快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

虫料理か…『SWITCHインタビュー達人達 枝元なほみ×高野秀行』~『異国トーキョー漂流記』

 週末に東京に行き、そして帰ってきて、録画しておいたNHK『SWITCHインタビュー達人達 枝元なほみ×高野秀行』を見た。すると、時折高野さんのエッセイにも登場するおなじみのミャンマー料理店からはじまり、「しまった!東京で行けばよかった!」と激しく後悔した。
 けれど、出てきたのがカエルとかコオロギで、「やはり行かなくてよかったかも…」とすぐに思いなおした。


 東京の高田馬場界隈って、ミャンマー料理店がいくつかあるようだけど、シャン族の店ってことなので、ここかな??

tabelog.com

 ↑を見ると、昆虫食のメニューがあるようなので、たぶんそうでしょう。いや、対談でも語っていたように、ワニやヘビなら、肉にしてしまえばあまり抵抗を感じないかもしれないが、虫はやっぱ見た目からしてキツイ気がする。
 しかし私は、高野さんが教壇に立っていたチェンマイ大学も見に行ったのだから、虫料理ごときでひるんだりせず、行かねばいけないような気もする。でも、チェンマイの市場で虫の佃煮がたんまり入った鉢を見たときも、「うわっ」って思ったな…


 いや、虫料理はさておき、対談の内容はとてもおもしろかった。伝説の?ムベンベ探索の映像が結構出てきたのも貴重だった。先日の『クレイジージャーニー』より多かったのではないでしょうか。
 なかでも、「北極や南極にはまったく行きたいと思わない。人間が住んでいるところにしか興味がない」という言葉に深く納得した。そう、それが高野さんといわゆる「冒険家」の人たちと一線を画すところであり、探検物語にはそんなに興味がない私が高野さんの本を読み続ける理由なのだとあらためて感じた。なので、べつにコンゴやミャンマーソマリアまで行かなくても、たとえ東京が舞台であっても、『異国トーキョー漂流記』のようにおもしろい本になるのだと思う。 

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

 

  この本のなかでは、第三章「スペイン人は『恋愛の自然消滅』を救えるか!?」がとくにおもしろく、さまざまな示唆にとんでいるのだけれど、しかし何度読み返しても

彼女(←高野さんが22歳のときの彼女)はお嬢様育ちなので、私からすると視野が狭い。価値観も固定されている。彼女が好きなものは、ほぼすべて「今みんなが好きなもの」だった。ディズニーのキャラクターとか、最新のヘアスタイルとか、ハリウッドの”超話題作”とか。  

 このくだり、どうしてそんな彼女が高野さんのことを気に入ったのか、つくづく謎だ。「若い女の子によくあるように、世間の常識からはずれている男が新鮮に見えたのかもしれない」と書いているが、いや、限度があるやろって思えてならない。「世間の常識からはずれている」って、バンドを組んでプロ目指しているとか、就職せず大学の研究室にこもって研究を続けているとかのレベルではなく、高野さんの場合、コンゴに恐竜を探しに行ったり、アマゾンを川下りしようとしているのだから。

 そしてまた逆に、高野さんがその彼女のどこが好きだったのかも謎ですが。まさか「びっくりするような美人」だったから(だけ)ではないと思いたいが…。まあ、お互い自分にないものに魅かれるという、若気の至りなんでしょう。で、読んでない人には非常に申し訳ないですが、ネタバレさせてもらうと、章のタイトルの答えは「(案の定)救えなかった」なのですが。


 あと、番組では最新作の納豆の映像もおもしろかった。ほんとうに干したらあんな形状になるんですね。食べてみたい。納豆の味がするんだろうか。枝元さんの料理もおいしそうだった。 

謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―

謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―

 

  けど、枝元さんの自宅のキッチンにあった冷蔵庫のドアに”WAR IS OVER”のステッカーが貼ってあったのが、強いメッセージ性を感じた。


 録画を見終わってからもテレビをつけていたら、『グレーテルのかまど』がはじまり、今日のテーマはなんと「能町みね子のミルクセーキ」だった。能町さんが自作のミルクセーキ曲を披露していた。(ところで、私はずっとあの声が「姉さん」なのだと思っていたが、ごく最近、あれが「かまど」なのだと知っておどろいた)
 ほんとNHK、なんだかやたら攻めてますね。今朝のあさイチパクチー大特集だったし。このパクチー銭湯まで紹介していました。

www.osaka268.com

パクチー大好きなんで、一回くらい入ってみたい気もする。しょうぶ湯のようなもんだろうか?

