快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

美と世俗、芸術と凡庸――対比を鋭く描いた『月と六ペンス』(サマセット・モーム 金原瑞人訳)

「じゃあ、どうして奥さまを捨てたんです?」
「絵を描くためだ」
 わたしは目を丸くして相手の顔をみた。意味がわからなかったのだ。この男は頭がおかしいのだろうかと思った。覚えておいてほしいが、わたしはまだ若かった。ストリックランドがただの中年男にしかみえていなかった。わたしはあっけに取られ、予測していた答や問いはみんな忘れてしまった。
「しかし、もう四十じゃないですか」
「だから、いましかないと思ったんだ」

  

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

  この『月と六ペンス』は、多くの人がご存じでしょうが、画家ゴーギャンをヒントにして書かれたものであり、ゴーギャン同様に家庭を持った株式仲買人として、順風満帆な人生を送っていたはずのストリックランドが、突然仕事をやめて、ロンドンの家を飛びだしパリに行ってしまう。
 主人公の「わたし」は若い小説家であり、芸術家との社交が趣味であったストリックランドの妻と知り合いだったため、頼まれてストリックランドを探しに行き、どうして家を出たのか問いただす場面が、上記の引用である。

 
 家出を知ったストリックランドの家族も親戚もすべて、きっと女と逃げたにちがいないと決めつけ、「わたし」も当然そう思っていたのだが、絵を描くためという思いもよらぬ答を聞いて、度肝を抜かれる。そう、訳者あとがきでも
 

「(満)月」は夜空に輝く美を、「六ペンス(玉)」は世俗の安っぽさを象徴しているのかもしれないし、「月」は狂気、「六ペンス」は日常を象徴しているのかもしれない。

  と書かれているように、この小説は最初から最後まで、美や芸術の世界と、凡庸な日常、通俗的な価値観が徹底的に対比されて描かれている。単に前者だけ、ストリックランドが美や芸術をストイックに追い求める姿だけを描いていたなら、きっとつまらない、それこそ凡庸で通俗的な小説になっていただろう。


 それが一番よくあらわれているのは、第二の主役とも言える、なんならストリックランドより印象に残るかもしれない、ストルーヴェの生き方だ。

 画家であるストルーヴェは美についてきわめて鋭い感性を持ち、だれも理解できなかったストリックランドの絵をまっさきに評価する。けれど、自分が描く絵は、感傷的で凡庸な、”絵のように美しい”風景画であり、印象派が次々と新しい趣向を打ち出している当時では、完全に時代遅れの代物だ。二流画家である自分に満足し、周囲の人々に限りないやさしさをみせ、どんな目に遭わされてもひたすらストリックランドに尽くし続ける。

 エゴイスティックに自らの芸術を追い求めるストリックランドのような人物を描くことは、そんなに難しくないと思うが、この道化のような、聖者のような、ストルーヴェを描き出したのが、モームの作家としての凄さなんだろう。また、ストリックランドも芸術以外に一切目を向けない聖者として描かれているわけではない。金銭や名誉への執着はさっさと捨てたものの、肉欲は捨てきれず、女の肉体に安らぎを求めようとする。しかし、女は安らげだけを与えてくれる存在ではない。そこで悲劇が生まれる。
 
 物語の後半では、「わたし」やストルーヴェとも別れて、ひとりタヒチに発ったストリックランドが描かれる。
 といっても、ストリックランドを主人公とした物語が繰り広げられるわけではなく、ストリックランドの死後、「わたし」がストリックランドと関わった人たちから断片的に話を聞くというスタイルをとっていて、「わたし」との丁々発止のやりとりや、ストルーヴェとのスリリングな関係が描かれていた前半にくらべると、読んでいて少々まどろっこしく感じるのは事実だが、これも、ストリックランドが芸術を追い求める姿、「月」をそのまま描くのではなく、それをまったく理解していない噂好きで凡庸な人たちの視線から語ること、「六ペンス」が必要だったのだろう。

