快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「ほんとうのこと」が知りたいだけなのだ 辺境中毒!(高野秀行)

 さて、前回紹介した内澤旬子さんといえば、高野秀行さんの『辺境中毒!』で対談しています。 

辺境中毒! (集英社文庫)

辺境中毒! (集英社文庫)

 

 その対談で、高野さんが「旅の七つ道具」を挙げていて、

使い捨てのコンタクトレンズ、大小のノート、ハッカ油、蚊取り線香、ヘッドライト、辞書 

 とのこと。日本では眼鏡なのに旅先でわざわざコンタクトに? と思いきや、「眼鏡をかけていると、明らかに外国人だとわかる」とのこと。いやまあ、高野さんが行く外国は辺境ばかりなので(この当時ならミャンマーの僻地とか、最近ならソマリアとか)地元の人はだれも眼鏡をかけていないのかもしれないが、ふつうの外国の都市なら、眼鏡をかけるアジア人はさほど珍しくないのでは、とも思いますが。

 ちなみに、ハッカ油と蚊取り線香も、僻地の虫対策とのこと。虫よけなんて現地で調達してもいいのだけど、「いきなり拘束されたりするから」念のために持っていくらしい。僻地の旅って、大量の虫と戦うか、そうでなければ拘束されるかの二択のようだ。


 そこから内澤さんの著書『世界屠畜紀行』からの流れで、高野さんがコンゴで猿をつぶして(つぶしたのは現地の人だが)食べた話になり、「猿は毛を焼き切ると、(人間の)赤ん坊にそっくり」らしい……。そして、現地の人たちは、それをわいわいとおいしくいただくとのこと。ただ、野生動物の肉は、別の項で書いているヤマアラシにしても、「かたい」という以外に特徴はないらしい。


 しかし、高野さん、気がついたら『週刊文春』でも「ヘンな食べもの」という連載を開始してますが(半ページなのが物足りない)、ゴリラやチンパンジーはともかく、カンボジアの市場で売ってたという、タランチュラそっくりの巨大クモまで平気で食べるのには度肝抜かれる。ほんま死ぬで?!って心配になってしまう。


 まあでも、『移民の宴』では、タイトル通り、食卓から在日外国人コミュニティを取材していたり(いま思うと、この本がひとつのターニングポイントになったのかもしれない)最新作は納豆なので、いまやUMAではなく食がライフワークになっているのでしょう。 

  えっ?UMAってなんじゃそれって? UMAというのは未確認動物のことで、高野さんはコンゴに怪獣を探しに行ったりと、もともとはUMAを見つけるために探検をはじめたはずだけど、怪獣以外にも怪魚に雪男とあれこれ捜索しているにもかかわらず、いまだ発見の報はない。 

怪魚ウモッカ格闘記―インドへの道 (集英社文庫)

怪魚ウモッカ格闘記―インドへの道 (集英社文庫)

 

  上記の『辺境中毒!』でも大槻ケンヂとUMAやムー(懐かしい)の話で盛り上がり、また書評の項では、太田牛一という、織田信長に仕えていた武士による信長の伝記『信長公記』を紹介し、そこで「織田信長は日本初のUMA探索者か?」という説まで唱えている。

 なんでも、『信長公記』によると、尾張の「あまが池」で伝説の大蛇を目撃したという者があらわれると、信長はさっそくその本人を召喚して直接聞き出し、近隣の農民を集めて池の水を掻い出そうとするが、いくらやっても七割くらいまでにしか減らず、業を煮やした信長は自分で刀をくわえて水に潜ったとのこと。で、高野さんによると

池の水を全部掻い出させるとか、自分で刀をくわえて池に潜るというのは、きっと一般人からすれば「信長はやっぱり直情径行だ」と思われるのだろうが、UMA探索歴の長い私からすると、すごくまっとうな手段に思える。 

 とのこと。それ以外にも、信長は「不思議な霊験」を示すという僧の噂を聞くと、さっそく捕まえて「オレの前でやってみろ」と言い、案の定できなかったので処刑したり、浄土宗の僧と法華宗の僧を戦わしたりと、ほんと神も仏も知ったこっちゃない行いの数々なのですが、高野さんはそれらにも強く共感。

