快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

誰もが心に秘めている闇とは? ミネット・ウォルターズ『氷の家』(成川裕子訳)から『A Dreadful Murder』まで一

  9月26日(土)の読書会(課題書『カメレオンの影』成川裕子訳)の予習のため、ミネット・ウォルターズのデビュー作『氷の家』と、2013年に発表された『A Dreadful Murder』(未訳)を再読しました。 

氷の家 (創元推理文庫)

氷の家 (創元推理文庫)

 

  まず、ミネット・ウォルターズがどういう作家かというと、『氷の家』の解説で紹介されている「エドガー・アラン・ポージェイン・オースティンと協力して優れた英国ミステリを書きあげていたとしたら」という宣伝文句がわかりやすいかもしれない。

 この『氷の家』は、十年前に夫が失踪したフィービが、アンとダイアナというふたりの女友達とともに暮らす古い屋敷が舞台となっている。周囲の村人たちはフィービを夫殺しと噂し、三人の女を魔女やレズビアン呼ばわりしている。
 そんなある日、屋敷の氷室で謎の死体が発見される。死体の正体は? 行方不明になったフィービの夫なのか? ウォルシュとマクロクリンという二人の刑事が十年前の事件の真相を調べはじめる……という物語である。

 『氷の家』には古い屋敷や死体といったゴシック要素、最初は反発していたふたりが魅かれあうといったロマンス要素もあるが、なにより、村人たちの何気ない噂や悪意がさらなる悲劇を生むという構造を描いたところが印象に残る。誰もが心に秘めている闇、他人を蹴落とそうとする悪意、相手を支配したい欲望……こういったものが、ウォルターズの小説では赤裸々に描かれている。

 そこで、近年の作品『A Dreadful Murder』を読むと、その視点がまったく変わっていないことに驚かされた。 

  この『A Dreadful Murder』は、1908年にケント州のアイテム(Ightham)という村で実際に起きた Caroline Mary Luard の未解決殺人事件をもとにした中編小説である。

  Carolineの夫Charles Edward Luardは元軍人であり、州の議員や治安判事も務めた地方の名士であった。Carolineは上流階級の妻にふさわしく、熱心に慈善活動に取り組んでいた。社会保障などが手薄だったこの時代、お金持ちの慈善活動によって救貧院に送られるのを免れた人々も少なくなかったようだ。(※以下、実際にあった事件をもとにしているので、ストーリーの結末まで書いています)

 1908年8月24日の昼下がり、CharlesとCarolineは散歩に出た。Charlesはゴルフ場に行ってゴルフバッグを取って来るのが目的だった。Carolineは友人のMrs. Stewartとお茶の約束があったので、それまで少し身体を動かそうと思ったのだ。
 ふたりは家を出てしばらく一緒に歩き、教会を越えて小さな門のところで別れ、Charlesはゴルフ場へ向かう。

 そして、夕方Charlesが家に戻ると、Mrs. StewartがまだCarolineを待っている。まだ帰っていないのか? 不審に思ったCharlesが家を出て、Carolineの歩いていった方向を探すと、隣人の敷地内にある豪勢なサマーハウスのベランダでCarolineの死体を発見する。頭を銃で二発撃たれていた。

 ケント州警察の署長Henryはすぐにロンドン警視庁に応援を求め、警視のTaylorとともに捜査を開始する。殺されたCarolineは指輪と財布を奪われていた。撃たれる前に頭を強く殴られている。行きずりの強盗の仕業だろうか? あるいは強盗は単なる偽装で、Charlesに恨みを持つ者の犯行かもしれない。Charlesが治安判事だったときに、刑を宣告した者を洗い出さねばならない。

 ところが、そんな捜査とは裏腹に、Charlesが妻を殺したのだという噂が村じゅうを駆け巡る。
 Carolineが撃たれたのは午後3時15分である。近所の複数の人間が銃声を聞いている。一方、午後3時20分にゴルフ場に向かって農場を歩いているCharlesの姿が目撃されている。この二地点は到底5分で移動できる距離ではない。しかもCharlesは70歳近いのだ。
 さらに、Charlesの所有しているすべての銃は、Carolineを撃った弾とは合わない。新たに銃を手に入れた形跡もない。そもそも、どうして隣人の敷地内で妻を殺すのか? 以上のことから、Charlesを犯人とする根拠はまったく見当たらなかった。