 ストリックランドは、タヒチの女からこれまで得ることのできなかった限りない安らぎを手にするものの(まあ、このあたりの描き方は、現在のフェミニズムの視点からは異論があるでしょうが)、難病にかかり、壮絶な、でもある意味幸せな最期を迎え、それはまさに芸術家の最期にふさわしいものなのだけど、この物語はそこでは終わらない。

 聞き取りを終えた「わたし」は、ロンドンに戻り、ストリックランドが捨てた家族に顛末を報告する。妻は、捨てられたときの激しい怒りもなかったことのように、いまは天才画家と呼ばれている、かつての夫の話をするのが自分の使命とばかりに誇らしげな様子を見せる。
 
 と、ここで、この小説の冒頭とつながっていることに気がつく。冒頭では、この物語を語っている時点でのストリックランドを巡る状況が書かれていて、単なる導入部かのように思えるが、ここからすでに芸術と対照的な「俗」の価値観がしっかりと提示されていたのだった。
 芸術をテーマとして描きつつ、「俗」ではじまり、「俗」で終わるこの小説。イギリス人作家って、ほんと一筋縄でいかないな、とあらためて感じた。

圧倒的な孤独を描いた短編集 『レキシントンの幽霊』(村上春樹)

さっきロンハー見てたら、ジャルジャルの福徳の部屋にブタの貯金箱が置いてあって、前回の『コドモノセカイ』のエドガル・ケレットの作品を思い出してしまった。

 いや、それはともかく、村上春樹の新作『騎士団長殺し』って、最初は冗談かと思った。虚構新聞かなにかの類の。どうしても、「ワンナイトカーニバル~」と歌う翔やんが殺されるのかと思えてしまうが…(ベタですいません)
 
 で、この季節になると読み返してしまうのが、『レキシントンの幽霊』に収録されている短編『氷男』だ。 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

氷男は暗闇の中の氷山のように孤独だった。

そして私はそんな氷男のことを真剣に愛するようになった。氷男は過去もなく未来もなく、ただこの今の私を愛してくれた。そして私も過去も未来もないただこの今の氷男を愛した。それは本当に素晴らしいことのように思えた。

  人間の男と氷男とはどこが違うのだろう? なにもかもが凍てついた南極と、私たちが住んでいるこの世界はどこが違うのか? 過去を氷に閉じこめ、未来も消去して、ただ今だけを生きることがどうしてこれほど孤独になるのか?  

私はほんとうにひとりぼっちなのだ。世界中の誰よりも孤独な冷たい場所にいるのだ。私が泣くと、氷男は私の頬にくちづけする。すると私の涙は氷に変わる。 

 しかし、いまこの短編集を読み返すと、どの話も圧倒的な孤独を描いていることにあらためて気づく。『トニー滝谷』も、孤独な男滝谷省三郎から生まれた、孤独な息子トニー滝谷の人生を描いている。トニー滝谷は、恋に落ちて結婚することによって孤独から脱出したかのように見えたが、実は、その孤独は妻に伝染していただけのようにも思える。妻は服を買いあさったすえに、あっさりとトニー滝谷の人生から姿を消す。妻が去ったあと、やってきた女が綺麗な服を見て涙を流す場面は、『グレート・ギャツビー』を思い起こさせる。けれど、この物語はたしか映画や舞台になっていたように思うけれど、どんな感じだったんだろう?
 
 そして『沈黙』は、村上春樹の短編にはめずらしく、学校というリアルな社会での厳しい状況をストレートに描いたものであり、読者とのメールのやりとりなどを見ていると、やはり学校などで、そういうつらい思いをしたことのある読者に人気のようだ。いま読むと、『多崎つくる』につながるものもあるような気がする。

でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何か悪意のあるものがやってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家庭やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先何がどうなるかはわからないんだぞって。

  どの作品も、初期の『中国行きのスロウ・ボート』や『パン屋再襲撃』などに収められている短編と違って、ユーモアやとぼけた感じは影をひそめ、もちろん”100パーセントの女の子”なんていうような祝祭感はまったくなく、そして『東京奇譚集』以降の作品のような、よくできた「物語」感もなく、それでも、上に書いた『沈黙』や『トニー滝谷』のように一度読むと胸に深くくいこむ作品が多い。『めくらやなぎと、眠る女』は、昔の作品をエディットしているのだけれど、単に短くしただけではなく、感触がどことなく、でもはっきりと変わっている。

