快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

結婚にまつわる洞察が綴られる――現代の『高慢と偏見』? 橋本治 『結婚』

 橋本治の『結婚』は、28歳の主人公倫子が、同僚の27歳の花蓮に「卵子劣化」の話を切り出すところからはじまる。 

結婚

結婚

 

  いや、ここ最近政府があれこれ言い出した「卵子劣化」とは、橋本治にしてはベタな話題を取りあげてるな~と思ったのですが(話はそれますが、そういった「妊娠しやすい年齢」とか「妊活」にまつわる問題については、翻訳者の高橋さきのさんがシノドスのサイトに寄稿されてます)、

synodos.jp


倫子は「恋愛が苦手」であり、卵子劣化という恐ろしげな言葉を聞いても、現実の結婚についてはピンとこない。

倫子には、差し迫って「母になりたい、子供を産みたい」という願望がない。それを言うなら、「結婚したい」という切迫した願望もない。  

一年前なら、若いカップルが子供を抱えて歩いていても、なんとも思わなかった。「そういう人もいるな」と思っていただけだったのに、今の倫子は若い子連れのカップルを見るとドキッとしてしまう。以前はそんな風に思わなかったが、「この人達は結婚をしているんだ――」と思ってしまう。そして、「どうしたら結婚が出来るんだろう?」と思ってしまう。 

  と、こんな感じで、倫子のぐるぐる回る思考がそのまま綴られていて、橋本治の多くの作品と同様に、この小説も「物語」というより、結婚だけにとどまらない現代社会への洞察が綴られているのですが、やはり賢いな―、よくわかってるな、と考えさせられるところが多かった。なので、この小説について語ろうとすると、ストーリーや登場人物の心情がどうのというより、この洞察を共有してほしいので、どうしても引用多めになりますが……

 たとえば、倫子の兄の娘の名前が「芙鈴亜」(フレアと読む)ということについては、

倫子には理解しがたい「なにかの間違い」があって、それで兄の娘は「芙鈴亜」になったのだろう。……車に乗ってやって来た息子夫婦を迎えに出た母親が、軽自動車の窓をノックして「フレちゃーん」と言っているのを見て、「現実というのはこういうもんなんだ」と思った。
当事者というのは、なにもめんどくさいことを考えない。めんどくさいことを考えるのは、その当事者の輪からはずれて、玄関口に立って外を眺めている倫子のような部外者だけだ。 

 花蓮が美魔女に憧れる母親(53歳)について語るセリフでは、

「お母さんはさ、”自分が気に入るような相手と早く結婚して、私を安心させろ。私のことを考えろ、私のために働け”って、そう思ってるのよ」 

  ちなみに、”母親”というもののおぞましさについては、橋本治は前からエッセイなどでもよく指摘していますが、この小説を読んだあと、「橋本治 結婚」でネットで検索したら、

なんで近頃の若いもんが結婚したがらないのかというご不満意見を読んで、娘が思い通りにならないとご不満の母親に「それはあなたが娘さんにとっての『生きた絶望』だからだ」と答えた橋本治先生の人生相談を思い出した。

が、山のようにあがってきた。そう、これが現代社会の――とくに女にとっての――真理なのですね。


 もちろん、「結婚」が、女だけのプライベートな問題として描かれているわけではない。言うまでもなく、「結婚」も「出産」も女ひとりではできないし、「仕事」もおおいに関係する。旅行代理店の窓口営業という倫子の仕事が

競争原理でツアー客を獲得すれば、それによって給料は上がる。その額は僅かではあるけれど、競争原理の恐ろしさは、それが存在するとつい乗っかってしまうところにある。人は、うっかりすれば他人より上位に立ちたがるから、「君の成績次第で――」と言われると、つい頑張ってしまう。……恐ろしいことに、競争原理は癖になる。慣れてしまえば、その勤勉の中にいるのが当然のように思えて、ついつい頑張ってしまう。 

 と説明されていて、真綿で首をしめられるような、現代の職場の実態をよくあらわしているな~と感心した。

 また、倫子がかつて付き合った男たち――同僚の漆部(「傷ついた女をやさしくもてなしている自分が一番好きな男だった」)や、出世のために職場の後輩女性と結婚し、すぐにその結婚生活が破綻した大学の先輩白戸の人となりと、倫子との関係も容赦なく描かれている。いろいろ納得した。