ああ、信長。あまが池の探索も超能力の真偽鑑定も夢の宗教対決も、みんな私がやってみたいことばかりじゃないか。
そうなのだ。私はUMAファンでもなければオカルト好きでもない。ただ「ほんとうのこと」が知りたいだけなのだ。 

 このくだりを読み直して、アヘン黄金地帯についてもソマリアについても、そして納豆についても、ただ「ほんとうのこと」が知りたいという純粋な思いが高野さんの原動力になっているのだな、とあらためて感じ入りました。

 最近〝クレイジージャーニー”が流行っているようで、高野さん自身も出演されたことがあるけれど、やはりほかの人たちとは一線を画しているよな、と確信しているのは私だけではないはず、たぶん。 

 

捨て暮らし、そして離島への移住へ 『捨てる女』 『漂うままに島に着き』(内澤旬子)

 こんなごみごみしたところで、せかせか暮らすのは止めて、田舎にでも行ってゆっくりしたいな……とふと考える瞬間がある。

 いや、まあ誰にでもあると思うのですが、私の場合は、車の運転もできないし、体力も自信がないし、とにかく虫が部屋のなかに入ってくるのが怖くて、植物も一切置かず、いまは8階の部屋なのにもかかわらず、なるだけ窓を閉めて暮らしていたりするので、田舎暮らしなんてまったくできるわけがないのですが。 

漂うままに島に着き

漂うままに島に着き

 

  しかし、内澤旬子の『漂うままに島に着き』を読んだりすると、離島暮らしあこがれるなー、小豆島いいな~『二十四の瞳』に(←古いですが)、オリーヴの林……と、完全にお花畑脳になってしまう。

 が、実際は、この本でも書かれているように、離島暮らしは甘いものではない。いまはネットのおかげで、Amazonでどこにいても本などは買えるといっても、ネットがあっても病院に行けるわけではない。ヨガをするにも、都会に出ないといけない。どうしても都会より濃密になる近所づきあいも、快いものばかりではない。
 そして当然、そこでなんの仕事すんねん!?っていう問題がある。いくら生活費が都会よりかからないといっても、なんらかの金銭を発生させなければならない。やっぱり田舎暮らしなんて、とうてい無理だな~と、腹の底から納得する。


 でも、それでもやはり、いらないものはぜんぶ捨てて身軽になって、身の回りをリセットしたいという衝動はある。それを書いているのが、前作の『捨てる女』だ。 

捨てる女

捨てる女

 

 本を買い読みすれば、常に本を手放す、捨てることから逃れられないということなのだろうか。

買えるものをそのまま持ち続けるには、東京とその近郊の土地が高額すぎるため、ちょっとぼやっとしてるとすぐにゴミ屋敷や汚部屋になってしまう。そうそう、つまりね、本やモノが溜まるのはあたしのせいじゃなくて、こういう世の中のせいってことにしたいんですよ、もう。 

 このくだり、激しく激しく同意する。しかし、まさに「ぼやっとしてる」だけの私と違い、内澤さんは乳がんのホルモン療法の副作用もあるからなのか、あるいは豚を育てて食べたことも影響しているのか、どんどんどんどん家のなかのモノを処分していく。

 もちろんそのなかには、かつては大事にしていたもの、思い出のつまったものも多い。『本の雑誌』の名物編集者であり、サッカーを愛する杉江さんが、「靴(サッカーシューズ)は捨てられませんよ、僕は」と言うのを聞いて、「いや、お気持ちわかります」と書きつつ

しかしなんだかそれももう、重くなっちゃったんだ、あたしは。

と、過去の旅で履いた靴も、これから行くかもしれない旅の装備も、潔く捨てる。「いつかまたバックパック背負ってどこに行くかもわからないと、思い続けるのにも、疲れてしまった」と。大量の本を捨て、十五年くらい前にもらった梅酒とジャム(!)をせっせと食べて消費する。(これは捨ててもいいのではないかと思ったが)そしてついには