国家を股にかけない落ちこぼれスパイの奮闘記 『窓際のスパイ』 (ミック・ヘロン 田村義進訳)

「祖父が枕もとではじめて読んでくれた本は『少年キム』だ」シドはその本を知っているようなので、説明はしなかった。「そのあとはコンラッドとか、グレアム・グリーンとか、サマセット・モームとか」
「『アシェンデン』ね」
「そう、十二歳の誕生日には、ル・カレの著作集を買ってくれた。そのときの祖父の言葉はいまでも覚えてる」
”ここに書かれているのは作り話だ。でも、それは嘘っぱちだという意味じゃない” 

 とあるように、スパイと文学とのかかわりはかなり深いようだ。

 キプリングの『少年キム』やコンラッドの『密偵』など、スパイが登場する文学作品も多く、また、グレアム・グリーンサマセット・モームジョン・ル・カレなど、スパイとしての経験を小説に生かす作家も少なくない。

 この『窓際のスパイ』は、本場イギリスが生んだスパイ小説の新機軸だと言える。 

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

 

 いったいどこが新機軸なのかというと、タイトルから想像できるように、この小説の登場人物たちは、国家を股にかけて暗躍したり、テロリストと戦ったりするようなスパイのイメージとはまったくかけ離れている。
 
 夢や野望を抱いて保安局(MI5)に入ったものの、信じられないようなミスを犯したり(機密ファイルを電車に置き忘れるとか)、アルコール依存症になったり、ただ単純にみんなから嫌われたりした結果、「泥沼の家」という”窓際”に追いやられて、来る日も来る日も書類の整理やデータ入力といった雑務や、ときにはゴミあさりまでさせられる落ちこぼれスパイたちだ。


 主人公リヴァーは、上記の引用でも示唆されているように、「伝説のスパイ」である祖父によって、子供のころからスパイの英才教育を受け、意気揚々とMI5の一員になったにもかかわらず、早々にテロリストの「捕獲」に失敗し、通勤ラッシュ時のキングス・クロス駅を大混乱に陥れ、「泥沼の家」送りとなる。そんなリヴァーを待ち受けていたのは、太鼓腹であたり構わず放屁する「泥沼の家」のボス、ジャクソン・ラムであった……(ちなみに、ジャクソン・ラムは「盛りを過ぎたティモシー・スポールによく似ている」と描写されている。ティモシー・スポールといっても、ピンとこないひとも多いでしょうが(私も含め)、こんな感じのよう)

 冒頭でえらそうに書いたけれど、実のところ、スパイ小説とか本格サスペンスとかぜんぜん詳しくないのですが、そんな私が読んでもすごくおもしろかった。いや、詳しくないというより、本格的なハードボイルドやアクション小説などは苦手といってもいいのですが、この小説は人間ドラマという面が強く、セリフはもちろん、地の文もユーモアとペーソスにあふれていて、一気に読んでしまった。英国風のユーモアというか、皮肉な笑いを好む人にはオススメです。皮肉な笑いといっても、頭脳型の笑いばかりではなくドタバタ要素も多い。(スラップスティックも、モンティ・パイソンに代表される英国流ユーモアですね)

 日本の作家でいうと、ユーモアのテイストや人間の描き方が奥田英朗に近い気がした。ジャクソン・ラムが伊良部一郎に似ているかというと……体型は似ているか。あと、この「泥沼の家」が好評だったらしく、二作目(『死んだライオン』)、三作目と続く人気シリーズになっているところも共通項といえる。


 ストーリー展開としては、パキスタン系イギリス人の少年が極右グループによって人質に取られるという事件が起こり、「泥沼の家」のメンバーが一丸となって捜査にあたるのだが、冷戦時代とは違い、またこの小説の性格からか、「国家を股にかけた」アクションがあるわけではないので、本格スパイ小説を好む向きには少々不満かもしれない。でも私はじゅうぶん楽しめました。


 あと、この作品と二作目『死んだライオン』を読んでつくづく感じたのは、女が強い!ということだった。女性陣のキャラがたってるな、と。こういう作品に出てくる女性って、ふつうはどうしても”ヒロイン”感が出るように思うけど、この作品の女性陣はヒロインからほど遠い、”鉄の女”ぞろいだ。MI5のトップもナンバー・ツーも女だし。訳者解説によると、現実でもMI5のトップが女性だったことがあるらしく、それがモデルになっているのかもしれない。さすがスパイのみならず、”鉄の女”についても本場のイギリス。