倫子は、女が陥りがちな誤った結婚観に片足を突っ込んでいた。それは、「私なら彼が理解出来る。彼を支えられる」という過信である。 

痛いなー。なんでこんなによくわかっているんだろう。

 けど、こうやって、神の視点から「女が陥りがちな誤った結婚観」って言ってしまうって、まさに『高慢と偏見』のようですね。そういえば、なぜかいままた『ブリジット・ジョーンズ』も新作ができているようだし、どれが一番現代社会を反映しているか、対比してみてもおもしろいかもしれない。

女が望む結婚相手は、「自分になんでもさせてくれるような、なにもしない男」か、「自分がなんにもしないですむ、なんでもしてくれる男」の両極端になってしまうが、倫子は後者を選ぶほど幼児性が強くはない。……
だから倫子は、漆部のような「なんでもしてくれる男」が苦手で、高校時代の田島や白戸のような、根本のところでなにもしてくれない非情さを持ち合わせている男に馴染んでしまう。 

 そして、最後に倫子が選んだ結末は……これがなかなか意表をつかれた。いや、納得できないわけでもないのですが、この先いったいどうなるんだろう??っていう。ぜひ続編も書いてほしい。

ブッカー賞について私の知っている、ニ、三の事柄

 さて、今年度のブッカー賞が発表されました。アメリカ人作家ポール・ビーティーの『The Sellout』 で、初のアメリカ人作家が受賞とのことで話題になりました。まあ、少し前まではイギリス・アイルランド作家のみが対象だったようなのですが。(しかし、クッツェーマーガレット・アトウッドはイギリス作家に入るの?よくわからない。かつての大英帝国圏内ならいいのだろうか)

www.afpbb.com

 いや、世界文学について詳しいわけでもなんでもないのですが、ブッカー賞受賞作は、私が読んだ数少ないものでも、カズオ・イシグロ日の名残り』、J・M・クッツェー『恥辱』、ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』……と、どれも決して難解でなくおもしろく読めて、けれど余韻を残すといったハズレなしの名作揃いというイメージがあるので、今年の作品もどんなのか楽しみです。


 で、先日東京に行ったとき、紀伊國屋新宿南店(洋書専門)フロアで、ブッカー賞についての公式ガイドブックがフリーペーパーとして置いてあったので、一冊もらってきた。で、読んでみると、小ネタ満載でなかなか興味深かった。


 1986年のキングズリー・エイミスはミソジニストとして有名だったので(そうなの?)、5人の審査員中4人が女性だというのに受賞に決まったときは、世間をおどろかせたらしい。しかもこの年の対抗馬は、フェミニズム文学の代表のように言われるマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』なのに。ちなみにキングズリー・エイミスはこの賞金で、新しいカーテンを買うと語ったようだ。

 賞金をなにに使うかというのは、定番の質問らしく、1998年に『アムステルダム』で受賞したイアン・マキューアンは、バスの運賃や床のリノリウムなどではなく、まったく役に立たないもの "somotheing perfectly useless"に使うと語っている。結局なにに使ったのだろうか。アムステルダム』は、読んだときにはなかなかおもしろかったという記憶はあるのだが、いまとなっては詳細がすっかり頭から抜け落ちているので、再読します……
 2003年のD・B・C・ピエールは、三大陸で十年にわたって友人たちから金を借りてトンズラしているので、小切手はそのまま友人たちのもとに送られるとのこと。しかし、このD・B・C・ピエールってはじめて知りましたが、都甲幸治さんが翻訳してるし、かなりおもしろそうですね。 

アムステルダム (新潮文庫)

アムステルダム (新潮文庫)

 

 

ヴァーノン・ゴッド・リトル―死をめぐる21世紀の喜劇

ヴァーノン・ゴッド・リトル―死をめぐる21世紀の喜劇

 

  あと、1992年にマイケル・オンダーチェの『イギリス人の患者』とバリー・アンズワーズの『Sacred Hunger』のW受賞となったときは、かなり炎上したらしく、以降、絶対に!!一作に決めるというルールができたらしい。べつに二作受賞があってもいいように思うが。
 あと、25周年である1993年と、40周年である2008年には、ブッカー賞のなかのブッカー賞を選んでいるが、どちらもサルマン・ラシュディの『真夜中の子供たち』である。えらくブッカー賞に愛されているようだ。


