快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

絵の中で語られるのを待っている物語 『短編画廊』(ローレンス・ブロックほか 著 田口俊樹ほか 訳)

ここに収められた物語はさまざまなジャンルの物語だ。あるいは、いかなるジャンルにも収まらない物語だ。

  エドワード・ホッパーの絵をモチーフにした短編集『短編画廊』を読みました。 

  エドワード・ホッパーと聞いても、ピンとこないかもしれないけれど、実際に絵を見ると、その独特なタッチに見覚えのある方も多いのではないだろうか。

 一見、柔らかい光と影にあふれた、どこにでもあるような穏やかな風景を描いているけれど、目を凝らすと、そこには寂寥とした空気が流れ、うっすらと緊張がはりつめている……個人的にはこんな印象を抱いている。

 そんなホッパーの絵に惹きつけられた作家たちによる短編を集めたものが、この本であり、どの作品も見事にホッパーの絵に秘められた物語性と呼応している。

 なにより、ひとりの画家をモチーフにすると同じような物語ばかり生まれてもおかしくないように思えるが、冒頭の引用(この短編集の発起人であるローレンス・ブロックによる序文)にあるように、おどろくほど多種多様な短編が収められていて、ひとつとして似たテーマの物語がないことが、ホッパーの絵の奥深さを象徴しているように感じられた。

 その中でもとくに印象に残った短編をいくつか紹介すると、まずはニコラス・クリストファーの『海辺の部屋』。”Rooms by the Sea”をモチーフにしている。 

この家にはほかにも特異な――カルメンにしてみれば、ただならぬ――特徴があった。たとえば、一年ごとに部屋が勝手にひとつずつ増えていくのだ。この現象はファビウスが家にやってきた年に始まった。

  海辺の家とバスク人にまつわる伝説が交錯する、マジックリアリズムとも言える物語。
 バスク人の血をひくカルメンは母親から遺された海辺の家で、家に仕えてきたシェフのファビウスと暮らしている。しかし、いつのまにかこの家は部屋の数が知らぬ間に増え、さらには自由自在に全体の配置が変わりはじめ、謎めいたことが起きるようになった……

 この本の紹介文によると、作者のニコラス・クリストファーは小説家であり詩人で、海外でも広く出版されているらしいが、日本での訳書は見当たらないようだ。詩人が書いた小説にふさわしい、不思議な感銘が心に残る物語だった。バスク料理はやはり絶品なんだな、とも思った。

 

 クレイグ・ファーガソンの『アダムズ牧師とクジラ』も、まさに「いかなるジャンルにも収まらない」物語だった。”South Truro Church”をモチーフとしている。

マリファナはジェファーソンとビリーの絆を深めた。ジェファーソンはまさか人生最後の日々をビリーとともに過ごすことになるとは夢にも思っていなかった。あらゆる謎にことごとく首を突っ込むビリーは、イエス使徒や聖櫃や宇宙人やアトランティス大陸などについて、ジェファーソンをずっと質問攻めにしてきた。

  癌を宣告された八十代のジェファーソン牧師と、同じ歳で昔なじみのビリーとの心温まる交流を描いた物語……のはずなのだが、上の引用のように、宇宙人のみならずタントラ・セックス(って何?)にまで興味津々で、バイタリティにあふれたビリーとの関係は、年相応に枯れた滋味あふれるものには到底おさまらない。

 まるで落語の三題噺のように、マリファナ、クジラ、そしてエルヴィス・プレスリーが絶妙に絡みあい、意外なような納得のような結末を迎える。マリファナを吸って、『ロカ・フラ・ベイビー』を聞きながら、最後の日々を迎えるというのも、なかなかファンキーだ。

 クレイグ・ファーガソンは、解説によると「テレビ司会者でありコメディアンであり作家」とのことで、かなりの才人のようだ。これまでに自叙伝や小説を発表していて、去年出版したエッセイ集『RIDING THE ELEPHANT』も評判が良いようなので、読んでみたくなった。 

  そして、ジョー・R・ランズデールの『映写技師のヒーロー』。”New York Movie”がモチーフとなっている。 

おれはハンサムじゃないけど、ヒドい顔でもない。問題は女の子と気楽につきあえないってことだ。ただもう苦手なんだ。つきあい方を教わったこともないし。おれの親父はモテた。

  まさに「おれ」にとって守護天使であった、バートさんの後を継いで映写技師となった主人公の青年(「おれ」)と、その映画館で案内嬢をしている少女との淡い恋を描いたほのぼのした物語、と思いきや、意外な方向へ話が転がっていった。
 いや、ランズデールの作品を読んできたひとにとっては、意外な方向ではないのかもしれない。私はまったく読んだことがなかったので、意表をつかれてしまったが。

 青年が対峙する悪の非道さ、青年が引き換えにしなければならなかったものの大きさが胸に迫るが、語り口は一貫して軽やかで、それだけに最後の一文の余韻が心に残った。ランズデールのほかの作品も読んでみたいと思った。 

  最後はウォーレン・ムーアの『夜のオフィスで』。”Office at Night”がモチーフになっている。 

マーガレット・デュポンという名前は、最後まで好きになれなかった。ジーンとかベティとか、女優のような名前ならよかったのに、なんでマーガレット? マルクス・ブラザースのコメディ映画に出てくる女にしか思えない。でも、彼女はそのままの名前で通した。

  大柄ゆえ、“ラージ・マージ”なんて冴えないあだ名で呼ばれていた地元を出て、夢を抱いてニューヨークに行ったマーガレットの儚い人生を描いた物語。

 切なく物哀しい話ではあるが、飄々とした語り口から生まれる、どこかあっけらかんとした解放感が印象深い。昔読んだ岡崎京子の短編マンガのような、たったひとりで都会に生きる女の子の刹那(マーガレットの場合は、ほんとうに刹那だったのだけど)を切り取っている。

 ウォーレン・ムーアは、雑誌記者や音楽評論家の職を経て、現在は英文学教授として働いているらしい。こちらも単独の翻訳書はないようだ。しかし、この短編の雰囲気から、勝手に女性作家かと思っていたら、想像とまったく異なる風貌の写真が出てきておどろいた。(いや、解説をよく読むと「妻と娘と」暮らしていると書かれているのだが…)

 ここで紹介した以外にも、発起人のローレンス・ブロックを筆頭に、スティーヴン・キングジェフリー・ディーヴァー、マイケル・コナリー、そしてジョイス・キャロル・オーツなど、日本でも人気の作家たちの短編も掲載されている。

 とくに、ジェフリー・ディーヴァージョイス・キャロル・オーツは、ホッパーの絵に潜むドラマ性や不穏さを、自分の得意なフィールドでたくみに展開させていて、安定した横綱相撲のような読み応えがあった。 

彼の絵は物語を語ってはいない。ただ強く抗いがたく示唆している。絵の中に物語があることを。その物語は語られるのを待っていることを。

  よく言われることかもしれないけれど、一篇の短編小説は人生の断片をあざやかに切り取るものであり、その意味では一枚の絵と似ている。そして、逆もまた真なりである。

 なので、すぐれた短編集というのは、それだけでさまざまな絵を見せられているような彩りにあふれている。そのうえ、さらにすばらしい本物の絵がモチーフになると、人生の精彩や陰影がいっそうひきたち、二重三重に訴えかけてくるものなのだとつくづく感じた。

それがフィリップ・マーロウという人間だ 『さよなら、愛しい人』(レイモンド・チャンドラー 著 村上春樹 訳)

It wasn’t any of my business.  So I pushed them open and looked in. 