夫と彼の大量の荷物の断捨離を決意。2010年5月に仕事場から机と最低限の資料を持ち出し、寝室マンションからは奴の服と布団を叩き出して別居となったのである。 

  いや、もちろんこれに至る経緯も多少書かれているのですが、プライベートな事柄のせいか、そんなに深くは触れられていない。それより、その後、トイレットペーパーと決別した経緯の方が詳細に書かれていて圧倒される。
 震災のあと、トイレットペーパーが買い占められて、不当に値上がりしたことに腹を立てたのが契機となり、これまでトイレットペーパーを使っていない国を旅行したこともあるのだから、自分の家でもできるはずと、トイレに手酌を置きはじめる。いやはや、感心することしきりでした。


 さらに、趣味というより、なかば仕事としてワークショップも行っていた、製本にまつわる材料も捨てる。収集してきた古本や仕事で描いたイラストの原画も売ってしまう。で、ありとあらゆるものを捨てまくったあとの感慨としては

いよいよどん詰まりの様相をさらし始めた捨て暮らし。生活がこざっぱりすればするほどなぜだろう、寂しくなってきてしまったのである。「寂しい」というワードが自分の人生に浮かぶとは、まるっきりの想定外のこと。
しかし、人恋しいのかと言われると、微妙。性別の違う誰かと暮らすことを想像すれば、悪いことばかりぼっこぼこに浮かんできて叫び出しそうになるくらいには、いまだに結婚生活はトラウマなのである。 

と、新たなフェイズに移行する。しかし、結婚生活でいったいなにがあったのか(書かれていること以外に)、、というのも、どうしても気になりますが。まあそこから、内澤さんは多肉植物を集め出し、都会からの脱出を考えるようになる、で冒頭の島暮らしにつながるわけです。


 しかし私は、こうやって読んでみたものの、移住はもちろん、捨て暮らしさえもまったくできていない。結局私には、このごちゃごちゃした町の狭い部屋で息苦しく生きるコクーン生活があっているのだろうな……なかば諦め気味に思ったりもする。

女たち、そして書くことへの愛と忠誠 『詩人と女たち』(チャールズ・ブコウスキー 中川五郎訳)

 さて、ブコウスキー・シリーズ、今度は代表作と言っていい『詩人と女たち』を読みました。 

詩人と女たち (河出文庫)

詩人と女たち (河出文庫)

 

  『勝手に生きろ!』では日雇い労働のような仕事を転々とし、それから五十歳くらいまで郵便局員として働いたブコウスキーだが、ついにアメリカの若者から熱狂的に支持される詩人になったのが、この本を読むとよくわかる。あちらこちらから朗読会の依頼がひっきりなしに届き、ファンレターも次々と送られてくる。そして往々にして、朗読会やファンレターには生身の女もついてくる……


 が、ブコウスキー自身はとくに変化したわけではなく、『勝手に生きろ!』で、仕事に就いては辞めというのを、感心するくらいえんえんと何度も何度もくり返していたのと同じように、この『詩人と女たち』では、女と出会って恋におち(ほんとうに恋におちる相手は限られているが)、でもすぐにうまくいかなくなって別れるというのが、そんなにモテてうらやましい!と思えるレベルをはるかに超え、あきれるくらいえんえんとくり返される。


 ヤリチンとメンヘラ女たちの物語、と一言で言ってしまうと身も蓋もないが(しかし、このフレーズを使うと、世の中のほとんどの小説はこう言い切れる気がしますね。『源氏物語』とか。『ノルウェイの森』だってそう呼べそうな気がする)、しかしブコウスキーの分身である主人公チナスキーは、単純に女の身体をモノにしたいとか、とにかく数多くの女とやりたいと思っているわけではない。女を支配したいわけでもない。

 来るもの拒まずで、手当たり次第に女と関係を持っているように見えるが、というか、この小説においては事実その通りなのだが、強烈に女になにかを求めている。しかし、女と気持ちを通じあわせたときに生まれたように感じたなにかはすぐに胡散霧消し、女との関係はすぐに泥沼にはまるか、あるいは泥沼までも行くことなく、フェイドアウトする。

見たとおりの彼女たちをわたしは受け入れる。しかし愛はそう簡単には訪れてくれない。訪れるとしても、たいていは間違った理由からだ。ただ愛を抱え続けることにうんざりして、あっさりと解き放してしまうのだ。愛は行き場を求めている。そしてたいていは、やっかいなことが待ち受けていた。 