 ブッカー賞にはインターナショナル部門もあって、英語以外の言葉で書かれて英訳された小説が対象で、今年は韓国の女性作家韓江(ハン・ガン)の『菜食主義者』が選ばれたのがすごい。しかもノーベル賞作家オルハン・パムクなどをおさえて。パク・ミンギュの『カステラ』など、韓国小説もいま注目されているので、これも翻訳を出してほしい。

japanese.joins.com


 で、上で述べた冊子には韓江のみならず、翻訳者デボラ・スミスも紹介されており、それによると、彼女は21歳まで外国語ができなかったが、英文学を修めたあと翻訳者になろうと思いたって、英語への翻訳者が少ない韓国に行くことを決意したらしい。そしていまは、アジアとアフリカの小説の翻訳のための出版社も設立したとか。行動力にただただ感心。


 そして、紀伊國屋新宿南店で、せっかくだからなにか読もうと思って、今年のショートリストに選ばれていたOttessa Moshfegh(そもそもなんて読むのだ?? オッテサ?)の『Eileen』を買ってみた。 

Eileen: A Novel

Eileen: A Novel

 

  少年刑務所での仕事とアルコール依存症父親の面倒に明け暮れる24歳の女性の物語というので、なんだかおもしろそうに思えた。読んだらまた感想書かないと……でも読むべき本が大量に積まれているのでいつになることやら。。

”闇の奥”のアマゾンで、ひとりの女性が生まれ変わる 『密林の夢』(アン・パチェット 芹澤恵訳)

アンダーズは結婚の申し込みでもするように、熱っぽくマリーナの手を取った。「いいかい、子どもを生む時期をいくらでも好きなだけ先送りできるんだよ。踏ん切りがつくまで、納得できるまで迷っていられるんだよ。四十五歳くらいが限界じゃないか、なんて思わなくてもよくなるんだ。五十でも、六十でも、たぶんもっとあとになっても。いつでも子どもを産めるようになるってことなんだよ」
アンダーズのそのことばは、直接自分に向けられたもののように感じた。マリーナは四十二歳だった。社屋を出るときは必ず別々に出ることになっている男と、恋愛関係にあった。 

  最近では、ジャネット・ジャクソンが五十歳で出産予定、という仰天ニュースがありましたが、この『密林の夢』では、なんと、アマゾンの奥深くに住む部族の女は「寿命が尽きるまで子どもを産み続けることができる」ことが発見される。 

密林の夢

密林の夢

 

  大手製薬会社に勤めるアンダーズが、実地でその研究をしているアニータ・スウェンソン博士のもとに赴くが、アンダーズはアマゾンで熱病にかかって死亡してしまう。そこで、主人公である同僚のマリーナが、そのおどろくべき研究と、アンダーズの死の原因を調べるためアマゾンに向かう……


 こう書くと、なんだかヘンな話、そんな謎の部族の調査に行くって正直おもしろいの? と感じてしまうかもしれないけれど、これが想像よりはるかにおもしろく、読んでいくうちにどんどんのめりこみ、わりとぶ厚い小説なのだけど一気読みしてしまった。

 まず、冒頭からマリーナの心情が丁寧に描かれているところにひきこまれる。旅立つ前のマリーナの胸には、いくつもひっかかっていることがあった。インド系アメリカ人であるマリーナは、両親の離婚のため父親とはなればなれになり、なかなか会うことができないまま父親は亡くなり、いまでも父親との思い出をくりかえし夢にみる。また、産婦人科の研修医だったころ、たったひとつの、けれど取り返しのつかないミスを犯し、医者の道を断念したのだった。そして、ニ十歳近く年上である、会社のCEOのジム・フォックスとの関係。

 で、そういうモヤっとする案件をいくつも抱えたマリーナが、気が進まないながらもアンダーズの妻カレンと三人の子どもへの同情心もあって、アマゾンに向かうべく、まずマナウスに到着するのだが、そこで足止めをくらう。アニータ・スウェンソン博士は研究の邪魔をされないよう、そう簡単に部外者を入れないように、若い放浪者夫妻に、門番として訪問者の足止めを命じていたのだ。

 マナウスの町で、スウェンソン博士の謎めいた研究生活をさんざん聞かされながらも、なかなかアマゾンの中に入れないというこの構造は、完全にコンラッドの『闇の奥』を思い出した。実際、海外の書評などネットで検索すると引き合いに出されているし、そう意識して書かれているのだろう。ちなみに『闇の奥』も以前感想を書きましたが、この本同様、ヘンな話だけどひきこまれるのでオススメです。 

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

  ここまで、たいしてストーリーは展開していないのだけれど、先に書いたマリーナの心情と、うざいけれども悪者でもなく、なんとなく憎めない放浪者夫妻や、熱帯の町で頼りになる有能な運転手兼世話人など、マナウスの町の人々との交流もかなり読みごたえがある。当初の目的であった、いくつでも子どもが産める研究とやらもどうでもよくなるくらいに。


