快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「善」と「悪」が入り混じったすえに生まれる「倫理」『ひとり旅立つ少年よ』(ボストン・テラン著 田口俊樹訳)

「私たちが生きるこの時代において、画家の大いなるキャンヴァスとはなんでしょう? そう、それはアメリカそのものです。私たちがともに描き出そうとしているこの国の絵。それこそ大いなるこの国家の将来を決定するものです」

 この『ひとり旅立つ少年よ』は、実在した奴隷制度廃止運動家ヘンリー・ウォード・ビーチャーのニューヨークでのオフィスにて、奴隷制度と戦う崇高な決意が語られるところからはじまる。 

ひとり旅立つ少年よ (文春文庫)

ひとり旅立つ少年よ (文春文庫)

 

  ところが、この言葉はすべて嘘っぱちなのである。

  詐欺師ザカリア・グリフィンが、著名な社会改革運動家であるビーチャーをカモにするために打った小芝居なのであった。
 仕事の相棒である息子を障碍者に扮装させ、「親の愛」を切々と語ってみせて、同情と信頼を得て、奴隷制度擁護派と戦うための軍資金を騙し取り、自らの懐におさめようという算段であった。

 思惑どおりに事は進み、ザカリアと息子は四千ドルもの大金をまんまと奪い取る。金を手に入れたならば、ビーチャーにも奴隷解放運動にも用はない父子はさっさと逃げようとするが、屈強な暴れん坊の白人と逃亡奴隷の黒人の二人組が、その金を取り戻そうと後を追いかける……

 と書くと、逃げる父子が悪人で、追いかける二人組が善人と思われるかもしれない。あるいは、ザカリアがどこかで改心するのか? と思われるかもしれない。
 しかし、そのどちらでもない。この物語はそんな二元論的な価値観に染めあげられていない。

 これまでの作品から私が感じた、ボストン・テランの小説の魅力のひとつは(全作読んだわけではないですが)、善と悪がきっぱりと分かれておらず、まるでマーブル模様のように入り混じっているところだ。

 これまでの小説では、大国アメリカの片隅で必死で生き延びようとする者たち、あるいは、生き延びることができなかった者たちの姿を、清も濁も抱合した視点から容赦なく描いてきたが、今回の作品では、自由を謳って誕生したアメリカの裏側に存在し、いまもなおその影響が色濃く残る奴隷制度と、真正面から向き合っている。

 この物語の主人公である詐欺師の息子チャーリーは、十二歳にして詐欺の手練手管に長けているが、内に秘めた善なる心からこの四千ドルを本来あるべきところに届けようと決心して、アメリカ横断の旅に出る。

 一方、この追いかける二人組、とくに逃亡奴隷の黒人であるハンディは、血も涙もない歩く殺人兵器のような怪物として描かれているが、奴隷だった頃、監視者に些細なことで因縁をつけられ、両手の親指を切り落とされたという過去を背負っている。

 この物語で印象に残った場面のひとつは、列車に乗りこんだチャーリーをハンディが追いかけるが、当時の列車においては、黒人は「黒人専用車両」にしか乗れなかったため、ハンディがそれ以上追跡できなくなるところだ。 

車掌は黒人を睨みつけて言った。
「おまえ、ここで何をしてる?」
ハンディは乾いた唇を舌で舐めた。
「おまえに訊いてるんだよ、このニガ―」

  一般車両から見物するチャーリーの前で、ハンディは車掌から「自由黒人の証明書」を出すように命じられ、身体検査を受けるという屈辱にあう。

 また、ある意味奴隷制度のおかげで、かろうじて逃げおおせたチャーリーも、その先の道中で「完全に白人のように見える黒人」という偽の売り文句のもと、市場で競りに出され、奴隷扱いされる苦しみを身をもって味わう羽目になる。 

奴隷市場について知るということは、引き裂かれた家族について知ることだ。子供を奪われ、希望を取り上げられ、自分の存在そのものも生きる目的も剥ぎ取られ、汚されるということを知ることだ。黒人なら誰でもとうの昔から知っていたことをチャーリーはようやく今知ったのだった。

