快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

わたしはわたし、ぼくはぼく(BOOKMARK 10号より) 『夜愁』(サラ・ウォーターズ 著 中村有希 訳) 

 映画というと、2017年最大に度肝を抜かれたのは『お嬢さん』だった。ヴィクトリア朝を舞台にしたサラ・ウォーターズの原作『荊の城』を、日本占領下の韓国の話に作りかえただけでもじゅうぶんインパクトがあるのに、まさに文字通り「一糸まとわぬ」女子たちの熱演がまた……

 というわけで、サラ・ウォーターズが『荊の城』の次に発表した『夜愁』を読みました。 

夜愁〈上〉 (創元推理文庫)

夜愁〈上〉 (創元推理文庫)

 

  物語は1947年のロンドンではじまる。

そう、これがわたしという人間の成れの果て。部屋の時計も腕時計も止まったまま、大家の玄関をおとなう病んだ人々の流れで時をはかる。それがわたし。ケイはみずからに、そう囁きかける。

 第二次世界大戦が終わり、ようやく平和が訪れたというのに、「成れの果て」という言葉が出てくるように、この小説の登場人物たちはみな沈鬱な影を背負っている。

 病院の二階の薄暗い借家で空虚な日々を送るケイ。
 その病院に、ダンカンという若い男がマンディ氏という老人を連れて通っている。父子のように見えるダンカンとマンディ氏だが、ダンカンには家族は別にいる。どうして家族と離れて、マンディ氏という老人と一緒に暮らしているのか? 
 ダンカンの姉であるヴィヴにはレジーという恋人があるが、堂々と会うことのできない関係を長年続けている。ヴィヴの職場の仲間であるヘレンにはジュリアという恋人があるが、ふたりの間には溝ができつつあった……


 と、どの登場人物も過去の人間関係にとらわれ、まるで亡霊のように日々を送り、戦争が終わり、時代が変わったというのに、未来に向けて歩き出すことができない。いったい過去にはなにがあったのか?


 そこで物語は1944年にさかのぼる。ドイツからの空襲にひっきりなしにおそわれ、死がずっと身近だった頃へ。戦争の恐怖にさいなまれながら、必死で生きて必死で他人を求め、必死で恋をしたあの時代へ――


 この小説は、だれかが殺されたりといったミステリー的な要素はなく、時代をさかのぼって語ることで、人間関係の謎が解き明かされるという構造になっている。

 なので、最後まで読み終わると、また最初に戻って、現在(1947年)の状況を確認してしまう。
 すると、現在(1947年)の平和な時代を描いた冒頭で、閉塞感がもっとも強く感じられ、常に死の恐怖と隣り合わせだった頃(1944年)、生命力が一番燃えあがっていることに気づく。物語の最後、戦争が激しくなりはじめた時代に(1941年)、愛が生まれる美しい瞬間を描くことで、現在(1947年)の状況と対比して、愛や美しさのはかなさが際立つという仕組みになっている。


 また、『荊の城』では、精神病院の描写などがキレキレだったサラ・ウォーターズのたくみな筆致は、この作品でもじゅうぶんに発揮されていて、空襲から逃れるシーンも臨場感に満ちているが、戦争以上に恐怖の場面、血も背筋も凍るシーンもちゃんと用意されているので、その意味でも期待を裏切らない(?)読みごたえがある。


 といっても、決して暗く重苦しいばかりの小説ではなく、登場人物たち、とくに女たちは『荊の城』の主人公ふたりと同じように、強くてたくましく、なにがあっても最後は前を向いて生きる。この救いのない現在の状況から脱けだそうと、行動を起こそうと決意する。


 そして、サラ・ウォーターズの小説のテーマとも言える、女同士の愛もさらに堂々と正面から描かれている。
 ヴィクトリア朝同様、この時代も女と女の愛は禁断であったようだが、そんなこと知ったことか!とばかりに、死の危険すらもそっちのけで恋愛に身を焦がす女たちの姿には圧倒される。また、恋愛にかぎらない同性同士の心の交流、いわゆるシスターフッドブラザーフッドにも癒される。


 相手が異性であれ同性であれ、愛することそのものが尊い――と字面で見ると、なんだか陳腐な物言いだけど、こうやって物語で読むと深く納得させられる。


 そういえば、今号のBOOKMARK(10号)は「わたしはわたし、ぼくはぼく」というテーマで、いわゆるLGBT小説を特集している。私が読んだなかでは『キャロル』に、そして名作『"少女神" 第9号』!  

“少女神”第9号 (ちくま文庫)

“少女神”第9号 (ちくま文庫)

 

  『"少女神" 第9号』はLGBT小説として意識したことがなかったが、言われてみると、『ウィニーとカビ―』なんてまさにそうだ。

 「あたしがカビ―のお父さんになれたらいいのに」
 「ぼくがウィニーのお父さんになって、ウィニーがぼくのおやじになればいい」

と言いあい、「おそろいのゆったりした黒のタキシードを着て」プロムに行く、ウィニーとカビ―。「抱き合って、小さな子供のように相手の腕の中で」眠るふたり。


 あと、映画『アデル、ブルーは熱い色』は見たので、原作のバンド・デシネ(フランスのマンガですね)『ブルーは熱い色』も読んでみたい。 

ブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaude

ブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaude

 

  出会いの場面はそのままらしいけど、はじまりも結末もちがうとは知らなかった。

 『ぼくには数字が風景に見える』は「共感覚」を描いているとのことで、前から読んでみたいと思っていたけれど、LGBT小説にあてはまるとは知らなかった。 

ぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)

ぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)

 

  そして、『トランペット』は、トランぺッターであった父親が亡くなり、すると父親は実は女であったことが判明する……という物語で、 

トランペット

トランペット

 

 たしか実際にも似たような話があったと思うが、どういう顛末になるのか気になるって、毎号のことですが、紹介されている本ぜんぶ読んでみたくなりました。