快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ノルウェイの不思議で豊饒な文学の森ーー『Novel 11, Book 18』  ダーグ・ソールスター 村上春樹訳

 でもなんだかんだ言いつつ、チェックするわけです。村上春樹印のものは。 

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

 

  それにしても、この本はよくわからないタイトルとそっけない装丁からの、予想をはるかに上回るおもしろさだった。

 訳者あとがきによると、ノルウェイの「文学の家」という団体に招待され、オスロに1か月滞在したときに、読む本がなくなって、たまたま手に取ったところ、夢中になって読んでしまったとのことだけど、それもよくわかる。

 とにかく不思議な小説だというのが、読み終えて本を閉じたあとの僕の偽らざる感想だった。(訳者あとがき) 

  とあるが、まさにその通りで、ストーリー自体は、ありえないほど異常なシチュエーションや、超現実的なことを描いているわけではまったくないのだが、現実におさまりきれない、据わりの悪さを感じる小説である。

この物語が始まる時点で、ビョーン・ハンセンは五十歳になったばかり。

 という書き出しではじまる。そしてまず、ビョーン・ハンセンの半生が説明される。優秀な大学で経済学の学位をとり、オスロの中央官庁に勤めるエリート官僚だったビョーンが、ツーリー・ラッメルスという魅力的な女性と出会って恋におち、当時の妻との結婚生活に終止符を打ち、まだ二歳だった息子も遺棄し、中央官庁での仕事も辞めて、ツーリーとともに彼女の故郷コングスベルグに帰り、市の収入役として働きはじめる。それが十八年前のことだった。

 と書くと、ロマンティックな物語のように思えるかもしれないが、書き出しのあと数行後で

ツーリー・ラッメルスと別れてから四年のあいだ、彼女について考えるとき、彼が抱くのはただ「終わって良かった」という安堵だけだった。 

  と続く。ここから語られるのは、愛の幻滅について――いや、愛だったのかどうかは疑わしい。ただ、愛は幻だったのかもしれないが、幻滅はたしかに存在する。


 といっても、愛の終わりをロマンティックに描いた物語でもなく、気まぐれな仕草で取り巻きの男たちの気をひくのが巧みだったツーリー・ラッメルスが、加齢による容色の衰えとともに、その魅力を失っていくさまが容赦なく、観察日記のように淡々と描かれているだけである。

 ツーリーの険のある顔つきと、硬い皺と、失われた柔らかさがビョーンの心を痛めた。そしてそれに伴うどぎつく対照的な、突然の叫び、あるいは小さな囁き。「私の内側はまだ若い娘のままなのよ。自分でも今ほど若々しく感じたことはないわ」

 このくだりは、女性にとっておそろしいのではないでしょうか。
 いや、私含む大多数の女性の読者は、(幸か不幸か)男を手玉に取って生きているわけではないので、そのぶん、加齢によって反比例のグラフのように魅力がだだ下がりする、なんてこととも無関係のはずなのですが、それでもやはりひやっとした気持ちになった。

 しかし、このツーリー・ラッメルスとの別れについても、それ以上踏みこむこともなく、それ以降は、五十歳で一人暮らしを送るビョーン・ハンセンの日常生活が語られる。医者との奇妙な邂逅、置いてきた息子との十年以上ぶりの再会。

 しかし息子との再会も、ツーリー・ラッメルスとの恋愛の顛末と同様に、親子の情愛や再会の感動とは真逆の方向へ進む。ビョーン、もしくは語り手は、どう見てもイケてない、最近のベタな言い方でいうと、スクールカーストの下層に位置しているであろう息子に対しても、加齢したツーリー・ラッメルスと同じように、冷酷な視線を送る。
 けれどこの物語は、恋人や息子との関係がメイン・テーマではなく、なんとも説明しがたいさらに奇妙な方向へ展開していく。


 このシュールな物語と、村上春樹の文章の相性が非常に良く、思わず一気に読んでしまった。村上春樹は、ご存知のように、カーヴァーやチャンドラーやアメリカを代表する作家をたくさん訳していますが、実はヨーロッパ作家の方が相性がいいんじゃないかなんて思ってみたり。カフカなんかもはまりそうだ。もちろん、カフカはドイツ語からの翻訳がじゅうぶんあるので訳さないのでしょうが。

 作者ダーグ・ソールスターは、あとがきによると、ノルウェイを代表する作家の一人で、「実存的」で、乾いたシニシズムを含んだその独得な作風と、いくぶん風変わりなユーモアの感覚によって、ノルウェイのみならず世界的にも幅広い読者を獲得するようになった、とのこと。ここにあげられている特徴を眺めただけでも、村上春樹と相通じるものがあるのがわかりますね。