 
 さて、『騎士団長殺し』、どんな作品なんでしょうか。考えたら、最近の作品は『1Q84』にしても、『多崎つくる』にしても、サスペンスっぽい要素を取り入れていたけれど、今回は”殺し”とタイトルからしてそのままズバリである。予想通り、物騒な(?)作品なのか、もしかしたら『羊をめぐる冒険』みたいな感じに戻ったりもするのだろうかという期待もある。まあなんだかんだ言いつつ、楽しみです。

<見えない敵>と戦う、子供の過酷な日々を描いたアンソロジー 『コドモノセカイ』(岸本佐知子編訳)

 子供の頃は毎日がバラ色だった、なんて人いるのだろうか? 子供時代というと、幸福の象徴のように思われることが多いが、そんなことってあるのだろうか? 
 『コドモノセカイ』を編訳した岸本佐知子さんは、あとがきでこう書いている。 

コドモノセカイ

コドモノセカイ

 

町で子供を見かけると、私はいつも少し緊張する。たとえその子が笑ったり元気に走りまわったりしていても、それはうわべだけのことなのではないか。この小さい体の中では本当はいま嵐が吹き荒れているのではないかと想像してしまう。 

それなりに長く生きてきて、いろんな苦しいこと怖いこと恥ずかしいことはあったけれど、振り返ってみても、大人になってからより子供時代のほうがずっと難儀だった。ことに幼稚園は、まじり気なしの暗黒時代だった。 

 よくわかる。ひとりっこで育った私も、幼稚園でいきなり子供の群れに放りこまれて、なにがなんだかだったのをかすかに記憶している。
 
 そしてこの『コドモノセカイ』は、そんな子供の過酷な日々を描いた短編のアンソロジーである。過酷な日々といっても、内戦やテロが舞台になっているわけではないが――いやもちろん、そういった環境のもとにある子供たちは、ほんとうに過酷な日々を送っていると思うが、一見ありふれた日常で暮らす子供たちも、内面は<見えない敵>と戦っているということがよくわかる。
 
 <見えない敵>という言葉は、この本に収録されているジョイス・キャロル・オーツの『追跡』で書かれていて、まさに「コドモノセカイ」をよく表している。『追跡』は初期の短編らしいが、『アグリー・ガール』や『二つ、三ついいわすれたこと』などの、のちに作者が手がけるビターなヤングアダルト作品につながるものがある。というか、あとがきでもあるように、恐るべし多作のこの作者、なんでも手がけているようですが。多作過ぎて敬遠されているのかもしれないが、日本でももっと紹介されたらいいのにといつも思う。 

アグリーガール

アグリーガール

 

  

二つ、三ついいわすれたこと (STAMP BOOKS)

二つ、三ついいわすれたこと (STAMP BOOKS)

 

  あと、ほかの作品も読んだことのある作家というと、『ジェーン・オースティンの読書会』が日本でもよく知られているカレン・ジョイ・ファウラーの『王様ネズミ』は、しみじみとした余韻の残る、この本のなかで一番ストレートに胸に迫る話だった。最後の「二つのこと」には、涙が出る人もいるのではないだろうか。 

ジェイン・オースティンの読書会

ジェイン・オースティンの読書会

 

  その次のアリ・スミスの『子供』は、うってかわって”邪悪な子供”系の話で、これはまたおもしろかった。いまの時流を反映した、イギリスの作家らしい皮肉なユーモアだ。『変愛小説集』の『五月』の作家か……読んだはずだけど、すぐに思い出せない。ほかの作品も読んでみたくなった。

 いや、ここに収録されている作家、どれも「ほかの作品も読んでみたい」なのだ。先に書いたジョイス・キャロル・オーツですら、ノーベル賞候補と言われながら、日本でそんなに紹介されているわけではないので、やはり単著として紹介されるには、高いハードルがあるのだろう。