  チャーリーは二人組に追われながらも、どんどんとニューヨークから内陸部へと進んでいく。それにつれて、奴隷制度擁護派と反対派の熾烈な戦いを目の当たりにする。

 この物語の舞台である南北戦争前夜の1850年代は、奴隷制度を認める「奴隷州」と認めない「自由州」に分かれていて、西部開拓によって新しい州が誕生するたびに、「奴隷州」あるいは「自由州」になるのかを決するために、擁護派と反対派それぞれの支持者たちが新天地に入植して、激しい戦闘をくり広げていた。
Wikipediaの「血を流すカンザス」の項に詳しい。ビーチャーの軍資金についても書かれていますね)

 このくだりで考えさせられたのは、やはりディクシー・ジャック一派をはじめとする奴隷制度擁護派(ラフィアン)や、逃亡奴隷を追う奴隷捕獲者たちの姿だ。

 いまの視点から考えると、狂信的とも言える人種差別主義者であり、悪の権化のようにすら感じられるが、当時の社会制度においては、逃亡奴隷を捕まえることは法に順守した行為であり、「善」だったのである。
 当時の人々の多くは、アメリカの建国理念である「自由」には、奴隷を所有する自由も含まれていると信じ、それを禁止されることは「自由」と「権利」の侵害だと考えていた。善良なる市民が奴隷制度を支持し、逃亡奴隷を捕獲することが正しい行いだと信じていた。

 また歴史的事実として、奴隷制度反対派の中には、倫理の面から奴隷制度に反対した者もいたが、北部の急激な工業化にともない、黒人奴隷を「解放」して、「自由」な「低賃金労働者」を確保したいと目論んでいる者も多かった。 

たとえ奴隷制がなかったとしても、それと同じくらい効率的に機能する別の制度ができていただろう。なぜなら、この世界そのものが奴隷制度だからだ。奴隷制度は不平等なものだが、この世界自体、不平等のもとに存続してきた。 

 奴隷廃止運動のカリスマ的指導者であるバトラーと行動を共にしていたチャーリーは、奴隷制度擁護派ドルーに捕えられそうになる。
 そこでチャーリーは、詐欺師としての天賦の能力を発揮して難を逃れる。お得意の噓を並べ立てて、ドルーに母親のことを思い起こさせ、敵対心を失わせたのだ。恥じ入った表情になったドルーを見て、詐欺師である自分もドルーも似た者同士だと思い知る。

 人間の心の中には、「善」と「悪」が入り混じっている。完全な善人も完全な悪人も存在しない。この作品では、けっして奴隷制度を「善」として描いていないが、奴隷制度を支持した当時の市民たちを、完全な「悪」として断罪しているわけではない。

 社会から虐げられた者が暴力で抵抗するというのは、ボストン・テランの作品でくり返し描かれているモチーフであるが、「正義」のために暴力を行使するのは「善」なのか、そもそも「正義」とは存在するのか、ハンディのように虐げられたすえに怪物となったものは「悪」なのか、どれも結論を出すことはできない。


 おそらく、「善」と「悪」がとことんまで入り混じったすえに、「倫理」が誕生するのだろう。
 この物語での「倫理」を体現しているミセス・ワッターズが、どう見ても白人であるが、黒人の母親を持つ「完全に白人のように見える黒人」であること、そして終盤に希望の担い手として登場するアニー・パイが、「白黒ぶち(パイボールド)の馬みたい」であることが、それを象徴しているように思う。

  ところで、この物語の冒頭で、父親が「この子(チャーリー)は作家になることを今から夢見ておりまして」と言う場面がある。 

少年は作家になりたいなどとはもちろん思ってもいなかった。少なくともそのときはまだ。

  そのあとも、チャーリーは天賦の才能である嘘を駆使して、作り話をすらすらとでっちあげたりと、作家になることが示唆されているように思える。

 この物語の書かれていないサイドストーリーとして、そのままミズーリで成長したチャーリーが作家になり、白人の少年と逃亡奴隷の黒人がミシシッピ川を下る物語を書く、という構想があるのかな? とも感じた。
(もちろん、現実のマーク・トウェインは詐欺師の息子ではないと思うが……でも十二歳で父を亡くしていますね)