪体な声……」「ほんまに陛下かしら。ニセモノ?」「え? やっぱり負け?」と呑気とも言える会話を交わす。

ところがトキコはがらんどうな気持ちのまま、日記に向かうと、不思議なことに文語調でいくらでも書けてしまうのだった。そして日記に書いていることを自分でもまったく信じていないのだった。


日本が軍国主義を脱したから真実を書けるようになったというのも事実だろう。
だがそれだけではなく、「私達が日常友達と交す会話の何と平凡な、しかもつまらなく見えることよ」と日記に書いていた頭でっかちの少女が、日常の平凡な会話に真実があり、それこそがほんとうに書くべきことだと気づいたそのとき、ほんとうの気持ちを綴れるようになったそのとき、小説家田辺聖子が生まれたのではないだろうか。

(ここまで)-----------------------------------------------------------------------


上でも書いたように、この日記で強く印象に残るのは、陛下のためなら喜んで命をなげうつ覚悟があると何度も宣言する軍国少女の姿である。

といっても、田辺聖子がとくに右翼的思想の持主だったわけではなく、これが戦時下におけるごくふつうの少年少女だった。(先生曰く、『少年H』の主人公みたいに現代からタイムスリップしたような価値観を持っている少年なんてありえないとのこと)

日記のなかの田辺聖子は、大阪大空襲で家もなにもかも失ってしまってもへこたれず、終戦の日まで熱い檄文を綴っているが、終戦からおよそ30年たった1974年に発表した『私の大阪八景』とあわせて読んでみると、また別の側面が見えてくる。

『私の大阪八景』は、まだ戦局がそこまで悪化していなかった1915年頃からはじまり、小学六年生のトキコが中学校から女学校に進み、終戦と父の死を経て金物問屋で働きはじめるまでを描いた自伝的な連作短編小説である。

なかでも、終戦前後を舞台とした章を読むと、日記とまったく同じように、空襲で焼け野原になった大阪が鮮明に目に浮かぶ。

やっと梅田新道まで来た。二里歩いたようだ。

まだこの辺は燃えている最中だった。

角の第百生命は全滅で、きれいに中が抜けていた。閉じたガラス窓から黒煙がふき出している。喉が痛く目がしみた。わずかな荷物を持ち出して呆然と立っている被災者。ひっきりなしに通る消防自動車。

しかし、書評でも指摘したように、ひとりの人物が生きたひとつの時代を描いているというのに、『十八歳の日の記録』と『私の大阪八景』から受ける印象はおおいに異なる。

日記では、愛国と作家になるという夢に情熱を傾けるひたすら生真面目な少女が描かれているが、小説では、そんな生真面目な少女を一段高いところから俯瞰してユーモラスに描いている。二冊をくらべて読むと、事実をフィクションに落としこむとはこういうことかと腑に落ちる。

また、日記でも少女であった田辺聖子が周囲の人々に向ける観察眼の鋭さが光っているが、小説では鋭さにくわえて、戦時下そして敗戦後の苦しい状況をなんとしても生き抜こうとする人々への愛情が感じられる。こういった台詞から、庶民のたくましさがうかがえる。

「これからアメリカ人相手に商売するねん。何も卑屈になることないやろ。何しろ負けたんやから」

大東亜共栄圏なんてウソやんけ」

そして小説だけに出てくる男子学生のコントクさんのくだりでは――飄々としていて、愛国心に燃えるトキコを冷ます清涼剤のような――エッセイでおなじみのカモカのおっちゃんを思い出した。
将来は漫才作者になるという夢を持ち、「いかに漫才が人生に大切であるか」と語るコントクさんのようなキャラクターが、田辺聖子作品に欠かせない存在だとあらためて思った。

田辺聖子作品というと、『私の大阪八景』につけられた小松左京による解説が、上質の田辺聖子論であり、さらに都市文学論や小説論としても納得させられる内容だった。

私はお聖さんの作品の中に、関西人らしい、そして都市伝統の長い大阪女性らしい、あたたかい「距離のとり方」を感じます。――人間が、女性が、もっとも愛らしく、愛くるしく、明るく、生き生きと見える「距離」で描こう、という作家としての「決意」のようなものが感じられるのです。

その決意の背後には、やはり作家として常人とはちがう深い屈折や、鋭い人間観察や人生に対する洞察がひそんでいる、と思います。

と引用しましたが、こちらのサイトで全文が読めました。
田辺聖子小松左京が好きなかたのみならず、小説が好きなかたには興味深い論だと思います。

kadobun.jp

 

第32回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作 木村紅美『あなたに安全な人』ー不安の正体はなんだろう?