 それにしても、MI5MI6のオフィシャルサイトを見てみると、なかなか興味深い。仕事内容について丁寧に説明されていたり、スパイあるあるを逆手にとった(?)クイズ形式になっていたりする。Careersのところを見ると、意外にもオープンに募集をしているようだ。秘密裡にスカウトしたり、ときにはクロロフォルムを嗅がせて仲間に引き入れるなどではないようだった。(そりゃそうか)

 

またまた最新号『暮しの手帖 84号』を買いました

 さて、「とと姉ちゃん」も終わりましたが、『暮しの手帖』の最新号84号を買いました。 

暮しの手帖 4世紀84号

暮しの手帖 4世紀84号

 

  前号に続いて、高山なおみさんの引っ越しの記事が興味深い。夫スイセイ氏との「ふたりきりの小宇宙」のように見えていた(少なくとも、かつてのクウネルなどの記事からは)生活から、いきなり神戸に単身で転居するとはどういうことだろう? と勝手に疑問に思っていたのですが、今回の記事を読むと、なんとなくわかった気がした。

「わたしはアンバランスででこぼこで、人と同じようにできないことに引け目を感じてきたけれど、まあ、それもありか、というような。もう若くない体も、自分のでこぼこさ加減も、いまは目をそらさずに見つめながら年をとれそうな気がするの」 

  この言葉が深く心に染みいった。でも、六甲山を望むメゾネットマンションって、関西人からすると、憧れの住まいですね。

 連載「気ぬけごはん」の「ウズベキスタン風肉じゃが」もおいしそうだった。トマトとじゃがいもをじっくり煮込む、フランスのポトフのもののようだ。ウズベキスタンの田舎の民宿の情景も素敵です。旅行記も読んでみたくなった。 

ウズベキスタン日記: 空想料理の故郷へ

ウズベキスタン日記: 空想料理の故郷へ

 

  まあ、おいしそうだったと言っても、正直めったに料理をしないので(作るとしても、焼くだけとか炒めるだけとか)、これも作ることはないと思うが、そんな私でも、土井善晴さんが連載「汁飯香のある暮らし」で、

キッチンに向かうみなさんの気持ちが少しでもラクになって、「料理って楽しいな」と感じられるようなことを毎回ひとつずつお伝えできればいいなと思っています。 

と言っているのを読むと、なにか作ってみようかなという気になった。テレビに出ているのを見ると、料理人のくせにいつもようしゃべるな~という印象しかなかったが。
 今回のテーマは味噌汁で、おいしい味噌を溶くだけでもおいしくなるので、出汁を取らなくてもいいし、具はなにを入れてもいいとのこと。この自由さ、気軽さが好ましい。インスタントの味噌汁の毎日から脱出できるだろうか……


 しかし、この号の、「炒め物上手になる」という記事にあるような「キャベツを切って洗って、サラダスピナーで水気をとばす」などの説明を読むと、サラダスピナー?? そんなん持ってへんねん、と一瞬やる気が失せるが、キッチンペーパー(なければそれこそタオルでも新聞紙でも)で拭くとか、なんなら、水気があったって気にしないみたいな柔軟性のある精神が必要なんでしょうね、料理をするには。


 あとは、森達也監督がコラムでネコロスについて書いていたのと(前号の岸政彦さんに続いて、ネコ話は必須ですね)、「読者の手帖」のコーナーで、投稿者が、60年ほど前に大阪の関目で取材に来ていた大橋鎭子さんと花森安治さんに会ったというのが印象深かった。関目まで足を運ぶって、さすが名物編集者ですね。上品そうなワンピースを着た鎭子さんと、サファリジャケットにスカートをはいた花森さんは、まさに「へんてこりん」な二人だったそう。
 
 そういえば、ドラマで「花山さん」を演じていた唐沢寿明は、たまにスカートをはいたりしていて頑張っているようだったが、結局髪型は決しておかっぱにせず、あのトレンディな「唐沢ヘア」はの不動のままだった。やはりこだわりがあるのだろうか。


 けどほんと、ドラマの「とと姉ちゃん」は、『暮しの手帖』に一生を捧げた鎭子さんがモデルということで、もっと応援したり共感できるドラマになると予想していたが、そうでもなかったのは、一体どういうわけだろう?? 
 