私には何の関わり合いもないことだ。なのに私はその扉を押し開け、中をのぞき込んだ。そういう性分なのだ。

  レイモンド・チャンドラーによるフィリップ・マーロウシリーズの二作目、『さよなら、愛しい人』を再読した。 

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  以前『ロング・グッドバイ』からの流れでこの作品も読んだものの、そのときは、なんか似たような展開やな……そもそも、いったいなぜにマーロウは、テリーやマロイみたいな、どこからどう見てもやっかいな連中にわざわざ関わるのか? と疑問を感じたり、うさんくさい人物が入れかわり立ちかわり登場する筋を追うのに精一杯で、正直なところ、あまりピンとこなかった。

 しかし、今回再読してみて、マーロウの魅力、そして村上春樹が心酔するチャンドラーの文章の妙を、多少なりとも理解できるようになった気がする。
 ”ハードボイルドとはなんぞや” という、かねてからの謎に自分なりの答えを出せる日が近づいたかもしれない。

 『さよなら、愛しい人』は、マロイという男が酒場で暴れているところに、偶然マーロウが出くわすところからはじまる。

 マロイは、「ボタンのかわりに白いゴルフボール」がついたグレーのジャケットをはおり(いったいどんなジャケットなのか???)、茶色のシャツと黄色のネクタイを身につけ、ジャケットからはやはり黄色のハンカチをのぞかせ、帽子には羽が二本挟まれ……と、ド派手な格好をした大男であった。

 普通の人なら絶対に関わり合いになりたくない。誰だって見て見ぬふりをする。けれども、マーロウはちがう。冒頭の引用にあるように、扉を押し開けて、中をのぞき込む。 


「そういう性分なのだ」――というのは、原文では書かれていない。(私が見た版では)しかし、これによって、マーロウの性分が読者の胸に刻みこまれ、そのあとの展開にも違和感を抱くことなく、物語の中にひきこまれていく。といっても、そんな効果を計算したわけではなく、まるでチャンドラーが乗り移ったかのように翻訳したのだろう。 


    この物語の筋は、刑務所帰りの大男マロイがかつての恋人ヴェルマを探して酒場を荒し、勢いあまって殺人を犯す。マーロウがマロイの足取りを探ろうとするやいなや、リンゼイ・マリオットという男から依頼が入る。友人が所有していた翡翠のネックレスが盗まれてしまい、金を払って取り戻したいので、その護衛をしてほしいとのこと。

 しかし、その盗難の顛末も、どうして唐突にマーロウに依頼することにしたのかも、どうもはっきりしない。マーロウは怪しいものを感じつつも、マリオットとともに受け渡し場所に向かったが、そこで事件が起きる…… 

There was nothing about Lindsay Marriott, unless it was on the society page.

リンゼイ・マリオットについての記事は見当たらなかった。記事が載るとしてもたぶん社交欄だろう。

  というものだが、この小説を楽しむうえで、筋はそれほど重要ではない。ヴェルマはいったいどこに消えたのか? というのが物語を貫く最大の謎であるが、これも読み進めているうちに察しがつく。(私ですらついたので)

 それよりも、次々にあらわれる一筋縄ではいかない登場人物たち、そういった相手とたくみに呼吸をあわせて思い通りに動かす(ときにはしこたま殴られたりもするが)、まるで合気道の老師のような、タフでしなやかなマーロウの身のこなし、そして、諧謔に満ちた文体による語りの迸り、これらの三位一体ぶりが唯一無二のチャンドラーの魅力なのだろう。   

I'm stupid.  It sank in after a while.

私はたしかに愚かしい。それが理解できるまでに時間がかかったが。

  村上春樹もチャンドラーを訳すのは楽しいと何度も語っているが、たしかにノリノリで訳したであろうことが、あちこちからうかがえる。
 ちなみに、『リトル・シスター』では、「青葱野郎が」という独特の罵りが出てくるので、原文では何と言っているのか見てみたら、”screw you” という、わりと普通の罵倒語だった。(普通じゃない罵倒語ってどんなんかわからんけど)こういう遊び心も楽しいですね。 

“I like smooth shiny girls, hardboiled and loaded with sin.”

“They take you to the cleaners,” Randall said indifferently.

“Sure.  Where else have I ever been? What do you call this session?”

「私はもっと練れた、派手な女が好きだ。卵でいえば固茹で、たっぷりと罪が詰まったタイプが」

「そういう女には尻の毛までむしられるぜ」とランドールはどうでも良さそうに言った。

「承知の上さ。だからいつまでもからっけつなんじゃないか。おいおい、あんたはいったい何を言いにきたんだ?」

  あと、思わず苦笑してしまったのが、次の場面。
 ヴェルマを探すマーロウが、例の酒場をかつて経営していた男の未亡人に会いに行くのだが、その未亡人は酒びたりの薄汚い老女となっていた。ヴェルマの行方を聞き出すため、酒を差し出すマーロウだが…… 

A lovely old woman. I liked being with her. I liked getting her drunk for my own sordid purposes.  I was a swell guy. I enjoyed being me. You find almost anything under your hand in my business, but I was beginning to be a little sick at my stomach.

