快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

喪失感を抱えたまま生きていく 『あまりにも真昼の恋愛』(キムグミ 著 すんみ 訳)

 前回書いた「はじめての海外文学」の翌日に、出町座で行われたトークショーで、海外文学の魅力とは? という話になり、「遠さ」と「近さ」ではないかという意見が出た。
 つまり、海を越えた「遠い」国の物語であるのに、その心情はおどろくほど「近い」というよろこびこそが、大きな魅力だと。たしかにそのとおりだと思う。


 ただ、ふだんから海外文学を読んでいないと、まずその「遠さ」が往々にして障害になる。実際のところ、地名などの設定にもなじみがあり、登場人物が身近に感じられ、より共感しやすい日本の小説を好むひとの方が圧倒的に多いのも事実である。

 ここから、『82年のキム・ジヨン』の大ヒットに代表される韓国小説のブームともいえる現状を考えると、この「遠さ」と「近さ」のバランスが絶妙なのではないかという気がする。

 遠い海外の話であるにもかかわらず、アメリカやヨーロッパとは異なり、まるでパラレルワールドのように似た状況、既視感すら感じる光景が描かれる。社会の在り方や登場人物のおかれた境遇も近く、心情がいっそう胸に迫る。

 いや、小説で描かれる心情はアメリカやヨーロッパのものでも変わらないと思うけれど、同じようなバックグラウンド――西洋を目標にして急激に近代化を進めた結果、ひとびとの意識が追いつかないまま豊かになり、そこで経済成長が頭打ちになると矛盾が噴出し、社会の格差や混乱が目立つようになる――を持つせいか、西洋の国々より身近に感じられるのかもしれない。

 この短編集『あまりにも真昼の恋愛』では、取り返しのつかない過去に囚われ、どこにも行き場の無くなったひとびとが描かれ、登場人物たちの現在のよるべなさ、足場のない宙ぶらりんの気持ちに韓国の多くの若者たちから共感が寄せられたらしいが、日本の読者もきっと同じような思いを抱くのではないかと思う。 

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

 

 表題作の「あまりにも真昼の恋愛」は会社で降格を言い渡されたピリョンが、16年前の学生時代に自分のことを好きだと言ったヤンヒを探し求める物語である。

ヤンヒからの唐突な愛の告白で、平凡で不毛だった二人の関係はそれまでとは違う色彩を放ち始めた。その日も、ピリョンが自分の話に酔ってしゃべりつづけるのを横で静かに聞いていたヤンヒが、先輩、私、先輩のことが好きです、と言った。

 ヤンヒは仲の良い後輩であったが、化粧気もなく女らしくないヤンヒと付きあうつもりはなかった。いや、それだけが理由ではない。自分のことを好きだと言いつつ、明日はどうだかわからないなんて口にするヤンヒを受け入れる勇気がなかった。プライドが許さなかった。 

「おまえさ、少しは見た目を気にしたら? おまえのためを思って言うけど、いっしょにいるのが恥ずかしいんだよ。青春は二度と戻ってこないからな。あと何年かしたら後悔するよ――

  もちろん、そんな台詞を吐いたピリョンが、そのときから現在に至るまで後悔を抱え続ける。 

 この作品のみならず、この本に収録された短編では、登場人物は失ったものを探し続け、せっかく見つけてももう元には戻らないことを痛感する。あるいは、探していたものなんてほんとうには存在しなかったことが判明する。

 昔のサークル仲間だったセシリアに会いに行く「セシリア」、兄妹で両親を殺した男を探し出して復讐しようとする「普通の時代」、育った孤児院が資金不足のため閉鎖の危機にあると聞いて動揺する看護士が、靴を探す患者に遭遇する「私たちがどこかの星で」など。

 なかでも、ペットを探す話がとくに印象深かった。「犬を待つこと」では、母親が散歩させているときに逃げ出してしまった犬を探しているうちに、母親との関係が不穏なものに変化していく。いや、以前から存在していた不穏さが水面に浮上する、と言った方が適切か。

 散々な人生のはてに迷子の猫を探すことをライフワークにした男が主人公の「猫はどのようにして鍛えられるのか」は、この短編集の最後の作品だからかもしれないが、とくに胸に残った。 

捨てられた猫を、飼い主のところに戻してあげたのが始まりだった。それがいまや毎晩こなさなければならない副業になっている。猫探偵になろうとしてなったわけではない。彼の望みは一日八時間の勤務と週10時間前後の残業と帰宅、それから猫たちと過ごす夜だけ。

  両親を早くに亡くした主人公は、苦労の末にキッチン用品メーカーの設計員というホワイトカラーになったものの、現場で檄を飛ばし、しばしば周囲と軋轢をおこす性格から、現代の会社組織においては完全に疎まれて窓際族となり、孤独な人生を送っていた。そんなある日、庭のタライで野良猫が子猫を産んでいるのを発見する。

彼が自殺を図ろうとするたびに、たとえば、壁の釘に紐を結んで首を吊ろうとすると、そのタライの中にいる猫たちが彼の死を邪魔した。どうすればいいんだろう、あの猫たちを。その邪魔者について考えることで、彼は何日かを生き延び、ついには自分を猫に託すことにした。

  そんな彼のもとへ、行方不明になったベンガル猫を探してほしいと少年が依頼する。「不適応」で学校には行っていないというその少年の、どこまでほんとうなのかわからない証言にときに翻弄され、ときに憤りながら猫を探す。

 一方、リストラされずに居残った会社では、「職能啓発」してクラフトマンになるために、ひたすら釘を打ち、女性社員と言葉を交わすようになる。主人公は失ったものを見つけることができるのだろうか? 

 できるのだろうか? と書いたが、どの短編も、探していたものがはっきり見つかる結末は用意されていない。
 先にも書いたように、登場人物たちは宙ぶらりんのまま置いてけぼりにされる。ヤンヒもセシリアも主人公の立っているところには戻ってこない。けれども、宙ぶらりんのままでも日々は過ぎていく。

 喪失感を抱えたまま生きていく――それは特別につらいことでも悲劇でもなく、当たり前のことであり、それこそがかけがえのない日常なのだと感じさせてくれる短編集だった。