 やはり「家族のために(会社を興し、恋愛も諦め)」という美談要素ばかり強調されて、主人公がこの雑誌をどれくらい愛しているのか、どういう思い入れがあるのかがイマイチ伝わらなかったからかなーと思う。「家族のため」ではなく、「自分が好きでやりたいことをやっている」という方がよっぽどいいと私は思うけれど、これでは世間の支持は得られないのだろうか?

 

AND SO IT GOES――  『人生なんて、そんなものさ カート・ヴォネガットの生涯』(チャールズ・J・シールズ 金原瑞人ほか訳)

 カート・ヴォネガットの伝記『人生なんて、そんなものさ カート・ヴォネガットの生涯』を読んだ。 

人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯

人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯

 

  『タイタンの妖女』『猫のゆりかご』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』などの小説で愛と親切を高らかに謳い、『スローターハウス5』では、ドレスデンでの空爆を体験した元軍人として戦争のおそろしさを訴え、1970年代以降、アメリカの若者たちから絶大な支持を得たヴォネガットだが、私生活では短気で気難しく、身近な人に冷酷な仕打ちをすることもあった……

 と暴いたことにより、遺族から抗議され、ヴォネガットを神聖視する読者たちに衝撃を与えたというこの自伝だけど、まあでも、そりゃヴォネガットも人間だし、作家が複雑で気難しいのも当然だろうなという感じで(ほんとうにローズウォーターさんみたいな人格なら小説は書けまい)、最初から最後までおもしろく読んだけれど、とくに衝撃は感じなかった。
 一番意外だったのは、断固とした反戦主義者であり、また自らを社会主義者と称していたヴォネガットが、

カートは金を生み出すには資本主義が最善の方法だと信じていて、自らかなりの額の投資をしていた。カート・ヴォネガットが、露天掘りをしている企業やショッピングセンターの開発業者やナパーム弾の製造会社に投資していたことを知ったら、読者は衝撃を受けただろう。 

 というところだが、この投資に関しては、息子のマークが否定しているらしい。


 身近な人にとって付き合いにくい面があったとしても、小説がなかなか売れず三人の子供を抱えて困窮した生活のなか、病気と事故で相次いで亡くなった姉夫婦の子供四人を引き取ったという事実が、ヴォネガットが信念を曲げずに生きた証のように感じた。(最終的に、そのうち一番下の子は別の家にもらわれたが)

 そのエピソードは『スラップスティック』にも書かれていて、それを読んだ当時は、子供六人って結構たいへんじゃないのかな~とぼんやり思った程度だったが、この自伝によると、やはり尋常じゃなくたいへんだったようだ。この自伝の第七章は『子ども、子ども、子ども』と題されているが、「一九五八から五九年の冬、子どもが七人になって初めての冬で、カートは気がおかしくなりそうだった」と書かれている。この時期のヴォネガット家は

床は汚れていて、冷蔵庫のなかではいつもなにかがにおっていた。犬のサンディの目のまわりには、血を吸ってぱんぱんになったダニが何匹もくっついていたし、二匹のシャム猫はミャーミャー鳴きながらみんなの足元を走りまわっていた。 

とのこと。あまりお宅訪問したくない家ですね。

 しかし、引き取ることを決めたヴォネガットもえらいけど、それに異を唱えなかった妻のジェインもすごい。そう、この本で一番興味深い点は、この最初の妻ジェインとの結婚生活(が破綻するまで)と、二番目の妻ジルとの「地獄のような結婚生活」である。

 ジェインは、結婚してから長い間、ヴォネガットの小説がいっこうに売れず、貧しい生活が続いても、夫の才能をひたすら信じ、子供たちの面倒に明け暮れていた。というと、すごくしっかりした女性のように思えるが、この本からは、しっかり系ではなく、天然というか、少々浮世離れしている系のように思えた。だから、貧乏生活にも耐えることができたのかな、と。ヴォネガットの得意な皮肉などは通じなさそうな印象を受けた。ゆえにヴォネガットは物足りなくなったのか、あるいは、混沌とした家庭生活から脱出したかったからか、愛人をつくるようになり、結婚生活は破綻に向かう。