ちょうど数か月前の書評講座の課題書が、木村紅美『あなたに安全な人』だった。

コロナが全国に広まりつつあった2020年を舞台とし、まだコロナ患者がほとんど発生していない地方の町で、正体のわからない病気に対するぼんやりとした不安、隣の誰かがウイルスを運んでくるかもしれないという疑心暗鬼のなかで、東京での生活を終えて地元に戻ってきた妙と忍というふたりの人物を描いている。

ふたりはなぜ追われるように地元を去ったのか? そしてなぜ戻ってきたのか?

先日、この小説が今年のBunkamuraドゥマゴ文学賞に選ばれた。
この賞は毎年「ひとりの選考委員」によって選ばれることで知られていて、今年の選考委員である日本文学者ロバート キャンベル氏は、「『あなたに安全な人』の著者は、人々の心に巣喰う漠とした不安に向かおうとしている」と評価している。

www.bunkamura.co.jp

私が書評講座で書いた書評は以下のとおりです。


(ここから)-----------------------------------------------------------------------------------

(題)安心と安全の狭間で

 

『あなたに安全な人』というタイトルを見て、「安心できる人」ならわかるが、「安全な人」とはなにか? そもそも、安全と安心のちがいは? と考えた。調べたところ、安全とは客観的な指標であり、安心とは主観的な判断だと知った。(注)

主人公の妙には、かつて地元で国語教師をしていたとき、教え子がいじめを苦にして自殺したという過去がある。家族に問題があった、いじめが原因ではないと自分に言い聞かせたが、結局教師を辞めた。九年間東京で働いたのちに地元へ戻ってきたが、誰とも関わりを持たず、人目を避けるように暮らしている。
そんなある日、風呂の排水溝がつまり、妙は便利屋の男を呼んで掃除してもらう。


便利屋の忍も、妙と似た過去を背負っている。肉体労働の仕事を転々としていた忍は、沖縄で米軍基地建設反対デモの警備にあたっていたとき、デモに参加していた女と揉みあいになり、思わず突き飛ばしてしまった。女は倒れて頭を打ち、そのまま運ばれていった。


ふたりを最初に結びつけた人物が、〈本間さん〉である。といっても、当人はすでにこの世にいない。コロナが蔓延する東京から引っ越してきた〈本間さん〉は、マンションへの入居を許してもらえず、仮住まいのクリーニング店で自殺した。

他人を犠牲にしても、とりあえず安心したい――誰の心の奥にもそんな気持ちが潜んでいる。いじめを見て見ぬふりするのも、沖縄に米軍基地を押しつけるのも、よそものを排斥するのも、自分の安心を得るためだ。
妙と忍はいじめや米軍基地を肯定する意図はなかったが、安心を求める心理に吞みこまれ、その結果安心を失い、脅迫電話や〈人殺し〉という声に悩まされ、安全すら危うくなった。

ふたりが安全を取り戻す契機となったのは、〈本間さん〉が命を絶った部屋に入ることだった。安心の犠牲となった〈本間さん〉に向きあい、ふたりの罪が贖われる。そして互いの姿を見ることのない、安全な共同生活をはじめる。妙は忍を住まわせることで身の安全を確保し、忍は住む場所と食事を手に入れる。

ともに暮らしている相手の顔を見ないなんて安心できない、と思う人もいるかもしれない。しかし、これまで安心を求める心理に翻弄されてきたふたりに必要なのは、客観的な安全である。見ないからこそ、触れあわないからこそ、得られる安全もある。
安心できる人や場所なんて、永遠に見つからないかもしれないのだから。

(注)https://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/anzen/houkoku/04042302/1242079.htm

