初心者のための田辺聖子~ハイ・ミス小説のオススメ(中級編)~『愛してよろしいですか?』『夢のように日は過ぎて』『薔薇の雨』
それにしても、ハイ・ミスにとって
「……たら」
というのは禁句なのであることを、知らないのかなあ。
私と小田美枝子がしゃべっているとき、どちらかが「……たら」というコトバを使うと、
「タラは北海道!」
と叫んで、次の言葉を封じてしまう、約束ごとがある。
(もし、あのとき、こうなってたら……)
(もし、あの人と結婚してたら……)
なんて、いっていたら、ハイ・ミス商売は張っていけない。前だけ向いてあるきましょう。
さて、田辺聖子さんは長いキャリアにおいて、現代を舞台にした恋愛小説から古典を題材にした物語、また「カモカのおっちゃん」シリーズなどの軽妙なエッセイ、実在の人物の評伝など幅広い作品を書かれているが、代表となる作品群の筆頭に “ハイ・ミス” ものを挙げることができるだろう。
といっても、いまや“ハイ・ミス”と聞いてもピンとこない方も多いかもしれない。大辞林によると、“ハイ・ミス”とは「年のいった未婚の女性」と定義されているが、田辺作品での “ハイ・ミス” とは、三十歳以上の独身であるということに加えて、自立した働く女性という意味もあるように思える。現在でいうと、少し古いけど ”負け犬“という言葉が近いだろう。
この一連の“ハイ・ミス”作品群では、“ハイ・ミス”たちが自分より一回り年下の若い男たちや、あるいは一回り年上の人生経験豊富な男たちとくり広げる恋愛模様が描かれている。
いまの目から見ると、大人の女を主人公にした恋愛小説というとさほどめずらしくもないかもしれないが、田辺聖子さんが “ハイ・ミス” ものを書き始めたのは1970年代前半である。昭和四十年代後半だ。
もちろん「セクハラ」などの言葉も概念も存在せず、ほとんどの女性が二十代で結婚して仕事を辞めて、家庭に入っていた時代だ。
三十過ぎた独身女性というと、周囲から「はよ結婚せなあかんで」とやいやい言われるのは当たり前で、堂々と「行き遅れ」「オールドミス」と侮蔑されることもめずらしくなかった。当時の「三十過ぎた独身女性」は、いまの三十過ぎの独身女性とは見られ方もまったく異なっていただろう。
そんな時代に、結婚もせず、家庭に属することなく “ハイ・ミス”として生きていこうとするのだから、弱気になってなんかいられない。
冒頭の引用は、三十四歳の斉坂すみれを主人公とする、”ハイ・ミス” ものの代表作のひとつ『愛してよろしいですか?』からであるが、「ハイ・ミス商売」を張っていく気構えが示されている。
また、もうひとつの代表作と言える『夢のように日は過ぎて』では、主人公である三十五歳のキャリアウーマン芦村タヨリは「アラヨッ」という「こだわりフレーズ」を持っている。
「アラヨッ」というのは、「飛び移る、乗り換える、乗り越える」といった「思い切った行動をとるときのかけ声である」と書かれている。
同じかけ声であっても「ヨイショ」とちがう点は、「ヨイショはすすまぬ気持ちを引き立てて」という、誰かから強要されたことに取り組むような「消極的な受け身の生きかた」をあらわしているが、
「アラヨッ」というとき、本人の弾みがある。面白がってやってる感じがある。人の目を意識してるサーカスの曲芸みたいなところがある。
と説明されている。そうだ、「ハイ・ミス商売」はけっして誰かから強要されたものではない。
逆に、人並みの生きかたを押しつけようとする世間の圧から逃れるための「サーカスの曲芸」のようなものだ。自分の人生を「面白がって」生きるためには、景気のいいかけ声が欠かせない。
それにしても、このタヨリ姐さんは、田辺作品の”ハイ・ミス”主人公の中でも、きわめて威勢がいい。母親のいつもの小言を聞いて、こう考える。
(結婚せえへん人間は修養が足らん。人間がでけへん。結婚したら人間ができますねん、あんたはまだ半人前や)
人間ができりゃいいってもんではない。人間ができるというのは伝統的演技力を身につけることであろうけど、それではワンパターンの人生になってしまう。夫の姓を名乗り、うっとうしいオジンオバンを、おとうさんおかあさんと呼び、いけすかない男や女を、おにいさんおねえさん、おとうといもうとと呼ぶなんて、どう考えても、私にはできない。やりたくない。
ここから結婚というものについても考察するのだが、「私自身、家事はキライじゃないけれど、ずーっと、ヒトの分もさせられるというのはいやだ」という結論に至り、この小説は昭和から平成にかけて書かれたものなので、三十年以上前の作品だが、現在もほとんど変わっていないことを実感する。