  そして、そんな狂乱の日々のなかでも、ブコウスキーは書き続ける。日雇い仕事を転々としていたとき、あるいは、毎日毎日郵便局員をしていたときと同じように。書くというのは俯瞰する行為だ。客観的には底辺に近い生活のときでも、人気作家となってからも、ブコウスキーは自己を俯瞰する視点を持ち続ける。


 物語の前半のミューズであるリディアと、その姉妹と一緒に、キャンプ(ブコウスキーからもっとも遠い行為だが)に行くところは、山のなかで迷子になるエピソードも含めて、ブコウスキーのユーモアが発揮されたおもしろいところであり、とくにリディアの姉グレンドリンが(どちらもアーティスト志望のめんどくさい姉妹だ)自分の書いた小説を聞かせるところが興味深い。ブコウスキーは思う。

それほどひどくはなかったが、まだまだプロの仕事とは言えず、かなりの推敲が必要だった。グレンドリンは自分と同じように読者もまた彼女の生活に魅せられるに違いないと思い込んでいた。それが致命的な間違いだった。もうひとつの致命的な間違いは、あまりにも語りすぎということだった。 

 しかし、そんな放埓な日々を送っていたチナスキーだが、健康食レストランを経営するサラと出会う。サラは親しくなっても、なかなか「最後の一線」を超えさせてくれず、チナスキーは手当たりしだいに女と寝る一方で、サラに魅かれていく。

サラはわたしから受けているような仕打ちではなく、もっと大切に扱われて当然だ。人は、たとえ結婚していなくても、お互いに対して何らかの忠誠を尽くさなければならない。ある意味では、法律で義務づけられたり神聖化されたりしないだけに、信頼の方がもっと重きをおかれなければならない。 

  このサラとの未来を暗示する形で物語は終わるのだが、少し甘いというか、男の夢のようにも感じたけれど、中川五郎による訳者あとがきによると、このサラは実際にブコウスキーの妻となった、リンダ・リーをモデルにしているらしい。

 ちなみに、この単行本は、日本ではじめてのブコウスキーの訳書だったため、ブコウスキーのそれまでの生涯と仕事について、丁寧に愛情深く解説されていて、読みごたえがある。その後の文庫版あとがきでは、ブコウスキーが日本の読者にも愛されるようになったことを喜びつつ、その間におこった「とてつもなく悲しいこと」として、ブコウスキーの死を知らせている。そう、

わたしは八十歳まで生きるつもりだった。その時には十八歳の娘とやれるかもしれない。 

って言っていたのに。

 

障害を持つ少年が主人公か……と引いてしまう人にぜひ 『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン 小尾芙佐訳)

 BOOKMARKで紹介されていたときから気になっていた、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』が、読書会の課題本になったので読んでみた。BOOKMARKが創刊号で「これがお勧め、いま最強の17冊」として紹介していただけに、すごくおもしろく、また、あらゆる面から考えさせられる小説だった。 

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

 

  主人公である「ぼく」こと、15歳のクリストファー少年は父親とふたり暮らし。母親は心臓発作で亡くなったらしい。アスペルガー症候群のため養護学校に通っているが、数学の天才的な才能があり、将来の夢は宇宙飛行士になること。そんなある日、隣のミセス・シアーズの飼っている犬のウェリントン園芸用のフォークで串刺しにされて殺されているところを見つける。犬好きなクリストファーは、ミステリー小説を書いて、犬殺しの犯人を見つけようと奮闘するが……

ぼくの名前はクリストファー・ジョン・フランシス・ブーンです。世界じゅうの国の名前と首都の名前とそれから7507までの素数もぜんぶ知っている。
はじめてシボーン先生に会ったとき、この絵を見せてくれた。

(悲しんでいる顔の絵)

それでこの絵が〝悲しい”気持ちをあらわしているのだとわかった。それは死んだ犬を見つけたときのぼくの気持ちです。

それから先生はこの絵も見せてくれた。

(ほほえんでいる顔の絵)

