コミュニケーションとディスコミュニケーションの狭間の祝祭 「こちらあみ子」「ピクニック」(今村夏子)
十五歳で引っ越しをする日まで、あみ子は田中家の長女として育てられた。父と母、それと不良の兄がひとりいた。
小学生だったころ、母は自宅で書道教室を開いていた。もとは母の母が寝起きしていたという縁側に面する八畳ほどの和室に赤いじゅうたんを敷きつめて、その上に横長の机を三台並べただけの、狭くて質素な「教室」だった。
何が何だかわからないまま一気に読み終え、しばらく唖然としてしまう、『こちらあみ子』はそんな小説だった。
冒頭では、あみ子はおばあちゃんの家に住んでいる。そこへ近所に住む仲良しの小学生さきちゃんが、竹馬に乗って遊びにやってくる。さきちゃんは、あみ子が中学のときに好きだった男の子に殴られて前歯を無くした話を聞きたがる。
いったいどういう経緯でおばあちゃんの家にいるのか、なぜ好きだった男の子に殴られたのかと思っていると、上記の引用がはじまり、あみ子のこれまでが語られる。
あみ子の母が開いていたような書道教室、私も通っていた。同じ公団のちがう棟にある家の一部屋で、同じようにじゅうたんが敷きつめられていて(でないと墨汁が飛ぶからだと、いまならわかる)、トイレを借りたときにほかの部屋がちらりと見えたりした…と思い出したり、そこに通っていた大好きなのり君とのやりとりにどこか懐かしい、郷愁のようなものを感じたりもするが、もう少し読み進めると、そんなノスタルジックな甘い話ではないとすぐに気づかされる。
あみ子によって母が壊れ、家族が崩壊していくのが読者には手にとるようにわかるが、物語はあくまであみ子の視点から描かれる。
兄とスキップして帰った道、父がくれたハートマークのチョコレートクッキー、のり君がくれた蒸しパン、もうすぐやってくる赤ちゃんへの期待、おもちゃのトランシーバー……
途中、”邪悪な子ども” を描いた小説なのかな? とも思い、嫌悪感すら覚えてしまったのだが、あみ子はあくまでも無邪気で悪気はない。
その点については、以前に紹介した『夜中に犬に起こった奇妙な事件』と共通するものがある。この本の主人公の少年も悪気はないが、その言動で親が非常に苦しめられているのが伝わり、読んでいて非常につらくなる小説だった。
ただ、この小説は、主人公は自他ともに認める「ひとと上手くつきあえない」病気という設定で、親も(問題はあるものの)学校もサポートしようと試みていて、いわゆる「社会」との接続が感じられた。
けれども、「こちらあみ子」では、あみ子は病気と設定されているわけではなく(周囲が腫れもの扱いしているのは感じられるが、あみ子の視点から書かれているので、具体的にどう見られているのかはわからない)、しかも舞台は田舎町の家と学校のみという閉ざされた空間で、「外部」との接続はなく、よりいびつさが際立っている。
なにより不穏なのは、たしかにあみ子はふつうではないのだが、読んでいくうちにあみ子より、父と母の方がおかしいのではないかとも思えてくるところだ。
母は登場からどことなく不安定な素振りを見せるし、一番まともそうでありながら、家族が崩壊しつつあるのに何もしない父はかなり不気味である。父はあみ子が何を訴えても、妄言だと思っているのか、一切耳を貸そうとしない。
父とも母とも会話ができず、大好きなのり君にも殴られたあみ子は、壊れたおもちゃのトランシーバーに向かってひとりでしゃべる。
「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」
誰からもどこからも応答はない。
「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子。こちらあみ子。応答せよ」何度呼びかけても応答はない。
あみ子の声は誰にも届かない、と思ったそのとき、不良の田中先輩こと兄がやって来る。いくらあみ子が訴えても父が無視し続けたことを、「助けてにいちゃん」と言われた兄はたちどころに解決する。
このシーンは奇妙に感動的で、カタルシスを感じる。いや、感じるというより、事実ここからあみ子の世界が変わったのかもしれない。坊主頭と会話を交わし、あみ子にとってはじめての友達と言える(のり君は恋の相手だったので)さきちゃんがあらわれるのだから。
