それぞれの愛と成長の物語が、ナイジェリアの物語と響きあう『半分のぼった黄色い太陽』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 著 くぼたのぞみ訳)
「われわれの土地について、彼らがおまえに教えることには答えが二つある。本当の答えと、学校の試験に通るための答えだ。本を読んで、両方の答えを学ばなければいけない。本はわたしがあたえる。すばらしい本だぞ」
以前に『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』を紹介しましたが、そのチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』を読みました。 短編はこれまでも読んでいたけれど、長編を読むのはこれがはじめて。
- 作者: チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ,くぼたのぞみ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2010/08/25
- メディア: ハードカバー
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アディーチェは代表作『半分のぼった黄色い太陽』――ビアフラ戦争(1967年~70年)の影響を主要人物3人を通して追う物語――のタイトルを、ビアフラの旗のシンボルにちなんでつけた。
と、『世界文学大図鑑』に紹介されているように、この『半分のぼった黄色い太陽』は、1960年代のナイジェリアを舞台にしており、クーデターとともにイボ族の虐殺がはじまり、イボ族がビアフラ国の独立を宣言して内戦へと発展する経緯が、物語の中でも描かれている。ビアフラの旗は、このウィキペディアのページで画像を見ることができますね。
60年代前半、大学町スッカで数学を教える若い学者オデニボのもとに、村育ちの少年ウグウが住みこみのハウスボーイとして雇われるところから、物語がはじまる。
イギリスの支配から独立したばかりのナイジェリアに情熱と誇りを抱くオデニボは、週末になると学者仲間と国の現状や将来あるべき姿について議論を戦わせていた。
ウグウはちゃんとした教育を受けていないにもかかわらず、たいへん聡明な少年で、料理などの家事全般もすぐに要領を覚え、ご主人たちの議論に胸を躍らせ、心地よい英語の響きにうっとりと耳を傾けるようになる。冒頭の引用にあるように、オデニボはハウスボーイであるウグウにも勉強の大切さを教える。
そんなオデニボとの生活に満足していたウグウだったが、ある日、ご主人の恋人のオランナが家にやって来る。
彼女の名はオランナだった。でもご主人はたった一度しかその名を口にしなかった。たいてい「ンケム」と呼んだ。わたしの人、という意味だ。
オランナは首都ラゴスの裕福な家庭で育った美しい娘で、“プリンス”と呼ばれるほどお金持ちの恋人ムハンマドもいたが、さほどお金持ちでもなく、しかも醜いと周りから言われるオデニボと恋に落ち、留学していたロンドンから帰国して、スッカでオデニボと暮らすことを決めたのだった。
母親はオランナがスッカに住むのに反対だったが、オランナの双子の姉カイネネは、自分の恋人であるイギリス人のリチャードも、執筆活動のためスッカで暮らすことになったと告げる。
リチャードはイボ=ウクウ美術に関心があり、ナイジェリアについての本を書きたいとイギリスからやって来たのだ。そして、とあるパーティーでカイネネと出会う。双子だというのに、だれもが美人だと褒めたたえるオランナにまったく似ていないカイネネにリチャードは目が離せなくなる。
オランナの隣に立つと、カイネネはいっそう痩せて見えた。ほとんど両性具有といってもいい。タイトなマキシがボーイッシュなヒップラインを描き出している。リチャードは長いことカイネネを見つめながら、彼女も自分を探しあててくれないかなと思った。
この小説は、ウグウ、オランナ、リチャードの三人の視点から交互に語られていく。
最初の60年代前半の章は、独立してまもないナイジェリアの不穏な情勢について、オデニボと仲間たちは喧々諤々の議論を交わすものの、日常生活がおびやかされることはなく、オデニボとオランナ、カイネネとリチャード、それぞれの愛の物語に主眼をおいて描かれている。