(ここまで)-----------------------------------------------------------------------------------


妙と忍はどちらも消せない過去を背負っている。いじめを見て見ぬふりする教師、市民を力づくで取り押さえた警備員だった過去を。自分が誰かの命を奪ってしまったのではないかと怯えている。

そんなふたりが、奇妙で――安全な――共同生活をはじめる。過去やウイルスに襲われる心配のない安全な生活。といっても、ふたりの距離が縮まるわけではなく、ましてや友情や恋心が生まれるわけでもない。互いの顔を一切見ることなく、その存在を気配で感じるだけの共同生活。

そのうちに相手が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。そして自分が生きているのか死んでいるのかもわからなくなっていく……

淡々とした文体で静謐なホラーのように描かれるふたりの生活。
実際に感染者が減っているわけではないのに、あたかもコロナが収束して、誰もかもが日常が戻ってきたかのようにふるまっているいま、読んでみるのもいいかもしれない。

ウイルスから逃れることはできても、過去の罪や存在の不安から逃れることはできない。ほんとうに恐ろしいのは、なにもない日常かもしれない。
そんなことを思い知らされる小説である。

「かけがえのない」ものはどこにあるのだろうか? 芥川賞候補の話題作――年森瑛『N/A』

先月の書評講座の課題は、芥川賞候補にもなった話題作、年森瑛『N/A』でした。

まずシンプルな感想として……おもしろかった! 


帯や評判から想像する、こういう話なのかな? というラベリングをことごとく否定するところ――まさにN/A、「“Not Applicable”=該当なし」――が心に迫り、女子高生たちのいきいきとした会話も含めて、愛おしい気持ちになる小説でした。

私の書評は以下のとおりです。


(ここから)----------------------------------------------------------------

(題)「かけがえのない」ものが生まれる瞬間


〈拒食症でLGBTの主人公のまどかは、女子高での王子様扱いに物足りなさを感じ、「かけがえのない他人」を求めて、同性のうみちゃんと付き合いはじめる。しかし、SNSをきっかけに学校の友人に関係がばれてしまい、別れの選択を余儀なくされる〉

『N/A』をこうまとめることもできる。しかし実際に読むと、まったく異なる印象を受ける。こういった使い古された言葉でラベリングされることを徹底的に拒否している。この物語が求める「かけがえのない」ものは、使い古された言葉の対極に位置している。

うみちゃんのTwitterを発見した友人の翼沙は、自分の言葉でまどかと話すことができず、『LGBT 接し方』『友達 レズビアン』など散々検索する。「正しい接し方のマニュアルをインストール」するために。自分の正しさを担保したいとき、人は使い古された言葉を探す。

うみちゃんはまどかと接するとき、あるいはTwitterに投稿するとき、正しい言葉を探して検索しただろうか? 
おそらくしていない。なぜなら、同性パートナーとの交際を承認してほしいといううみちゃんの望みは、疑いようもなく正しいものだからだ。「多様性を認めてみんなで助け合いましょう」というコピーのように正しい。

では、うみちゃんは自分の言葉でまどかと向きあっていたのだろうか? 
「いつか虹がみえると信じてる」などの一連の投稿は、どこかで聞いたような陳腐な文言だ。うみちゃんにとって、まどかとの関係は「かけがえのない」ものであったというより、「同性パートナー」という言葉が含む価値観、使い古された言葉の文脈にそったものであったと思われる。

では、「かけがえのない」ものはどこにあるのだろうか? 
まどかと対峙した翼沙は、あれほど準備していたのに熱暴走を起こし、結局「用意していた言葉を全て使い切って」、トイレに入って食べたものを吐く。
祖父がコロナに罹ったオジロに対し、まどかも翼沙も悩んだすえにかける言葉が見つからず、オジロの言葉にただ既読をつける。
再会したうみちゃんは、生理になって困っているまどかに、聞いたことのない早口で話しかける。

用意しておいた言葉が消える瞬間、相手に向かって心の底から言葉を発する瞬間、使い古された言葉によるラベリングが消えて、「かけがえのない」ものが生まれるのではないだろうか。