それでこの絵が〝しあわせ”な気持ちをあらわしているのだとわかった。 

  とあるように、クリストファーは数学などにおいては非常に優れているものの、ふつうの日常生活を送るための能力が欠けており、表情から他人の気持ちを推しはかるなどといったことはまったくできない。しかし、隣家の犬殺しの探偵をはじめたことをきっかけに、世の中の、そして自分の家の、あらゆる秘密(というか、彼だけは知らなかったこと)に気づきはじめる感動の成長物語……であることにはまちがいないのだが、読み終えての正直な感想は、とにかく両親はめちゃめちゃたいへんだろうな~とつらい気分になった。

 クリストファーの両親はワーキングクラスに属し、高い教育を受けたわけでもなく、こういう子供にどうやって接するのかという知識もない。ときには感情的になって手を出したり、街中でうなったり固まったりするクリストファーに完全にお手上げになる。そりゃそうだ。けれど、それでもなお、根気強く愛情深くクリストファーに向きあう。

ぼくは、お父さんとお母さんが離婚するかもしれないとよく考えたものだ。それはなぜかというとふたりはたくさん口げんかをしてときどきたがいににくみあっていた。それはぼくのように問題行動をする人間の世話をするストレスのためだ。 

  とあるように、お父さんもお母さんもまったく「聖人」ではない。なんなら「毒親」のように読む人もいるかもしれない。でもクリストファーをなにより大切に思っている。

お父さんがいった。「おれたち、だれでもまちがいはするもんだよ、クリストファー。おまえ、おれ、おまえのかあちゃん、みんながだ。そしてときどきそれはどでかいまちがいなんだ。おれたちはただの人間だからな」 

  と書くと、最近話題の〝感動ポルノ”作品なのかと思われそうだが、まったくそんなことはない。感心するくらい、きれいごとを排除している。「障害を持つ少年の成長」とか「親の愛」をことさらに美化したり、強調しているわけでもない。なんだろう、これはイギリス人ゆえだからなんですかね。先に書いたように、両親も「毒親」かと思うくらい欠点があるし、語り手のクリストファーにしても、他人の気持ちとか理解できないのは病気のせいなんだとわかっていても、尋常じゃなくイヤなやつに思えたりもする。

 そういえば、話はそれるけれど、シノドスのこの記事はおもしろかった。「24時間テレビ」に代表される、"感動ポルノ" にうんざりする気持ちはもちろんよくわかる。でもその一方で、ここ最近、〝感動ポルノ”を批判する声にみられるような本音主義――はっきりいうと、本音というより他人への差別や敵意をむきだしにする露悪と言うべきか――が強まっていることを、おそろしく感じる私にとっては、すごく納得できる内容だった。

synodos.jp

 けれど、どうしてこういう〝感動ポルノ”そして〝感動ポルノ”批判が生まれるのかと考えると、これまで建前やきれいごとが主流を占めていたからというのは事実だろう。その点、日本にくらべるとイギリスやヨーロッパは、この小説のように、きれいごとや美化もなく、同じ人間として障害を持つ人たちと向きあう文化が成熟しているのかなと感じた。

  そして物語は、秘密を知って衝撃を受けたクリストファーが家出してロンドンに向かうのだけど、日常生活でも困難なクリストファーにとって、郊外の家からひとりで電車に乗ってロンドンに行くなんて、我々が月に行くくらいの難易度なのは言うまでもない。ここから物語はミステリーから冒険譚風になる。この小説は舞台化もされたようだけど、このあたりが見所だっただろう。でもほんと、どんな舞台だったのか気になる。ちなみに、日本ではV6の森田くんが演じたそうです。いまいち想像できんけど。


 この小説はヤングアダルトに分類されているけど、すぐれたヤングアダルトの多くがそうであるように、大人も読んでじゅうぶん楽しめる作品なので、とくに、「障害を持つ少年の成長物語か……」と引いてしまう人や、あるいは子育て真っ最中の人たちに読んでほしいと思った。

恋愛→セックス→出産のグロテスクさ 『殺人出産』(村田沙耶香)

