快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

それぞれの作品が呼応する、意義深いアンソロジー 『世界文学アンソロジー いまからはじめる』(秋草俊一郎ほか編)

アンソロジーって何だろう? 

 一般的には、さまざまな物語(おもに短編)を集めて一冊にしたものという印象だろうか。スーパー大辞林では、「一定の主題・形式などによる、作品の選集。また、抜粋集。佳句集。詞華集。」と定義されている。goo辞書では「いろいろな詩人・作家の詩や文を、ある基準で選び集めた本。」となっている。
 そう、単に寄せ集めたものではなく、「一定の主題・形式」「ある基準」が必要なのだ。

 どうしてわざわざこんなことを言っているのかというと、『世界文学アンソロジー』を読んで、アンソロジーの意義というものについて気づかされたからである。 

世界文学アンソロジー: いまからはじめる

世界文学アンソロジー: いまからはじめる

 

  三省堂のこちらのページに、収録作品の一覧が掲載されている。

www.sanseido-publ.co.jp

 カフカやガルシア=マルケスといった有名な作家から、海外文学の愛読者でも知らないような作家まで、幅広く収録されている。幅広いのは知名度だけではない。日本やヨーロッパのみならず世界のあらゆる国から……というより、もっと正確に言うと、いわゆる「国籍」という概念を揺るがす作品が多く収録されている。

 まず冒頭の第一章に、李良枝の「由熙」と、サイイド・カシューアの「ヘルツル真夜中に消える」が収録されている。

 李良枝は日本で生まれ育った在日韓国人であり、この「由熙」では、故郷であるはずのソウルに留学した在日韓国人の由熙の姿が描かれている。目醒めた瞬間の「ことばの杖」が、日本語の「あ」なのか、韓国語の「아」なのかわからないと語る由熙の葛藤が、ふたつの国のあいだで生まれ育ち、どちらの国にも完全にアイデンティティを投影できない証となっている。 

――あの子はね、韓国に来て自分が思い描いていた理想がいっぺんに崩れちゃったのよ。だからきっと、韓国語までがいやになってしまったんだわ。言葉ってそういうものだと思うの。

  そして、サイイド・カシューアは、イスラエル国籍のパレスチナ人作家である。この「ヘルツル真夜中に消える」の主人公ヘルツルは、「毎晩零時を過ぎると『アラブ人』になる」。 

真夜中から夜明けにかけて、彼はヘブライ語がまったくわからなくなる。「OK」(ベ・セデル)、「シュケル」、「検問所」(マフソム)以外は。なぜかって? アラブ人も、こうした単語をまるで自分たちの言葉みたいに使っているんだから。

  このふたりの作家による物語は、どちらも単独でもじゅうぶん読み応えがある作品なのだけど、こうやって並べられると、複雑な歴史を持つ二国(二地域)の狭間で生きることの困難がいっそう胸をつき、これがアンソロジーの意義だと思った。

  それにしても、李良枝の名は目にしたことはあったものの、まったく読んだことがなかった。この「由熙」の一部だけでも、読み手の心を揺さぶる筆力が伝わってきたので、もっと読んでみたいと思ったけれど、1992年に37歳の若さで亡くなっている。もし、いま生きていたら64歳だ。韓流やK-POPブームが盛りあがる一方で、政治はどんどんと混迷する現状を見て、何を思うだろうか? 

 この本の解説によると、サイイド・カシューアはガザ侵攻を支持するイスラエル政府に絶望して、2014年にアメリカに移住したと書かれている。

「このアラブのお話って、いったいどうなるの?」――この問いの答えは、やはり明るいものになり得なかったのだろうか。

 さらに、チアヌ・アチェベとチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという世代の異なるナイジェリア人作家がともに収録されている点も見逃せない。

 チアヌ・アチェベの「終わりの始まり」では、イボ族一家の一人息子がカラバルの女と結婚したことによって、家庭に亀裂が入る。これ自体は、ひとつの家族を描いたささやかな物語だが、こういった民族間の不和が積もり積もって、悲惨なビアフラ戦争へつながった。

 ビアフラ戦争にアチェベはビアフラ側で参戦し(この本の解説より)、戦争の当時まだ生まれていなかったアディーチェは、のちに『半分のぼった黄色い太陽』(このアンソロジーには収録されていない)でビアフラ戦争を取りあげ、民族間で殺しあう光景を描いた。(下記でも紹介しましたが)

dokusho-note.hatenablog.com

 そして現在、内戦を経たナイジェリアは、世界のあらゆる国と同様にグローバル化の波にさらされている。
 富裕層や高い教育を受けた者は、どんどんとアメリカやイギリスを目指すようになる。古い因習の残る祖国を去って、自由な新天地での成功を夢見る。
 けれども、それは簡単なことではない。ここに収録されているアディーチェの「なにかが首のまわりに」では、アメリカに移住したナイジェリア人女性が直面する違和感が綴られている。 

アメリカではみんな車や銃をもってる、ときみは思っていた。おじさんやおばさん、いとこたちもそう思っていた。

  先進国に移住してきた移民の苦しみというと、グローバル化する前からよくある題材のように思われるかもしれないが、この小説は一人称でも三人称でもなく、「きみ」に語りかけるスタイルを採用していて、その俯瞰の視点によって、従来の物語から刷新された現代性を感じる。

 アチェベとアディーチェがあわせて収録されることで、ひとつの国の歩みが見事につながり、ここでもアンソロジーの意義をあらためて感じさせられた。 

予測通り世論は二分し、専門家たちは、どの派閥に属しているか、楽観主義か悲観主義かで異なる意見を述べた。ある専門家は言った。いいえ、炉心がメルトスルーするはずがありません。別の専門家は言った。それは違います、あります。あります、ありますよ。可能性がゼロだなんてとんでもない。

 へえ、東日本大震災を反映した小説も収録されているのか、と思った方もいるのではないでしょうか。少なくとも、私はそう思った。

 が、このクリスタ・ヴォルフによる「故障――ある日について、いくつかの報告」は、1986年のチェルノブイリ原発事故を背景に、脳腫瘍の手術を受ける弟や、幼い子どものいる娘の姿を描いている。
 
 私たちは放射能という道具を使いこなせるのか? 自然への冒涜ではないのか?と問いかけている。世界のあらゆるところで過ちはくり返され続けている。自然に逆らい、過ちをおかし続ける人間の愚かさを、圧倒的なまでに力強い筆致で描いた作品も収録されている。 

チッソの人方もね、魂の高かお人なら、しゅり神山のおしゅらさまのことは、お解りになりそうなものでございますよねえ、位の高か狐ですがねえ」

  石牟礼道子の「神々の村」だ。水俣病を取りあげた『苦海浄土』三部作の第二部にあたる。
 自然への畏怖が刻みこまれたこの作品を読むと、原発事故や公害といった事例は、事故が起きた土地や、被害者やその家族といった当事者のみに関わるローカルな題材ではけっしてなく、国境すらも超えて、人間の営為そのものについて考え直さないといけない問題であることがよくわかる。

 いま紹介したのはこのアンソロジーのまだ一部であり、最初に書いたようにカフカやガルシア=マルケス、あとジョイス魯迅といった著名な作家も収録されていて、どれも短編(あるいは抜粋)なのに、どっしりとした読後感が残る。
 海外文学にはじめて触れるひとはもちろん、ふだんから海外文学を愛好しているひとにとっても、読書の幅が広がることまちがいなしの興味深い一冊だと思う。