読み終えたばかりのときは、圧倒的なディスコミュニケーションを描いた小説のように思われたが、こうやって考えていると、そうとも言えない気がする。
いや、コミュニケーションかディスコミュニケーションかというと、ディスコミュニケーションが多く描かれているのだけれど、それよりも、コミュニケーションとディスコミュニケーションの狭間のようなものが浮かびあがると言うべきか。
そして、単行本に収録されている「ピクニック」も、これまた手ごわい小説だった。「こちらあみ子」ほど強烈な違和感を発散しているわけではないが、じわじわと足元が揺るがされるような感じ。
ルミたちが勤めるレストラン『ローラーガーデン』の新入りとして、七瀬さんが入ってくるところから物語がはじまる。ルミたちはウェイトレスとして、ビキニ姿にローラースケートを履いて働いているのだ。
女の子ではないけれどルミたちの母親ほどの年齢には達していない。その中間あたりだろうかと思われた。本人に歳いくつ? と訊ねたら「秘密です」と返ってきた。結婚しているの? と訊いたら「まだしてません」、彼氏いるの?「はい、います」、彼氏何歳? 「三十三歳」、彼氏なにやってるひと? 「タレントです」
七瀬さんは有名なお笑いタレントの名前を口にした。
そう、この正体不明の七瀬さんは、目下売り出し中のお笑いタレント「春げんき」とつきあっていると言うのだ。(ジャニーズのアイドルなどではないのが、うまいですね)七瀬さんが十二歳の頃に偶然出会い、それから十年後、まったくの新人だった彼が出演した深夜ラジオをまた偶然聞いて再会したらしい。
そしてルミたちはその話を受けとめる。信じているのか信じていないのかは明言されないが、七瀬さんの恋物語は、ルミたちの「ネタ」になる。
みんなで「げんきくん」(七瀬さんの呼び方)の出る番組を鑑賞する、彼とデートするために田舎から東京に行く七瀬さんを見守る、彼が落とした(とテレビで語った)携帯電話を探す七瀬さんを応援する……「ネタ」というと悪意や嘲りのニュアンスが強く感じられるので、共同幻想と言ってもいいかもしれない。
ところが、『ローラーガーデン』の輪のなかに十六歳の新人が加わったことで、ルミたちと七瀬さんで作りあげた世界に変化が生じ、さらに決定的な事件が起きる……
ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』に収録されていてもおかしくないこの小説。
「こちらあみ子」はあみ子の視点から描かれているので、あみ子に困らされている周囲の姿がぼんやりとしか読み取れない点が不穏な要因のひとつであったけれど、「ピクニック」はさらに発展して、七瀬さんを受容する「ルミたち」という複数の視点から描かれ、不穏さが拡散されている。あみ子対周囲の人間だったのが、七瀬さん&ルミたち対新人となり、ふつうじゃない方が多数派となる。
- 作者: ミランダ・ジュライ,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/08/31
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そして、この小説の要となっているのは、最初は七瀬さんが作りあげた幻想にルミたちが巻きこまれた形になっているが、そのうちに、ルミたちが七瀬さんを駆りたてるようになっていくことである。
いったんは「げんきくん」の携帯電話探しを諦めかけた七瀬さんだが、ルミたちに応援されたので、毎日泥だらけになってまで続ける。ルミたちは「げんきくん」の浮気を心配する七瀬さんを励まし、ついには七瀬さん不在で「げんきくん」を見に行くようになり……そうして「ピクニック」がはじまる。
そう、七瀬さんと「げんきくん」の恋愛は、ルミたちにとって祝祭というかカーニバルだったのかもしれない。ならば、当人たちの身の上がどう変化しようと終わらせることはできない。自分たちだけでカーニバルを続けるのだ。
彼岸と此岸、なんとか交信しようとするトランシーバー、終わらない祝祭、そんなイメージが浮遊する今村夏子の小説世界だった。