 
 あと、最近人気のエドガル・ケレットも二編収録されており、なんとなく難解系の作家なのかと勝手に思っていたけれど、二編ともまったくそんなことはなくて非常に読みやすく、かつ非常におもしろく、『突然ノックの音が』や『あの素晴らしき七年』も読んでみたくなった。しかし、ブタの貯金箱にお金を入れて、貯まったらかち割って取りだす……って、万国共通なんですね。 

突然ノックの音が (新潮クレスト・ブックス)

突然ノックの音が (新潮クレスト・ブックス)

 

  

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

 

  そのほかの作品もハズレなしで、短編なのでどれもすぐ読めるし、海外文学初心者(私含む)や、子供を描いた作品って、甘々な”いい話”なんじゃないの~と偏見を持ちがちな人(私含む)におすすめの作品集です。

 
 そういえば、訳者の岸本さんも審査員をつとめている、日本翻訳大賞の第三回推薦作も募集がはじまってますね。いま見たら、もう推薦文のいくつかがアップされていました。この推薦文、ほんと参考になるので楽しみにしている人も多いことでしょう。みんなすごい上手に紹介されてますね。今年はどの本にしようかな…… 

 

年末年始に読んだ本 『屋根裏の仏さま』(ジュリー・オオツカ 岩本正恵・小竹由美子訳)『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(ジェームズ・M・ケイン 田口俊樹訳)

 さて、もう正月気分もどこへやらって感じですが、年末年始に読んだ本をメモしておきます。 

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

 

  この『屋根裏の仏さま』は、日系三世のアメリカ人作家ジュリー・オオツカが描いた、二十世紀初頭に、日本から「写真花嫁」として、アメリカに渡った女性たちの物語である。夫の写真と経歴――どこまでほんとうかどうかわからない――だけを見て、日本からアメリカに嫁ぐことを決めた女性たち。そんな日系移民の膨大な書籍や資料をもとに、ジュリー・オオツカはこの作品を書いたらしい。 

船でわたしたちはよく考えた。あの人のことを好きになるかしら。愛せるかしら。波止場にいるのを初めて見るとき、写真の人だとわかるかしら。

 「わたしたち」という人称を主語とする作品というと、ジョシュア・フェリスの『私たち崖っぷち』を思い出した。 

私たち崖っぷち 上

私たち崖っぷち 上

 

  こちらは現代の広告代理店を舞台にした小説で、まったく環境は異なるが、一枚の写真を手に海を超えた女性たちと、リストラを目の前になすすべなく脅える社員たちと、寄る辺のなさという点では似ているかもしれない。どちらも「個」が消滅していることを「わたしたち」という主語であらわしている。


 「わたしたち」が、農家の小作人として、あるいはメイドとして、さまざまな意味で自分の身体を犠牲にしてひたすら働いて、ようやくアメリカ社会に落ち着いたころに、太平洋戦争が勃発し、日系人が収容所に入れられるくだりは、いたたまれない気持ちになる。 

 ちなみに、この本は翻訳家岩本正恵さんが訳している途中に病気で亡くなり、小竹由美子さんが引き継いだらしい。岩本正恵さんの翻訳というと、エリザベス・ギルバートの『巡礼者たち』が印象深い。いま思えば、この短編集がよかったのは、翻訳の力も大きかったのではないだろうか。 

巡礼者たち (新潮文庫)

巡礼者たち (新潮文庫)

 

 あと、今頃ですが『郵便配達は二度ベルを鳴らす』も読んだ。 

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

 

  以前読んだ『カクテル・ウェイトレス』がおもしろかったので、代表作のこちらも読んでみようと思っていたのです。 

カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)

カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)

 

  で、読んでみると、ちょっと予想していた話とちがって……いや、ネタバレになるかもしれませんが、おもな話の展開はだれでも知っていると思うので書くと、


 主人公と人妻である愛人が共謀して愛人の夫を殺そうとする話、とは知っていたけれど、それからの展開が、ほぉ~こう来るかって感じだった。なんとなくボニーとクライドみたいな、ロマンティックな悪党ラブストーリーを想定していたが、もうちょっと苦みのあるしょっぱい話だった。
 