次の章では、60年代後半が語られる。登場人物たちの関係は、一見大きな変化は無いように思えるが、何かがはっきり異なっている。決定的な何かが起きたのだ。
そうしているうちにクーデターが勃発し、イボ人の虐殺がはじまる。白昼、公衆の面前でイボ人がむごたらしく殺されることが日常になる。
リチャードは、ついさっき言葉を交わした相手が目の前で殺されるという体験をする。オランナは無残に殺された親族の家からほうほうの体で逃げ帰り、悪夢のような光景を目撃したショックから、身体が動かなくなる。
ここで、また舞台はいったん60年代前半に戻り、オデニボとオランナ、カイネネとリチャードのあいだで起きた事件が語られる。四人がそれぞれ損なわれた、取り返しのつかない裏切りについて。
最後は再び60年代後半に戻り、どんどんと泥沼化していくビアフラ戦争が描かれる。オデニボとオランナ、カイネネとリチャード、そしてウグウの全員が戦争に巻きこまれ、運命の歯車が狂いはじめる――
この本を読むまで、ビアフラ戦争についてはまったく知らなかったけれど、戦争そのものがモチーフとして描かれているわけではなく、日常生活が戦争によって破壊されていくさまが描かれているので、予備知識が無くても問題なく物語に入りこむことができた。
とくに、前半はそれぞれの愛の形――オランナのオデニボへの思い、リチャードのカイネネへの思い――について繊細に描写されていて、登場人物の心情がひしひしと伝わってくるので、ある事件でそれぞれが受けた心の傷、戦争に直面して混乱する姿がいっそう際立ち、強く胸に訴えかけてきた。
一瞬、理不尽にもオランナはオデニボから去ってしまいたいと思った。やがて理性がもどってくると、彼を必要とせずに愛せたらいいと思った。必要が、努力することを免除する力を彼にあたえていたから。必要は、彼のまわりに頻繁に感じる選択肢のなさでもあったから。
「必要とせずに愛する」というのは、たしかにひとつの理想のように思える。けれども現実には、そんなの不可能だ。愛するということは、相手を必要とすることなのだから。いや、もしかしたら、相手を必要とせずに、ただひたすら愛することができる地平が存在するのかもしれないけれど、いまの私には見当もつかない。
以前『ホテル・ルワンダ』を見たので、たとえ同じ国民であっても、民族間の争いが恐ろしい虐殺に発展することも珍しくないということは知っていた。
その原因は、植民地時代にヨーロッパの国々が好き勝手に線を引いてアフリカの大地を区切り、自らの領土とした土地を効率的に統治するために、民族同士を分断して支配したからだ。
かつての宗主国から来たリチャードは、ナイジェリアではいつも居心地の悪い思いを味わう。ナイジェリア人と接する際には後ろめたさを感じ、アフリカを遅れた土地と見做している白人たちと接する際には憤りを覚える。
皮肉屋で誇り高いカイネネに激しく魅かれながらも気後れを感じ、なかなか愛を成就させることができない。
登場人物たちは目の前の愛をうまく扱うことができず、ときに裏切りに翻弄される。それをつぶさに観察しているウグウは、愛というものはまだ理解できず、幼なじみの相手にほのかな恋心のようなものを抱いているだけで、妹をはじめとする周囲の女たちがどんどんと成長し、大人になっていくのにひたすら慄く。
けれども、戦争が激しくなるにつれて、何もかもが逆転する。
オランナは、あれほど強くたくましく思えたオデニボの肉体が、痩せてすっかり小さくなっているのに驚く。一生忘れられないと思えた裏切りすらも、遠くなっていく。
そして、それまでひたすら観察者だったウグウが、戦争という現実に否応なく直面させられる当事者となる。ほんとうに守りたい相手が見つかる。
前半部分では、どうしてウグウが語り手なのかよくわからなかったが、物語の最終章でその理由が判明する。ウグウの登場からこの物語がはじまった意味がはっきりとわかる。ウグウが真の意味で語り手となり、この物語だけでなく、ナイジェリアを語り継ぐ存在となるのだ。
登場人物それぞれの愛、裏切り、そして成長という個人的な物語を、国家や戦争という大きな物語に重ねあわせることに見事に成功した小説だと思った。次は『アメリカーナ』を読まないと。