快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ナチス政権内部の少年たちを描いた、ジョン・ボイン『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹 訳)『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝 訳)

花の咲きほこる庭や銘板のついたベンチから五、六メートルほど先で、すべてががらりと変わってしまう。そこには巨大な金網のフェンスがあった。家と平行に張りめぐらされたフェンスのてっぺんはむこう側にむかって折れていて、目の届くかぎり左右へつづいている。家の屋根よりも高いほどのフェンスで、電信柱のように太くて高い木の柱が点々とあってささえている。フェンスのてっぺんには、ごちゃごちゃとからまりあった有刺鉄線が山のように積まれていて、グレーテルは見ているだけで体中に鋭いとげがささるような痛みを感じた。

  ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』と『ヒトラーと暮らした少年』を読みました。
 先に読んだのは『ヒトラーと暮らした少年』ですが、第二次世界大戦下のナチス政権を描いた連作なので(話の内容はまったく別ですが)、発表順にあわせて『縞模様のパジャマの少年』から感想を書いていきます。 

縞模様のパジャマの少年

縞模様のパジャマの少年

 

  第二次世界大戦中、ベルリンの豪邸で暮らしていたブルーノは、一家が見知らぬ土地へ引っ越すことになったと唐突に告げられる。なんでも、偉い軍人であるお父さんの仕事場が変わったためらしい。新しい家は辺鄙な森のなかにあり、周囲には何もない。ブルーノは学校に通うこともできず、家庭教師と勉強することになったので、同年代の友達もまったくできない。

 でも窓の外をよく見ると、森の向こうにフェンスが立っていて、フェンスの奥に小屋のようなものが並んでいるのが見える。もしかして、あれがお父さんの仕事場なのだろうか? 

 こっそりとフェンスのそばまで探検すると、丸刈りに縞模様のパジャマ姿の同じ歳くらいの男の子に出会った。引っ越してきて、はじめてのお友達だ! ブルーノは喜んで、その男の子と仲良くなろうとするが、どうも様子がおかしい……

 そう、この小屋というのが強制収容所であり、お父さんはおそらく収容所の所長クラスの職についているのだと想像できる。家には「ソートーさま」と「エバ」が訪ねてくるくらいなのだから、かなりの高い地位であるようだ。

 しかし、ブルーノはお父さんの仕事についてはもちろん、収容所についても何も知らず、新しい「友達」シュムエルが見たこともないくらいやせ細り、悲しげであっても深く考えたりはしない。
 9歳だから当然なのかもしれないと思いつつ、それでももうちょっと世事に通じていたり、カンのいい子はいるのではないかという気もするが、裕福な家のお坊ちゃまとして育てられてきたブルーノは無邪気で優しい心の持ち主ではあるが、おそろしいほど無知で鈍感だ。

 もちろん、人並みの敏感さを持ち合わせていたら、いくら子どもであっても、収容所には近づいてはいけないと察しがつくだろうから、中盤くらいまでイライラさせられたブルーノの無知と鈍感さが、この物語を成立させるのに必要な要素となっている。しかも、このブルーノの無邪気さが、最後の悲劇をいっそう引き立てている。

 この悲劇は、「友情」の帰結なのか、それとも「因果応報」、親の因果が子に報い…というと古すぎだが、と読み取るべきなのか、判断に困った。いや、どちらかが正解というわけではないとわかっているのだけれど。
 ブルーノがシュムエルを思う気持ちは純粋な友情だったと言ってもいいが、シュムエルの方はどう思っていたのか、大体あれほどの無理解のもとで友情が成り立つのか?など考えてしまった。

 そして、この姉妹編とも言える『ヒトラーと暮らした少年』。こちらの主人公ピエロは、ブルーノとはまったく異なる境遇にいる。 

ヒトラーと暮らした少年

ヒトラーと暮らした少年

 

  ドイツ人の父親とフランス人の母親のもとに生まれ、パリで暮らすピエロだったが、父親は第一次世界大戦に従軍したトラウマのせいでアルコール依存症となり、まともに働くこともできず、酒を飲んでは母親に暴力をふるっていた。結局、父親はピエロが四歳のときに家を出て、そのまま列車に轢かれて死んでしまう。 

