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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「生の負債」からの解放宣言 『はたらかないで、たらふく食べたい』 栗原康

  

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

 

  岸政彦の『断片的なものの社会学』を買いにジュンク堂に行ったはずなのに、社会学コーナーで横に置かれていたこの本をふと手にとって、ぱらぱらとめくり

 元始、人間は豚であった。あるアナキストによれば、「家」とは豚を囲うとかいて「いえ」とよむのだという。家庭とは豚小屋のようなものであり、ひとは結婚すると、みずからを豚小屋に囲いこみ、しらずしらずのうちに交換可能な家畜と化してしまうのだと。

 豚小屋に火を放て。燃やしつくしたそのはてに、とてつもなくおおきな力がやってくる。不満足な人間であるよりも、満足な豚になったほうがいい。合コンにいきたい。

と書いてあるのを読んで、そのままレジに持っていってしまった。

 作者の栗原康は、アナキズム研究を専門とする社会学者で、『大杉栄伝』で第5回「いける本」大賞を受賞しているらしい、というと、なんだか極左とか赤軍派みたいなこわい人のように思えるが、本のタイトルや上記の引用からもうかがえるように、脱力気味のとぼけた文体で、日々の暮らし――研究やバイト、そしてカラオケ(長渕剛)や合コン、そして月9「デート」鑑賞――にもとづいた思索が綴られている。といっても、けっしてほのぼのエッセイみたいなぬるい内容ではなく、書かれている思想は資本主義の根幹をゆるがすラディカルなものなのだけれど、トホホな日常生活から(なまぬるいエッセイの代名詞みたいな言葉ですが)アナキズムへの飛躍が斬新で……ってあれこれ理屈をこねていますが、一言でいうと、たいへんおもしろかったということです。

 それが一番よくあらわれているのが、上記で引用した「豚小屋に火を放て」という章で、作者は合コンで知り合った女性とつきあいはじめるが、その公務員の彼女は、もう30なので結婚出産を真剣に考えていると交際のはじめから宣言し、案の定、大学の非常勤講師という不安定な立場の作者とは、あっという間にうまくいかなくなり、最後は彼女が「だから研究なんてやめろといってんだろ」「あまえてんじゃねえよ」「人間としておわっている。死ねばいいのに」と作者を罵倒して関係が終わる。(※)
 
 まあ、非常によくある話なのだが、作者はそこで、伊藤野枝が言った「矛盾恋愛」という思想を検証する。伊藤野枝は親から決められた結婚から逃げ出して、女学校の恩師である辻潤のもとに走る――というのは有名な話ですが、実は「ほんとうの地獄」がはじまるのはここからで、強制された結婚を拒否して、自由な恋愛を選んだはずなのに、そこで結局、よき妻の役割を押しつけられ、ふるい結婚の苦しみを味わうことになってしまう。つまり、恋愛そのものが矛盾をふくんでしまうのである。作者は書く。

 ほんとうはただ相手のことをたいせつにおもっていただけなのに、結婚というものを意識した瞬間から、自分のことばかりを考えるようになってしまう。(略)
 たがいに負い目に負い目をかさね、見返りをもとめるようになる。生きることが負債になる。

 ほんとうにその通りだ。
 個人的には、結婚「したい」と思ったことはないのだけれど、「したくない」のベクトルにしても、相手のことより自己保持を一番に考えているわけで、結局は自分の都合ばかりを考えているのだ。

 この考えは、恋愛や結婚に限ったことではなく、仕事にたいしても同様で、

 好きな本をよむためにカネをかせいだはずなのに、いつのまにかカネのためにはしかたがないといって、本をよむ時間をけずってしまっていたり

とは、まさにその通りすぎて、なにも言えない。
 
 いつだってやりたいことをやればいい。はたらかないでたらふく食べたい。あそびたい。
 
 どうしてこれができないのだろう。声をあげることが、どうしてこんなにもむずかしいのだろう。

 わたしたちは、やりたいことをやるのに、はじめから負い目を背負って生きることを強いられている。生の負債化だ。

 「他人の迷惑かえりみず」という章では、高野長英について書かれていて、あーそういえば日本史で習った記憶があるな……自分の顔を薬品で焼いて逃亡生活を送った、というディテールがおそろしかった、ということくらいしか知らなかったけれど、ここで紹介されているいきざまを見ると、育ててもらった養家は裏切り、平気で周囲にカネを借りまくり、牢屋に入れられたと思ったら、看守をそそのかして火をつけさせて脱獄するわと、やりたい放題でおどろいた。なんの負い目も感じずに、好きなことをやってしまえばいい。

 高野長英のように、伊藤野枝のように、まわりの迷惑かえりみず、ほんきで生の負債をふりはらって、生きてみることができるのだろうか? 

 いつだってゼロになって、自分の人生をやりなおすことができる。
  
※版元のタパブックスのサイトで、作者のインタビューが出ていて、「どうして同じ人種の人とつきあわないのか」とインタビュアーに聞かれているが、私もたしかに同じことを思った。
 ふつうの公務員ではなく、反原発や反ヘイトスピーチのデモとかに行くようなタイプの人や、あるいは大学に籍をおく研究者とかなら、こんな顛末にはいたらないだろうに、と。
 まあしかし、自分と同じような人種とは、恋におちにくいというのも事実ではある。ほんと恋愛って矛盾のかたまりですね。