まったく可愛らしいばあさんだ。彼女と話しているとつくづく心が和む。私はけちな目的のためにその女を酔っぱらわせた。大した男じゃないか。誇りで胸がいっぱいになる。私のような商売をしていると、ほとんどどんなことだって平気でやってのけるようになる。しかしその私をしても、さすがにいくらか胸くそが悪くなってきた。

  耄碌したアル中の老婆をさらに酔わせることに、居たたまれないものを感じるマーロウ。
「私のような商売」をしているマーロウの前には、世間の暗闇に堕ちていった者たちがひっきりなしにやって来る。荒くれ者の大男やアル中の老婆のみならず、ジゴロに詐欺師、麻薬ディーラーに悪徳警官、賭博の元締め、そして行方をくらました女……。


 そういった連中と渡りあいつつも、マーロウは自らの中にある正義感を失うことはない。欲や金に目が眩んだり、魂を売り渡したりはしない。恐怖を覚えることがあっても、絶対にひよったりはしない。

 ギャングの元締めと話をつけるために、たったひとりで賭博船に乗りこむとき、男気あふれるレッドに手助けが必要かと聞かれ、「濡れた犬のようにぶるっと身震い」をしてこう答える。 

But either I do it alone or I don’t do it.

しかし結局のところ、自分一人でやるか、あるいはまったくやらないか、そのどちらかしかないんだ。

 ”ハードボイルドとはなんぞや” という謎は、まだ自分の中で完全に解けていないが、きっとこういうことなんだろうと思う。 

This was the time to leave, to go far away.  So I pushed the door open and stepped quietly in.

こんなところは一刻も早く立ち去り、できるだけ遠くに離れるべきなのだ。ところが私はドアを開けて、静かに中に入った。それが私という人間だ。

 

50歳なんて何でもない……のか? 『レス』(アンドリュー・ショーン・グリア 著 上岡伸雄 訳)

アーサー・レスは歳を取った最初の同性愛者である。少なくとも、自分ではときどきそのように感じる。この浴槽で、裸でお湯に浸かっているのは、二十五歳か三十歳の美しい若者であるべきだ。人生の喜びを享受している男。いまの裸体を見られるのは何とも恐ろしい。お腹のあたりまでピンク色で、頭が灰色。鉛筆用とインク用が合体した消しゴムのようだ。

  鉛筆用とインク用が合体した消しゴム……あったな~絶妙のたとえですね。

  さて、この『レス』を読み、ひとはいくつになったら大人になるのだろう? と、あらためて考えてしまった。 

レス

レス

 

  もちろん、成人式は20歳である。たしかいまは、18歳から投票できるのだっけ。

 そういった社会制度を除けば、一昔前は ” DON'T TRUST OVER THIRTY”という言葉があったように、30歳でようやく真の「大人」になるという概念があった。きちんとした会社に就職し、結婚して家庭を築き、子どもを持つ「大人」に。

 しかし、ここ最近は30歳までに結婚しないといけないという圧力は男女ともに少なくなり、アラフォーという言葉がブームになってからは、40歳が大人になる節目となったように思える。とくに結婚や出産を望むまっとうな男女にとっては、いまでも40歳はひとつの壁だろう。しかし、まっとうでない者たちにとっては、40歳すらも単なる通過点に過ぎないのかもしれない。

 となると、50歳が目前になってようやく、ついに自分が「大人」になってしまったという事実にはっと気づくのだろうか。大人になったと気づくと同時に、老いを感じるのだろうか。まっとうな「大人」を経由しないまま、「老人」の域に足を踏み入れつつあることに愕然とするのかもしれない。

 この小説の主人公であるレスも、50歳になるという現実を前にして、まさに愕然としている。50歳の誕生日を前にして、15歳年下の恋人フレディがほかの男と結婚すると言って去ってしまった。多少は知られた小説家であるレスだが、最新作は出版社からやんわり断られ、既刊の作品についても、ゲイを惨めに描いている「駄目なゲイ」だとゲイ仲間から評される。

 五十年近く生きてきて、最後に残ったのは恋の記憶だけ。しかもどれも苦い結末を迎えている。なんとしても、50の誕生日を恋人に去られた家でひとりぼっちで過ごしたくない。そこでレスは、海外からの仕事のオファーをすべて引き受け、世界一周の旅へ出る……

 冒頭の引用でレスは「歳を取った最初の同性愛者」と感じているが、もちろんそんなことはない。世界にはあのひとも、日本ではこのひともいる。そういった句法を採用すれば、氷河期世代の私だって、日本がどん底の不景気になってから社会に出て、年老いていこうとしている最初の世代、とも言える。
 結局、男であろうと女であろうと、異性愛者であろうと同性愛者であろうと、どういう属性であっても、誰にとっても、年老いていくのははじめての経験なのだ。

 いつまでたっても大人になれずに歳ばかり重ね、恋人に去られてはじめて、自分は若くもないうえに、年齢にふさわしいものを何ひとつ手にしていないことに気づく……というと、ニック・ホーンビィの『ハイ・フィデリティ』を思い出す。ジョン・キューザックが主人公を演じた映画版も絶妙のおもしろさだった。 

ハイ・フィデリティ (新潮文庫)

ハイ・フィデリティ (新潮文庫)

 

  1995年に出版された『ハイ・フィデリティ』の主人公は、30代半ばになって、大人にならないといけないという事実に直面するが、それから約二十年後の『レス』では、主人公は50歳を前にして現実に向き合うというのが、時代の流れ、もしくは時代の停滞を反映しているようで興味深い。 

 大人になるためには、やはり「通過儀礼」が必要であるようだ。
 大多数のひとは、就職、結婚、子育てなどで、その「通過儀礼」をパスするのだろうけれど、まっとうな大人になれない人種はそんな「通過儀礼」とは縁がない。いや、鶏と卵の関係のように、縁がないからまっとうな大人になれないのかもしれないが、どちらにせよ、そういった方法で大人の階段をのぼったりはしない。

 ならばどうするかというと、「巡礼」の旅に出る。『ハイ・フィデリティ』の主人公は昔の恋人を訪ね歩いたが、このレスは昔の恋人を思い出しながら世界一周するのだから、やはり二十年という時を経てバージョンアップしたのかもしれない。

 レスの昔の恋人のなかで、フレディと並んで、あるいはフレディ以上の存在感を放っているのがロバートだ。

 レスは21歳のときに、当時既婚者であった25歳年上のロバートと出会う。ロバートの存在が大きいのは単に年上だからというわけではなく、誰もが認める「天才詩人」であり、レスは、「ピュリッツアー賞をとった天才詩人の恋人(であった二流作家)」と、世間から認識されているのだ。「〇〇の妻」状態なのである。あるいは「じゃないほう芸人」か。
 ロバートの作品をめぐるシンポジウムの開催にあたり、レスは証人としてメキシコに呼ばれる。 

「天才と暮らすのって、どんな感じでした? 君は若かりし日にブラウンバーンと会ったんですよね」

「若かりし日」なんて言葉は自分自身に関してしか使わないものだ。それがルールじゃないか?