ピエロは四歳から七歳までの三年間、毎日、二階でママンが客に給仕をしているあいだ、その部屋にすわって午後を過ごした。そして、口には出さないものの、毎日父親のことを思いだしていた。目の前にパパがいて、朝、制服に着がえ、一日の終わりにチップを数える姿を……

  そうして、ピエロと母親のふたり暮らしがはじまるが、ちょうどアパートの下の階に住むユダヤ人のアンシェルも父親を亡くしていたため、まるで兄弟のようにずっと一緒に過ごすようになる。
 アンシェルは生まれつき耳が聞こえないので、ふたりは手話で会話をしながらボール遊びや読書に興じ、ときにはアンシェルが作った物語で遊ぶこともあった。アンシェルは作家になるのが夢だったのだ。

 ところが、ピエロが七歳のときに母親が結核にかかり、あっという間に命を落とす。身寄りのなくなったピエロは、アンシェルともはなればなれになって孤児院に送られ、父親の妹のベアトリクスおばさんに引き取られることになる。

 ピエロはベアトリクスおばさんが家政婦をしている山荘で暮らしはじめる。ある日、ふだんは留守にしている山荘の主がやって来たので、ピエロはおばさんに言われたとおり、力強く、はっきりと挨拶する。「ハイル・ヒトラー!」と……

 本格的に物語が展開するのはここからだが、ピエロの人格が形成される背景が描かれた序章が、この小説の要だと思う。
 このあと、ピエロはヒトラーの信奉者となっていくのだが、その心理の裏には、父親への憧憬、自分を庇護してくれる強い者を求める気持ちがあったことが、この悲しい生い立ちから理解できる。

 先にも書いたように、『縞模様のパジャマの少年』とはまったく別の物語だけど、あとから読み返して気づいたが、『縞模様のパジャマの少年』に出てくる登場人物がちらほらと顔を出している。

 どちらの作品も、ナチス政権下において、正反対の立場にある者同士のあいだで生まれる「友情」がテーマとなっている。
 しかし、「友情」と言えるものなのかあやふやだった『縞模様のパジャマの少年』とちがい、この『ヒトラーと暮らした少年』は正面から「友情」を取り扱っていて、洞察がより深まっている。
 さらに、登場人物たちの人物像も『ヒトラーと暮らした少年』の方が複雑に描かれているので、『縞模様のパジャマの少年』のような衝撃はないが、最後の場面の感動はいっそう胸に迫る。なので、二冊とも読むのをおすすめします。 

わたしは彼の手の動きを追った。そしてそれは、心に愛情と慎みをもっていた少年が、権力によって堕落していく物語だ、と。死ぬまでかかえていかなければならない罪をおかし、自分を愛してくれた人たちを傷つけ、いつもやさしくしてくれた人たちを死に追いやることに力を貸してしまった少年の物語であり、また、捨ててしまった自分の名前を一生かけてとりもどさなければならない少年の物語なのだ、と。

  ナチス政権やユダヤ人迫害を取り扱った物語は数多くあると思うが、ジョン・ボインのこの二作のように、ナチスの内部に入りこんだ子どもの視点から、つまり加害に加担した子どもという立場から描くというのは異色なのではないだろうか。

 彼らは知識もなく、自分たちの周囲が何をしているのかもよくわからないまま巻きこまれていく。恐ろしいと感じる反面、誰の身にも起こり得る物語だともつくづく思う。『ヒトラーと暮らした少年』の訳者あとがきではこう書かれている。 

ピエロを変えてしまった力は、現代の世界にも、そしてわたしたちの暮らす日本社会にも潜んでいることを忘れてはなりません。この作品は、わたしたち読者に、引き返せるうちに引き返す勇気をもつことを訴えているのではないでしょうか。

  隣国との小競り合いやさまざまな問題が噴出している日本の現状において、この言葉が、まさにほんとうにそのとおりだと思えてなりません。