「私たちの世代がまだ子供のころ、私たちは間違った世界の中で暮らしていましたよね。殺人は悪とされていた。殺意を持つことすら、狂気のように、ヒステリックに扱われていた。昔の私は、自分のことを責めてばかりいました。何度命を絶とうとしたか知れません。でも、世界が正しくなって、私は『産み人』になり、私の殺意は世界に命を生みだす養分になった。そのことを本当に幸福に思っています」

 とにかく少子化が諸悪の根源のように叫ばれ、妊娠出産はすばらしいものだと喧伝される今日この頃。いや、もちろんそれ自体を否定する気はないですが、けど正直なところ、どんどんどんどん他人のお腹「だけ」が膨らんでいくのが、エイリアンが寄生しているようでおそろしく思えたり、産休で休んでいる人がまだ数か月の赤ちゃんを抱いて職場に来たりすると、触ったり、なんなら抱いたりしないといけない羽目にならないように、忙しいふりをして、遠まきに挨拶するに留めたりしている私のような人間は、居心地の悪さを感じることが多いのも事実。


 というわけで、『コンビニ人間』で芥川賞をとった村田沙耶香の『殺人出産』を読んでみました。 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

  あえてそのままのタイトルにしているのだと思うけれど、「産み人」となって子供を十人産んだら、殺したい人を一人殺してもよいと定められた世界を描き、殺人=無条件で悪いこと、出産=無条件で良いこと、とされている現代社会の価値観や良識を逆撫でする設定が興味深かった。


 ただこの小説は、どうしても「殺人」のインパクトがなにより強く印象に残ってしまうが、この中短編集に収録されている『トリプル』『清潔な結婚』とあわせて読むと、世間ですばらしいこととされている、恋愛→結婚/セックス→妊娠/出産のグロテスクさが描かれていて、納得できるものがあった。

 『トリプル』はカップル(二人)ではなく、トリプル(三人)で付き合うことが主流になった世の中を描いている。もちろんセックスも二人で行うものとはぜんぜん流儀が違う。恋愛とは二人だけの排他的なものという常識と、セックスとは性器(だけ)の結合であるという常識を揺さぶる作品である。
 トリプルの恋愛を楽しんでいる主人公は、このご時世でも、あえてカップルで付き合っている友人のセックスを見て、吐き気を催す。

「……あんなおぞましいことで私は生まれたの? トリプルの、ちゃんとしたセックスで生まれた子になりたい。あんな不気味な行為で生まれただなんて、信じたくない」 

  性器至上主義に異を唱えるという点では、これまでも比較されているだろうけど、松浦理英子の『親指Pの修業時代』を想起させる。 

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

 

  ただ、松浦理英子の小説は、一対一の関係、排他的であることにこだわっていたように思うけれど、この物語では、排他的でもなく、嫉妬を含む三角関係でもなく、三人での心地よい関係を描いている。こういうのもいいかもしれない、と思った。
 が、一人の相手と想いを通じあわせるだけでもたいへんなのに、さらにもう一人も調達しないといけない……と考えると、かなり難易度が高そうだ。あと、フリーセックスとまではいかなくても、ポリガミー的な試みは実社会でもあるようだけど、全員が幸せな境地にはたどりつくのはなかなか難しい気もする。人間は嫉妬する生き物なので。


 『清潔な結婚』は、恋愛やセックスを持ちこまない「清潔な結婚」をした夫婦が子作りをはじめるという話。まるでコントのような子作りシーンでは、スラップスティックなぶんいっそう、恋愛→結婚/セックス→妊娠/出産の滑稽さが浮きあがっている。

「あの人の本当に求めるセックスを、あなたは与えてあげられないくせに! 彼はあなたじゃ勃たないのよ!」
「そうですね。だから家族なんです」

 

  この本に収められている作品は、どれも短編のせいか設定の奇抜さが一番印象に残り、小説としての展開という点では少し物足りないところもあるけれど、世間の「恋愛→結婚/セックス→妊娠/出産」への価値観に疑問を感じる人にとっては、考えるいい契機になると思う。『コンビニ人間』は、この地点からまた深まった作品だろうから、ぜひ読んでみたい。