 けど、これだけ力をあわせて困難を乗り越えてきたのに、作家として成功した頃には結婚生活は破綻していたとは、人生ってなかなか苦いものだ。ヴォネガットもひどい男だな~と思う一方、純粋過ぎるせいか、当時流行っていたニューエイジ思想や瞑想に次々にのめりこむジェインに、無宗教者であるヴォネガットが我慢できなかったというのもわかる気もする。(けど、奥さんがこういうのにのめりこむって、夫が家庭をかえりみないことが原因だとも思うけど……現代の日本でも、”自然派ママ”っていうのか、オカルトチックなオーガニックにはまる主婦が多いようですし)


 そして、ヴォネガットは五十を前にして、写真家であるジル・クレメンツと出会い、ジェインとの離婚を成立させて再婚する。が、このジルとの結婚生活がまさに試練であった。
 若く美しいジルは野心家のタフな女性で、文学少女がそのまま大人になったようなジェインとはまったく違うタイプであるところに魅かれたようだ。女一人でサイゴンベトナム戦争の写真を撮りに行くなどしていたジルは、有名人のトロフィー・ワイフになっただけでは満足せず、自己主張が激しく、ヴォネガットを完全に支配しようとした。

 はたから見れば地獄のような結婚生活だが、この自伝はジルからは協力を拒まれ、おもに前妻ジェインの関係者と子供たちからの証言をもとにしているので、公平なものではないかもしれない。とくに、前の結婚生活からの愛人ロリー(『スローターハウス5』のモンタナのモデルらしい)が家に遊びに行って、ジルに冷たい仕打ちを受けたという証言があるのだが、そりゃ愛人に親切にする妻はいないだろう。

 まあ、ヴォネガットも何度も家を出たり、何度も離婚協議したりと、波乱にみちた結婚生活であったのはたしかなようだが、結局ヴォネガットは、「自分にとってジルは『持病』のようなものらしい」と言って、ジルのところに戻るのだった。
 想像ですが、ジルも写真集や子供向けの本を出したりと、自分の名前で仕事をしたいと考えていた女性のようだったけど、「ヴォネガット夫人」としてしか見られず、結局ヴォネガットの秘書的な存在におさまってしまったことに鬱屈があったのかもしれない。

 ……と、二度の結婚生活の感想で長くなってしまったが、それ以前のヴォネガットの家庭環境も非常に興味深かった。とくに、ヴォネガットの人格形成にもっとも強い影響を与えたと思われる、自殺した母への思いと、優秀な兄へのコンプレックスが。かなりぶ厚い本ですが、翻訳はとても読みやすくすらすら読めるので、一冊でもヴォネガットの小説を読んだことのある人や、これから読みたいと思っている人にはぜひともオススメします。

 

「ほんとうのこと」が知りたいだけなのだ 辺境中毒!(高野秀行)

 さて、前回紹介した内澤旬子さんといえば、高野秀行さんの『辺境中毒!』で対談しています。 

辺境中毒! (集英社文庫)

辺境中毒! (集英社文庫)

 

 その対談で、高野さんが「旅の七つ道具」を挙げていて、

使い捨てのコンタクトレンズ、大小のノート、ハッカ油、蚊取り線香、ヘッドライト、辞書 

 とのこと。日本では眼鏡なのに旅先でわざわざコンタクトに? と思いきや、「眼鏡をかけていると、明らかに外国人だとわかる」とのこと。いやまあ、高野さんが行く外国は辺境ばかりなので(この当時ならミャンマーの僻地とか、最近ならソマリアとか)地元の人はだれも眼鏡をかけていないのかもしれないが、ふつうの外国の都市なら、眼鏡をかけるアジア人はさほど珍しくないのでは、とも思いますが。

 ちなみに、ハッカ油と蚊取り線香も、僻地の虫対策とのこと。虫よけなんて現地で調達してもいいのだけど、「いきなり拘束されたりするから」念のために持っていくらしい。僻地の旅って、大量の虫と戦うか、そうでなければ拘束されるかの二択のようだ。


 そこから内澤さんの著書『世界屠畜紀行』からの流れで、高野さんがコンゴで猿をつぶして(つぶしたのは現地の人だが)食べた話になり、「猿は毛を焼き切ると、(人間の)赤ん坊にそっくり」らしい……。そして、現地の人たちは、それをわいわいとおいしくいただくとのこと。ただ、野生動物の肉は、別の項で書いているヤマアラシにしても、「かたい」という以外に特徴はないらしい。