そしていつか、互いに手を振り、「ぐりとぐらみたいに」踊る母と叔母のように、言葉がいらない関係になるのかもしれない。

(ここまで)----------------------------------------------------------------


書評にも記したように、主人公のまどかは自分をラベリングされることを拒否し、「かけがえのない」他人を求めている。

そのくせ、恋人のうみちゃんといった他者と向き合うことをしない。落ちこんでいる友人のオジロにかける言葉を見つけられず、ネットで使い古された言葉を検索して済まそうとする。

つまりは、自分が誰かにとって「かけがえのない」存在でありたいだけなのでは? そもそも、「かけがえのない」という言葉だって、散々使い古された言葉なのではないか――

受講生のなかには、そんなふうに主人公まどかの幼稚さ、身勝手さを指摘した人も多かった。しかし、私は単純にまどかに感情移入しながら読んだので、自分の幼稚さを指摘されたような気にもなってしまった。

この小説の最後の場面、うみちゃんと再会したまどかが、散々使い古された言葉に新しい意味を見出す瞬間をどう解釈するのか――まどかの成長なのか、現実との苦い邂逅なのか――というのも非常に興味深い論点である。

現実世界や、それに付随するラベリングをことごとく拒否し続けると、最後にはサリンジャーホールデン少年のようにクラッシュしてしまう。だから、この小説の最後の場面もまどかの成長ととるのが正しいのだろう。けれども、幼稚で頑ななままでいてほしい気もした。

あと、書評では取りあげなかったけれど、この小説に出てくる教師の安住が――女子高で人気のある若い男の教師だが、ふとしたきっかけで隣国を侮蔑する発言をし、最終的には歳の離れた元教え子と結婚する――なんかキモくて嫌やなと思ってしまったのだが、書評家の豊崎由美さんのメッタ斬りチャンネルをみたところ、この小説を非常に高く評価しながらも、「大人世代の描き方が型にはまっているのが欠点」と言われていて、そうか、キモい男の典型として描いていたのか!と納得した。

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女たちは、「しあわせ」になれたのだろうか? 永井みみ『ミシンと金魚』

さて、先月の書評講座の課題は、永井みみ『ミシンと金魚』でした。

去年すばる文学賞を受賞したこの小説は、認知症の老人によるひとり語りという形式が大きな話題となった。
作者が実際に介護ヘルパーとして働いていた経歴もあり、恐ろしいスピードで高齢化が進む日本社会をリアルに描いた作品として評価された。

……と思って読みはじめたら、そんなありがちな枠をぶち壊すような小説だった。いったいどういう物語なのかというと、以下が私の書評です。

 

(ここから)----------------------------------------------------------------

(題)すべての女たちの「ミシンと金魚」

 

『ミシンと金魚』を読んで、内職という言葉をひさびさに思い出した。私の母は革靴を縫う内職をしていた。幼い私は革のにおいが嫌でたまらなかった。


『ミシンと金魚』の主人公カケイさんは、介護施設の職員「みっちゃん」に「今までの人生をふり返って、しあわせでしたか?」と問いかけられて、これまでの人生を回想する。
箱職人だった父親、父親に殴られ続けた母親、もともと八兵衛、いわゆる女郎だったまま母、やくざ者の兄とその恋人、兄が強引にあてがった夫……「凄絶な女の一生」という帯文句にふさわしい一代記である。

では、なぜそんな物語のタイトルが「ミシンと金魚」といった可愛らしいものになっているのか? 
ミシンはカケイさんの仕事道具だった。働き者だった祖母からの「女はねえ、絶対手に職つけなきゃ、損するぞ」という教えを守って、カケイさんは、朝から晩までミシンを踏み続けた。

息子たちを残して夫が蒸発したときも、「すぐあきらめて、仕方ないから、ミシンを踏んだ」。「ミシン踏んでるときだけ、よけいなことをかんがえずに」済み、「嫌だったことも、ぜーんぶわすれて、からっぽんなってラク」になった。
カケイさんがミシンを踏んでいるあいだ、金魚が子守をしてくれた。金魚は儚い愛の象徴だった。