 そういえば、前に紹介した『逃げるは恥だが役に立つ』もドラマ化されるらしい。 

  新垣結衣星野源という、原作読んでる人のほとんどが大満足するであろうキャストで。脚本とかの詳細は知らないが、契約結婚したふたりが恋に落ちる……だけの話ではなく、原作同様に結婚とはどういう「契約」なのか、そこに対価は発生するものなのか、まで描いてくれたらいいけど。

 

愛について真面目に考える時間 『あとは死ぬだけ』 (中村うさぎ)

 前回『結婚失格』について書いたあと、検索してみたところ、この『結婚失格』発売記念イベントで、町山智浩枡野浩一に行った公開説教がレポされているエントリを見つけた。

d.hatena.ne.jp


町山さんの一言一言、まさにその通り!とひれ伏したくなるが、とくにこの部分に感じ入った。

町山:相手、わかるよ。あ、この人は、あたしよりも自分を守ろうとしてると。あたしに降参する気はないんだと。あたしがほんとに欲しいのか、自分が大事なのかっていったら、自分が大事なんだと。
 誰も戻らないと思うよ、それは、絶対に。だって自分が大事なんだもん!

  いや、私は他人に語れるような恋愛経験なんてないけれど、それでも
「このひとは私のことを(それなりに)好きなのかもしれんけど、でもなによりも
自分が大事なんだな」
と、感じることはちょくちょくある。とにかく保身というか、自分のプライドを守ることがいちばん大事なんだろーなという男の人は少なくない。
 

 そういえば、枡野さんとも親交の深い中村うさぎの『あとは死ぬだけ』では、最初の夫のことをこう書いてあった。 

あとは死ぬだけ

あとは死ぬだけ

 

彼はプライドが高く尊大な人間だった。しかも気分屋で、一度不機嫌になると手がつけられなかった。自分の怒りをコントロールできないのだ。どちらの言い分に理があるかなどという問題ではなく、たとえ相手が悪くないとわかっていても、いったん怒ってしまったら相手が平謝りするまで口もきかない。しかも、ものすごく些細なことでプライドが傷つくので、まるで爆発物のような慎重な扱いが必要だった。 

  ほんま超ウザいな~と思うが、よくいるタイプの男のようにも思える。しかし、とことんまで冷徹な視点を持つ中村うさぎは、男はだからしょうもないと一方的に断罪するわけではなく、そういう男にひっかかって執着する女、つまり、かつての自分にも容赦なく切りこむ。

自分を特別に優秀だと思いたい女が、このクソゲー男(←元夫のような類の男のこと)にはまるのは、ちょっとキャリアを積んだ登山家がエベレストに登りたがるようなものだ。要するに「腕試し」である。自分で自分を認めたいという欲望に加えて、周囲にもそれをひけらかしたい虚栄心もある。つまり、この手の女は自惚れが強いのだ。
自惚れの強い女と、プライドの高い男。両者に共通しているのは、一見自己評価が高そうだが、その実、誰よりも自信がなくてビクビクしているところだ。彼ら彼女らの城壁のごとく高いプライドは、脆弱な己を覆い隠すダンボール製の鎧に過ぎない。だが、その「こけおどし」で自分自身をも騙しているから始末に負えないのだ。 

 よっ! うさぎ節健在!と声をかけたくなる。さっきの町山さんの説教と同様、一から十までその通り。大病をして二度ほど死にかけたそうだけど、どれだけ身体がぼろぼろになっても、嘘や欺瞞を許さない独特の潔癖な価値観は変わっていない。ぬるくなっていない。
 この本では、生と死、そして神についての観念的な語りは、納得させられる部分もあったけれど、正直なところ「ふーん……」としか言いようがなかったりしたが、両親や最初の夫との関係を率直に綴った章は、鋭い分析が相変わらず冴えていて、たいへん読みごたえがあった。

甘えることは弱さだと思っていた。自分の弱さを憎み、強くなろうと必死で生きてきた。だが、ひとりで生きていける経済力や能力を身につけても、私は全然強くなんかなっていなかったのだ。自分の弱さを直視することも受け容れることもできないで、何が「強さ」だ。そんなのはクソゲー男のダンボール製の鎧と同じ、他者を寄せ付けないことで己の脆弱さを守ろうとする薄っぺらな自己防衛に過ぎない。 

