快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

絵の中で語られるのを待っている物語 『短編画廊』(ローレンス・ブロックほか 著 田口俊樹ほか 訳)

ここに収められた物語はさまざまなジャンルの物語だ。あるいは、いかなるジャンルにも収まらない物語だ。

  エドワード・ホッパーの絵をモチーフにした短編集『短編画廊』を読みました。 

  エドワード・ホッパーと聞いても、ピンとこないかもしれないけれど、実際に絵を見ると、その独特なタッチに見覚えのある方も多いのではないだろうか。

 一見、柔らかい光と影にあふれた、どこにでもあるような穏やかな風景を描いているけれど、目を凝らすと、そこには寂寥とした空気が流れ、うっすらと緊張がはりつめている……個人的にはこんな印象を抱いている。

 そんなホッパーの絵に惹きつけられた作家たちによる短編を集めたものが、この本であり、どの作品も見事にホッパーの絵に秘められた物語性と呼応している。

 なにより、ひとりの画家をモチーフにすると同じような物語ばかり生まれてもおかしくないように思えるが、冒頭の引用(この短編集の発起人であるローレンス・ブロックによる序文)にあるように、おどろくほど多種多様な短編が収められていて、ひとつとして似たテーマの物語がないことが、ホッパーの絵の奥深さを象徴しているように感じられた。

 その中でもとくに印象に残った短編をいくつか紹介すると、まずはニコラス・クリストファーの『海辺の部屋』。”Rooms by the Sea”をモチーフにしている。 

この家にはほかにも特異な――カルメンにしてみれば、ただならぬ――特徴があった。たとえば、一年ごとに部屋が勝手にひとつずつ増えていくのだ。この現象はファビウスが家にやってきた年に始まった。

  海辺の家とバスク人にまつわる伝説が交錯する、マジックリアリズムとも言える物語。
 バスク人の血をひくカルメンは母親から遺された海辺の家で、家に仕えてきたシェフのファビウスと暮らしている。しかし、いつのまにかこの家は部屋の数が知らぬ間に増え、さらには自由自在に全体の配置が変わりはじめ、謎めいたことが起きるようになった……

 この本の紹介文によると、作者のニコラス・クリストファーは小説家であり詩人で、海外でも広く出版されているらしいが、日本での訳書は見当たらないようだ。詩人が書いた小説にふさわしい、不思議な感銘が心に残る物語だった。バスク料理はやはり絶品なんだな、とも思った。

 

 クレイグ・ファーガソンの『アダムズ牧師とクジラ』も、まさに「いかなるジャンルにも収まらない」物語だった。”South Truro Church”をモチーフとしている。

マリファナはジェファーソンとビリーの絆を深めた。ジェファーソンはまさか人生最後の日々をビリーとともに過ごすことになるとは夢にも思っていなかった。あらゆる謎にことごとく首を突っ込むビリーは、イエス使徒や聖櫃や宇宙人やアトランティス大陸などについて、ジェファーソンをずっと質問攻めにしてきた。

  癌を宣告された八十代のジェファーソン牧師と、同じ歳で昔なじみのビリーとの心温まる交流を描いた物語……のはずなのだが、上の引用のように、宇宙人のみならずタントラ・セックス(って何?)にまで興味津々で、バイタリティにあふれたビリーとの関係は、年相応に枯れた滋味あふれるものには到底おさまらない。

 まるで落語の三題噺のように、マリファナ、クジラ、そしてエルヴィス・プレスリーが絶妙に絡みあい、意外なような納得のような結末を迎える。マリファナを吸って、『ロカ・フラ・ベイビー』を聞きながら、最後の日々を迎えるというのも、なかなかファンキーだ。

 クレイグ・ファーガソンは、解説によると「テレビ司会者でありコメディアンであり作家」とのことで、かなりの才人のようだ。これまでに自叙伝や小説を発表していて、去年出版したエッセイ集『RIDING THE ELEPHANT』も評判が良いようなので、読んでみたくなった。 

  そして、ジョー・R・ランズデールの『映写技師のヒーロー』。”New York Movie”がモチーフとなっている。 

おれはハンサムじゃないけど、ヒドい顔でもない。問題は女の子と気楽につきあえないってことだ。ただもう苦手なんだ。つきあい方を教わったこともないし。おれの親父はモテた。

  まさに「おれ」にとって守護天使であった、バートさんの後を継いで映写技師となった主人公の青年(「おれ」)と、その映画館で案内嬢をしている少女との淡い恋を描いたほのぼのした物語、と思いきや、意外な方向へ話が転がっていった。
 いや、ランズデールの作品を読んできたひとにとっては、意外な方向ではないのかもしれない。私はまったく読んだことがなかったので、意表をつかれてしまったが。

 青年が対峙する悪の非道さ、青年が引き換えにしなければならなかったものの大きさが胸に迫るが、語り口は一貫して軽やかで、それだけに最後の一文の余韻が心に残った。ランズデールのほかの作品も読んでみたいと思った。 

  最後はウォーレン・ムーアの『夜のオフィスで』。”Office at Night”がモチーフになっている。 

マーガレット・デュポンという名前は、最後まで好きになれなかった。ジーンとかベティとか、女優のような名前ならよかったのに、なんでマーガレット? マルクス・ブラザースのコメディ映画に出てくる女にしか思えない。でも、彼女はそのままの名前で通した。

  大柄ゆえ、“ラージ・マージ”なんて冴えないあだ名で呼ばれていた地元を出て、夢を抱いてニューヨークに行ったマーガレットの儚い人生を描いた物語。

 切なく物哀しい話ではあるが、飄々とした語り口から生まれる、どこかあっけらかんとした解放感が印象深い。昔読んだ岡崎京子の短編マンガのような、たったひとりで都会に生きる女の子の刹那(マーガレットの場合は、ほんとうに刹那だったのだけど)を切り取っている。

 ウォーレン・ムーアは、雑誌記者や音楽評論家の職を経て、現在は英文学教授として働いているらしい。こちらも単独の翻訳書はないようだ。しかし、この短編の雰囲気から、勝手に女性作家かと思っていたら、想像とまったく異なる風貌の写真が出てきておどろいた。(いや、解説をよく読むと「妻と娘と」暮らしていると書かれているのだが…)

 ここで紹介した以外にも、発起人のローレンス・ブロックを筆頭に、スティーヴン・キングジェフリー・ディーヴァー、マイケル・コナリー、そしてジョイス・キャロル・オーツなど、日本でも人気の作家たちの短編も掲載されている。

 とくに、ジェフリー・ディーヴァージョイス・キャロル・オーツは、ホッパーの絵に潜むドラマ性や不穏さを、自分の得意なフィールドでたくみに展開させていて、安定した横綱相撲のような読み応えがあった。 

彼の絵は物語を語ってはいない。ただ強く抗いがたく示唆している。絵の中に物語があることを。その物語は語られるのを待っていることを。

  よく言われることかもしれないけれど、一篇の短編小説は人生の断片をあざやかに切り取るものであり、その意味では一枚の絵と似ている。そして、逆もまた真なりである。

 なので、すぐれた短編集というのは、それだけでさまざまな絵を見せられているような彩りにあふれている。そのうえ、さらにすばらしい本物の絵がモチーフになると、人生の精彩や陰影がいっそうひきたち、二重三重に訴えかけてくるものなのだとつくづく感じた。