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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

リディア・デイヴィス 『話の終わり』

リディア・デイヴィス 岸本佐知子 翻訳本

  

話の終わり

話の終わり

 

  『ほとんど記憶のない女』や、下の『21世紀の世界文学30冊を読む』では『嫌なこといろいろ(Varieties of Disturbance)』が取上げられていたりと、超短編の印象が強いリディア・ディヴィスによる長編小説。と言っても、何年も前に終わった年下の男との短い恋愛を回想し、実際の作者と同一視できそうな作者がそれを小説にしようとする、小説とも随筆とも読める話。 

 書くことについての小説というと、日本では金井美恵子などの作品もあり、メタフィクションな仕掛けについてはそんなに物珍しい感じもしないけれど、解説によると、作者の意図としては「べつにポストモダンとか前衛風を狙ったわけではなく、読者に直接働きかけ、読者を作品に巻き込みたかったのです」とのことで、たしかに、とにかくこの本を読むと、あたかも常軌を逸したかのように終わった恋愛に執着し、ついにはストーカーのように男を追い続ける痛切さがおそろしいほど胸に迫ってくるので、「読者を作品に巻き込む」試みは成功していると思う。

   『ノルウェイの森』のコピーが「100パーセントの恋愛小説」だったような記憶があるけれど(さすがにその頃は子供だったのでよく覚えていませんが)、この本こそ、恋愛、そして恋愛に対する執着を描ききっている点では、「100パーセントの恋愛小説」のような気がする。

 一緒にいないときには彼に思考を妨げられ、一緒にいればいたで、まるで吸い寄せられるように彼の姿を見、彼の声を聞かずにいられなかった。彼の姿を見、彼が話すのを聞いているときの私は、ほとんど身動きせずに彼の横についていた。彼のそばにいて、半ば身体が麻痺したように彼を見、聞いているだけで満足だった。ほんの一日二日前まで彼のことを知りもしなかった私が。

 これはまさに、恋におちるということを的確にあらわした言葉だと思う。しかし、こういう小説の王道パターンで、この「彼」は、ガソリンスタンドで働きつつも貧乏で、「私」をはじめ周囲の人に借金したり、家賃を滞納して住むとこがなくなって、「私」と別れたあともガレージに住ませてくれと言ってきたりと、しょーもない男だとしか読めないのだが、もちろん、「彼」が立派な男なのかあるいはつまらん男なのかということは、小説においては、そして恋愛においてもどうでもいいことなのだ。

  ちょうど先日、ジェーン・スーの『相談は踊る』を立ち読みしたのだけれど、不倫に悩む女子へのアドバイスとして、「“好き”という気持ちを第一にして考えるといろいろ間違える」と語っており、言われてみればその通りだと深く納得した。この小説の「私」も、「彼」が電話に出ないと働いているガソリンスタンドに押しかけたり、「彼」の姿を探して町中を車でうろうろし、はては旅行先でも「彼」が一時住んでいたらしいアドレスを頼りに家を探したりする。間違い過ぎである。ガソリンスタンドに絶対に行っては駄目とアドバイスしてくれるルームメイトのマデリンのやさしさが切ない。

 感情というのは、他人のものはもちろん、自分のものですら自由にできないのだから、それに左右されるのは苦しい。他人に過剰に思い入れてもいいことはまったくない。そんなことはじゅうぶんわかっている。それでもやはり、愛するということの希望も捨てられない。自分はだれかを愛することのできる人間だと思いたかったりもする。

もしも愛するということが、他人を自分より優先させることだとするなら、そんなことはとてもできそうにないと思った。とるべき道は三つあった。他人を愛することをあきらめるか、身勝手をやめるか、身勝手なまま他人を愛する方法を見つけるか。最初の二つはとてもできそうになかったが、ずっとは無理にしても、休み休み誰かを愛する程度に身勝手なくすることなら、できるようになるかもしれないと思った。