  天才と暮らすのはどういうことか? 回想では、ロバートの詩作をなにより優先する生活を送っていたことが示唆されるが、それよりも重要なことは、ロバートはすべてを一瞬にして見抜くのだ。レスの心の動きもふたりの未来もロバートは瞬時に察した。

 先にレスの巡礼の旅と書いたが、小説はすべて巡礼の旅を描いたものだとも言える。
 その原型となっているもののひとつは、ホメロスの『オデュッセイア』だ。この小説も、『オデュッセイア』を意識的に取りこんでいて、レスが小説家としての地位を確立することになった作品も、『オデュッセイア』のカリュプソ伝説を語り直した『カリプソ』である。

 また、最新作『スウィフト』も、男がサンフランシスコを歩き回ったあと家へ戻る物語で、「ゲイの『ユリシーズ』を書けばいいんだよ」という、読書好きのフレディの言葉に影響を受けて書かれたようだ。(『ユリシーズ』は『オデュッセイア』を語り直した作品である)

 物語の終盤、年老いたロバートが予言者テイレシアス(『オデュッセイア』に登場するテーバイの予言者)として姿をあらわす。物語の冒頭で、レスは「歳を取った最初の同性愛者」のように感じているが、ロバートが先行者なのである。すべてを見抜くロバートの前では、何も隠せない。

 50歳からの人生に怯えるレスに、ロバートは「50歳なんて何でもない」と語る。時間をさかのぼることはできない。でも、それがいったい何だというのか?
 「クソみたいな人生にようこそ」と。

 こうしてレスの巡礼の旅が終わりを迎える。最後の旅の舞台は京都である。
 飛行機の機内誌の取材のために、関空から大阪を通って京都に入り、高級料亭を食べ歩く。市内中心部のみならず、「月が渡る橋」まで行く。(渡月橋をモチーフにしているのかもしれないが、実際の渡月橋よりかなり田舎のように思える)

 高級料亭の場面については、なんせ行ったことがないので、モロッコやインドと同じくらい未知の世界のように感じられた。マジックリアリズムのようだった。ちなみに、訳者あとがきによると、作者アンドリュー・ショーン・グリアは任天堂で働いていたことがあるらしい。なるほど。

 そうして、関空からサンフランシスコに戻ったレスを待ち受けていたものは……。

 また、この小説は三人称小説ではなく、「私」という語り手がレスとその旅路を語っている。要所要所で「私」とレスの関わりがほのめかされるが、この最後の場面で「私」が誰なのかあきらかにされる。

 これを読めば、歳を取るのが怖くなくなる、とまでは言えないが、そう悲惨なことばかりではないのかもしれない……という気持ちになる。
 自分が50の誕生日を迎えようとするとき、いったいどうなっているのだろうか? そばにいてくれるひとがいるのだろうか? いや、ひとりぼっちであっても「50歳なんて何でもない」のだろう。そう思える小説だった。 

君が五十のとき、僕は七十五歳になる。そうなったら、我々はどうする?

笑うことしかできない。それはすべてに言えることだ

 

2020年1月26日「はじめての海外文学 in 大阪」(梅田蔦屋書店)レポート

 さて、1月26日に梅田蔦屋書店で行われた「はじめての海外文学」に参加しました。

 翻訳者の方たちが全力でオススメの海外文学を紹介する、この「はじめての海外文学」。東京では去年の10月に開催される予定でしたが、大型台風の襲来によって中止となり、今回大阪でそのリベンジをすべく、熱気ムンムンのなか開催されました。

  トップバッターは越前敏弥さん。オススメ本は『完訳 オズのふしぎな国』。『オズの魔法使い』を読んだ人は多いかと思いますが、その続編まで読んだ人は少ないのではないでしょうか? そもそも、続編があること(もしくは訳されていること)すら知らない人が多いような気もする。 

  と言いつつ、私も読んでいないのだけれど、この二作目では、前作でおなじみのかかしやきこりが国王になっているという、まさかの大出世を成しとげていて、さらにラストには「大どんでん返し」が待ち受けているとのこと。『オズの魔法使い』のラストも、意外といえば意外(ちょっと脱力系の)だったけれど、このオズの世界で「大どんでん返し」とはいったい……? 

 あと、「大どんでん返し」つながりで、映画『9人の翻訳家』も紹介されていた。しかし、大どんでん返しといったミステリー仕立て以前に、「あなたはこの結末を〈誤訳〉する」とか、「誤訳しっぱなしの104分」とか、この映画のキャッチコピーがもう呪いとしか思えない。 

gaga.ne.jp

 次の木下眞穂さんは、ご自身の訳書であり、去年の日本翻訳大賞受賞作でもある『ガルヴェイアスの犬』。 

ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)

ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)

 

  この小説は、ポルトガルの小さな村ガルヴェイアスに隕石が落ちてくるところからはじまる。 

ほかにいくらでも場所はあったはずだが、行先は定まっていた。夜の帳が下りても月はなく、凍える星々だけが濁った空の裂け目の奥から姿を見せている。

  その隕石落下をきっかけに、村の様相が徐々にあらわになっていく……と、ガルヴェイアスそのものを描いた物語という紹介を聞いて、『百年の孤独』のマコンドを思い出した。けれどもマコンドとちがい、このガルヴェイアスは実在する村であり、作者ペイショットの故郷である。また、ポルトガル独裁政権から民主化されてから十年後となる、1984年に焦点をあてている。

 とある時代の実在する村を舞台にしている、ということだけが理由ではないだろうが、物語の筋がいかにも小説らしく収斂していかないところがこの作品の大きな魅力だと、翻訳大賞選考委員の柴田元幸さんも評していたらしい。 

 小竹由美子さんのオススメ本は、『あのころ、天皇は神だった』。 

あのころ、天皇は神だった

あのころ、天皇は神だった

 

  第二次世界大戦下のアメリカにおける日系人一家を主人公とする物語。衝撃的な冒頭の場面に続いて、父親が連行され、一家が収容所に送られ……という劇的な筋が、きわめて淡々とした語り口で描かれる。それだけに、最後にせりあがる情感が忘れがたいインパクトを残す。

 国家の安寧のためという名目で、移民の人権が踏みにじられる事態は過去の戦時下にかぎったものではく、現在の日本での入管における問題にもつながっているとのこと。
 小竹さんが去年の「はじめての海外文学」で紹介されたグラフィックノベル、『マッドジャーマンズ』も、アフリカからドイツに移住した若者たちを描いた作品であったことを思い出した。 

マッドジャーマンズ  ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

  芹澤恵さんのオススメ本は、『iレイチェル』。 

  このiとはアンドロイドを意味し、亡くなったレイチェルがアンドロイドとなって蘇るという、喪失と再生、そして成長を描いた物語。

 というとSFのような設定だけど、SFど真ん中という小説でもなく、かといって純文学でもなく、こういった既定のジャンルにおさまりにくい作品は、どうしても埋もれがちになるからこそ紹介したいと語られていた。

