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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

アフリカ人自らが描く現代のアフリカ 『明日は遠すぎて』 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、ナイジェリア生まれのアフリカの女性作家で(ユッスー・ンドゥールとか、“ン”からはじまる名前って、アフリカ感強いですね)、この短編集におさめられた作品はどれも、日本での最初の短編集『アメリカにいる、きみ』と同様に、古い因習や価値観を残しつつ、急速に西欧化するアフリカでの現代の暮らし、あるいは、そのアフリカを出て、アメリカなどの西欧社会で生きる人たちの生活模様を描いたものである。

 

明日は遠すぎて

明日は遠すぎて

 

  というと、人種差別や貧富の差などに対する問題意識が前面に出た作品のようだけれど、まったくそんなことはなく、また、アフリカの呪術性をマジック・リアリズムであらわした作品というわけでもなく、アメリカのミニマリズム作家のようなスタイルで、日常生活の中でのふとした心情――人間関係の軋みやほんのかすかな違和感――を丁寧に描いているので、日本人の私たちにとっても非常に読みやすいと思う。


 この本の中では、『クオリティ・ストリート』が、アフリカの裕福な家を舞台に、保守的な考えを持つ母親と、アメリカのカレッジで勉強して西欧化した娘が、娘の結婚式をめぐって争うストーリー展開で、古い因習と新しい価値観の対立をいきいきと描いている。
 アメリカで自由や平等という概念を身につけた娘は、運転手にも自分たちと同じレストランで食べるように言い、母親は


あなたね、運転手を〈チキン・リパブリック〉に連れて入って自分と同じテーブルで食べさせれば、それで自分がいいことをしたと思うんでしょ、でもそれは間違いよ。だってそれは彼のためじゃなくて、あなた自身のためじゃないの、まったく、自分だけが正しいと思っているんだから……


と娘を非難し、娘は母親を「太ったブルジョワ」と言い返す。


 だが、『クオリティ・ストリート』のように、心の機微がわかりやすくユーモラスに描かれている作品ばかりではなく、表題作の『明日は遠すぎて』は、女である自分より常に兄のほうを大事にする祖母、そして兄へのささやかな復讐が、取り返しのつかない結果になったことを静かに回想する痛々しい物語だ。
そしてきみは泣いている。アヴォカドの木の下にひとり立ち尽くして」と締めくくられる。(しかし、アヴォカドに塩をかけて食べるんだとはじめて知った。日本人にとってのすいかみたいな感じだろうか)


 また、舞台がアフリカであろうが、日本であろうが、アメリカであろうが変わらないもの――恋愛を描いた作品も多い。別れてまもない恋人が飛行機事故で死んだのではないかと想像したり、「わたしに触れる前に慎重に結婚指輪を指からはずす」恋人の妻に思いをはせ、“貞淑”で献身的な妻と子供を持つ成功した男が、自由奔放だった昔の恋人を忘れられず、妻に対して感じてしまう穏やかな軽蔑……ほんとうに、人間の気持ちって、どこにいても変わらないものだとつくづく思う。愚かしくて、でも切ない。

 最後の『がんこな歴史家』は、ほかの作品とテイストが異なり、主人公・息子・孫という三世代の話がぎゅっと短く凝縮されており、三世代の生き方が、アフリカの西欧化/キリスト教化、そしてそこからの離脱を象徴する、非現実的なストーリーではないにもかかわらず、マジック・リアリズムのような感触の物語だった。どれだけ白人によって教化されても、衰えることのない主人公と孫娘の生命力が印象的だった。


 アディーチェの長編『半分のぼった黄色い太陽』は、解説によると、「ナイジェリアではタブー視され続けてきたビアフラ戦争を内側からラブストーリーとして描いた骨太の歴史物語」とのことで、これもぜひ読んでみないと、と思いました。