 これも『カクテル・ウェイトレス』と同様に、語り手がどこまで真実を語っているのかが肝だと感じた。語りのとおり、裏表のない単純な悪党(ヘンな言い方ですが)なのか、血も涙もない極悪人なのか……。

 あと、この本は有名だけにいくつも翻訳が出ているようで、くらべていないのに言うのはなんですが、『カクテル・ウェイトレス』と同様に、田口俊樹さんのラフな(もちろん、あえてそういう文体を採用したのでしょうが)語り口が、主人公のやぶれかぶれな生きざま、愛人コーラの蓮っ葉な可愛らしさを、うまくあらわしていたと感じた。しかしアマゾンで見たら、古い翻訳も、田中小実昌小鷹信光中田耕治とそうそうたる面々ですね。読みくらべてもおもしろそう。 

あたらしい年にむけて―― 『女子をこじらせて』(雨宮まみ)

  2016年、一番おどろいたことと言えば、雨宮まみさんの訃報だった。
 
 『女子をこじらせて』が単行本で出て、話題になっていたときにさっそく読んでみて、同世代のせいか、ロッキン・オン社の出版物を(真剣に…)読んでいたとか、通ってきたものが共通していて、親近感や共感と同時に、身につまされるような痛々しさや違和感を感じた。 

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

 

  痛々しさや違和感というのは、この本で書かれている、「モテない」(モテなかった)とか「女として魅力がない」とか、男からどう思われるかとか、他人の視線なんてどうでもいいやん!!と、きっぱり言ってしまいたい、いや、でもほんとうは、どうでもよくないというのもわかる、という拮抗した気持ちから生まれている。

 
 と言っても、この『女子をこじらせて』で書いているのは、「モテない」「結婚できない」とか「美人じゃない」という単純な問題ではなく、ちょうど今年出版されて話題になった、ロマン優光の『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』で、「こじらせ女子」について 
 

広義にはモテ/非モテのなかで自意識をこじらせて女性としての自己評価が低い女性ということなのでしょうが、狭義としては、それに加えて、自分の中にあるフェミニズム的意識と男性に女性として認められたい気持ちの折り合いがつかない、男性優位社会やジェンダー問題に対して不快感や反発する気持ちとそういった価値観にそって男性に求められたいという気持ちの矛盾を解決できない、そういった問題のことだと私は理解しています。 

  と書かれていて、そうそう!と思った。単に異性からモテないだけの悩みだとカン違いしている人たちは、「こじらせ女子」について、「そこまでブスじゃないじゃん」「モテないって、理想が高いんじゃないの?」などと言ってきたりするので、恐ろしいほど話が噛み合わないのである。

 
 この『女子をこじらせて』の文庫に解説を書いた上野千鶴子は、この赤裸々な痛々しさに触発されたのか、めずらしく自分についてこう書いている。 

この本を読みながら、わたしは、自分が「すれっからし」だった頃のことを思い出した。 

 「すれっからし」戦略とは、男の欲望の磁場にとりかこまれて、カリカリしたり傷ついたりしないでやり過ごすために、感受性のセンサーの閾値をうんと上げて、鈍感さで自分をガードする生存戦略だった、と今では思える。男のふるまいに騒ぎ立てる女は、無知で無粋なカマトトに見えた。そうでもしなければ自分の感受性が守れなかったのだが、ツケはしっかり来た。 

  そして、これまで女性について、数々の論文や本を書いていた上野千鶴子が、おそらくこれまで書いたことのないストレートな言葉で、理論や論証なども抜きで、はっきりとメッセージを伝えている。 

わたしも若い女たちにいいたい。はした金のためにパンツを脱ぐな。好きでもない男の前で股を拡げるな。男にちやほやされて、人前でハダカになるな。人前でハダカになったくらいで人生が変わると、カン違いするな。男の評価を求めて、人前でセックスするな。手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にフタをするな。そして……じぶんをこれ以上おとしめるな。 