 しかし、高野さん、気がついたら『週刊文春』でも「ヘンな食べもの」という連載を開始してますが(半ページなのが物足りない)、ゴリラやチンパンジーはともかく、カンボジアの市場で売ってたという、タランチュラそっくりの巨大クモまで平気で食べるのには度肝抜かれる。ほんま死ぬで?!って心配になってしまう。


 まあでも、『移民の宴』では、タイトル通り、食卓から在日外国人コミュニティを取材していたり(いま思うと、この本がひとつのターニングポイントになったのかもしれない)最新作は納豆なので、いまやUMAではなく食がライフワークになっているのでしょう。 

  えっ?UMAってなんじゃそれって? UMAというのは未確認動物のことで、高野さんはコンゴに怪獣を探しに行ったりと、もともとはUMAを見つけるために探検をはじめたはずだけど、怪獣以外にも怪魚に雪男とあれこれ捜索しているにもかかわらず、いまだ発見の報はない。 

怪魚ウモッカ格闘記―インドへの道 (集英社文庫)

怪魚ウモッカ格闘記―インドへの道 (集英社文庫)

 

  上記の『辺境中毒!』でも大槻ケンヂとUMAやムー(懐かしい)の話で盛り上がり、また書評の項では、太田牛一という、織田信長に仕えていた武士による信長の伝記『信長公記』を紹介し、そこで「織田信長は日本初のUMA探索者か?」という説まで唱えている。

 なんでも、『信長公記』によると、尾張の「あまが池」で伝説の大蛇を目撃したという者があらわれると、信長はさっそくその本人を召喚して直接聞き出し、近隣の農民を集めて池の水を掻い出そうとするが、いくらやっても七割くらいまでにしか減らず、業を煮やした信長は自分で刀をくわえて水に潜ったとのこと。で、高野さんによると

池の水を全部掻い出させるとか、自分で刀をくわえて池に潜るというのは、きっと一般人からすれば「信長はやっぱり直情径行だ」と思われるのだろうが、UMA探索歴の長い私からすると、すごくまっとうな手段に思える。 

 とのこと。それ以外にも、信長は「不思議な霊験」を示すという僧の噂を聞くと、さっそく捕まえて「オレの前でやってみろ」と言い、案の定できなかったので処刑したり、浄土宗の僧と法華宗の僧を戦わしたりと、ほんと神も仏も知ったこっちゃない行いの数々なのですが、高野さんはそれらにも強く共感。

ああ、信長。あまが池の探索も超能力の真偽鑑定も夢の宗教対決も、みんな私がやってみたいことばかりじゃないか。
そうなのだ。私はUMAファンでもなければオカルト好きでもない。ただ「ほんとうのこと」が知りたいだけなのだ。 

 このくだりを読み直して、アヘン黄金地帯についてもソマリアについても、そして納豆についても、ただ「ほんとうのこと」が知りたいという純粋な思いが高野さんの原動力になっているのだな、とあらためて感じ入りました。

 最近〝クレイジージャーニー”が流行っているようで、高野さん自身も出演されたことがあるけれど、やはりほかの人たちとは一線を画しているよな、と確信しているのは私だけではないはず、たぶん。 

 

捨て暮らし、そして離島への移住へ 『捨てる女』 『漂うままに島に着き』(内澤旬子)

 こんなごみごみしたところで、せかせか暮らすのは止めて、田舎にでも行ってゆっくりしたいな……とふと考える瞬間がある。

 いや、まあ誰にでもあると思うのですが、私の場合は、車の運転もできないし、体力も自信がないし、とにかく虫が部屋のなかに入ってくるのが怖くて、植物も一切置かず、いまは8階の部屋なのにもかかわらず、なるだけ窓を閉めて暮らしていたりするので、田舎暮らしなんてまったくできるわけがないのですが。 

漂うままに島に着き

漂うままに島に着き

 

  しかし、内澤旬子の『漂うままに島に着き』を読んだりすると、離島暮らしあこがれるなー、小豆島いいな~『二十四の瞳』に(←古いですが)、オリーヴの林……と、完全にお花畑脳になってしまう。

 が、実際は、この本でも書かれているように、離島暮らしは甘いものではない。いまはネットのおかげで、Amazonでどこにいても本などは買えるといっても、ネットがあっても病院に行けるわけではない。ヨガをするにも、都会に出ないといけない。どうしても都会より濃密になる近所づきあいも、快いものばかりではない。
 そして当然、そこでなんの仕事すんねん!?っていう問題がある。いくら生活費が都会よりかからないといっても、なんらかの金銭を発生させなければならない。やっぱり田舎暮らしなんて、とうてい無理だな~と、腹の底から納得する。


