快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

美と世俗、芸術と凡庸――対比を鋭く描いた『月と六ペンス』(サマセット・モーム 金原瑞人訳)

「じゃあ、どうして奥さまを捨てたんです?」
「絵を描くためだ」
 わたしは目を丸くして相手の顔をみた。意味がわからなかったのだ。この男は頭がおかしいのだろうかと思った。覚えておいてほしいが、わたしはまだ若かった。ストリックランドがただの中年男にしかみえていなかった。わたしはあっけに取られ、予測していた答や問いはみんな忘れてしまった。
「しかし、もう四十じゃないですか」
「だから、いましかないと思ったんだ」

  

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

  この『月と六ペンス』は、多くの人がご存じでしょうが、画家ゴーギャンをヒントにして書かれたものであり、ゴーギャン同様に家庭を持った株式仲買人として、順風満帆な人生を送っていたはずのストリックランドが、突然仕事をやめて、ロンドンの家を飛びだしパリに行ってしまう。
 主人公の「わたし」は若い小説家であり、芸術家との社交が趣味であったストリックランドの妻と知り合いだったため、頼まれてストリックランドを探しに行き、どうして家を出たのか問いただす場面が、上記の引用である。

 
 家出を知ったストリックランドの家族も親戚もすべて、きっと女と逃げたにちがいないと決めつけ、「わたし」も当然そう思っていたのだが、絵を描くためという思いもよらぬ答を聞いて、度肝を抜かれる。そう、訳者あとがきでも
 

「(満)月」は夜空に輝く美を、「六ペンス(玉)」は世俗の安っぽさを象徴しているのかもしれないし、「月」は狂気、「六ペンス」は日常を象徴しているのかもしれない。

  と書かれているように、この小説は最初から最後まで、美や芸術の世界と、凡庸な日常、通俗的な価値観が徹底的に対比されて描かれている。単に前者だけ、ストリックランドが美や芸術をストイックに追い求める姿だけを描いていたなら、きっとつまらない、それこそ凡庸で通俗的な小説になっていただろう。


 それが一番よくあらわれているのは、第二の主役とも言える、なんならストリックランドより印象に残るかもしれない、ストルーヴェの生き方だ。

 画家であるストルーヴェは美についてきわめて鋭い感性を持ち、だれも理解できなかったストリックランドの絵をまっさきに評価する。けれど、自分が描く絵は、感傷的で凡庸な、”絵のように美しい”風景画であり、印象派が次々と新しい趣向を打ち出している当時では、完全に時代遅れの代物だ。二流画家である自分に満足し、周囲の人々に限りないやさしさをみせ、どんな目に遭わされてもひたすらストリックランドに尽くし続ける。

 エゴイスティックに自らの芸術を追い求めるストリックランドのような人物を描くことは、そんなに難しくないと思うが、この道化のような、聖者のような、ストルーヴェを描き出したのが、モームの作家としての凄さなんだろう。また、ストリックランドも芸術以外に一切目を向けない聖者として描かれているわけではない。金銭や名誉への執着はさっさと捨てたものの、肉欲は捨てきれず、女の肉体に安らぎを求めようとする。しかし、女は安らげだけを与えてくれる存在ではない。そこで悲劇が生まれる。
 
 物語の後半では、「わたし」やストルーヴェとも別れて、ひとりタヒチに発ったストリックランドが描かれる。
 といっても、ストリックランドを主人公とした物語が繰り広げられるわけではなく、ストリックランドの死後、「わたし」がストリックランドと関わった人たちから断片的に話を聞くというスタイルをとっていて、「わたし」との丁々発止のやりとりや、ストルーヴェとのスリリングな関係が描かれていた前半にくらべると、読んでいて少々まどろっこしく感じるのは事実だが、これも、ストリックランドが芸術を追い求める姿、「月」をそのまま描くのではなく、それをまったく理解していない噂好きで凡庸な人たちの視線から語ること、「六ペンス」が必要だったのだろう。

 ストリックランドは、タヒチの女からこれまで得ることのできなかった限りない安らぎを手にするものの(まあ、このあたりの描き方は、現在のフェミニズムの視点からは異論があるでしょうが)、難病にかかり、壮絶な、でもある意味幸せな最期を迎え、それはまさに芸術家の最期にふさわしいものなのだけど、この物語はそこでは終わらない。

 聞き取りを終えた「わたし」は、ロンドンに戻り、ストリックランドが捨てた家族に顛末を報告する。妻は、捨てられたときの激しい怒りもなかったことのように、いまは天才画家と呼ばれている、かつての夫の話をするのが自分の使命とばかりに誇らしげな様子を見せる。
 
 と、ここで、この小説の冒頭とつながっていることに気がつく。冒頭では、この物語を語っている時点でのストリックランドを巡る状況が書かれていて、単なる導入部かのように思えるが、ここからすでに芸術と対照的な「俗」の価値観がしっかりと提示されていたのだった。
 芸術をテーマとして描きつつ、「俗」ではじまり、「俗」で終わるこの小説。イギリス人作家って、ほんと一筋縄でいかないな、とあらためて感じた。