快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「居場所もなかった」自分が「生命の喜び」を感じるまで 『猫道 単身転々小説集』(笙野頼子 著)

猫と出会ってこそ人間になった。人が家族のために頑張ることを理解し、人間がひとつ屋根の下で眠る事さえも、単なる不可解、不気味とは思わなくなった。猫といてこそ緊張があり、欲望が湧き、しかも常に夢中でなおかつ、闘争の根拠、実体を得た。

  という前書きとタイトルにひかれて、笙野頼子の作品集『猫道 単身転々小説集』を手に取った。 

猫道 単身転々小説集 (講談社文芸文庫)

猫道 単身転々小説集 (講談社文芸文庫)

 

  十代から二十代にかけて、笙野頼子の作品をいくつか読んでいて、そのなかでも、この作品集にもおさめられている『居場所もなかった』と、『なにもしてない』(下の『三冠小説集』に収録されています)は強く印象に残っている。 

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)

 

 『なにもしてない』は、社会から取り残され、まさに「なにもしてない」主人公が、「なにもしてない」のに手が腫れあがり七転八倒する物語で、ただそれだけといえばそれだけの話なのだけど、あふれだす過剰な自意識と、それを俯瞰して滑稽なまでに描いているのがなんだか痛快に思えた。
  
 『居場所もなかった』では、主人公は家を探すがまったく受けいれられず、なんとか見つかったと思っても、保証人や印鑑証明といった高い壁が立ちはだかる。
 
 ただひたすらに閉じこもるためにオートロックの家を望むが、単身でお金もなく、しかも勤め人でもない主人公には、オートロックとかの選択の余地などないのは言うまでもなく、ふつうに家を借りることすら困難なのだった。 

そこまで難渋したのは、おそらくその時の私がひとつの病に取り憑かれていたからである。どこにも住みたくない。いや、どこも住みたくない。どこにも、の、に、を発音する余裕もないくらいに、まったく、どこも住みたくなかった。どこかに消えてしまいたいと思っていた。どこに行っても自分の居場所もなかったから。

 若かりし頃の私は、これからちゃんと社会に出て働けるのだろうか? といった自分の不安やよるべなさと重ねあわせて、これらの小説を読んでいたのだろう。

 そしていま『居場所もなかった』を読み返し、当時の自分が感じていた不安など、しょせん頭のなかの絵空事だったなとつくづく思いしらされた。いや、当時の自分が感じていた不安やよるべなさはリアルなものではあったけれど、なんせ自分で家を探したこともまったくなかったのだから、家を探す苦労などまったくの空想の産物だった。 

物凄い世界の中に私は放り出されていた。不動産ワールド、と呼ぶべきだろうか、部屋探し地獄と言ったらいいのか。 

 「不動産ワールド」「部屋探し地獄」、よくわかる。
 不動産屋に一歩足を踏み入れるやいなや、元気よく挨拶され、椅子とお茶を出されて、にこやかに「お探しの条件」について聞かれる。
 
 どうしても値踏みされているような気になり、つい「こんな(高収入でもない)自分があれこれ条件をつけていいのだろうか……」と卑屈になる。
 内見したらしたで、一目見たとたん「うわ~この家ないな」と内心思っても、即座に態度に出しては悪い気がして、「たしかに値段のわりに広いですね」など必死で「いいこと探し」をして、借りる気あるんだかないんだか曖昧な態度をとってしまう(私だけ?)。
 しまいには、単身で保証人も両親しかいない自分の存在意義についてまで思いをはせてしまう。
 
 が、しかし、喉元過ぎればなのか、引っ越して一年、いやほんの数か月程度でも、次こそはこういうところに住みたいなーと、性懲りもなく次の引っ越し先について考えはじめる。鳥頭というか、なにか脳の病なのでしょうか。
 
 しかし、「なにもしてない」「居場所もなかった」、よるべない生活にも終わりがくる。作者にとっても、そして私にとっても。

 冒頭の引用にあるとおり、「猫と出会ってこそ人間になった」のである。 

あの時、何の「真意」もなく、「居場所もなかった」において私は言ってのけた。「そろそろ猫を飼おう」と言って引っ越したのだ。

 (といっても、猫と暮らすために千葉で家を購入した作者とちがい、私の場合は「不動産ワールド」での彷徨は終わる気配はない、というか悪化しているが……こないだの引っ越しのときも、どれだけ「猫OKのマンションは、ほんと少ないんですよねー」と不動産屋に言われたことか)
 
 まあ私のことはさておき、この本に収録されているのは「いわゆる猫話」――猫との暮らしはこんなに楽しい! とか、猫との生活を綴ったほのぼのエッセイ――などではなく、どれも切ないエピソードばかりである。

 『こんな仕事はこれで終りにする』は、行方不明になった猫を必死で探す話であり、解説にもあるように、内田百閒の『ノラや』(全文引用したいくらいの、猫について語るには外せない本ですが)を想起させる。 

ノラや (中公文庫)

ノラや (中公文庫)

 

 『モイラの事』では、愛猫モイラの死について書いている。 

郷里の法事も往復十時間で日帰りしていた。夜は一月に一、二回外出するだけだ。昼も仕事柄殆ど家にいた。…… 親にも友達にもろくに会わなかった。しかし私はモイラの死に目に会えなかった。

 そう、猫(犬でもなんでも)と暮らすと、旅行は自由にできなくなるし、外出もままならない。そのうえ、往々にして別れは突然やってくる。
 猫がよるべなく漂っていた自分をこの世につなぎとめていたはずなのに、あっさりと姿を消す。
 
 動物と暮らすと、否が応でも、生きることや死ぬことについて幾度も直視せざるを得ない。それでも、作者が書いているように、この本は「猫といる幸福の本」なのである。 

猫はただその本体自体が価値ある事を示し、生命の喜びに溢れてみせる。その事で人間を、人間性まるごとを徹底擁護する。