 たしかに、海外文学においては、コアな純文学、あるいはミステリーやSFといったジャンル小説は固定ファンがいて、また書評などで取りあげられることも多く、読者の目に留まる機会が多いように思うけれど、ジャンルに括りにくい作品は(昔は「中間小説」などいう言葉もあったような)、いくら読みものとしておもしろくても、読者になかなか届かず、もったいないと感じることが多い。そういう作品がもっと売れたら、読者の裾野も広がるだろうけれど。

 あと、インドネシア文学やチベット文学についての話も興味深く、『雪を待つ』を読んでみたくなった。 中国や韓国の小説がいま注目されているけれど、アジアはもっと大きく、まだまだ奥深い。

チベット文学の新世代 雪を待つ

チベット文学の新世代 雪を待つ

 

  田中亜希子さんのオススメは、アーサー・ビナードさんと木坂涼さんご夫婦がアメリカの名詩の中から62編を選んで訳しおろした、『ガラガラヘビの味 アメリカ子ども詩集』。 しりあがり寿さんによるイラストも相まって、詩がぐっと身近に感じられることまちがいなしのアンソロジー詩集。

ガラガラヘビの味――アメリカ子ども詩集 (岩波少年文庫)

ガラガラヘビの味――アメリカ子ども詩集 (岩波少年文庫)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/07/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 去年ご紹介された、アイスクリーム大好きっ子を主人公とした絵本、『ぼくはアイスクリーム博士』もこんな本あるんや!と思ったけれど、いつも意表をつく本を紹介してくれて、うれしいおどろきを与えてくれる。そして去年に引き続き、朗読もすばらしかった。 

ぼくはアイスクリーム博士

ぼくはアイスクリーム博士

 

  谷川毅さんは『13・67』を。最近は中国系アメリカ人作家ケン・リュウの『紙の動物園』のブレイクに続いて、中国発のSF『三体』が大ヒットしたりと、中国系の小説が注目を集めているが、その先駆けのひとつと言える華文ミステリー。 

 そして、この小説の翻訳者である天野健太郎さんが、この人気の下地を作ったと言っても過言ではないでしょう。2018年に亡くなった天野さんへの追悼の意もこめて、この本を選んだと語られていた。

13・67

13・67

 

 ちょうど前日にミステリー読書会を開いたところ、その懇親会でもこの『13・67』が〈究極の安楽椅子探偵〉として話題にのぼった。ミステリーに疎い私も(世話人なのに?)、この小説を読んだとき、最初と最後の短編までがつながる仕掛けや、それぞれの事件の背景として歴史に翻弄されてきた(現在もそのただなかにある)香港の姿が描かれる巧みさに感服した。
 谷川さんが訳された『愉楽』も気になっているので、読まないと… 

愉楽

愉楽

 

  夏目大さんは、『分別と多感』。『高慢と偏見』や『ノーサンガー・アビー』は読んだけど、これは読んだことあったっけ? と調べたところ、姉エリナーと妹マリアンそれぞれの結婚への道を描いた物語と紹介されていて、読んでいたのを思い出した。

 と、こんなふうにごっちゃになってしまうくらい、ジェイン・オースティンの本は男女のいざこざをちまちま描いたものばかりで、ある意味どれも似たり寄ったりとも言えるのだけれど、いったん読みはじめるとおもしろくて夢中になってしまうのが不思議。金井美恵子の小説(目白シリーズなど)が好きなひとにもオススメ。 

分別と多感 (ちくま文庫)

分別と多感 (ちくま文庫)

 

  これを原作とする映画『いつか晴れた日に』も紹介されていたが、エマ・トンプソン、30代後半で19歳のエリナーを演じているのか…いや、30半ばでも綾瀬はるかなら女子高生を演じたってアリな気はするし、違和感ないでしょう(たぶん)。映画の方も見てみないと。


 あと、年齢について夏目さんも語られていたけれど、昔の小説を読んでいるとき、よっぽどの年寄りかと思いこんでいた登場人物が、実は30代であることが判明して衝撃を受けること、あるある!と深く同意した。

 増田まもるさんは、最新訳書の『雲』も話題になっているエリック・マコーマックの『パラダイス・モーテル』をご紹介。 

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

 

  マコーマックの真骨頂である、どろどろした描写、気持ち悪さ、関西弁でいう“えげつなさ”が堪能できる作品とのこと。……というのに魅かれて、さっそく読みはじめているが、たしかに、冒頭からなかなかえげつない事態が語られている。

 そしてもうひとつ、去年南條竹則さんの訳で出版された、ラヴクラフトの『インスマスの影―クトゥルー神話傑作選―』も推薦されていた。ラヴクラフト怪奇小説幻想小説の愛好家から根強い人気があり、これまでもいくつも訳書が出ているけれど、これが決定版と言っていいのではないかとのこと。しかも文庫なので、入門編にも最適ですね。 

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

 

  最後は質疑応答へ。そこで、好きな作家の新作の訳書が出ないがどうしたらいいか、という質問があった。
 ここで話題に出た作品が、訳される予定がないものか、あるいは現在訳しているところなのかははっきりわからなかったけれど、一般論として「これを訳してほしい!」という作品があれば、出版社の問い合わせ窓口にメールするなど、働きかけた方がいいとのことだった。あるいは、ツイッターなどのSNSで発信するとか。最近は出版社もツイッターなどで読者の声を拾うようにしているらしい。 


 ここ最近、海外文学を盛りあげようと、この「はじめての海外文学」や、翻訳ミステリー大賞、日本翻訳大賞といった動きがある。「盛りあげる」目的のひとつは、やはり「売りたい」ということだと思う。当然ながら、売れなければ、採算がとれなければ、商売として成り立たず、続けていくことができないからだ。

 けれども、こうやって好きな作品について語りあい、まだ読んでいない小説の話に耳を傾けるこんな場においては、売上や採算や儲けより、本への愛情や情熱が先に立ってしまう。
 
 商売として考えると、それがいいことなのかどうかは何とも言えず、「お金がすべてじゃない」なんて言葉はきれいごとのように聞こえるのも事実だけれど、それでもやはり、お金より愛情、情熱だなとあらためて感じる場でありました。

『青鞜』の女たちを描いた青春群像劇 二兎社『私たちは何も知らない』(作:永井愛)

