愛国少女から小説家田辺聖子が生まれるまでの記録――『田辺聖子 十八歳の日の記録』『私の大阪八景』
8月の書評講座の課題書は、『田辺聖子 十八歳の日の記録』でした。
言うまでもなく、日記とは通常誰にも見せないという前提で書くものであり、この『十八歳の日の記録』も作者の死後にはじめて発表された。
それなのに、自分だけのために書いたとは思えないほどの文章力と、文章力の礎となっている観察眼に感服した。
私の書評は以下のとおりです。
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(題)小説家田辺聖子が生まれるまでの記録
日記とは常に真実を語るものだろうか?
『田辺聖子 十八歳の日の記録』と『私の大阪八景』を読んで、そんなことを考えさせられた。
『田辺聖子 十八歳の日の記録』からは、私的な日記に書かれたものとは思えないほどの文章力、自分自身や家族、友人への観察眼、作家になりたいというひたむきな向上心が読みとれて、女学生の頃から田辺聖子は田辺聖子だったのだと感じ入る。
しかしその一方で、愛国心を高らかに謳い、ヒトラーの死を嘆く軍国少女ぶりには、のちに洒脱な恋愛小説や軽妙なエッセイで多くの女性にエールを送った〝お聖さん〟の印象とは異なり、かすかな戸惑いも覚える。
解説にも書かれているように、この日記の山場は大阪大空襲と終戦の日である。
大阪大空襲の日、まだ火や煙のたちこめる湊町や梅田新道を通って、福島の家にたどり着くまでの描写からは戦争の恐ろしさが生々しく伝わってくる。しかも家は焼け落ち、大事な本も燃えてしまう。
この経緯は、トキコという少女を主人公に据えた小説『私の大阪八景』ともほぼ共通している。
ところが、空襲のあとの心境は日記と小説とは異なっている。
日記ではなおも「私はひるまない。私は泣かない。私は屈しない」と書いている。しかし小説では、トキコは「うそみたいに、がらんどう」な空虚な気分に襲われる。それでも日記には、「いよいよ日本は世界を相手にたたかうことになった」とスラスラと勇ましい文句を並べるのである。
終戦の日には、日記と小説の乖離が著しくなる。日記では敗戦の悔しさを激烈な文語調で綴っている。しかし小説では、トキコの家族はラジオを囲んで、「あ、怪体な声……」「ほんまに陛下かしら。ニセモノ?」「え? やっぱり負け?」と呑気とも言える会話を交わす。
ところがトキコはがらんどうな気持ちのまま、日記に向かうと、不思議なことに文語調でいくらでも書けてしまうのだった。そして日記に書いていることを自分でもまったく信じていないのだった。
日本が軍国主義を脱したから真実を書けるようになったというのも事実だろう。
だがそれだけではなく、「私達が日常友達と交す会話の何と平凡な、しかもつまらなく見えることよ」と日記に書いていた頭でっかちの少女が、日常の平凡な会話に真実があり、それこそがほんとうに書くべきことだと気づいたそのとき、ほんとうの気持ちを綴れるようになったそのとき、小説家田辺聖子が生まれたのではないだろうか。
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上でも書いたように、この日記で強く印象に残るのは、陛下のためなら喜んで命をなげうつ覚悟があると何度も宣言する軍国少女の姿である。
といっても、田辺聖子がとくに右翼的思想の持主だったわけではなく、これが戦時下におけるごくふつうの少年少女だった。(先生曰く、『少年H』の主人公みたいに現代からタイムスリップしたような価値観を持っている少年なんてありえないとのこと)
日記のなかの田辺聖子は、大阪大空襲で家もなにもかも失ってしまってもへこたれず、終戦の日まで熱い檄文を綴っているが、終戦からおよそ30年たった1974年に発表した『私の大阪八景』とあわせて読んでみると、また別の側面が見えてくる。
『私の大阪八景』は、まだ戦局がそこまで悪化していなかった1915年頃からはじまり、小学六年生のトキコが中学校から女学校に進み、終戦と父の死を経て金物問屋で働きはじめるまでを描いた自伝的な連作短編小説である。
なかでも、終戦前後を舞台とした章を読むと、日記とまったく同じように、空襲で焼け野原になった大阪が鮮明に目に浮かぶ。
やっと梅田新道まで来た。二里歩いたようだ。
まだこの辺は燃えている最中だった。
角の第百生命は全滅で、きれいに中が抜けていた。閉じたガラス窓から黒煙がふき出している。喉が痛く目がしみた。わずかな荷物を持ち出して呆然と立っている被災者。ひっきりなしに通る消防自動車。
しかし、書評でも指摘したように、ひとりの人物が生きたひとつの時代を描いているというのに、『十八歳の日の記録』と『私の大阪八景』から受ける印象はおおいに異なる。
日記では、愛国と作家になるという夢に情熱を傾けるひたすら生真面目な少女が描かれているが、小説では、そんな生真面目な少女を一段高いところから俯瞰してユーモラスに描いている。二冊をくらべて読むと、事実をフィクションに落としこむとはこういうことかと腑に落ちる。
また、日記でも少女であった田辺聖子が周囲の人々に向ける観察眼の鋭さが光っているが、小説では鋭さにくわえて、戦時下そして敗戦後の苦しい状況をなんとしても生き抜こうとする人々への愛情が感じられる。こういった台詞から、庶民のたくましさがうかがえる。
「これからアメリカ人相手に商売するねん。何も卑屈になることないやろ。何しろ負けたんやから」
「大東亜共栄圏なんてウソやんけ」
そして小説だけに出てくる男子学生のコントクさんのくだりでは――飄々としていて、愛国心に燃えるトキコを冷ます清涼剤のような――エッセイでおなじみのカモカのおっちゃんを思い出した。
将来は漫才作者になるという夢を持ち、「いかに漫才が人生に大切であるか」と語るコントクさんのようなキャラクターが、田辺聖子作品に欠かせない存在だとあらためて思った。
田辺聖子作品というと、『私の大阪八景』につけられた小松左京による解説が、上質の田辺聖子論であり、さらに都市文学論や小説論としても納得させられる内容だった。
私はお聖さんの作品の中に、関西人らしい、そして都市伝統の長い大阪女性らしい、あたたかい「距離のとり方」を感じます。――人間が、女性が、もっとも愛らしく、愛くるしく、明るく、生き生きと見える「距離」で描こう、という作家としての「決意」のようなものが感じられるのです。
その決意の背後には、やはり作家として常人とはちがう深い屈折や、鋭い人間観察や人生に対する洞察がひそんでいる、と思います。
と引用しましたが、こちらのサイトで全文が読めました。
田辺聖子や小松左京が好きなかたのみならず、小説が好きなかたには興味深い論だと思います。