 それなのに、噂はいっこうに収まる気配はない。それどころか、Charlesが週に2日ゴルフに行っていたのは、愛人に会うためだったという噂すら広まる。誰もその愛人を見たことも聞いたこともないというのに。警察署長HenryがCharlesの親しい友人なので、証拠をもみ消しているにちがいないとまで言われる。ついに、Charlesのもとに匿名の手紙が届きはじめる。 

WE ALL KNOW YOU SHOT YOUR WIFE.

YOUR FRIEND THE CHIEF CONSTABLE CAN’T PROTECT YOU FOREVER.

YOU DON’T DESERVE TO YOUR LIVE. DO EVERYONE A FAVOUR.

KILL YOURSELF.

  警視Taylorは、Charlesに大量に送られ続けるヘイト・レターを見て愕然とする。長年ロンドン警視庁で働いてきたが、隣人たちがこれほどまでの悪意をむき出しにする事件に遭遇したことはなかった。Carolineの「友人」とされていた者たちも、Mrs. Stewartを筆頭に手のひらを返した。Carolineの知人のなかで唯一信用できそうな Sarah の証言をもとに下層階級の若者たちに目をつけるが、村から逃げられてしまう。

   捜査が行き詰まり、頭を抱えるTaylorのもとに悪い知らせが舞いこむ。
   Charlesが自殺したのだ。HenryがCharlesの遺書を読みあげる。もう生きていく気力がないと書かれていた。この遺書を公表しないと、Charlesが妻を殺した罪悪感のせいで自殺したと思われるのではとTaylorが言うと、公表したって同じことだとHenryが答える。真犯人が見つからないかぎり、Charlesが犯人だと言われ続けるにちがいない、と。
 そうして結局、真犯人が見つかることはなかった。

 この物語を読むと、読者も警視Taylor同様に村人の悪意に愕然とさせられる。上流階級であったCharlesとCarolineに対して周囲の人間が抱いていた敵意が、殺人事件をきっかけに堰を切ったように放出される。当人が自ら命を絶つまで噂や中傷が止むことなく、ヘイト・レターが次々と押し寄せる。なんだか現在のネットの状況と重なるようにも思える。

 犯人はいまだ判明せず、WikipediaではJohn Dickmanという別件の殺人事件で捕まった男が関与している可能性があると記されているが、この物語では、同じ村に住む貧しい下層階級の若者の仕業ではないかと示唆している。

 かねてからCharlesは非情で冷酷な人間であり、Carolineは可哀そうな犠牲者であったと村人たちは語りあうが、慈善活動に精を出していたCarolineもCharles同様に村人たちから憎まれていたのだろうと作者は推測する。なぜなら、よろこんで施しを受ける者などいないからだ。誰も好きこのんで頭を下げたりはしない。

 Charlesは遺書で “The dreadful murder of my wife has robbed me of all my happiness.” と綴り、ここからこの物語のタイトルが取られているが、“a dreadful murder”(恐ろしい殺人)の対象になったのは、CarolineよりむしろCharlesだと言えるのはまちがいない。

  それにしても、デビュー作からえんえんと人間の複雑な心理や心の闇に向き合い続けて疲れないのだろうか? と思いつつ、2015年に掲載された作者のインタビューを読んだところ、

It’s so much more interesting to write a repellent character than a sweet, saintly one. I’d get bored of a totally nice character after three pages.

(聖人のように心やさしい人間より、嫌なやつを描く方がずっとおもしろい。登場人物がどこから見ても「いい人」だと、3ページでうんざりする) 

 とあって、さすがだな……!と心から感服しました。www.theguardian.com

 さて、今回の読書会の課題書『カメレオンの影』では、そんな人間の心の闇や悪意がどのように描かれているのか? 一緒に読み解いていきたい方は、ぜひとも読書会にご参加ください。ZOOMを使ってのオンラインでの開催なので、全国(もしくは外国でも)どこからでもご参加可能です。 

カメレオンの影 (創元推理文庫)

カメレオンの影 (創元推理文庫)