快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

圧倒的な孤独を描いた短編集 『レキシントンの幽霊』(村上春樹)

さっきロンハー見てたら、ジャルジャルの福徳の部屋にブタの貯金箱が置いてあって、前回の『コドモノセカイ』のエドガル・ケレットの作品を思い出してしまった。

 いや、それはともかく、村上春樹の新作『騎士団長殺し』って、最初は冗談かと思った。虚構新聞かなにかの類の。どうしても、「ワンナイトカーニバル~」と歌う翔やんが殺されるのかと思えてしまうが…(ベタですいません)
 
 で、この季節になると読み返してしまうのが、『レキシントンの幽霊』に収録されている短編『氷男』だ。 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

氷男は暗闇の中の氷山のように孤独だった。

そして私はそんな氷男のことを真剣に愛するようになった。氷男は過去もなく未来もなく、ただこの今の私を愛してくれた。そして私も過去も未来もないただこの今の氷男を愛した。それは本当に素晴らしいことのように思えた。

  人間の男と氷男とはどこが違うのだろう? なにもかもが凍てついた南極と、私たちが住んでいるこの世界はどこが違うのか? 過去を氷に閉じこめ、未来も消去して、ただ今だけを生きることがどうしてこれほど孤独になるのか?  

私はほんとうにひとりぼっちなのだ。世界中の誰よりも孤独な冷たい場所にいるのだ。私が泣くと、氷男は私の頬にくちづけする。すると私の涙は氷に変わる。 

 しかし、いまこの短編集を読み返すと、どの話も圧倒的な孤独を描いていることにあらためて気づく。『トニー滝谷』も、孤独な男滝谷省三郎から生まれた、孤独な息子トニー滝谷の人生を描いている。トニー滝谷は、恋に落ちて結婚することによって孤独から脱出したかのように見えたが、実は、その孤独は妻に伝染していただけのようにも思える。妻は服を買いあさったすえに、あっさりとトニー滝谷の人生から姿を消す。妻が去ったあと、やってきた女が綺麗な服を見て涙を流す場面は、『グレート・ギャツビー』を思い起こさせる。けれど、この物語はたしか映画や舞台になっていたように思うけれど、どんな感じだったんだろう?
 
 そして『沈黙』は、村上春樹の短編にはめずらしく、学校というリアルな社会での厳しい状況をストレートに描いたものであり、読者とのメールのやりとりなどを見ていると、やはり学校などで、そういうつらい思いをしたことのある読者に人気のようだ。いま読むと、『多崎つくる』につながるものもあるような気がする。

でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何か悪意のあるものがやってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家庭やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先何がどうなるかはわからないんだぞって。

  どの作品も、初期の『中国行きのスロウ・ボート』や『パン屋再襲撃』などに収められている短編と違って、ユーモアやとぼけた感じは影をひそめ、もちろん”100パーセントの女の子”なんていうような祝祭感はまったくなく、そして『東京奇譚集』以降の作品のような、よくできた「物語」感もなく、それでも、上に書いた『沈黙』や『トニー滝谷』のように一度読むと胸に深くくいこむ作品が多い。『めくらやなぎと、眠る女』は、昔の作品をエディットしているのだけれど、単に短くしただけではなく、感触がどことなく、でもはっきりと変わっている。

 
 さて、『騎士団長殺し』、どんな作品なんでしょうか。考えたら、最近の作品は『1Q84』にしても、『多崎つくる』にしても、サスペンスっぽい要素を取り入れていたけれど、今回は”殺し”とタイトルからしてそのままズバリである。予想通り、物騒な(?)作品なのか、もしかしたら『羊をめぐる冒険』みたいな感じに戻ったりもするのだろうかという期待もある。まあなんだかんだ言いつつ、楽しみです。