 で、ようやく、なかば強引にスウェンソン博士について行ってアマゾンの奥地に入るのだが、そこからのアマゾンの豊饒な自然のイメージや、人も木や草も一体化したような生命力に圧倒される。そんな環境のもと、スウェンソン博士や、博士が面倒をみている自然児イースターとの交流を通じて、マリーナが生まれ変わっていく。もっと具体的に言うと、最初に抱いていたモヤっとした気持ちが、見事に解消される。
  それだけでもじゅうぶんなのに、あまりストーリーの大きな起伏のない小説かと思っていたら、最後の最後で思わぬ進展があり、謎が解き明かされ、意外な展開を見せるさまにもおどろかされた。(個人的には、ちょっと「えっ!?」と思うところもあった) 
 
 この物語のあと、生まれ変わったマリーナが、アメリカに戻ってどんな人生を歩むのかも読みたくなった。あのおっさん(フォックス)とは、やはり別れるんだろうか。訳者あとがきによると、スウェンソン博士を語り手にしたスピンオフ作品はあるらしいので、それも読んでみたい。
 まあでも、アマゾンもどんなところか興味はあったが(高野秀行さんもアマゾン下ってたし)、この本読むと、こりゃ行けんわとつくづく思った。アナコンダに襲われるのももちろん困るが、とにかく虫の大群の描写が怖すぎる。 

 
 アン・パチェットの本を読むのははじめてで、どんな作家かあまりよく知らず、実際日本ではそんなにメジャーではないと思うけれど(それとも私が知らんだけか)、アメリカではこの本も2011年のベストセラーになり、そして新作『Commonwealth』も、翻訳ミステリーシンジケートの「ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー」の項によると、九月の発売当初はベストセラーのトップとなり、いまもベストスリーに入っているので、かなりの人気作家のようだ。新作もきっと翻訳されると信じたい。また、この本の魅力は、翻訳もすばらしかったところが大きいと思うので、できれば同じ訳者で期待したいですが。

 

Commonwealth

Commonwealth

 

 

 

虫料理か…『SWITCHインタビュー達人達 枝元なほみ×高野秀行』~『異国トーキョー漂流記』

 週末に東京に行き、そして帰ってきて、録画しておいたNHK『SWITCHインタビュー達人達 枝元なほみ×高野秀行』を見た。すると、時折高野さんのエッセイにも登場するおなじみのミャンマー料理店からはじまり、「しまった!東京で行けばよかった!」と激しく後悔した。
 けれど、出てきたのがカエルとかコオロギで、「やはり行かなくてよかったかも…」とすぐに思いなおした。


 東京の高田馬場界隈って、ミャンマー料理店がいくつかあるようだけど、シャン族の店ってことなので、ここかな??

tabelog.com

 ↑を見ると、昆虫食のメニューがあるようなので、たぶんそうでしょう。いや、対談でも語っていたように、ワニやヘビなら、肉にしてしまえばあまり抵抗を感じないかもしれないが、虫はやっぱ見た目からしてキツイ気がする。
 しかし私は、高野さんが教壇に立っていたチェンマイ大学も見に行ったのだから、虫料理ごときでひるんだりせず、行かねばいけないような気もする。でも、チェンマイの市場で虫の佃煮がたんまり入った鉢を見たときも、「うわっ」って思ったな…


 いや、虫料理はさておき、対談の内容はとてもおもしろかった。伝説の?ムベンベ探索の映像が結構出てきたのも貴重だった。先日の『クレイジージャーニー』より多かったのではないでしょうか。
 なかでも、「北極や南極にはまったく行きたいと思わない。人間が住んでいるところにしか興味がない」という言葉に深く納得した。そう、それが高野さんといわゆる「冒険家」の人たちと一線を画すところであり、探検物語にはそんなに興味がない私が高野さんの本を読み続ける理由なのだとあらためて感じた。なので、べつにコンゴやミャンマーソマリアまで行かなくても、たとえ東京が舞台であっても、『異国トーキョー漂流記』のようにおもしろい本になるのだと思う。 

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

 