 二兎社の舞台『私たちは何も知らない』(作:永井愛)を見てきました。 

nitosha.net

 この劇は『青鞜』に関わった女たちを描いていて、平塚明(らいてう)が姉の友達であった保持研らと『青鞜』を立ちあげ、その編集部に絵を勉強している尾竹紅吉がやって来る場面からはじまる。らいてうは少年のような紅吉に心魅かれ、紅吉は憧れのらいてうに可愛がられて有頂天になり、ふたりは夢のような日々を送る。

 しかし、『青鞜』の型破りな女たちが謳う「新しい女」像に世間は石を投げ(比喩ではない)、『青鞜』は存続の危機に瀕する。苦悩するらいてうは、心優しい若い男との逢瀬に安らぎを求めるようになる。

 一方、四面楚歌に陥った『青鞜』の編集部に、強いられた結婚から逃げ出してきた17歳の少女があらわれる。学生時代の恩師のもとに身を寄せていると語るその少女は、伊藤野枝と名乗る。
 さらに、岩野泡鳴と危うい結婚生活を送る岩野清や、アメリカ帰りの苦労人山田わかもらいてうの協力者となって『青鞜』を支え、世間からの冷たい目に屈することなく、「習俗打破!」を合言葉に、女たちは手と手を取り合って戦い続ける……

 らいてうや尾竹紅吉、伊藤野枝はある程度知っていたが、保持研や岩野清の名は聞いたことがなかった。岩野泡鳴は「自然主義作家」として名前だけは知っていたが、ウィキペディアに「乱脈な女性関係でも知られる」とわざわざ書かれているように、かなり破天荒な人柄だったようだ。

 結局、清と泡鳴は泥沼離婚劇をくり広げることになるのだが、愛人から3番目の妻(清は2番目)になった蒲原房枝も、最後の愛人荒木郁子も青鞜社員だったらしい。こうなると、泡鳴は『青鞜』の支援者だったらしいが、そこの女に手を出したかっただけなのではないか、味方のふりした一番厄介なサークルクラッシャーではないか、とすら思えてくるが、まあそれは本題ではないので置いておきます。

 それにしても、『青鞜』の女たちは、おどろくほど頻繁に論争している。
 「貞操論争」(女は貞操を守るべきか)に「堕胎論争」(堕胎は罪か否か、避妊を認めてもよいか)、そして「売春論争」(売春は許されるのか)。

 永井愛さんと伊藤詩織さんがパンフレットの対談でも語っているように、どれも「女性の身体の自己決定権をめぐる論争」だと言える。「貞操を守るべきか」や「堕胎は罪か否か」なんて、一見時代錯誤のテーマのように感じるかもしれないが、実は現在も変わっていない。いまでも、女が男と番うか/番わないか、子どもを産むか/産まないか、自分ひとりの意志で決めようとすると周囲から反発が生じる。

 また、「貞操」といった世間の価値観に従わない女はひどくバッシングされることも、当時もいまもまったく同じだ。
 らいてうは森田草平との心中未遂騒動で世間から後ろ指をさされたが、森田草平はそれを題材にした小説『煤煙』で文名を馳せた。
 そもそも、先の「貞操論争」の火種となったのは、雇用主の男に仕事と引き換えに貞操を奪われた女の話なのだ。現代の感覚で考えると、そんなものは犯罪以外の何物でもなく、女が罪悪感に苛まれたり、ましてや責められる謂われなどない。

 けれども、そんな時代において、この『青鞜』の女たちはどれほど勇敢だったことか。
 当時もいまも変わらない男女差別や不均衡の問題も気になったが、この劇で一番心に残ったのは、『青鞜』の女たちが血の通った生身の存在として、いきいきと描かれていたことだ。

 感受性豊かな紅吉に、生命力にあふれた逞しい野枝、そして、立派なことを宣ういいとこのお嬢さんという印象が(私の中で)あった平塚らいてうが、紅吉や博との恋にときめき、世間からの非難に心を痛めるさまに人間味が感じられた。

 ついには、かつては同志であった紅吉や保持研がすったもんだの末に結婚して、『青鞜』から遠く離れてしまう。「家制度」といった因習への反発として「自由恋愛」を求めたはずなのに、その恋愛の顛末が、昔ながらの「嫁」に回帰してしまうことに対するらいてうの困惑も共感できた。

 そして、なにより胸を衝かれたのが、冒頭に出てきた紅吉の台詞だ。『青鞜』を握りしめた紅吉が、

「これこそが私の読みたかった本だ! ずっと探し求めていた本だ! この先どんなことがあろうとも、この本さえあれば生きていける!」

(録音していたわけではないので正確ではありませんが、こういう意の台詞だった)

と、感極まった声をあげる場面に、見ている方も心をゆさぶられた。読者にこんなふうに思ってもらえるなんて、なんて幸せな本だろう……

 『青鞜』の命は短く、たった五年で解散した。それからの『青鞜』の女たちが、どのように波乱の時代を歩んでいったのかについては、この劇でも一瞬だけ触れられている。若くして亡くなった者、虐殺された者、軍国主義に翻弄された者……どうにか生き延びた者たちも、けっして無傷ではなかった。

 それでもやはり、どのような生き方をしても、あるいは無残に死んでいったとしても、『青鞜』に関わった女たちの心には、青春の一時期に胸に抱いた希望の光が最期まで輝いていたのではないだろうか、なんて思わず想像してしまった。

「善」と「悪」が入り混じったすえに生まれる「倫理」『ひとり旅立つ少年よ』(ボストン・テラン著 田口俊樹訳)

「私たちが生きるこの時代において、画家の大いなるキャンヴァスとはなんでしょう? そう、それはアメリカそのものです。私たちがともに描き出そうとしているこの国の絵。それこそ大いなるこの国家の将来を決定するものです」

 この『ひとり旅立つ少年よ』は、実在した奴隷制度廃止運動家ヘンリー・ウォード・ビーチャーのニューヨークでのオフィスにて、奴隷制度と戦う崇高な決意が語られるところからはじまる。 

ひとり旅立つ少年よ (文春文庫)

ひとり旅立つ少年よ (文春文庫)

 

  ところが、この言葉はすべて嘘っぱちなのである。

  詐欺師ザカリア・グリフィンが、著名な社会改革運動家であるビーチャーをカモにするために打った小芝居なのであった。
 仕事の相棒である息子を障碍者に扮装させ、「親の愛」を切々と語ってみせて、同情と信頼を得て、奴隷制度擁護派と戦うための軍資金を騙し取り、自らの懐におさめようという算段であった。

 思惑どおりに事は進み、ザカリアと息子は四千ドルもの大金をまんまと奪い取る。金を手に入れたならば、ビーチャーにも奴隷解放運動にも用はない父子はさっさと逃げようとするが、屈強な暴れん坊の白人と逃亡奴隷の黒人の二人組が、その金を取り戻そうと後を追いかける……