しかし、世間の風当たりには強気に立ち向かう ”ハイ・ミス”だが、恋愛においてはなかなかそうはいかない。
そもそも、いい歳をした独身の働く女の前に、真面目で純情かつ誠実な若い独身男性といった、学生時代にはごろごろ転がっていたかもしれない男がやって来ることはそうそうない。(個人的実感も含まれているかもしれないが……)
あらわれるのは、酸いも甘いも嚙み分けた既婚者、あるいはバツイチだったり、若い独身であっても、ワガママな坊ちゃん男だったり、自由過ぎて何を考えているのかつかめなかったりとクセの強い男ばかりだ。
『愛してよろしいですか?』のすみれは、旅先のローマで出会った一回り年下の大学生ワタルにふりまわされる。心のおもむくままの行動をとるワタルに「狼狽させられ」、「彼の若さを、痛感させられてしまう」。
何かにつけ、〈させられてしまう〉という受け身であるところに、彼との関係の特色があるが、それは不快なのではないのである。
そして恋においては、率直なほうが優位に立つ。
また、率直は伝染する。そして相手を武装解除させる。
と、全集の解説で田辺聖子さん自らが書かれているが、「恋においては、率直なほうが優位に立つ」とは、真理ですね。
短編『薔薇の雨』では、千日前の丸福珈琲で「人目を忍ぶ」ふたりが密会する。といっても、ふたりとも独身なのでとくに人目を忍ぶ必要はないのだが、強いていうと、(二人の年齢に対して)という思惑がある。
そう、ふたりは五十歳と三十四歳のカップルなのだ。
もっとも留禰は五十歳にみえないほど若々しいのを自分で知っているし、守屋も三十四歳という年齢よりは、どちらかというと老けてみえるのも事実なので、傍目にはとりたてて不釣合なカップルには見えないだろう。
五十歳と三十四歳というと、つい男が五十歳で女が三十四歳だと思ってしまいそうになるが、この小説では女の留禰が五十歳だ。
といっても、『愛してよろしいですか?』同様に、手練手管の中年女が初心な若い男を手玉にとってふりまわす話などではない。
たしかに、五十になった留禰は、男の身勝手、聞き分けのなさに微笑しながらも、(身勝手で聞き分けないから男なんだ)と思える分別を持ち合わしている。そしてまた同時に、そろそろ若い男と別れる潮時かもしれない、と考える分別も。
三十四歳の守屋には、若い女との縁談も持ちこまれている。
留禰は守屋との別れのことばかり考えてしまう。どうやったら傷つかずに別れられるのか? いざ別れが訪れたとき、髪をふり乱して相手にすがるような真似は絶対にしたくないと強く思う。けれども、実際にそのときになれば、もしかすると泣きわめいて引き止めようとするかもしれないとも想像する。
タヨリさんの「アラヨッ」じゃないが、「信条」を持たなければならないと心に決める。 一方、若い守屋は、「信条」なんて持たないことが「信条」だと言ってのける。
「オレ? 何もない。何かきめても場合によってはクラッと正反対のことをやるから、きちんと筋を通されへん。なまじ信条や憲法があると、それに振りまわされてしまう」
理性と情念を冷静に天秤にかけようとする留禰と、そんなものをひょいと乗り越える守屋。年上の女の揺らぐ心情に男女のちがい、そしてそこから生まれる機微を、短編でこれほど描き切るとは見事だとあらためて感じる。
しかし、田辺作品に描かれた「大人のおとぎ話」ともいえる恋愛模様やときめきが、どれくらい現実に起こり得るのかはわからない。
一連の“ハイ・ミス”作品に出てくる、甘く優しく、かつ怜悧な若い男や、人生の裏も表も知っている魅力的な中年男なんて、ほんとに実在するの? ツチノコやネッシーと同類じゃないの?? という気持ちになる妙齢の女性も多いことでしょう。けれども、
ときめいたり、華やいだりという気持ちは、本当は人生のどこにでも撒かれている〈星〉だから、もし巡りあったときには大事にして、喜んで、いつまでも心に残る思い出になってほしいですね。
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と、田辺聖子さんが語られている(「薔薇の雨」も収録されている『百合と腹巻』のインタビューで)のを胸に刻んで、タヨリさんのようにこうやって過ごすしかないのでしょう。
私は、これから先、どんなことが起きても
「アラヨッ」
で乗り切ろうと思う。