  この本のなかでは、第三章「スペイン人は『恋愛の自然消滅』を救えるか!?」がとくにおもしろく、さまざまな示唆にとんでいるのだけれど、しかし何度読み返しても

彼女(←高野さんが22歳のときの彼女)はお嬢様育ちなので、私からすると視野が狭い。価値観も固定されている。彼女が好きなものは、ほぼすべて「今みんなが好きなもの」だった。ディズニーのキャラクターとか、最新のヘアスタイルとか、ハリウッドの”超話題作”とか。  

 このくだり、どうしてそんな彼女が高野さんのことを気に入ったのか、つくづく謎だ。「若い女の子によくあるように、世間の常識からはずれている男が新鮮に見えたのかもしれない」と書いているが、いや、限度があるやろって思えてならない。「世間の常識からはずれている」って、バンドを組んでプロ目指しているとか、就職せず大学の研究室にこもって研究を続けているとかのレベルではなく、高野さんの場合、コンゴに恐竜を探しに行ったり、アマゾンを川下りしようとしているのだから。

 そしてまた逆に、高野さんがその彼女のどこが好きだったのかも謎ですが。まさか「びっくりするような美人」だったから(だけ)ではないと思いたいが…。まあ、お互い自分にないものに魅かれるという、若気の至りなんでしょう。で、読んでない人には非常に申し訳ないですが、ネタバレさせてもらうと、章のタイトルの答えは「(案の定)救えなかった」なのですが。


 あと、番組では最新作の納豆の映像もおもしろかった。ほんとうに干したらあんな形状になるんですね。食べてみたい。納豆の味がするんだろうか。枝元さんの料理もおいしそうだった。 

謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―

謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―

 

  けど、枝元さんの自宅のキッチンにあった冷蔵庫のドアに”WAR IS OVER”のステッカーが貼ってあったのが、強いメッセージ性を感じた。


 録画を見終わってからもテレビをつけていたら、『グレーテルのかまど』がはじまり、今日のテーマはなんと「能町みね子のミルクセーキ」だった。能町さんが自作のミルクセーキ曲を披露していた。(ところで、私はずっとあの声が「姉さん」なのだと思っていたが、ごく最近、あれが「かまど」なのだと知っておどろいた)
 ほんとNHK、なんだかやたら攻めてますね。今朝のあさイチパクチー大特集だったし。このパクチー銭湯まで紹介していました。

www.osaka268.com

パクチー大好きなんで、一回くらい入ってみたい気もする。しょうぶ湯のようなもんだろうか?

国家を股にかけない落ちこぼれスパイの奮闘記 『窓際のスパイ』 (ミック・ヘロン 田村義進訳)

「祖父が枕もとではじめて読んでくれた本は『少年キム』だ」シドはその本を知っているようなので、説明はしなかった。「そのあとはコンラッドとか、グレアム・グリーンとか、サマセット・モームとか」
「『アシェンデン』ね」
「そう、十二歳の誕生日には、ル・カレの著作集を買ってくれた。そのときの祖父の言葉はいまでも覚えてる」
”ここに書かれているのは作り話だ。でも、それは嘘っぱちだという意味じゃない” 

 とあるように、スパイと文学とのかかわりはかなり深いようだ。

 キプリングの『少年キム』やコンラッドの『密偵』など、スパイが登場する文学作品も多く、また、グレアム・グリーンサマセット・モームジョン・ル・カレなど、スパイとしての経験を小説に生かす作家も少なくない。

 この『窓際のスパイ』は、本場イギリスが生んだスパイ小説の新機軸だと言える。 

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

 

 いったいどこが新機軸なのかというと、タイトルから想像できるように、この小説の登場人物たちは、国家を股にかけて暗躍したり、テロリストと戦ったりするようなスパイのイメージとはまったくかけ離れている。
 
 夢や野望を抱いて保安局(MI5)に入ったものの、信じられないようなミスを犯したり(機密ファイルを電車に置き忘れるとか)、アルコール依存症になったり、ただ単純にみんなから嫌われたりした結果、「泥沼の家」という”窓際”に追いやられて、来る日も来る日も書類の整理やデータ入力といった雑務や、ときにはゴミあさりまでさせられる落ちこぼれスパイたちだ。


 主人公リヴァーは、上記の引用でも示唆されているように、「伝説のスパイ」である祖父によって、子供のころからスパイの英才教育を受け、意気揚々とMI5の一員になったにもかかわらず、早々にテロリストの「捕獲」に失敗し、通勤ラッシュ時のキングス・クロス駅を大混乱に陥れ、「泥沼の家」送りとなる。そんなリヴァーを待ち受けていたのは、太鼓腹であたり構わず放屁する「泥沼の家」のボス、ジャクソン・ラムであった……(ちなみに、ジャクソン・ラムは「盛りを過ぎたティモシー・スポールによく似ている」と描写されている。ティモシー・スポールといっても、ピンとこないひとも多いでしょうが(私も含め)、こんな感じのよう)