 と書くと、逃げる父子が悪人で、追いかける二人組が善人と思われるかもしれない。あるいは、ザカリアがどこかで改心するのか? と思われるかもしれない。
 しかし、そのどちらでもない。この物語はそんな二元論的な価値観に染めあげられていない。

 これまでの作品から私が感じた、ボストン・テランの小説の魅力のひとつは(全作読んだわけではないですが)、善と悪がきっぱりと分かれておらず、まるでマーブル模様のように入り混じっているところだ。

 これまでの小説では、大国アメリカの片隅で必死で生き延びようとする者たち、あるいは、生き延びることができなかった者たちの姿を、清も濁も抱合した視点から容赦なく描いてきたが、今回の作品では、自由を謳って誕生したアメリカの裏側に存在し、いまもなおその影響が色濃く残る奴隷制度と、真正面から向き合っている。

 この物語の主人公である詐欺師の息子チャーリーは、十二歳にして詐欺の手練手管に長けているが、内に秘めた善なる心からこの四千ドルを本来あるべきところに届けようと決心して、アメリカ横断の旅に出る。

 一方、この追いかける二人組、とくに逃亡奴隷の黒人であるハンディは、血も涙もない歩く殺人兵器のような怪物として描かれているが、奴隷だった頃、監視者に些細なことで因縁をつけられ、両手の親指を切り落とされたという過去を背負っている。

 この物語で印象に残った場面のひとつは、列車に乗りこんだチャーリーをハンディが追いかけるが、当時の列車においては、黒人は「黒人専用車両」にしか乗れなかったため、ハンディがそれ以上追跡できなくなるところだ。 

車掌は黒人を睨みつけて言った。
「おまえ、ここで何をしてる?」
ハンディは乾いた唇を舌で舐めた。
「おまえに訊いてるんだよ、このニガ―」

  一般車両から見物するチャーリーの前で、ハンディは車掌から「自由黒人の証明書」を出すように命じられ、身体検査を受けるという屈辱にあう。

 また、ある意味奴隷制度のおかげで、かろうじて逃げおおせたチャーリーも、その先の道中で「完全に白人のように見える黒人」という偽の売り文句のもと、市場で競りに出され、奴隷扱いされる苦しみを身をもって味わう羽目になる。 

奴隷市場について知るということは、引き裂かれた家族について知ることだ。子供を奪われ、希望を取り上げられ、自分の存在そのものも生きる目的も剥ぎ取られ、汚されるということを知ることだ。黒人なら誰でもとうの昔から知っていたことをチャーリーはようやく今知ったのだった。

  チャーリーは二人組に追われながらも、どんどんとニューヨークから内陸部へと進んでいく。それにつれて、奴隷制度擁護派と反対派の熾烈な戦いを目の当たりにする。

 この物語の舞台である南北戦争前夜の1850年代は、奴隷制度を認める「奴隷州」と認めない「自由州」に分かれていて、西部開拓によって新しい州が誕生するたびに、「奴隷州」あるいは「自由州」になるのかを決するために、擁護派と反対派それぞれの支持者たちが新天地に入植して、激しい戦闘をくり広げていた。
Wikipediaの「血を流すカンザス」の項に詳しい。ビーチャーの軍資金についても書かれていますね)

 このくだりで考えさせられたのは、やはりディクシー・ジャック一派をはじめとする奴隷制度擁護派(ラフィアン)や、逃亡奴隷を追う奴隷捕獲者たちの姿だ。

 いまの視点から考えると、狂信的とも言える人種差別主義者であり、悪の権化のようにすら感じられるが、当時の社会制度においては、逃亡奴隷を捕まえることは法に順守した行為であり、「善」だったのである。
 当時の人々の多くは、アメリカの建国理念である「自由」には、奴隷を所有する自由も含まれていると信じ、それを禁止されることは「自由」と「権利」の侵害だと考えていた。善良なる市民が奴隷制度を支持し、逃亡奴隷を捕獲することが正しい行いだと信じていた。

 また歴史的事実として、奴隷制度反対派の中には、倫理の面から奴隷制度に反対した者もいたが、北部の急激な工業化にともない、黒人奴隷を「解放」して、「自由」な「低賃金労働者」を確保したいと目論んでいる者も多かった。 

たとえ奴隷制がなかったとしても、それと同じくらい効率的に機能する別の制度ができていただろう。なぜなら、この世界そのものが奴隷制度だからだ。奴隷制度は不平等なものだが、この世界自体、不平等のもとに存続してきた。 

 奴隷廃止運動のカリスマ的指導者であるバトラーと行動を共にしていたチャーリーは、奴隷制度擁護派ドルーに捕えられそうになる。
 そこでチャーリーは、詐欺師としての天賦の能力を発揮して難を逃れる。お得意の噓を並べ立てて、ドルーに母親のことを思い起こさせ、敵対心を失わせたのだ。恥じ入った表情になったドルーを見て、詐欺師である自分もドルーも似た者同士だと思い知る。

 人間の心の中には、「善」と「悪」が入り混じっている。完全な善人も完全な悪人も存在しない。この作品では、けっして奴隷制度を「善」として描いていないが、奴隷制度を支持した当時の市民たちを、完全な「悪」として断罪しているわけではない。

 社会から虐げられた者が暴力で抵抗するというのは、ボストン・テランの作品でくり返し描かれているモチーフであるが、「正義」のために暴力を行使するのは「善」なのか、そもそも「正義」とは存在するのか、ハンディのように虐げられたすえに怪物となったものは「悪」なのか、どれも結論を出すことはできない。


 おそらく、「善」と「悪」がとことんまで入り混じったすえに、「倫理」が誕生するのだろう。
 この物語での「倫理」を体現しているミセス・ワッターズが、どう見ても白人であるが、黒人の母親を持つ「完全に白人のように見える黒人」であること、そして終盤に希望の担い手として登場するアニー・パイが、「白黒ぶち(パイボールド)の馬みたい」であることが、それを象徴しているように思う。

  ところで、この物語の冒頭で、父親が「この子(チャーリー)は作家になることを今から夢見ておりまして」と言う場面がある。 

少年は作家になりたいなどとはもちろん思ってもいなかった。少なくともそのときはまだ。

  そのあとも、チャーリーは天賦の才能である嘘を駆使して、作り話をすらすらとでっちあげたりと、作家になることが示唆されているように思える。

 この物語の書かれていないサイドストーリーとして、そのままミズーリで成長したチャーリーが作家になり、白人の少年と逃亡奴隷の黒人がミシシッピ川を下る物語を書く、という構想があるのかな? とも感じた。
(もちろん、現実のマーク・トウェインは詐欺師の息子ではないと思うが……でも十二歳で父を亡くしていますね)