 人前でハダカになったり……は、私含むふつうの人にはあまり縁がないかもしれないけれど、「男の鈍感さに笑顔で応え」たり、「男のふるまいに騒ぎ立てる女」を見下したりは、職場やありとあらゆるところで起こりうることだ。男に限らず、他人からの承認に依存して生きない、じぶんの感情にフタをしない……これは2017年も、心に刻んでおこう。「じぶんをこれ以上おとしめるな」は、前回も書いた「自分が幸せになることを許可する」ともつながっている。そう、自分をほんとうに大事にするって、すごく難しいんだなとようやく気づきかけてきた今日この頃。  

 あと、この『女子をこじらせて』は、私的な男女関係だけではなく、仕事についても深く突っこんで書かれているところもおもしろい。編集プロダクションでのあわただしい日々、そこからフリーのライターとして独立するまでの心情は、すごく読みごたえがある。「私は謙遜という美徳をこの時捨てました」という一文は、仕事をしている人、とくに好きなことで働きたいと思っている人は、絶対に心がけるべきだと思った。

 フリーのライターになってからも、「女だから」トクしていると思われたり、「美人ライター」なんていう肩書をつけられて苦しんだことも正直に書いている。私的なことでも、仕事でも、なんでも正面からぶつかって悩んで傷つく作者が、「自分の中にある他者の視線」をやっと振り切り、「誰がどう思うかじゃなく、自分が本当にしたいこと」の気配を感じ 

「本当にしたいこと」「やりたいことをやる」なんて、すごい才能のある人にしか許されないことのように思っていましたが、べつに自分がやったっていいわけです。

そうしてのびのび好きなことを書いた、どちらかというと稚拙な文章は、それまで書いた中でいちばん好きな文章になりました。自分のことを心から好きになれる可能性がまだあるのだと感じました。
長い「自分探し」の旅が、この時、ようやく終わったのだと思います。

  と綴る最終章は感動する。

 いま生きている私は、とにかく前を向いて進んでいくしかないのだなと、あたらしい年を前にあらためて思う。

 

あたらしい年に向けて、あたらしい働きかた――『わたしらしく働く!』 (服部みれい)

 さて、なんだかんだしているうちに、すっかり年末。『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も『この世界の片隅に』も、そして、”逃げ恥”の最終回も録画しているものの、まだ見ておらず、2016年の人気作にまったくついていけませんが、とりあえず今年印象に残った本を紹介していきたいと思います。
 
 といっても、おもしろかった本はだいたいこちらに書いているのですが、どう紹介していいかわからず、のばしのばしになっていたのが、この『わたしらしく働く!』。 

わたしらしく働く!

わたしらしく働く!

 

  なぜどう紹介していいかわからなかったかのかというと、小説なら、あらすじや心に残った点をまとめて伝えたらいいけれど、これは「働く」ことをテーマにした本なので、働くということをなかなかうまく整理できず、どう書いたらいいのかもわからなかった。


 この作者の服部みれいさんは、もしかしたら知らない人もいるかもしれないけれど、一部(といっても、そんなに狭い一部ではない)では、カリスマ的な人気を誇るライター&エディターであり、雑誌『マーマーマガジン』(現在は『まぁまぁマガジン』)の発行人である。彼女の文章のみならず、「冷え取り」や「ホ・オポノポノ」などを取り入れたライフスタイルも、強い影響力を持っている。

 ……と書くと、スピリチュアル系??そんなエセ科学ダメ、ゼッタイ、という人も少なくないと思うが、私もスピ系をそんなに信用できないタイプの人間だけど、彼女の書き方は、原理主義的な押しつけがましさもなく、生真面目過ぎでもなく、要はなんか「コワイ感じ」がないので、そんなに抵抗なく読める。しかも、この『わたしらしく働く!』は、スピ系はほとんど顔を出さないので、そういうのに拒否反応がある人でも問題ないと思う。
 
 この本は、自己啓発本のように、ああしろこうしろ(前向きになれ、とか)とつらつら書かれているわけではなく、作者の仕事ヒストリーがメインとなっている。はじめて就職した編集部での過酷な日々、心身ともに限界を感じて退職し、フリーになって再出発して、ライターとしての地位を確立する。そしてそこから雑誌作りを手掛けるようになり……といった具合なのだけど、ほんとうに地道に、一歩一歩進んでいるさまを包み隠さず書いているのにすごく共感した。
 