 冒頭でえらそうに書いたけれど、実のところ、スパイ小説とか本格サスペンスとかぜんぜん詳しくないのですが、そんな私が読んでもすごくおもしろかった。いや、詳しくないというより、本格的なハードボイルドやアクション小説などは苦手といってもいいのですが、この小説は人間ドラマという面が強く、セリフはもちろん、地の文もユーモアとペーソスにあふれていて、一気に読んでしまった。英国風のユーモアというか、皮肉な笑いを好む人にはオススメです。皮肉な笑いといっても、頭脳型の笑いばかりではなくドタバタ要素も多い。(スラップスティックも、モンティ・パイソンに代表される英国流ユーモアですね)

 日本の作家でいうと、ユーモアのテイストや人間の描き方が奥田英朗に近い気がした。ジャクソン・ラムが伊良部一郎に似ているかというと……体型は似ているか。あと、この「泥沼の家」が好評だったらしく、二作目(『死んだライオン』)、三作目と続く人気シリーズになっているところも共通項といえる。


 ストーリー展開としては、パキスタン系イギリス人の少年が極右グループによって人質に取られるという事件が起こり、「泥沼の家」のメンバーが一丸となって捜査にあたるのだが、冷戦時代とは違い、またこの小説の性格からか、「国家を股にかけた」アクションがあるわけではないので、本格スパイ小説を好む向きには少々不満かもしれない。でも私はじゅうぶん楽しめました。


 あと、この作品と二作目『死んだライオン』を読んでつくづく感じたのは、女が強い!ということだった。女性陣のキャラがたってるな、と。こういう作品に出てくる女性って、ふつうはどうしても”ヒロイン”感が出るように思うけど、この作品の女性陣はヒロインからほど遠い、”鉄の女”ぞろいだ。MI5のトップもナンバー・ツーも女だし。訳者解説によると、現実でもMI5のトップが女性だったことがあるらしく、それがモデルになっているのかもしれない。さすがスパイのみならず、”鉄の女”についても本場のイギリス。


 それにしても、MI5MI6のオフィシャルサイトを見てみると、なかなか興味深い。仕事内容について丁寧に説明されていたり、スパイあるあるを逆手にとった(?)クイズ形式になっていたりする。Careersのところを見ると、意外にもオープンに募集をしているようだ。秘密裡にスカウトしたり、ときにはクロロフォルムを嗅がせて仲間に引き入れるなどではないようだった。(そりゃそうか)

 

またまた最新号『暮しの手帖 84号』を買いました

 さて、「とと姉ちゃん」も終わりましたが、『暮しの手帖』の最新号84号を買いました。 

暮しの手帖 4世紀84号

暮しの手帖 4世紀84号

 

  前号に続いて、高山なおみさんの引っ越しの記事が興味深い。夫スイセイ氏との「ふたりきりの小宇宙」のように見えていた(少なくとも、かつてのクウネルなどの記事からは)生活から、いきなり神戸に単身で転居するとはどういうことだろう? と勝手に疑問に思っていたのですが、今回の記事を読むと、なんとなくわかった気がした。

「わたしはアンバランスででこぼこで、人と同じようにできないことに引け目を感じてきたけれど、まあ、それもありか、というような。もう若くない体も、自分のでこぼこさ加減も、いまは目をそらさずに見つめながら年をとれそうな気がするの」 

  この言葉が深く心に染みいった。でも、六甲山を望むメゾネットマンションって、関西人からすると、憧れの住まいですね。

 連載「気ぬけごはん」の「ウズベキスタン風肉じゃが」もおいしそうだった。トマトとじゃがいもをじっくり煮込む、フランスのポトフのもののようだ。ウズベキスタンの田舎の民宿の情景も素敵です。旅行記も読んでみたくなった。 

ウズベキスタン日記: 空想料理の故郷へ

ウズベキスタン日記: 空想料理の故郷へ

 

  まあ、おいしそうだったと言っても、正直めったに料理をしないので(作るとしても、焼くだけとか炒めるだけとか)、これも作ることはないと思うが、そんな私でも、土井善晴さんが連載「汁飯香のある暮らし」で、