 

当事者っていったい誰のこと? 『ほんのちょっと当事者』青山ゆみこさんトークイベント

わたしは社会の一員として生きている。
というよりも、社会とはわたしが生きることでつくられている。わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。

  さて、昨日は隆祥館書店で行われた、青山ゆみこさんの『ほんのちょっと当事者』出版記念トークイベントに行ってきました。 

ほんのちょっと当事者

ほんのちょっと当事者

  • 作者:青山ゆみこ
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2019/11/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  『ほんのちょっと当事者』とはどういう意味かというと、「これまで『大文字の困りごと』を抱えて生きてきたわけではない」という青山さんが、病気の母親を亡くし、脳梗塞の後遺症を抱えた父親が遺されたとき、「初めて自分が『介護問題』の当事者であることに」気づく。

 それをきっかけに、そもそも「社会問題の当事者である」とはどういうことなのだろう? と考えるようになり、自分がこれまで経験したことを、当事者としての視点で振り返って綴っている。ミシマ社のウェブマガジンでの連載時から大きな反響を呼び(私も楽しみにしていました)、このたび一冊にまとめられた。

 「社会問題の当事者」としての視線で…というと、ひたすらマジメだったり、ものすごく深刻だったりと、なんだか読んでいるこちらが告発されているような、スンマセンと謝らないといけないような、重苦しい気持ちになるのではないかと思われる方もいるかもしれないが、この本についてはそんな心配はまったく無用。 

〈夜尿症(おねしょ)は小学校に入る頃も約一割の子どもにみられ、男児での頻度が高い〉
え、うそっ!!!
読み替えれば、「小学校に入る頃には九割がおねしょをしなくなる」ということになる。
おねしょ……。封印していた暗い過去がにわかにびちょびちょと蘇る。
できれば黙っておきたかったが、わたしはおねしょ歴がとても長かった。 

 なんでまたよりにもよってここを引用すんねん、という感じかもしれないが、①どんな深刻な問題でもあくまで個人の視線から語り、②ユーモアや軽妙さを忘れない、という特徴がよくあらわれた箇所だと思うので、抜き出してみました。

 おねしょというのは当人にとってはめちゃくちゃ深刻な悩みごとだろうが、(申し訳ないけれど)傍から見るとちょっとユーモラスな印象もぬぐえない。このツカみで読者を笑わせ、緩和させる。

 しかしそこから、昔はおねしょの原因は、母親の育て方や子どもが抱えるストレスだという俗説が流布していた(現在は夜尿症という病気だと認知されている)と展開し、そう思いこんでいた自分が母親にどのように育てられてきたかを振り返る。

 「家父長制の権化のような父の『良き妻』であろうとし」た反動で、時折「豹変したように怒り狂」い、子どもたちを怒鳴って叩いていた母親を思い出す。男尊女卑の考えを持っていた父親に従い、娘にも「女の子らしく」を押しつける母親に、強く反発していた自分の姿も思い出す。 

わたしはどこかで、父に従属的に生きる母を同性の立場から責めていたのだ。なぜ母がそう生きざるを得なかったのかも考えずに。

  このように、けっして大上段に構えることなく、ごく個人的な困りごとや失敗談を契機に、当事者として社会問題に通じる扉を開けていくので、どの章も心にすっと入ってくる。
 社会人になりたての頃、勧められるままにローンを組んで自己破産しかけた話や、最近も派遣に登録しようとしたら、スキルチェックでひっかかった話にしても、ちょっと笑える失敗談からはじまり、そこから裏側にひそんでいる金融業や派遣業の問題点に目を向けている。

 トークイベントでも、大上段に構えない、上から語らない、大きく考えないというのは、このエッセイを書く際に常に意識していたと青山さんが語られていた。「正しい話をしない」というのが決めごとだった、と。
 大きく考えると、結局「差別はいけないので、やめましょう」みたいな、某A〇ジャパンのCMのような、「正しい」だけの文言になってしまう。そんなのは誰の心にも響かない。

 この本でも相模原事件について書いている章があるが、ただ「障碍者差別はいけない」「誰の命も平等に大事」など説いても、あの加害者にも、加害者に賛同するひとたちにも届くわけがない。

 それよりも、自分の中にも障碍者差別に加担するような気持ちはないか問うてみる方がいい、と。かつて自分も、障碍を持つクラスメートと同じ班になるのは面倒だなあと思っていた、「悪いゆみこちゃん」だった事実について考えた方がいい、と。


 それでもいくら問うても、あの加害者の心情を変えることも、理解することも永遠にできないかもしれない。本の中でも、障碍者の娘を持つ当事者として、事件について積極的に発言してきた社会学者の最首悟さんの言葉を引用しているように、「決してわからないことがある」ということを受け入れるのも大事なのだろう、とも語られていた。

 それにしても、おねしょの話から、自分の中にある障碍者差別の気持ちや、そのほかにも自分が経験した性犯罪や、この本では書くのに相当の勇気がいるであろうことが多く綴られている。

 けれども軽妙で、読んでいてまったく重苦しくなく、また「正しい話をしない」のがポリシーではあっても、いわゆる「本音をぶっちゃけた」体の露悪的なエッセイでもない。よって、司会の二村さんもおっしゃっていたように、非常に読後感のいい一冊となっている。

 その秘訣について聞かれた青山さんは、なるだけ感情を入れないように書いたと答えていた。実は連載時の内容には、親への恨みつらみがもっと多かったが、本にする際にばっさりとカットしたらしい。いまこうやって過去を振り返ることで、感情を「お焚きあげ」して、「悪いゆみこちゃん」だった自分から前に進むことができたのではないか、と考察されていた。

 あと、関西ではご存じの方も多いでしょうが、青山さんはもともとの関西の人気情報誌『MEETS』の編集者であり、独立されてからは、淀川キリスト教病院を取材した『人生最後のご馳走』の執筆や、「みんながつくるみんなの学校」を掲げた大空小学校の木村泰子先生の『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』のライティングをされている。(*一部修正しました)

 長年にわたり多くのひとに取材し、たくさんの話を聞いて記事にまとめてきた蓄積が、この本のフラットで風通しのいい語り口におおいに反映しているのではないかという印象を受けました。この本でも取りあげられていますが、「聞くこと」って大事なんだな、とあらためて感じました。 

人生最後のご馳走 (幻冬舎文庫)

人生最後のご馳走 (幻冬舎文庫)

 

  

「ふつうの子」なんて、どこにもいない

「ふつうの子」なんて、どこにもいない