快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「普通」と「普通じゃないもの」の線引きとは? 『コンビニ人間』(村田沙耶香)

 さて、遅ればせながら、文庫になった『コンビニ人間』を読みました。 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

  主人公の古倉恵子36歳は、「少し奇妙がられる」子供時代を送り、自分では自分のどこがおかしいのかわからないまま、中学や高校でも他人と関わることなく一人で過ごし、大学時代に、ふとしたきっかけでコンビニでアルバイトをはじめる。 

コンビニ店員として生まれる前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思いだせない。

 しかし、コンビニで働きはじめて、世界が一変する。

 私はバックルームで見せられた見本のビデオや、トレーナーの見せてくれるお手本の真似をするのが得意だった。今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。

  それから大学を卒業しても就職せず、ずっとコンビニでのバイトを続けている。彼氏もおらず、恋愛もしたことがない。 

なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。

  就職も恋愛も結婚にも興味がない恵子は周囲から異端視されるが、コンビニという空間では、異物は排除され、すべてが「強制的に正常化」される。主人公の恵子は、コンビニでなら「普通」でいられると安堵し、長年にわたりコンビニとの蜜月関係を築きあげる。

 ところが、そんなコンビニに通りすがりの客としてではなく、バイトとして異物が入りこんでくる。35歳の独身男、婚活のためにコンビニバイトをはじめた白羽だ。
 これがまた「キモい」「ウザい」「イタい」を体現したような男で、読者をこれだけ不快にさせる登場人物もめずらしい、と思わず感心してしまうほどの描かれっぷりだ。

 といっても、現実にあり得ないようなキモさではなく、バイトの仕事もまともにこなせないのに仕事中に携帯をチェックし、店長に注意されると「底辺のコンビニ店長ふぜいが……」とぶつぶつ言ったり、目をつけた若い女性客を待ち伏せしようとしたり、「今は仕事をしていないけれど、ビジョンがある。起業すれば女たちが群がる」と言ってのけたり、イタい男のあるある!ネタを寄せ集めてぶちこんだようなキャラクターである。 

 当然、あっという間に白羽はバイトをクビになり、コンビニすら追い出される羽目になるのだが、恵子はそんな白羽に「私と婚姻届を出すのはどうですか?」と申し出る。なぜ、そんなことを言い出したのかというと―― 

ここ二週間で14回、「何で結婚しないの?」と言われた。「何でアルバイトなの?」は12回だ。とりあえず、言われた回数が多いものから消去していってみようと思った。

  恵子の思惑どおり、「男の人と一緒に暮らしはじめた」と周囲に伝えると、妹は姉がようやく「普通」になったと感動の涙を流し、同級生たちは狂喜乱舞する。 

皆、初めて私が本当の「仲間」になったと言わんばかりだった。こちら側へようこそ、と皆がわたしを歓迎している気がした。

  これで恵子は世の中ともうまく関係を結べるようになる……はずが、コンビニの仕事仲間たちに、バイトをクビになった白羽と一緒に暮らしているとうっかり漏らしてしまったがために、恵子にとってなにより大切な生きる場所であるコンビニの居心地が一変する――

  というストーリーであり、文庫本の帯にも「『普通』とは何か? を問う衝撃作」と書かれているように、この小説では、「普通とは何か?」「普通なんて存在するのか?」ということを真正面から問うてくる。
 主人公をはじめとする登場人物を「戯画化」に近いくらい極端なキャラに設定していることもあり、テーマがとても明快に伝わってくる。

 おそらく、多くの読者は「普通」を押しつけてくる人々の気持ち悪さ、うざったさをつくづく感じることだろう。もちろん私も、恵子を応援したい気持ちになった。応援というか憧れかもしれない。

 一応働いていて、それなりに社会に適応している(つもりの)自分は日和ってしまったが、恵子くらい思いっきり異端になりたかった、と。……いや、自分は適応しているのか? 結婚もしていないじゃないか。自分は恵子とどこがちがうのだ? 
 と、こんなふうに「普通」と「普通じゃないもの」の線引きについて考えさせられる物語だった。

 いまちょうど、『新潮45』での「LGBTは生産性がない」という言説が炎上しているが、この本に出てくる恵子や白羽は、いわゆる「LGBT」のカテゴリにはあてはまらないけれど、じゃあ「普通」なのだろうか? 生産性があるのだろうか? 

 この本のなかでも、恵子が「普通」側に属する同級生たちに「アセクシャル」なのかと聞かれる場面があるが、そういうカテゴリ分けに意味があるのか、そもそも性的指向とはカテゴライズできるものなのか、どうしても疑問を感じてしまう。

  そしてもうひとつ感じた疑問は、先に書いたように、この小説ではあえてかなり登場人物を戯画化していて、この恵子や白羽のような人間は「そんなやつおれへんやろ~」(from こだまひびき)と誰しも思うだろうが、では、世の中は妹や同級生たちのような、「普通」を絵に描いたようなひとたちばかりで構成されているのだろうか? ということだ。

 もちろん、ある程度の年齢になったら、就職して恋愛して結婚するのが「普通」だと考えているひとは多い。しかし、私の周囲を見ても、そういう「普通」の枠からはみ出しているひとは少なくない。(自分も含めて……まあ類友なのかもしれんけど) また、傍からはどう見ても「普通」のカテゴリに入っていても、それに疑問を感じつつあったり、あるいは「普通」でない一面を隠し持っているひとも少なくないだろう。


 戯画化された登場人物たちによって現代社会を描いたこの小説は、これはこれですごくおもしろく読めたのだけど、もっと「普通」と「普通じゃないもの」が混ざりあったような小説、一見「普通」に生きているひとの奥で蠢く「普通じゃないもの」が描かれた物語も読んでみたいと感じました。