『ミシンと金魚』には、カケイさん以外にも働く女が描かれている。「みっちゃん」、そして女医。冒頭の場面で、カケイさんを強い薬でおとなしくさせようとする女医に、介護施設の職員である「みっちゃん」が抗うくだりは印象的だ。

「大変でしょう」と言う女医に、「仕事ですから。大変ではありません」と返す「みっちゃん」からは、仕事に対する矜持が伝わってくる。そのあと「みっちゃん」はカケイさんの前で涙を流す。そしてカケイさんは、偉そうな女医もどこかで泣いていることを見抜いている。女たちはときに涙を流しつつも、自分の金魚を守るために働いている。


カケイさんは、女たちは、働くことで「しあわせ」になれたのだろうか? 
カケイさんは、ミシンを散々踏んだ挙句に足が曲がり、「損した」と祖母を恨めしく思う。けれども、カケイさんは内職で貯めた10万922円には、どんなものにも代え難い価値がある。

いま、私の母も介護施設で暮らしている。母も金魚を守るために働いていたのだろうか。「みっちゃん」に「しあわせでしたか?」と問われたらどう答えるのだろうかと、つい考えてしまった。

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書評でも記したように、とにかくカケイさんの人生がやたら凄絶で、そしてその凄絶な人生を飄々と語る不思議なグルーヴに圧倒された。

カケイさんは自分の育ちをこう語る。

だからあたしは、だいちゃんのお乳を吸ってそだったの。ものごころついてもしばらく、だいちゃんのお乳を吸ってたの。なんとなくおぼえてんの。あのね、誰にも言わないでよ。ここだけの話し、あたし、だいちゃんのこと、かあちゃん、て、呼んでたのよね。

この「だいちゃん」が何者かというと、犬なのである。まま母にも兄貴にも育児放棄された幼いカケイさんは、犬の乳を飲んで育ったと言うのだ。

認知症を患っているカケイさんは、もちろん「信用ならない語り手」である。カケイさんのなかでは、介護ヘルパーはすべて「みっちゃん」である。息子が生きているのか死んでいるのかもわからない。

けれども、カケイさんの発する言葉には真理がある。

でも、まあ、としよりになったら、ほかのじいさんたちみたくえばってるのは負けで、おもしろいことを言ったりやったりしたもん勝ちだ。

このカケイさんに言わせると、役職についていたようなじいさんは、隠居したあとも「ずっとずっとえばってて」「だいたいがタチがわるい」そうだ。

その一方でカケイさんは、ヘルパーの「みっちゃん」たちや自分を支えてくれた広瀬のばーさんの思いやりに気づき、さらには遺産のために通ってくる嫁や偉そうな女医の心中までも慮る。

シスターフッドというのは最近の小説のキーワードでもあり、もう聞き飽きたという人もいるかもしれないが、この『ミシンと金魚』も一種のシスターフッド小説なのかもしれないと思った。

正直に言うと、「凄絶な女の一生」といった言葉で評される小説はあまり得意ではなく、同じ回のすばる文学賞で佳作となった『我が友、スミス』の方が自分の好みである。
しかし、簡単に咀嚼できない違和感を抱きつつも、カケイさんの語りの力で思わず一気読みしてしまった。そんな不思議な魅力のある作品だった。

 

入管をめぐる問題をやさしい語り口で描くことに成功した小説――中島京子『やさしい猫』

先月の書評講座の課題は、中島京子『やさしい猫』でした。

ここ数年、社会問題となっている入管制度を取りあげた小説です。スリランカ国籍のウィシュマさんが名古屋の入管で亡くなった事件も、記憶に新しいのではないでしょうか。私の書評は以下のとおりです。


(ここから)---------------------------------------------------------------------------------

(題)いつか「きみ」が手を伸ばすその日へ向けて

 

 「きみに、話してあげたいことがある」


とはじまる『やさしい猫』は、一貫して「きみ」への語りかけという形式で物語が綴られている。

語り手の「わたし」は幼いころに父親を病気で亡くし、母親である保育士のミユキさんと暮らしている。ミユキさんは東日本大震災のボランティアをきっかけとして、スリランカ人のクマさんと出会う。
ミユキさんはクマさんと付き合うようになり、「わたし」たち三人の共同生活がはじまる。