 でも、それでもやはり、いらないものはぜんぶ捨てて身軽になって、身の回りをリセットしたいという衝動はある。それを書いているのが、前作の『捨てる女』だ。 

捨てる女

捨てる女

 

 本を買い読みすれば、常に本を手放す、捨てることから逃れられないということなのだろうか。

買えるものをそのまま持ち続けるには、東京とその近郊の土地が高額すぎるため、ちょっとぼやっとしてるとすぐにゴミ屋敷や汚部屋になってしまう。そうそう、つまりね、本やモノが溜まるのはあたしのせいじゃなくて、こういう世の中のせいってことにしたいんですよ、もう。 

 このくだり、激しく激しく同意する。しかし、まさに「ぼやっとしてる」だけの私と違い、内澤さんは乳がんのホルモン療法の副作用もあるからなのか、あるいは豚を育てて食べたことも影響しているのか、どんどんどんどん家のなかのモノを処分していく。

 もちろんそのなかには、かつては大事にしていたもの、思い出のつまったものも多い。『本の雑誌』の名物編集者であり、サッカーを愛する杉江さんが、「靴(サッカーシューズ)は捨てられませんよ、僕は」と言うのを聞いて、「いや、お気持ちわかります」と書きつつ

しかしなんだかそれももう、重くなっちゃったんだ、あたしは。

と、過去の旅で履いた靴も、これから行くかもしれない旅の装備も、潔く捨てる。「いつかまたバックパック背負ってどこに行くかもわからないと、思い続けるのにも、疲れてしまった」と。大量の本を捨て、十五年くらい前にもらった梅酒とジャム(!)をせっせと食べて消費する。(これは捨ててもいいのではないかと思ったが)そしてついには

夫と彼の大量の荷物の断捨離を決意。2010年5月に仕事場から机と最低限の資料を持ち出し、寝室マンションからは奴の服と布団を叩き出して別居となったのである。 

  いや、もちろんこれに至る経緯も多少書かれているのですが、プライベートな事柄のせいか、そんなに深くは触れられていない。それより、その後、トイレットペーパーと決別した経緯の方が詳細に書かれていて圧倒される。
 震災のあと、トイレットペーパーが買い占められて、不当に値上がりしたことに腹を立てたのが契機となり、これまでトイレットペーパーを使っていない国を旅行したこともあるのだから、自分の家でもできるはずと、トイレに手酌を置きはじめる。いやはや、感心することしきりでした。


 さらに、趣味というより、なかば仕事としてワークショップも行っていた、製本にまつわる材料も捨てる。収集してきた古本や仕事で描いたイラストの原画も売ってしまう。で、ありとあらゆるものを捨てまくったあとの感慨としては

いよいよどん詰まりの様相をさらし始めた捨て暮らし。生活がこざっぱりすればするほどなぜだろう、寂しくなってきてしまったのである。「寂しい」というワードが自分の人生に浮かぶとは、まるっきりの想定外のこと。
しかし、人恋しいのかと言われると、微妙。性別の違う誰かと暮らすことを想像すれば、悪いことばかりぼっこぼこに浮かんできて叫び出しそうになるくらいには、いまだに結婚生活はトラウマなのである。 

と、新たなフェイズに移行する。しかし、結婚生活でいったいなにがあったのか(書かれていること以外に)、、というのも、どうしても気になりますが。まあそこから、内澤さんは多肉植物を集め出し、都会からの脱出を考えるようになる、で冒頭の島暮らしにつながるわけです。


 しかし私は、こうやって読んでみたものの、移住はもちろん、捨て暮らしさえもまったくできていない。結局私には、このごちゃごちゃした町の狭い部屋で息苦しく生きるコクーン生活があっているのだろうな……なかば諦め気味に思ったりもする。

女たち、そして書くことへの愛と忠誠 『詩人と女たち』(チャールズ・ブコウスキー 中川五郎訳)

 さて、ブコウスキー・シリーズ、今度は代表作と言っていい『詩人と女たち』を読みました。 

詩人と女たち (河出文庫)

詩人と女たち (河出文庫)

 

  『勝手に生きろ!』では日雇い労働のような仕事を転々とし、それから五十歳くらいまで郵便局員として働いたブコウスキーだが、ついにアメリカの若者から熱狂的に支持される詩人になったのが、この本を読むとよくわかる。あちらこちらから朗読会の依頼がひっきりなしに届き、ファンレターも次々と送られてくる。そして往々にして、朗読会やファンレターには生身の女もついてくる……