 たしかに、弱さもふくめた自分を受け容れることはほんとうに難しい。中村うさぎは、

今後の私の課題は「他者を受け容れること」

と書いているが、まずは自分を受け容れないと、他者を受け容れることはできない。そして、受け容れるべき自分とは、こうありたい自分ではなく、弱い自分、あるいは正しくない自分だったりするのだ。前回の『結婚失格』の主人公は、自分の正しさに執着し、相手に正しさを要求して、すべてを失った。

私は、おそらく残り少ないであろう人生を、「愛」について真面目に考える時間に充てなくてはならないのだ。きっとね。

  

 

成長するってことーー 『結婚失格』(枡野浩一) そしてサニーデイ・サービス『DANCE TO YOU』

 私もすこしは大人になったのかなと、あらためて『結婚失格』を読んで感じた。 

結婚失格 (講談社文庫)

結婚失格 (講談社文庫)

 

  というのも、この本は、速水という男を主人公とした小説の形をとっているものの、作者自身の離婚が赤裸々に描かれており、当時元奥さんのマンガをよく読んでいた私は、正直なところ、ほんとしつこくて気持ち悪い男やな……という感想しか抱けなかった。そして文庫化され、そんな読者の気持ちを代弁するかのように、町山智浩さんがあとがきですぱっと作者を断罪して喝采をあびた。

『結婚失格』の速水も、自分を結婚失格だとは思っていない。それどころか自分は「落ち度のない」人間で、なぜ突然離婚されたのかまるで理解できないと言う。
だが、読者には理解できる。
速水が自分の正しさを強く主張すればするほど、妻がなぜ彼から逃げ、話し合いすら拒絶したのかが、よく理解できてしまう。だから速水の言動に失笑してしまう。

なにしろ速水は妻に「愛していた人を嫌いになることの理不尽さ」を作品に描けと言うのだ。つまり自分を捨てた理由をちゃんと説明しろと。自分が愛されなくなった原因を考えるべきは速水自身なのに。 

  ほんとまさにその通りだといまも思う。でも、当時はただただ気持ち悪くてたまらなかったけれど(スミマセン)、自分が納得できるまで説明を求めてしまう気持ちも理解できるようになった。それほど執着したくなってしまうときもあるかもしれない、と思えるようになった。たぶん、誰にだってこんな気持ちになってしまうときはあるんじゃないだろうか。

 けど、私も含めて多くの人は、プライドや体裁にこだわり、そういったみっともない感情を押し殺し、なんでもないような顔をして生きている。この文庫に「特別寄稿」した穂村弘は、まさに

僕が君ならそんなことはしない。

と書いており、これもいま読むと、作者の行為に対する単なる否定ではなく、こういったことすべて含んだ一文だったのだとわかる。

 町山さんの解説も、作者を非難してるわけではなく、愛のある言葉だなとつくづく感じる。

速水には妻の声なき声がとうとう聞こえなかった。彼はせっかくのチャンスを逃した。
何のチャンス? 元妻を理解するチャンスを。自分を変えるチャンスを。成長するチャンスを。  

彼は自分を捨てなければ、妻を理解できない。人間がわからない。自分で自分を捨てられないなら、自分の居場所を捨て、自己を否定される旅に出るのはどうだろう。 

すぐに家出したまえ。
自分が正しいと思ううちは戻ってきてはいけない。 

  こうやって考えると、歳をとるのも興味深い経験だなとほんと思う。

  そしていま、昔好きだったサニーデイ・サービスの新譜『DANCE TO YOU』が好きでよく聞いているのだけど、2000年にいったん解散してそこから16年たって、また素敵なアルバムを届けてくれるなんて、まるで予想してなかった贈り物みたいだ。 

DANCE TO YOU

DANCE TO YOU

 

   少し前までは、えんえんと同じアーティストを聞き続けるのって、映画『ヤング≒アダルト』で象徴されていたとおり、成長のない証のようで、なんだか後ろめたい気すらしていたのだけど、いまは自信をもって、好きなアーティストも、そして自分も、進化し続けているのだと感じる。(が、いま結局、晴茂くんはどうなっているのでしょうか? 体調不良でお休みなの?)