ところが、婚姻届を提出してようやく正式に家族になれたと思った矢先に、クマさんが警察に捕まってしまう。在留カードの期限が切れていたのだ。
クマさんは自らオーバーステイを報告しようと入国管理局に向かっていたにもかかわらず、問答無用で収容される。

諸外国と異なる無期限の収容制度、収容所の粗末な食事、病気を訴えても詐病と疑われるなどといった過酷な仕打ちや、日本において難民申請が認められる割合はわずか0.3%という入管の実態が克明に記されている。


しかし、こういった問題点を提示しながらも、不正を糾弾し告発する論調ではなく、「わたし」が「きみ」へやさしく語りかける口調を採用したところが、この小説の大きな特徴である。
この語り口によって、日本で生活している人から家族や生活基盤を奪う入管制度の理不尽さや非人道性が浮き彫りになり、心にすっと入ってくる。

一方、入管側も語りかけの口調を採用しているが、その目的は糾弾と告発である。
「早めに手を打とう、結婚しておこうと、あなた、思ったんじゃない?」
「あなた、オーバーステイも、そんなに悪いことだと思っていなかったんじゃないですか?」
と、入管審理官や検事はひたすら追及する。

語り口というのは、相手をどう捉えているかを映す鏡である。入管の語り口は、外国人をすべて犯罪者予備軍と見做す「入管マインド」を如実に映し出している。


「わたし」と入管の語り口のちがいは、それぞれの視点の反映でもある。未来に目を向けているのか、過去に固着しているのか。
入管が問い質すのはオーバーステイや未報告といった過去のあやまちだ。
「わたし」が語りかける「きみ」の正体は、これから生まれてくる弟、つまり未来を担う存在である。

「わたし」は未来へ向けてその小さな手を伸ばす「きみ」に語りかけ、家族の話を書き留めている。私たちが未来へ進んでいくためには、どちらの視点と語り口を採用すべきなのか、答えは自明である。

(ここまで)---------------------------------------------------------------------------------


文字数の関係で書評には入れられなかったが、入管審理官がクマさんを追及する場面を読んだとき、ブレイディみかこの“ぼくイエ”に書かれていたエピソード――日本人と英国人を親に持つ息子が日本に滞在していたとき、中年男に「Youは何しに日本へ?」と執拗に聞かれる――を思い出した。

問いかけの暴力性。問いかけという形であらわれる、自分とは異なる他者を排斥する心理。そういったものについて考えさせられた。

この本を読む少し前に読んだ、日本で活動する韓国人ラッパーMoment Joonの『日本移民日記』にも、日本で〝外国人〟として生きていく困難さが書かれていて、この『やさしい猫』に通底するものがあった。

書評の締めの箇所やタイトルに「手」と入れたのは、Moment Joonの「TENO HIRA」という楽曲が心に残ったからだ。

 

www.youtube.com

この島のどこかで
君が手を上げるまで
寂しくて怖いけど ずっと歌うよ
見せて 手のひら(ひら、ひら)

ちなみに、この「TENO HIRA」には、在日コリアンの詩人である金時鐘が書いた「夢みたいなこと」が引用されている。

それでも ぼくは
あきらめられないので
その 夢みたいなものを
ほんきで夢みようとする

金時鐘がこの詩を書いたのは1950年、日本で暮らしはじめて1年目のときだったらしい。
まだ1年しか経っていなかったから、「夢みたいなものを ほんきで夢みよう」としたのだろうか? 


