当事者っていったい誰のこと? 『ほんのちょっと当事者』青山ゆみこさんトークイベント
わたしは社会の一員として生きている。
というよりも、社会とはわたしが生きることでつくられている。わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。
さて、昨日は隆祥館書店で行われた、青山ゆみこさんの『ほんのちょっと当事者』出版記念トークイベントに行ってきました。
『ほんのちょっと当事者』とはどういう意味かというと、「これまで『大文字の困りごと』を抱えて生きてきたわけではない」という青山さんが、病気の母親を亡くし、脳梗塞の後遺症を抱えた父親が遺されたとき、「初めて自分が『介護問題』の当事者であることに」気づく。
それをきっかけに、そもそも「社会問題の当事者である」とはどういうことなのだろう? と考えるようになり、自分がこれまで経験したことを、当事者としての視点で振り返って綴っている。ミシマ社のウェブマガジンでの連載時から大きな反響を呼び(私も楽しみにしていました)、このたび一冊にまとめられた。
「社会問題の当事者」としての視線で…というと、ひたすらマジメだったり、ものすごく深刻だったりと、なんだか読んでいるこちらが告発されているような、スンマセンと謝らないといけないような、重苦しい気持ちになるのではないかと思われる方もいるかもしれないが、この本についてはそんな心配はまったく無用。
〈夜尿症(おねしょ)は小学校に入る頃も約一割の子どもにみられ、男児での頻度が高い〉
え、うそっ!!!
読み替えれば、「小学校に入る頃には九割がおねしょをしなくなる」ということになる。
おねしょ……。封印していた暗い過去がにわかにびちょびちょと蘇る。
できれば黙っておきたかったが、わたしはおねしょ歴がとても長かった。
なんでまたよりにもよってここを引用すんねん、という感じかもしれないが、①どんな深刻な問題でもあくまで個人の視線から語り、②ユーモアや軽妙さを忘れない、という特徴がよくあらわれた箇所だと思うので、抜き出してみました。
おねしょというのは当人にとってはめちゃくちゃ深刻な悩みごとだろうが、(申し訳ないけれど)傍から見るとちょっとユーモラスな印象もぬぐえない。このツカみで読者を笑わせ、緩和させる。
しかしそこから、昔はおねしょの原因は、母親の育て方や子どもが抱えるストレスだという俗説が流布していた(現在は夜尿症という病気だと認知されている)と展開し、そう思いこんでいた自分が母親にどのように育てられてきたかを振り返る。
「家父長制の権化のような父の『良き妻』であろうとし」た反動で、時折「豹変したように怒り狂」い、子どもたちを怒鳴って叩いていた母親を思い出す。男尊女卑の考えを持っていた父親に従い、娘にも「女の子らしく」を押しつける母親に、強く反発していた自分の姿も思い出す。
わたしはどこかで、父に従属的に生きる母を同性の立場から責めていたのだ。なぜ母がそう生きざるを得なかったのかも考えずに。
このように、けっして大上段に構えることなく、ごく個人的な困りごとや失敗談を契機に、当事者として社会問題に通じる扉を開けていくので、どの章も心にすっと入ってくる。
社会人になりたての頃、勧められるままにローンを組んで自己破産しかけた話や、最近も派遣に登録しようとしたら、スキルチェックでひっかかった話にしても、ちょっと笑える失敗談からはじまり、そこから裏側にひそんでいる金融業や派遣業の問題点に目を向けている。
トークイベントでも、大上段に構えない、上から語らない、大きく考えないというのは、このエッセイを書く際に常に意識していたと青山さんが語られていた。「正しい話をしない」というのが決めごとだった、と。
大きく考えると、結局「差別はいけないので、やめましょう」みたいな、某A〇ジャパンのCMのような、「正しい」だけの文言になってしまう。そんなのは誰の心にも響かない。
この本でも相模原事件について書いている章があるが、ただ「障碍者差別はいけない」「誰の命も平等に大事」など説いても、あの加害者にも、加害者に賛同するひとたちにも届くわけがない。
それよりも、自分の中にも障碍者差別に加担するような気持ちはないか問うてみる方がいい、と。かつて自分も、障碍を持つクラスメートと同じ班になるのは面倒だなあと思っていた、「悪いゆみこちゃん」だった事実について考えた方がいい、と。
それでもいくら問うても、あの加害者の心情を変えることも、理解することも永遠にできないかもしれない。本の中でも、障碍者の娘を持つ当事者として、事件について積極的に発言してきた社会学者の最首悟さんの言葉を引用しているように、「決してわからないことがある」ということを受け入れるのも大事なのだろう、とも語られていた。
それにしても、おねしょの話から、自分の中にある障碍者差別の気持ちや、そのほかにも自分が経験した性犯罪や、この本では書くのに相当の勇気がいるであろうことが多く綴られている。
けれども軽妙で、読んでいてまったく重苦しくなく、また「正しい話をしない」のがポリシーではあっても、いわゆる「本音をぶっちゃけた」体の露悪的なエッセイでもない。よって、司会の二村さんもおっしゃっていたように、非常に読後感のいい一冊となっている。
その秘訣について聞かれた青山さんは、なるだけ感情を入れないように書いたと答えていた。実は連載時の内容には、親への恨みつらみがもっと多かったが、本にする際にばっさりとカットしたらしい。いまこうやって過去を振り返ることで、感情を「お焚きあげ」して、「悪いゆみこちゃん」だった自分から前に進むことができたのではないか、と考察されていた。
あと、関西ではご存じの方も多いでしょうが、青山さんはもともとの関西の人気情報誌『MEETS』の編集者であり、独立されてからは、淀川キリスト教病院を取材した『人生最後のご馳走』の執筆や、「みんながつくるみんなの学校」を掲げた大空小学校の木村泰子先生の『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』のライティングをされている。(*一部修正しました)
長年にわたり多くのひとに取材し、たくさんの話を聞いて記事にまとめてきた蓄積が、この本のフラットで風通しのいい語り口におおいに反映しているのではないかという印象を受けました。この本でも取りあげられていますが、「聞くこと」って大事なんだな、とあらためて感じました。