キッチンに向かうみなさんの気持ちが少しでもラクになって、「料理って楽しいな」と感じられるようなことを毎回ひとつずつお伝えできればいいなと思っています。 

と言っているのを読むと、なにか作ってみようかなという気になった。テレビに出ているのを見ると、料理人のくせにいつもようしゃべるな~という印象しかなかったが。
 今回のテーマは味噌汁で、おいしい味噌を溶くだけでもおいしくなるので、出汁を取らなくてもいいし、具はなにを入れてもいいとのこと。この自由さ、気軽さが好ましい。インスタントの味噌汁の毎日から脱出できるだろうか……


 しかし、この号の、「炒め物上手になる」という記事にあるような「キャベツを切って洗って、サラダスピナーで水気をとばす」などの説明を読むと、サラダスピナー?? そんなん持ってへんねん、と一瞬やる気が失せるが、キッチンペーパー(なければそれこそタオルでも新聞紙でも)で拭くとか、なんなら、水気があったって気にしないみたいな柔軟性のある精神が必要なんでしょうね、料理をするには。


 あとは、森達也監督がコラムでネコロスについて書いていたのと(前号の岸政彦さんに続いて、ネコ話は必須ですね)、「読者の手帖」のコーナーで、投稿者が、60年ほど前に大阪の関目で取材に来ていた大橋鎭子さんと花森安治さんに会ったというのが印象深かった。関目まで足を運ぶって、さすが名物編集者ですね。上品そうなワンピースを着た鎭子さんと、サファリジャケットにスカートをはいた花森さんは、まさに「へんてこりん」な二人だったそう。
 
 そういえば、ドラマで「花山さん」を演じていた唐沢寿明は、たまにスカートをはいたりしていて頑張っているようだったが、結局髪型は決しておかっぱにせず、あのトレンディな「唐沢ヘア」はの不動のままだった。やはりこだわりがあるのだろうか。


 けどほんと、ドラマの「とと姉ちゃん」は、『暮しの手帖』に一生を捧げた鎭子さんがモデルということで、もっと応援したり共感できるドラマになると予想していたが、そうでもなかったのは、一体どういうわけだろう?? 
 
 やはり「家族のために(会社を興し、恋愛も諦め)」という美談要素ばかり強調されて、主人公がこの雑誌をどれくらい愛しているのか、どういう思い入れがあるのかがイマイチ伝わらなかったからかなーと思う。「家族のため」ではなく、「自分が好きでやりたいことをやっている」という方がよっぽどいいと私は思うけれど、これでは世間の支持は得られないのだろうか?

 

AND SO IT GOES――  『人生なんて、そんなものさ カート・ヴォネガットの生涯』(チャールズ・J・シールズ 金原瑞人ほか訳)

 カート・ヴォネガットの伝記『人生なんて、そんなものさ カート・ヴォネガットの生涯』を読んだ。 

人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯

人生なんて、そんなものさ―カート・ヴォネガットの生涯

 

  『タイタンの妖女』『猫のゆりかご』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』などの小説で愛と親切を高らかに謳い、『スローターハウス5』では、ドレスデンでの空爆を体験した元軍人として戦争のおそろしさを訴え、1970年代以降、アメリカの若者たちから絶大な支持を得たヴォネガットだが、私生活では短気で気難しく、身近な人に冷酷な仕打ちをすることもあった……

 と暴いたことにより、遺族から抗議され、ヴォネガットを神聖視する読者たちに衝撃を与えたというこの自伝だけど、まあでも、そりゃヴォネガットも人間だし、作家が複雑で気難しいのも当然だろうなという感じで(ほんとうにローズウォーターさんみたいな人格なら小説は書けまい)、最初から最後までおもしろく読んだけれど、とくに衝撃は感じなかった。
 一番意外だったのは、断固とした反戦主義者であり、また自らを社会主義者と称していたヴォネガットが、

カートは金を生み出すには資本主義が最善の方法だと信じていて、自らかなりの額の投資をしていた。カート・ヴォネガットが、露天掘りをしている企業やショッピングセンターの開発業者やナパーム弾の製造会社に投資していたことを知ったら、読者は衝撃を受けただろう。 

 というところだが、この投資に関しては、息子のマークが否定しているらしい。


 身近な人にとって付き合いにくい面があったとしても、小説がなかなか売れず三人の子供を抱えて困窮した生活のなか、病気と事故で相次いで亡くなった姉夫婦の子供四人を引き取ったという事実が、ヴォネガットが信念を曲げずに生きた証のように感じた。(最終的に、そのうち一番下の子は別の家にもらわれたが)

