快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

困ったおじさん大集合 『僕の名はアラム』(ウィリアム・サローヤン 柴田元幸訳)

 「困ったおじさんね」というのは、たしか寅さんの妹さくら一家の口癖だったような……なんでこんなことを思い出したのかというと、このウィリアム・サローヤンの『僕の名はアラム』には、「史上ほぼ最低の農場主である」メリクおじさん(『ザクロの木』)や、「一族きっての阿呆頭」で、仕事もせず一日中歌っている「僕の情けないおじさんジョルギ」(『ハンフォード行き』)や、東洋哲学を勉強し、四六時中瞑想にふけるジコおじさん(『五十ヤード走』)など、奇人変人ともいえるおじさん軍団がわんさか登場するからだ。 

僕の名はアラム (新潮文庫)

僕の名はアラム (新潮文庫)

 

  柴田元幸さんの訳者あとがきでは、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』や、バリー・ユアグロー『ぼくの不思議なダドリーおじさん』、北杜夫の『ぼくのおじさん』をひいているが、やはり「困ったおじさん」というと、車寅次郎がどうしても浮かんでくるのだった。


 というと、すごくのどかで牧歌的な物語のように感じられるかもしれないが、いや実際に、主人公の少年「僕」の目から語られる、おじいさんやおじさんを中心とした一族の物語やゆかいな学校生活は、牧歌的で理想郷のように思える世界なのだけど、訳者あとがきでは、サローヤンの親の世代は、「トルコによるアルメニア弾圧から逃げてきた――移民第一世代」であり、「生まれ育ったコミュニティ全体に、暗い過去に関する思いがつねに漂っていたようである」と書かれている。


 で、少し前に、奈良県立情報図書館で行われた読書会(トーク・アラウンド・ブックス)に参加し、そこでも誠光社の堀部さんが、この本の背景をいろいろ解説してくれた。
 正直、アルメニアといってもどんなところなのかピンとこなかったけれど、地図で見るとロシアとトルコとイランに囲まれた小さな区域だが、キリスト教では「約束の土地」という重要な拠点であり、世界ではじめてキリスト教を国教とした国らしい。しかし、1915年~1916年にはトルコによる大虐殺があり、その後ソ連に組み込まれ、再び独立を果たすのは、ソ連の崩壊を待たなければいけなかった。ちなみに、サローヤンアルメニアの偉大な作家としてソ連でも名高く、なんとアメリカとソ連の両国の紙幣に肖像がのったらしい。


 先にも書いた、「史上ほぼ最低の農場主である」メリクおじさんは、どうにもならないような砂漠の土地を買って、ザクロの果樹園を育てることを夢見るのだが、ザクロというのはアルメニアの象徴的果実とのことであり、つまり、サローヤンの小説の世界では、アメリカの価値観とアルメニアの価値観が共存しているとのことだった。


 あと、もうひとつ興味深かったのは、サローヤン伊丹十三の翻訳も話題になった『パパ・ユーア・クレイジー』で、魅力的な父と子の関係を描いたが、実際の息子アラム・サローヤンとの間には激しい確執があったという話だった。

 アラム・サローヤンものちに前衛的な詩を書く作家になったが、ウィリアム・サローヤンはそんなワケのわからん(←私が勝手に推測する、父ウィリアムの感想です、念のため。アラム・サローヤンの詩集を見せてもらいましたが、私はおもしろい詩だと思いました)詩を認めず、そして息子アラムも、売れっ子作家であった父のことを芸術家としては認めず、完全に決裂したらしい。ウィリアム・サローヤンは財団を作って自分の遺産を管理するよう遺言し、つまり息子や娘には遺産をわけようとしなかったとか。私が子供なら暴れるな。いや、でも最終的には和解したらしく、息子アラムによる『和解:父サロイヤンとのたたかい』という本も出ているそうです。


 また柴田さんのあとがきに戻ると、そういった移民の苦しみや家族の確執などを前面に出すことのないサローヤンの小説は、「楽天的すぎる」(要は、ぬるいってことですかね)と批判もされ、現代では、同時代のヘミングウェイスタインベックほど読まれていないことを指摘し、そこで援軍として、小島信夫訳の『人間喜劇』の訳者あとがきを引用している。

 (バイブルを読むと)私の偏見かもしれぬが、キリストでさえも、善人とは思えない。……キリストには寛容の精神などない。寛容と見える場合にも、私たちは油断することが許されない。……私たちは寛容をあたえられた場合にも、次におびえなければならぬことになりかねない気がする。……
 サロイヤンは「善人の部落」を書き、悪を追放した。悪はもう沢山だ。

興味深いですね。『人間喜劇』も読んでみたくなった。小島信夫の訳も気になる。

 トランプ氏が大統領になったりするのも、喜劇的なことなのかもしれない……あるいは、ヴォネガットが描いていた、まさにスラップスティックな世界になりつつあるのだろうか。