この詩が書かれた1950年から70年以上の年月が過ぎたけれども、日本は外国人という他者を受けいれる国になったのだろうか? 私たちは寛容さを手に入れたのだろうか? と考えると複雑な気分になってしまう。

5/29 大阪翻訳ミステリー読書会(オンライン開催・課題書『死の接吻』)& 6/12 『長い別れ』トークイベント(YouTube配信)のお知らせ

 さて、翻訳ミステリーシンジケートのサイト、および翻訳ミステリー読者賞のサイトでも告知していますが、5月29日にアイラ・レヴィン『死の接吻』(中田耕治訳)を課題書として、大阪翻訳ミステリー読書会をオンラインで開催いたします。

hm-dokushokai.amebaownd.com

 去年お亡くなりになった訳者の中田耕治さんがあとがきで、

一冊の本にはそれなりにその時期のぼく自身の何かがこめられているのだが、『死の接吻』はとくに愛着が深い

と書くこの一冊、各所のオールタイムベストテンでも頻繁に選出されている名作サスペンスです。
「彼」の独白から第一部がはじまり、第二部、第三部へと続く、三部構成になっています。

貧しい育ちの「彼」は戦争から戻ったあと、成功への野心を抱いて大学へ進学する。
大金持ちの娘と懇意になり、このままうまくいけば願いがかなうと思ったそのとき、娘の妊娠が発覚する。

1950年代において、上流階級の娘が結婚前に妊娠するなんて許されない。このままでは、家から追い出されて一文無しになった娘と結婚する羽目になる。
そんなことになれば、一生貧しさから抜け出せない。追いつめられた「彼」は、娘の殺害を決心する……

じゃあ、最初から犯人も動機もわかっているのでは? それなのにミステリーと言えるのか? 息もつかせぬサスペンスというのは嘘・おおげさ・まぎらわしいのでは?

あらすじを聞いただけではそう思うかもしれませんが、作者のたくみな仕掛けによって、ミステリーとして成立しているところが名作たる所以なのです。
二部、三部と語り手が変わることによって、物語は異なる様相を示し、いったいこの先がどうなるのかわからず一気読みすることまちがいなし。

ぜひ読書会で、「彼」の人物造形、その人となりを形成した時代背景、作者がほどこした仕掛け、この小説が名ミステリーである理由……などなどについて語り合いましょう。

ZOOMを使ったオンライン開催ですので、全国各地から参加可能です。
なお、その次は2年ぶりに対面読書会を開催しようと考えておりますので、関西圏以外の方、

ぜひこの機会にうちらの読書会に参加してや~今回逃したら最後やで~

大阪弁で言ってみましたが、メディアで報じられがちな大阪のコテコテなノリではなく(たぶん)、ボケやツッコミも不要なので安心してご参加ください。
お申込みは上記のサイトをご確認いただき、大阪翻訳ミステリー読書会のメールアドレス宛にご連絡ください。

そしてもうひとつお知らせが。

レイモンド・チャンドラーの不朽の名作といえば、そう、“The Long Goodbye”です。

長年にわたり、清水俊二訳の『長いお別れ』が親しまれてきましたが、数年前に村上春樹による新訳『ロング・グッドバイ』が出て、こちらも話題を呼びました。

そして今年、新たな新訳(って完全に頭痛が痛いパターンですが)として『長い別れ』が出版されました。
エンタメ翻訳のトップランナー田口俊樹先生が、まさに“まんをじして”訳した「名手渾身の翻訳」(帯文より)です。

私もいま精読しているところですが、とにかくマーロウの心の機微がストレートに伝わってくる訳だと思います。

「名作だと聞いたから読んでみたけど、いまいちピンとこなかった。

というか、なんでマーロウはあんなにテリーに入れこんでんの??」

という感想を抱いた方、ぜひこちらの訳で再読してみてください。

そこで、この新訳を記念して、来たる6月12日に田口俊樹先生と、担当編集者である東京創元社の井垣真理さんをお迎えして、オンライン読書会を開催することにいたしました。
みんなご存じのYouTube配信ですので、視聴するのになんの手続きもいりません。もちろん無料です。

honyakumystery.jp


私も末席の末席で参加して、「ハードボイルドとはなんぞや」から、「ハードボイルドは男のすなるものなのか」問題や、「マーロウになりたいボーイ/ガールが考察するマーロウの魅力」などについてご意見を伺いたいと思います。

ご興味のある方、ぜひご視聴ください。もちろんアーカイブで視聴いただいても結構ですが、音楽のライブと一緒で、生配信は生で参加するのがいちばん楽しいはず。
チャットにも質問やツッコミを書きこんでいただければ、頑張ってせっせと拾いますので、どうぞよろしくお願いいたします。