 いや、90年代の渋谷系の時代のイメージのせいか、人気雑誌の編集部に出入りしていた、ついこないだまで一読者だったみたいな人が、気がついたら人気ライターを名乗ったりするような業界かと思っていたので(いや、完全に私の偏見というか、妄想ですが)。フリーになったばかりのときは、K塾のチューターとのかけもちをしていたというのも印象深かった。実は私も高校のとき、K塾に通っていたが、このチューターってなに?って思っていたので。(けど、大学院生ばっかだったような印象があるが、社会人の人もいたんですね)

 あと、お金のこともはっきりと書いているのも信用できる。フリーライターとしての月収の目標は、月100万だったとか。たしかに、月100万って多いように思えるが、でも、東京で、ボーナスもなく社会保険や経費も自分持ちのフリーで働くならば、目標額としては妥当なところなのかもしれない。
 
 はじめて創刊に参加した雑誌への情熱、そして失敗の顛末も、生々しいくらいにはっきりと綴っていて、痛々しい思いが強く伝わる一方、逆にはげまされる気になる。そのあとの『マーマーマガジン』創刊のいきさつも、自分で企画書を書いて、アパレルメーカーにプレゼンして……というのも、考えたら当然なのだけど、おどろいてしまった。というのは、アパレルメーカーが宣伝の一環として冊子を作ろうとして、売れっ子ライターの作者に編集をお願いした……というようなストーリーを漠然と想像していたからだ。
 そう、そんな都合のいい話があるわけない。自分から動かないとはじまらないのだ。

 また、どうして出版社でなく、アパレルメーカーにプレゼンしたのかというと、「とにかく自信がなかった」から、というのにもまたおどろいた。いくら自信がなくても、やりたいことが明確にあれば行動をおこすことができるし、成功につながるのだとつくづく感じた。あ、『マーマーマガジン』の「マーマー」がREMの曲からとったというのも、そうか!と思った。意外ではなく、そうだよな、って感じで。
 
 ちなみに、その後の『マーマーマガジン』は、この本にも書かれているが、編集部が岐阜に移り、いったん休刊して『まぁまぁマガジン』と様変わりした。これまで「冷え取り」とかオーガニックなコンテンツがメインだったが、なんと「詩」が中心となり、これまでは「薄くて読み切れる」ものだったのが、かなりぶ厚くなった。

 前回このブログで取りあげた、エミリー・ディキンソンや谷川俊太郎から、前野健太ガケ書房の人(詩人でもあったとは知らなかった)、そしてみれいさん……詩はどれもおもしろかった。とくに、ルーシー・タパホンソの詩にひかれ、だれかと思って調べると、ネイティヴ・アメリカン詩人だった。やなせたかしの『詩とメルヘン』のように素敵な雑誌。 

ネイティヴ・アメリカン詩集 (新・世界現代詩文庫)

ネイティヴ・アメリカン詩集 (新・世界現代詩文庫)

 

  『わたしらしく働く!』に戻ると、最後に「実践編」として、仕事に対しての具体的な心構えが書かれていて、そこは一見自己啓発本のようだけど、内容はこれまで作者が伝えてきたメッセージが凝縮されている。 

わたしたちは「できるか/できないか」ではなく、「やるか/やらないか」の世界に住んでいるみたい。  

でもネ、なんだかんだいって、本当に大切なのはストレートに「やさしい気持ち」。誰かを喜ばせたい、たのしませたいという。やさしさや思いやりが、真のオリジナルを生むと思っています。

どちらを選択したらいいか迷った場合、「自然かどうか」と質問してみてください。結局不自然なことって続きません。 

大切なのは、まず、自分が幸福になることを自分が許可すること。

  ほんとうにそうだと心から思う。2017年は「自然に」生きて、自分が幸福になることを許可して、自分らしく幸せになります。

 

”真実をそっくり語れ、だが斜めから語れ” 『誰でもない彼の秘密』(マイケラ・マッコール 小林浩子訳)

わたしはだれでもない人! あなたはだれ?
あなたもだれでもない人なの?

