ヴァージニア・ウルフの言葉を思い出した 『対岸の彼女』(角田光代 著)
さて、本日(3月9日)の『元年春之祭』読書会に備えて、「女と女の小説」に浸っていた今日この頃でした。
このブログでも何度か引用している、松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』から、サラ・ウォーターズの『半身』に、ジャネット・ウィンターソンの『オレンジだけが果物じゃない』といった女同士の恋愛から、映画にもなった『思い出のマーニー』や金井美恵子の『小春日和』といった友情物語まで。
そして、この角田光代の『対岸の彼女』も読み返したけれど、やはりまた泣きそうになってしまうのでした。
この『対岸の彼女』は、3歳の娘を持つ35歳の小夜子が働きに出るところからはじまる。
そのきっかけは、一枚のブラウスだった。
1万5千円のブラウスが、35歳の女性の洋服として高いのか安いのか、さっぱり見当のつかない自分にショックを受け、働こうと決意するのである。(しかし、私はずっと働いているにもかかわらず、1万5千円の服が高いのか安いのかよくわからないが……)
そして小夜子は、偶然にも同じ年齢で同じ出身大学の葵が経営する家事代行、実質は便利屋の会社で働くことになる。大学を卒業してすぐに旅行会社を立ちあげた葵は、専業主婦をしていた小夜子からすると、快活でエネルギーに満ちあふれた存在に見える。
しかし、葵には秘められた過去があった。中学時代、葵はいじめに遭って学校に行けなくなってしまったのだ。
と、物語は小夜子を主人公とする現在と、葵の過去が交錯する形で進んでいく。葵の「秘められた過去」とは、不登校児だったことではない。
中学に行けなくなった葵は、高校生になるときに母の地元に引っ越し、知りあいのいない新しい土地でやり直すことにする。そこで、ナナコと出会う。
「ナナコでいいよ、アオちん」
ナナコはおどけた口調で言って葵の方を思いきりたたき、列の先へとスキップしていった。へんな人なのかもしれない。うしろ姿を眺めて葵は思う。
特定のグループに所属することなく、誰とでも気さくに言葉を交わすナナコは、人間関係に疲れ果てた葵の目には異人種のように映った。葵は高校のクラスでは、とりあえず席の近い生徒たちとグループを組んで行動するが、放課後はずっとナナコと過ごすようになる。
この小説のテーマは〇〇だ、なんて決めつけてしまうのは面白くない読み方だとはわかっているけれど、でもこの小説については、テーマは「友情」であると言い切ってしまってもいいように思える。
葵の過去のパートでは、葵とナナコの友情がきめ細やかに、リアルに語られる。
電話の子機(いまや「子機って何?」というひとも少なくないのだろうか)を握りしめて、どうという用事がなくてもえんえんと話し続ける。毎日会って散々話しているのに、手紙を交わす。(これはいまでもラインで行われているのでしょう)
そして気がつくと、「ふたりだけの世界」ができあがっている。親やほかのクラスメートなんてどうでもよくなる。ふたりでいれば、何でもできるし、何にもいらない。
「あたし、ナナコと一緒だとなんでもできるような気がする」
現在のパートでも、小夜子はママ友に混じれない自分を責め、保育園でなかなか友達を作れない娘に対して、自分の分身を見ているかのような苛立ちを抱く。そんな思いを打ち明けられた葵はこう語る。
「私たちの世代って、ひとりぼっち恐怖症だと思わない? …… 友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子、暗い子はいけない子。そんなふうに、だれかに思いこまされてんだよね。私もずっとそう。ずっとそう思ってた ……
「友情」がテーマといっても、「友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子」と主張しているわけではないのは言うまでもないが、逆に「友達は数ではなく質だ」「“ほんとうの友達”がいればいい」「見せかけではなく真の友情が大事だ」などと決めつけているわけでもない。
ただ誰かと親密になること、気持ちを分かちあうことが、葵とナナコの姿を通じて描かれている。そして、それがどれほど貴重ではかないものなのかが、ふたりのその後の顛末と現在のパートからひしひしと伝わってくる。
同時に、葵とナナコのような関係は思春期の一時期しか持ちえないものかもしれないが、大人になってからでも、葵と小夜子のように、仕事などといった現実社会のしがらみを通じて、さまざまな形で他人との新たな結びつきを築きあげられるということも伝わってくる。
さらに、この小説が胸に響くのは、巷でよく言われる「女は女が嫌い」「女の敵は女」理論を採用していないからだと思う。
もちろん、女の友情は純粋で美しいものだとばかり描いているわけではない。いじめで苦しんだ経験を持つ葵は、自分は他人と関係を持つことができないのだろうかと悩み、小夜子は母親同士の軋轢に直面して心をかき乱される。
それでも、いったんは別々の道を歩きかけたふたりが迎えるラストは、このうえなく清々しい。
同じように読み返していた、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』には、こう書かれている。
新聞とか小説とか伝記などをめくると、女性は女性に語りかけるときに、何かきわめて不快なものをこっそり用意しておかねばならない、とされています。女は女に手厳しいものだ。女は女が嫌いなものだ。女は――でも、こんな言葉はなくなってほしいと思うくらい、みなさんはこの言葉にうんざりしていませんか? じつはわたしがそうなのです。
同じ女だからといって、そう簡単にわかりあえたり、連帯できるわけではない。
でも、くだらない話をしながらでも、ときに気持ちを分かちあい、ともに歩いて行ける友達は絶対に必要だなと、読むたびに強く実感させられる小説である。