 が、ブコウスキー自身はとくに変化したわけではなく、『勝手に生きろ!』で、仕事に就いては辞めというのを、感心するくらいえんえんと何度も何度もくり返していたのと同じように、この『詩人と女たち』では、女と出会って恋におち(ほんとうに恋におちる相手は限られているが)、でもすぐにうまくいかなくなって別れるというのが、そんなにモテてうらやましい!と思えるレベルをはるかに超え、あきれるくらいえんえんとくり返される。


 ヤリチンとメンヘラ女たちの物語、と一言で言ってしまうと身も蓋もないが(しかし、このフレーズを使うと、世の中のほとんどの小説はこう言い切れる気がしますね。『源氏物語』とか。『ノルウェイの森』だってそう呼べそうな気がする)、しかしブコウスキーの分身である主人公チナスキーは、単純に女の身体をモノにしたいとか、とにかく数多くの女とやりたいと思っているわけではない。女を支配したいわけでもない。

 来るもの拒まずで、手当たり次第に女と関係を持っているように見えるが、というか、この小説においては事実その通りなのだが、強烈に女になにかを求めている。しかし、女と気持ちを通じあわせたときに生まれたように感じたなにかはすぐに胡散霧消し、女との関係はすぐに泥沼にはまるか、あるいは泥沼までも行くことなく、フェイドアウトする。

見たとおりの彼女たちをわたしは受け入れる。しかし愛はそう簡単には訪れてくれない。訪れるとしても、たいていは間違った理由からだ。ただ愛を抱え続けることにうんざりして、あっさりと解き放してしまうのだ。愛は行き場を求めている。そしてたいていは、やっかいなことが待ち受けていた。 

  そして、そんな狂乱の日々のなかでも、ブコウスキーは書き続ける。日雇い仕事を転々としていたとき、あるいは、毎日毎日郵便局員をしていたときと同じように。書くというのは俯瞰する行為だ。客観的には底辺に近い生活のときでも、人気作家となってからも、ブコウスキーは自己を俯瞰する視点を持ち続ける。


 物語の前半のミューズであるリディアと、その姉妹と一緒に、キャンプ(ブコウスキーからもっとも遠い行為だが)に行くところは、山のなかで迷子になるエピソードも含めて、ブコウスキーのユーモアが発揮されたおもしろいところであり、とくにリディアの姉グレンドリンが(どちらもアーティスト志望のめんどくさい姉妹だ)自分の書いた小説を聞かせるところが興味深い。ブコウスキーは思う。

それほどひどくはなかったが、まだまだプロの仕事とは言えず、かなりの推敲が必要だった。グレンドリンは自分と同じように読者もまた彼女の生活に魅せられるに違いないと思い込んでいた。それが致命的な間違いだった。もうひとつの致命的な間違いは、あまりにも語りすぎということだった。 

 しかし、そんな放埓な日々を送っていたチナスキーだが、健康食レストランを経営するサラと出会う。サラは親しくなっても、なかなか「最後の一線」を超えさせてくれず、チナスキーは手当たりしだいに女と寝る一方で、サラに魅かれていく。

サラはわたしから受けているような仕打ちではなく、もっと大切に扱われて当然だ。人は、たとえ結婚していなくても、お互いに対して何らかの忠誠を尽くさなければならない。ある意味では、法律で義務づけられたり神聖化されたりしないだけに、信頼の方がもっと重きをおかれなければならない。 

  このサラとの未来を暗示する形で物語は終わるのだが、少し甘いというか、男の夢のようにも感じたけれど、中川五郎による訳者あとがきによると、このサラは実際にブコウスキーの妻となった、リンダ・リーをモデルにしているらしい。

 ちなみに、この単行本は、日本ではじめてのブコウスキーの訳書だったため、ブコウスキーのそれまでの生涯と仕事について、丁寧に愛情深く解説されていて、読みごたえがある。その後の文庫版あとがきでは、ブコウスキーが日本の読者にも愛されるようになったことを喜びつつ、その間におこった「とてつもなく悲しいこと」として、ブコウスキーの死を知らせている。そう、

わたしは八十歳まで生きるつもりだった。その時には十八歳の娘とやれるかもしれない。 

って言っていたのに。