 I’m Nobody! Who are you? という、エミリー・ディキンソンの詩のなかで
もっとも有名なこのフレーズからはじまるこの物語。  

誰でもない彼の秘密

誰でもない彼の秘密

 

 アメリカの小さな町アマストに住む、15歳の利発な少女エミリーは、「名のるほどの者じゃないよ」と語るミスター・ノーバディと出会う。

 ミスター・ノーバディはアマストの住人ではないが、「身内のゴタゴタ」を片付けるためにこの町にやってきたと語る。「不愉快な問題を解決しないといけないんだ」とエミリーに話す。(なんで初対面のエミリーにいきなりそんなこと言うんだ、という気はいなめないが)ミスター・ノーバディに魅かれたエミリーは、町を案内する約束をするが、数日後、変わり果てた姿となったミスター・ノーバディが、家の敷地内で発見されるのだった…


 と、エミリー・ディキンソンを主役にした、思ってたより本格的な推理小説でした。
そしてもちろん、物語のあちこちにうまくエミリーの詩が埋めこまれ、サスペンスに加え、詩的な雰囲気も醸し出している。


 が、この物語で一番私の印象に残った、というか私に限らずだれでも感じると思うが、なにより一番熱心に描かれているのは、家事の苦痛っぷりだった。

 ディキンソン一家は、父親が弁護士で町の有力者でありながら、ピューリタン精神にのっとり、贅沢をせず質素な暮らしぶりで、「自分たちでできることは自分たちでする」という方針のもと、お手伝いを雇っていないため、母親とエミリー、そして妹のヴィニーはとにかく家事に追われている。
 もちろん、家事というのは、ただ重労働というだけではなく、古い価値観の象徴でもあり、エミリーは「女は本を読むな」(いらん思想を吹きこまれるから)という考えを持つ両親に強く反発している。

その(母の)背中に向かって、エミリーは話しかけた。「わたしは人生でなにかを成し遂げたいの。ときどき家を離れることもあるだろうけど、約束するわ、かならず帰ってくる……自分をまた見つけるために」
「冒険はありえません」母はぴしゃりと言った。「あなたは結婚して、自分の子供を持って、美しい家を維持するんです」
「わたしがほかのことをやりたかったらどうするの?」反抗的な声できいた。「夫も子供も必要じゃないようなことを」 

 この物語で描かれているエミリーは、危険をかえりみず探偵活動を行ったり、こんなふうに両親に逆らって、自分のやりたいことを主張したりと、かなり活発な少女だ。家にひきこもってほとんど外出せず、近所の人すらその姿を目にすることはめったになかったという、実際のエミリー・ディキンソンとはかなりイメージが異なる。


 しかし、この時代にめずらしく妻にも母にもならず、のちにアメリカ最大の詩人と呼ばれるほどの詩をひっそりと書きためていた実際のエミリーも、物語のエミリーと同様に、きっと強い意志や信念を持っていたのだろう。


 あと、妹のヴィニーがとってもいい子だった。ときに暴走する姉エミリーを陰に日向にフォローし、機転をきかして捜査を手伝う。エミリーが活発過ぎて、ちょっとうざい感もあるだけに、いっそう魅力的に感じる。たしか現実でも、エミリーの詩を発掘して世に出したのは妹のはず。素敵な姉妹愛だ。


 ミステリーとしては、ものすごい二転三転するとか、凝った仕掛けがあるわけではないが、決して甘い話ではない。初対面のエミリーとミスター・ノーバディがハチについて話をすることも象徴的だが、「毒」がこの物語のキーワードになっている。そう考えると、この物語全体が、「毒」を含み、「死」の影を描き続けたエミリーの詩をあらわしているとも言える。

”真実をそっくり語れ、だが斜めから語れ”

Tell all the Truth but tell it slant ――この物語も、家にひきこもって詩を書き続けたということばかりクローズアップされる、エミリー・ディキンソンのまた違った一面を、斜めからうまく切り取ったものといえるのではないでしょうか。