身近な他者が一番恐ろしい――『なんでもない一日』(シャーリー・ジャクスン 市田泉訳)
東京では、先日村上春樹の講演が行われたようですね。
しかし「龍じゃないほうの村上です」と登場したって、W村上と言われていたのは遠い昔なので、少々古い気も。(龍氏の方にも好きな小説はあるので、最近影が薄くなったように思えるのは残念ですが。ちょっと前にテレビブロスで大根仁さんが、「いまあえて」村上龍の最新のエッセイを紹介していたのはおもしろかった。龍氏の近況は、飼い犬が死んで意気消沈らしい)
それにしてもこのレポ、詳細でありがたいですが、春樹氏の一人称が「僕」ではなく「ボク」になっているのが、リリー・フランキーのエッセイのようで笑えた。「テキストを忘れちゃうのがボクの翻訳の肝」っていいことを言っているのだけど、なんか脱力する。まあ、とにもかくにも一度はナマの春樹氏を拝んでみたいものです。
さて、前回のシャーリー・ジャクスンの続きで、短編集『なんでもない一日』も読んだ。

なんでもない一日 (シャーリイ・ジャクスン短編集) (創元推理文庫)
- 作者: シャーリイ・ジャクスン,市田泉
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2015/10/30
- メディア: 文庫
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シャーリー・ジャクスンの短編というと「くじ」が超有名だと思いますが、この短編集に載っている作品は、「くじ」や前回の『ずっとお城で暮らしてる』ほど完璧な世界が構築されておらず、それだけに不気味な悪意は感じられるものの、軽妙で抜けのある仕上がりとなっているものが多く、個人的にはこれまでに読んだシャーリー・ジャクスンの本の中では一番好きかもと思った。
「なんでもない日にピーナッツを持って」の主人公ジョン・フィリップ・ジョンスン氏は、行く先々で善行を施すまごうことなき善人である。ところが、家に帰ると意外な事実が発覚する……「あしたは交替しようか」というセリフが恐ろしい。
その次の「悪の可能性」も、一見上品で善良な老婦人が実は……という物語であり、どちらも人間の善意と悪意の入れ替わりを描いているが、深刻ではなくユーモアがあるため読みやすく、けれどそのぶん心にひっかかる。
「レディとの旅」は、はじめての一人旅をする少年が指名手配の女性と交流する物語だが、犯罪をおかして逃亡するこの女が、『丘の屋敷』のエレーヌのような孤独な女性の陽ヴァージョンだと考えると、なんだか痛快で応援したくなる。
「うちのおばあちゃんと猫たち」は、猫を愛しているが猫に攻撃されてばかりのおばあちゃんを描いた短編で、おばあちゃんのめげなさに笑えるが、よく読むと、おばあちゃんは家族なんかよりずっと猫を愛していることがわかり(「おじいちゃんがいてくれるより、ずっと安心だったよ」)、にやりとさせられる。
「よき妻」「ネズミ」「スミス夫人の蜜月」は、『ゴーン・ガール』のような夫婦間の殺しあいを示唆した物語で、身近な他者の恐ろしさがよくわかる。安易に作者の実生活と結びつけるのはNGかもしれませんが、こないだの読書会で聞いたところによると、やはり夫との関係もなかなか複雑であったようです。
そう、考えたら、シャーリー・ジャクスンが長編でも短編でもくり返し描いているのは、家族という身近な他者の恐ろしさである。『ずっとお城で暮らしてる』は言うまでもなく、『丘の屋敷』でも丘の屋敷で見舞われる様々な現象より、そもそもエレーヌがどうして丘の屋敷に行かざるを得なかったかが一番恐ろしい気もする。
この本の後半部分に収められた家族エッセイも、ユーモラスであるが「ほのぼのユーモア」ではなく、長男ローリーとその悪ガキ仲間や、すぐに噂をふりまきあれこれ干渉してくる近所の面々、そして子供たちや近所の人たちとかみあわない作者自身を俯瞰して皮肉な目で描いたユーモアである。
そして「エピローグ」として載っている、本を出したばかりの作者と地元の通信社の人とのやりとりも笑えた。作家としての自分を必死でアピールする作者と、あくまで地元の一主婦として扱おうとする相手のかみあわなさを描いた、まさに「なんでもない」文章なのだけど、こういうささいなディスコミュニケーションをユーモラスに綴った作品をもっと読みたかったなと思った。早世したのはほんとうに残念ですね。