 そのエピソードは『スラップスティック』にも書かれていて、それを読んだ当時は、子供六人って結構たいへんじゃないのかな~とぼんやり思った程度だったが、この自伝によると、やはり尋常じゃなくたいへんだったようだ。この自伝の第七章は『子ども、子ども、子ども』と題されているが、「一九五八から五九年の冬、子どもが七人になって初めての冬で、カートは気がおかしくなりそうだった」と書かれている。この時期のヴォネガット家は

床は汚れていて、冷蔵庫のなかではいつもなにかがにおっていた。犬のサンディの目のまわりには、血を吸ってぱんぱんになったダニが何匹もくっついていたし、二匹のシャム猫はミャーミャー鳴きながらみんなの足元を走りまわっていた。 

とのこと。あまりお宅訪問したくない家ですね。

 しかし、引き取ることを決めたヴォネガットもえらいけど、それに異を唱えなかった妻のジェインもすごい。そう、この本で一番興味深い点は、この最初の妻ジェインとの結婚生活(が破綻するまで)と、二番目の妻ジルとの「地獄のような結婚生活」である。

 ジェインは、結婚してから長い間、ヴォネガットの小説がいっこうに売れず、貧しい生活が続いても、夫の才能をひたすら信じ、子供たちの面倒に明け暮れていた。というと、すごくしっかりした女性のように思えるが、この本からは、しっかり系ではなく、天然というか、少々浮世離れしている系のように思えた。だから、貧乏生活にも耐えることができたのかな、と。ヴォネガットの得意な皮肉などは通じなさそうな印象を受けた。ゆえにヴォネガットは物足りなくなったのか、あるいは、混沌とした家庭生活から脱出したかったからか、愛人をつくるようになり、結婚生活は破綻に向かう。

 けど、これだけ力をあわせて困難を乗り越えてきたのに、作家として成功した頃には結婚生活は破綻していたとは、人生ってなかなか苦いものだ。ヴォネガットもひどい男だな~と思う一方、純粋過ぎるせいか、当時流行っていたニューエイジ思想や瞑想に次々にのめりこむジェインに、無宗教者であるヴォネガットが我慢できなかったというのもわかる気もする。(けど、奥さんがこういうのにのめりこむって、夫が家庭をかえりみないことが原因だとも思うけど……現代の日本でも、”自然派ママ”っていうのか、オカルトチックなオーガニックにはまる主婦が多いようですし)


 そして、ヴォネガットは五十を前にして、写真家であるジル・クレメンツと出会い、ジェインとの離婚を成立させて再婚する。が、このジルとの結婚生活がまさに試練であった。
 若く美しいジルは野心家のタフな女性で、文学少女がそのまま大人になったようなジェインとはまったく違うタイプであるところに魅かれたようだ。女一人でサイゴンベトナム戦争の写真を撮りに行くなどしていたジルは、有名人のトロフィー・ワイフになっただけでは満足せず、自己主張が激しく、ヴォネガットを完全に支配しようとした。

 はたから見れば地獄のような結婚生活だが、この自伝はジルからは協力を拒まれ、おもに前妻ジェインの関係者と子供たちからの証言をもとにしているので、公平なものではないかもしれない。とくに、前の結婚生活からの愛人ロリー(『スローターハウス5』のモンタナのモデルらしい)が家に遊びに行って、ジルに冷たい仕打ちを受けたという証言があるのだが、そりゃ愛人に親切にする妻はいないだろう。

 まあ、ヴォネガットも何度も家を出たり、何度も離婚協議したりと、波乱にみちた結婚生活であったのはたしかなようだが、結局ヴォネガットは、「自分にとってジルは『持病』のようなものらしい」と言って、ジルのところに戻るのだった。
 想像ですが、ジルも写真集や子供向けの本を出したりと、自分の名前で仕事をしたいと考えていた女性のようだったけど、「ヴォネガット夫人」としてしか見られず、結局ヴォネガットの秘書的な存在におさまってしまったことに鬱屈があったのかもしれない。

 ……と、二度の結婚生活の感想で長くなってしまったが、それ以前のヴォネガットの家庭環境も非常に興味深かった。とくに、ヴォネガットの人格形成にもっとも強い影響を与えたと思われる、自殺した母への思いと、優秀な兄へのコンプレックスが。かなりぶ厚い本ですが、翻訳はとても読みやすくすらすら読めるので、一冊でもヴォネガットの小説を読んだことのある人や、これから読みたいと思っている人にはぜひともオススメします。